5-26.暴かれた理由
渦を巻いている大嵐の中心では、不思議と風が凪いで穏やかであることが多いらしい。
それは追い風と向かい風が互いにぶつかり合う事で風が弱ってしまう事などから、周囲で渦巻く風が互いが互いを打ち消し合ってしまっているせいなのだろう等と言われていた。
だからこそ、周囲で渦巻く風が強ければ強いほどに、その中心となる“目”と呼ばれている部分を形成している空気の壁による境界線はくっきりと表れ、そこの中と外で明暗をハッキリと分けてしまう物なのだろう、と。そして、その部屋を中心として発生していたのであろう、不可視の大渦の存在を、幸か不幸か、そこを根城にしていた者たちの多くが認識すらしていなかったのは、ある種の不幸ですらあったのかもしれない。
「……お嬢様、そろそろ“お時間”です」
そう背後から、自分にだけ聞こえるだろう程度の小声で告げられたドレス姿の大女ことジャンヌは小さく頷くと、一つため息をついて視線の先に居る二人の人物に声をかけていた。
「集中している所を悪いが、そろそろ休憩の時間らしい」
「……」
「……」
「……おい。聞こえてないのか? フィルク、筆を置けと言ったぞ」
「……」
「……」
それなりの大きさの声で話しかけたジャンヌであったが、それに対する答えは何時もの如く完全な無視といった物であり、その無礼にも程があるだろう態度に対して、そんな扱いを受けた主の背後に控えていたお付きのメイド達が『いくら上級貴族の関係者様といえども、ウチのお嬢様に対して何という態度を!』とばかりに、無言のままに怒気を立ち昇らせるのも、あるいは何時もの事であったりしたのだろう。
そんな自分の頭上を通り越す様にして、無言のままに絵筆を振るっている青年に対して向けられている刺々しい空気に対して、思わず顔を青ざめさせながらも、まるで怯えているかのようにしてオドオドと挙動不審な様子を少年が見せているのも、あるいは何時もの事であったのかもしれない。
「……聞こえているのなら返事くらいしろ」
「……」
「……フィルク!」
再度かけられる言葉。そして、再度無視する青年。
──これは酷い……。
そんな両者の間に挟まれていたクロスの周囲の空気は、最悪を通り越して痛々しさすらも感じさせており、色々な意味で空気が薄くなってきている気さえしてきていたというのに。
「やれやれ。……またか」
「……そのようです」
「では仕方ないな」
「……はい。仕方ない、ですよね」
「では、後は頼むぞ」
「はい。頼まれました」
そんなドレス姿の大女と着飾った少年の間で交わされる互いに分かっている風なやりとりによって、この後に繰り広げられるであろうお馴染みの展開とでもいうべき物が簡単に予想出来てしまっていたのだろう。
女の背後のメイド達も溜飲を下げたといった嬉しそうな表情でお茶の準備を初めていたし、そんな周囲の変化をよそに、大女はコツコツと床を鳴らしながら青年に近づくと、スッと右の手を持ち上げて。
「悪く思うなよ」
ギリリリ……。
中指を親指に引っ掛けて。まるで弓を引き絞るかのように力を目いっぱいに込めて。……その結果、普通ではありえない、筋肉によって骨が軋むかのような異音が指から聞こえたかと思うと……。
バシィッ!
次の瞬間、引き絞られていた指は容赦なく額に叩きつけられていた。
……それはいわゆるデコピンと呼ばれる児戯であったはずなのだが、仕掛けた側と仕掛けられた側の鍛え方が根本的に次元が違いすぎたのが原因であったのか、打った方の指からは、まるで平手で引っぱたいたかのような怪音が響いていたし、打たれた方は衝撃が反対側にまでつき抜けてしまったというのか、その場で崩れ落ちるかのようにして背後に倒れこんでしまっていた。
「よし。では、後は任せたぞ」
「……はい」
脳天を撃ち抜かれた衝撃で白目をむきながら気絶して床にひっくり返ったフィルクを、慌てた様子で受け止めただけでなく、膝枕して介抱するようにして治療しているのは言うまでもなく治療魔法の使い手であるクロスであり、そんな二人の様子をスルーしながら休憩の準備をしているのは、これがいつもの事であったからなのだろう。
「相変わらず、見事な技で……」
「それは嫌味か?」
何も毎回、好き好んで青年を気絶させている訳でもないのだろうが……。それでも周囲からお見事と賞賛されているのは、当然のようにそこに理由というものが存在していた。
一見しただけでは単に気絶させているだけにしか見えないかもしれないが、実のところ、筆が絵から離れている一瞬を狙いすまして指を打ち込んでいるお陰で、気絶させられた時の衝撃によって、絵に悪影響を与えていなかった。他にも、フィルクが倒れる際に周囲に置かれているいろいろな道具類をひっかけないで済んでいるのも同じ理屈による物だったのだろう。
あえて、その角度になるように予め予測、調整して衝撃を打ち込んでいるからこそ出来ている妙技なのであろうし、落とし方も実に綺麗なために、膝から力が抜けるようにしてゆっくり脱力しては背後に倒れていっていた。そのため、それを予期して待ち構えている小柄なクロスでもどうにか受け止める事が出来ていたりするのだ。
それらは平然となされているから大したことのないように見えるかもしれないが、どれひとつとってみても神業じみた行為であり、それらを平然をやってのけているからこそ、ジャンヌが周囲から賞賛を受けているということもあったのであろう。
──もっとも、気絶させてしまっているせいで、アイツは自分の身に何が起きているのかすらも正しくは把握出来ていないのだろうが……。
自分の身に起きたことをキチンと覚えていないからこそ改善出来ない。つまりはそういうことなのだろう、と。気絶させられるに至ってしまった理由や原因といった事なども正しく認識出来ていないからこそ一向に改善が見られないのかもしれない……。
だからこそ、このジャンヌでさえも「いくらなんでも不毛すぎる」と感じてしまうやりとりを毎回も繰り返す羽目になっているのだろうが……。
──かといって衝撃が弱すぎると、今度は被害が甚大化してしまうし……。そうなれば、今度は、最悪、絵が駄目になってしまうだろうし……。そうなってしまうと、そもそも何のためにこんな真似をさせられているのか忘れたのかといった本末転倒な話になってしまうのだろうし……。ううむ……。難しいな……。本当に……。
つまりは、ベストでなくベターを選ばされ続けた結果、最後に残ってしまった選択肢の結果としての答えが「速やかに気絶させて被害を最小限に抑える。最悪でも絵は救うべし」といった物であるのだから、これも絵の保護を優先した結果の代償として受け入れるしかないのかもしれない……。
そう考えてしまったジャンヌは思わず小さくため息をつきながら赤く腫れてしまっている額に治療魔法をかけているクロスから視線を逸らしたのだった。
◆◇◆◇◆
さて。背後に倒れこむフィルクを受け止めたり、その体を膝枕したり治療したりと、そんな色々な事が手枷足枷などをつけたまま出来るはずもないのは言うまでもなく……。そして、当初は全身鎧姿で通っていたはずのジャンヌが何時の間にやらドレスを着ているだけでなく、屋敷のメイド達までこんな場所にまで引き連れているのを見れば、それらが色々な変化を経た後の光景であることが見て取れるのであろう。
つまり、ここに至るまでには、色々なフィルク側から出された要求といった物があり、それを政治的配慮の名の元に残らず実現させてきた経緯と、その対応に感謝の証である絵を返したフィルクに対して、ジャンヌの家からの感謝の印代わりに世話係が派遣されたりといった様々な横槍が入ったりした流れと言った物が背後にあったのである。
「……いつまで、こんな事を続けるつもりだ?」
そう思わず聞いてしまったのは、当初はすぐに終わるだろうと思われていた、この「おかしな依頼」が、ある程度納得がいくだろう一定の成果物を得られただけでなく、それを使って街の一角を巻き込んだイベントまで成功させたというのに、未だ終わる気配を見せていなかったからなのだろう。
「……そうですねぇ。……こちらの事情については……?」
「ある程度は聞いている。……お前自身の抱えている特殊事情についても」
それはフィルク自身の問題……。とてつもなく精緻で微細な技工の極みといったレベルの絵を描ける数少ない技術を極めた絵描きでありながらも、何故か描いた人物画や風景画を見た者に、嫌悪感や忌避感といった負の感情を抱かせてしまうといった悪癖があるといった物であって……。一番の問題は、それを意図してやっている訳ではないために、そう感じさせない物を描けないといった無意識の部分にこそあったのだろう。
そういった特殊事情から、極めて希少な技能と才能を持ちながらも、場合によっては、この道を諦めるしかないのかもしれないという程の崖っぷちに追い詰められていたフィルクであったのだが……。
きっと神は、そんな苦悩する絵描きのことを最後まで見捨てることはなかったのだろう。
おそらくは唯一、悪癖が出ないであろう特殊な逸材にして、呪われた血筋に起因した天性の美貌の持ち主が……。そんな運命の相手がフィルクの前に現れたのだ。
そんな二人は、まるでこれが運命だというかのようにして、互いに引かれ合うようにして引き寄せられていき、ついに出会うべくして出会う事となり、こうして描く者と描かれる者となり、一つの作品を作り上げる関係へとなっていた。
「……まあ、そういう訳で……。出来れば今後も、今の関係を続けさせて頂けるとありがたいのですが」
「私としても、出来るなら、そうしてやりたい所だが……。こちらとしては、そうもいかない事情といったものもあってな」
対面に座るフィルクの向こう側……。まるでフィルクの陰に隠れて、ジャンヌの視線から隠れるようにして丸椅子に腰掛けているクロスへと鋭い視線を飛ばしながら。
「事情ですか」
「ああ。事情だ」
お前も、ソイツが重犯罪者の嫌疑をかけられて、我々に取り調べられているというのは知っているんだろう?
そう視線で尋ねられたフィルクは肩をすくめて見せる事で「知っている」けれど、「ただの絵描きとしての立場上、建前としては知らない振りをしている」と示して見せていた。
「そろそろ我々も“本来の仕事”に戻らねばならないだろうしな……」
宮廷騎士としての本来の仕事といえば、言うまでもなく犯罪の捜査と取り締まりであり、それは、この場所では、同じテーブルに座ったり一緒に食事をとったりする事すらも許してしまう程にグダグダになってしまっているクロスとの関係性を、本来の取り調べる者と取り調べられる者の関係に戻さなければならないといった事でもあったのだろう。
「それはなかなかに名残惜しい事です」
「まあ、多少は、な……。うちの家人達も少なからず残念がるだろう」
だが、それも仕方ないのだ、と。そう、前置きして。
手にしていたティーカップをテーブルの上に戻しながら。そして、視線をフィルクの向こう側に向けながら……。
「何しろ……。そろそろ『前任者』が帰ってきそうなのでな……」
そんなジャンヌの言葉に僅かに反応が返されていた。
それは思わずカップを落としそうになったクロスの見せた僅かな反応であり、だからこそジャンヌの口元にも苦笑が浮かんでいたのかもしれない。
「本気で諦めたとでも思っていたのか……? まあ、最近では、ロクに姿すらも見せなくなっていたからな。……だから、そう、つい“勘違い”させてしまっていたとしても、仕方なかったのかもしれんな」
そう、お前置きしながらも。
「だが、な? 我々が……。私達、王宮騎士団ともあろう者達が、そう簡単に引き下がるとでも思ったか……? 特に、あの男が……。上から横槍を入れられた程度のことで、騎士団が。あの男が、お前を取り調べる程度の事を、本気で諦めるとでも?」
甘い。あまりにも、甘すぎる、と。そう、嘲笑いながら。
「王宮からの横槍が入った? ……それが、どうした。上位貴族から手を引けと命令されている? だったら、何だというのだ。……そんなものが、我々に。愚連隊とまで揶揄されてきた私達に本気で通じるとでも? ……特に、あの極めつけの不良騎士に、そんな当たり前の横槍程度の圧力だなどと通じるものかよ。そんな甘っちょろい代物で……。本当に、あの男を止められるとでも思ったのか? ……甘いな。あまりにも、甘い。甘すぎるぞ、貴様ら。……あの馬鹿にかかれば『ますますやる気が出てきたぜ』の一言で片付けられてしまいかねんぞ」
そんな言葉に表情を渋いものに変えてしまっていたのはフィルクであり、そんなフィルクの背後ではクロスが表情を青い物に変えてしまっていた。
「何処に、行ってた、んです、か……?」
つっかえ、つっかえ、ひっかかりながら。
ようやくクロスが口に出来た疑問に僅かに笑みを浮かべながら。
「行ったって……。何処に?」
「惚けないで、ください。……貴方は、さっき、そろそろ帰ってきそうだって。……そう、言ってたじゃないですか」
「そうだったかな? ああ、そういえば、そうだった。さっき、そう答えたんだった」
そんなジャンヌの弱った獲物を爪で引っ掻き回して嬲るかのような言葉の選び方に、思わずフィルクも表情を不愉快そうに歪めてしまっていたが、その程度のことで王宮騎士の鋼鉄製の面の皮に通じるはずもなかったのだろう。
「ウェストレイク教区。……何やら、ちょっと野暮用があったらしくて、な?」
ガチャン。今度こそ隠し様もなく震えた手元の動揺は激しく、それ以上に表情まで引きつってしまっていた。
「なにやら昔の知り合いの……。名前までは聞いてないんだが、なにやら知り合いの『女』に会いに行くとか、墓参りにも行かねばならんとか何とかコチャゴチャ言ってた気がしたが……。ああ、そういえば、お前の故郷も……。たしか……。ソコ、だった、か?」
フム。何やら、随分と面白い偶然だ……。
そんな皮肉げな言葉に思わず「白々しい」と呟いてしまったのも無理もなかったのだろう。
「そうかな?」
「いくら調べても私の過去から何も出てこなかったからって……。だから、現地にいって、直に探りを入れに行ったんですか」
その言葉は、暗に自分の過去に『何か』があって、それを隠している。あるいは、何者かの手によって記録が抹消されているという事実なり、裏事情のようなものを自分自身が知っているという事を認めているのに等しかった。
だからこそ、それを聞いたジャンヌの浮かべていた肉食獣の笑みはより深くなっていたのだろうし、そんな笑みに晒されていたクロスの顔色の悪さも悪化の一途を辿っていた。
「……そこまで、です」
とりあえず、この場ではソレくらいにしておいて欲しい。
そんなニュアンスの言葉でありながらも、ジャンヌの追求を押しとどめるには十分な言葉であったのかもしれない。
「それ以上、彼を追い詰めるような真似をしてはいけません。……それに、今の時点で、あまり彼を刺激しすぎると……。お互いにとって、とても不本意な結果に終わってしまいかねないのではないですか……?」
それはクロスの事を余り追い詰めて刺激し過ぎると、色々とお互いにとって面倒な事になりかねないからやめておけといった趣旨を含んだ警告であって。
だからこそ、その言葉によって、互いに察する事も出来ていたのかもしれなかった。
「……そうか。そういうこと、か」
「……はい。まあ、そういうこと、です」
交わされる何かを示唆するかのような視線と表情。その視線の先が時折背後のクロスを指している事からも、それは明らかだった。
「やはり“偶然”ではなかったのだな……」
「……まあ、そういう事になりますね……」
そう白状してみせる青年にため息をついて答えながら、何かに納得したかのような表情を浮かべて見せていた。
「まあ、そうだろうな。……たまたま、モデルになってくれる相手を探していた時に、おそろしく特殊な事情なんて代物を抱えている自分にとって最高に都合が良い才能なり条件なりを持った“逸材”が見つかるだ等と……」
それは色々な場面において、余りにも青年にとって都合が良すぎていたし、それ以上に話として出来過ぎてもいた。だからこそ、色々な“偶然”の全てが疑わしく感じられていたのかったのかもしれなかった。
「舞台劇などの“物語”としての題材としては面白いかもしれんが……。現実には、ありえないような偶然ばかりだったからな。余りにも話として出来過ぎていたせいか、少しばかり作為的でもあった」
「……まあ。バレバレだろうなとは、最初から薄々思っていました。……多少なりとも、疑われてはいたんでしょう?」
「それについては否定はせん」
泳がせていたのか、あえてその誘いに乗って見せていただけなのか。あるいは、泳がされているのを分かっていた上で、あえてその状態で上手く立ちまわって今の状況を創りだして見せていたのか……。果たして、狙い通りに事を進めていたのは誰だったのか。自分は利用していたのか、それとも利用されていたのか、あるいは泳がせいていたのか、それとも掌の上で動かされていただけだったのか……。
──どちらにせよ、食えない曲者だ。
そんな両者のやりとりで何かしら察する所があったのか。そっとフィルクの背後から服を掴んだクロスの言葉には色々な感情が滲んで見えていた。
「……偶然、じゃ、なかった……?」
そんな弱々しい言葉には、信じていた相手から裏切られたといったニュアンスが透けて見えていた。
「……はい。探している相手の条件が色々と厳しかったものでして……。流石に下調べなしに候補者を総当りという訳にもいきませんでしたし……。だからこそ、何のアテもツテもなく貴方のような存在に当たりをつけるというのはいささかムリがありましたので……」
そう。私は、他のだれでもなく、おそらく貴方だけを探していたのだろう、と。
青年は今度こそ隠す事なく、そうはっきりと真実を口にしていた。
「なぜ……?」
「……貴方でなければならなくなったから、ですかね」
いや、それは恐らくは正確ではなかった。
「いや、より正確に言うなら、最初は貴方だけではなかった。当初、私が求めていた人材は、エレナの茨による戒めで力を……。黒い血を封じられている人達を……。まさに、貴方のような、その身に茨の戒めを受けている人達を探していたんですよ」
そんな言葉に僅かに目を見開いたのはクロスだけで。ジャンヌは、ただ、そんなクロスの事を痛ましいモノを見るかのような目で見つめているだけだった。
「……何故、そんな妙な真似をしていたのか。恐らくは、不思議に思われているのでしょうね。……でも、そこには当然のように意味があったし、理由だってちゃんとあったんですよ。……私の絵には欠点がある。そんな話をした時の事を覚えていますか?」
この仕事を始めるにあたって、フィルクは自分の絵の欠点というべきものを予め二人に提示して見せていた。
「私の絵が、何故、見る者に忌避感を抱かせてしまうのか。……その理由については、実のところ、早々に調べはついていたんです」
実のところ、フィルクの描く絵が、何故見る者の心に必要以上にダイレクトに訴えかけて来るのか。そして、それと同じくらいに忌避感を感じさせてしまうという特徴が、何故出てしまうのかも……。
それを解き明かした者は、呆れた様にして口にしていたという。
「私の絵は、そこに写し取られた人々の感情をも……。特に強い感情の発露とでもいうべき物をも無意識の内に写し取ってしまっていたんだそうです。……強い感情の発露……。それは主に負の感情と呼ばれる物でしたが……」
実のところ、フィルクの作品は、必ずしも嫌悪感や忌避感を抱かせるというばかりではなく、数は極少なかったとはいえ、時として喜びや楽しみといった正の感情を抱かせる絵も描けていたりしたのだ。それらと他の絵を比較・分析・解析・分類分けまでしてみて、何がどう違うのかを徹底的に調べて行った果てに得られた答えとは、正に“それ”だったのだ、と。
「微細を極め、精緻の極みにあるとまで表現された私の絵は、目に見えるはずもない、見えているはずがなかった、見えるはずのなかった物ですらも、そこから汲み取り、描き留めてしまっていたんでしょう」
それを証明するかのようにして、フィルクの描く絵は多くの場合において自然の風景画よりも街の日常の姿を描いた風景画の方が遥かに出来が良く見えていた。
それは、そこに見えない形で描かれていた、そこで暮らしている人々の放つ感情という物の発露がどれだけ豊かなで色彩鮮やかな彩りを持つ物であったのか。そして、それを発露している姿がどれほどまでに美しく、激しく、残酷な物であったのかすらも……。
それを逆説的にフィルクの絵が証明してみせてしまっていたのだった。




