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海神の腕

「マナン」


 刃迫る絶体絶命の若者の口から発せられた忌み名に首なし騎士は総身を震わせた。

 その震えは、ルダーナの雷による肉体的痺れによる震えとは異なる。

 精神的動揺――種族の根源に刻まれた感情からの条件反射。

 その感情の名は――恐怖。



 海の妖精王マナン。


 器用で多芸で腰の軽い妖精王ルダーナがその権能の利便性からエルランド中で信仰されているのに対して、この海の妖精王は海の近く――海岸や小島に暮らす人間にしか信仰されない知る人ぞ知る神。

 海上を駆ける戦馬車に乗り珊瑚の兜を被った威厳ある妖精で、三叉の槍を振るい嵐を呼ぶことができる。

 顔の割りに心優しいマナンは、人間に海難守護や海の宝を授ける等、海関係特化の神威を施す。


 で、だ……言うまでもないがルダーナ以上にマナンと首なし騎士は相性が悪かったりする。


 ルダーナが邪魔、面倒な強敵だとすればマナンは……忌避すべき天敵に分類される。

 首なし騎士業界で名の知れたデュラハンでさえ必要が無ければ関わり合いになりたくない妖精の筆頭。

 どうしてそこまで嫌うかというと、六千年ほど前の例の戦争に百の百倍の更に百倍――百万を超える数で参加したデュラハンとその同胞がたった七人、たった七人のマナンの息子により殲滅されたからだ。


 主であるクルアハに補給も休息も不要な硬い肉壁――もとい不死身の兵として創造されたデュラハンたちは、意気揚々と参戦した初陣で四つの嵐と三度の津波で巣に水を流し込まれた蟻の如く容易く、そして無慈悲に磨り潰された。


 今でも鮮明に思い出せる。

 色とりどりの鱗で飾られた鎧兜に身を包んだ若い妖精たちが七つの槍を振るう光景。

 大地を埋め尽くしていた夥しい闇の軍勢(ドゥーブ・ハン)が陸を奔る濁流に綺麗さっぱり洗い流される様を。

 戦後、復帰できたのは千体足らずという見事な敗残。

 今でも心的外傷から古参の首なし騎士は水嫌いであり”刈り取り”巡回路から海岸や小島が外していたりする。



 しかしそんな物騒な神の名を前にしてもデュラハンは平静だった。

 とある事情で他の首なし騎士よりマナンとその眷属に慣れているのだ。

 それでもガチャガチャガクガクと震えは続く。

 恐怖だけではない知名度の微妙なマナンを知っている賢者への憤りが理由だ。


 首なし騎士が水を(いと)うのは有名だが海でもない場所でマナンの名を称えるなど誰が想像しようか!!


 ザッ、と川原の石ころを鉄靴で踏みしめる。

 腰を低く落とし振り上げていた鎌の柄を中心近く――取り廻ししやすい位置――で握り直すデュラハン。

 既に奇跡は願われた。

 この瞬間ばかりは賢者の首より神威への備えを優先する。


 ここは海から遥か離れた内陸部、マナンと言えどもさほど強大な神威は起こせないはず、と期待八割逃避二割ぐらいの思考で体の緊張を解す。

 ……件の戦争は島の北西にある平原と丘が主戦場だったことは忘れておく。


 だが大雨や身体を撃ち抜く水流の槍ぐらいの神威だと嬉しいなどと思っていた敗残者の希望は適わなかった。

 ぐったりとした賢者とそれを背負い逃げようとする戦士――二人を視界に納めながら全方位を警戒していたデュラハンの異変を感じとったのだ。


 兜の隙間から流れ込んでくる澄んだ音と冷たい空気。


「……クルアハよ」


 主を称えた首なし騎士は、油の切れた山妖精の機巧細工のようにギギギギと背後――即ち自らが人間たちに奇襲を仕掛けるために遡ってきた川をと向き直る。



 何の変哲も無かったただの小川は、今宵伝説の地となった。



 闇を押しのけ雄々しく聳え立つのは水の柱。

 水草が漂い魚が泳ぐそれは地から天へと昇る川。

 この世の理に逆らう紛ごうことなき神の威。

 デュラハンが見上げる柱の天辺は扇のように広がり五本の柱に枝分かれしていた。


 腕だ。


 一本一本の指でさえ船の帆柱のように太い逞しき水の巨腕。


海神の腕(わだつみのかいな)


 首なし騎士は逃げることも忘れ呆然とする。


 海神の腕――船を沈める嵐の異称。

 万能神の雷に並ぶ天の災がその異称のままの姿でデュラハンの前に降臨していた。

 天に逆巻く神威は、デッラハンに首を落とされた戦士や猟犬の血が流れ込み薄っすらと赤みを佩びていた。


 まるで人に害なすあの世の使者への怒りを示すように。



************


 愕然とするあの世の騎士と古き偉大な神の奇跡。

 この世に蘇った神代の戦の再現。


 その戦いに巻き込まれない程度に遠く、しかし戦いを見物できる程度に近い丘に青い衣に包まれた男が一人。


「これは素晴らしい!」


 今にも踊り出しそうな喜色を顔に浮かべ、だが目も耳も鼻も……五感の全てを最高の楽題を得ることに費やすフェイクトピア。

 右手の指は竪琴を鳴らしたいと蠢き、左腕は折角の見世物に余計な雑音を入れまいとそれを阻んでいる。

 両手の攻防。

 故に耳まで裂けそうな笑みと叫びを止めることができない。


「ああああああ――良いですぞ良いですぞ。賢者に成り損ねた若者の英雄譚! しかし惜しい惜しい惜しい首なし卿の冒険がここで終わってしまうのも惜しい。もっと見たい聴きたい語りたい創りたい謳いたい広めたい! ああああああどうしましょうか! なにもできないのがもどかしいですぞ。我輩どちらも見たいですぞ。なぜこの島は、舞台は二つないのでしょうか?! おおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 驚く吟遊詩人の両眼には、黒き騎士と赤い巨腕の激突が映っていた。

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