黄昏
食堂の騒めきは遠く、通路を曲がった小廊下には僅かな灯りしか届かなかった。
何処からか冷たい隙間風が吹き付ける薄明の通路で、壁に寄り掛かったシャルは、改めてクーンの横顔を眺めた。
此の娘は何歳なのだろうか?
顔立ちだけ見れば、かなり若い。二十歳をそれ程越えていると言うことはない筈だが、言動や立ち振る舞いからは随分と年上のように感じる時がある。
シャルが【町】へとやってきた一年前には、もう既に水路巡りとして円熟しており、他の娘たちから尊敬を受けていた。
年端もいかない子供や身寄りのない娘たちの世話を好んで焼くお節介なお人好しで、独り立ちできる程度になるまで水路巡りに付き合ってくれる。
そうして助けられた者が、水路巡りの中に幾人もいるということはシャルも知っていた。
正確な人数はシャルも把握していないが、見知った顔だけで十人か、それ以上の者たちがクーンを慕っている。
顔役とでも言うべきだろうか。否、顔役にはなりえない。
なんとなれば、クーンが救うのは価値のない人間たちばかりであったからだ。
見捨てられた者、力ない者、無知な者。寄る辺ない者。つまりは、弱き者たち。
他者に助けられて始めて、ようやっと生きる術を身に着けるだけの余裕を持てるような連中であった。
シャル自身は、クーンに助けられた事はない。
自力で何とか出来る相手よりも、一人ではどうしようもない、後のない人間をクーンは好んで助けている。
まるで子を失った母犬のように裏路地を這いまわっては、病気の犬を嗅ぎつけて寄り添うのだ。
「クーンは、さ。なぜ、ソフィを?」
前々から気になっていたクーンの行動原理にシャルは触れてみたくなった。
クーンにこそ助ける理由がない。足手纏いを助けて、徒党に加えるでもなく、労ばかりでいいことは何もないように見える。
「なんでだろうね?」
シャルの疑問の対して本音か、韜晦か。自分でも分からないとクーンは困ったように笑った。
妙な女だと、シャルは思う。
世の中には、恩を仇で返す奴もいる筈だ。
そうした地雷をどうやってクーンは回避しているのだろう。
人を見る目があって最初から迂回しているのか。
それとも、人との距離を上手く取れるだけのバランス感覚に長けているのか。
或いは、相手の心根に良い影響を及ぼすだけの善のカリスマがあるのか。
一線を越えた相手を暴力の行使で叩きなおしている?
分からないな。
もし、それだけの人心掌握術を持っているなら、【町】の最下層で燻ぶってないと普通思うが、その普通も、結局のところ、シャルの考える普通でしかない。
シャルロットとはまるで価値観の異なる人間という奴も、世界には幾らでもいるようだ。
地下から響いてくる咆哮のような風の音に耳を傾けながら、シャルはどこか虚ろな笑みを返した。
「あー、少しだけクーンがどんな奴か、分かったような気がする」
「そう?」
「理解できないということが理解できたよ」
「なに、それ?」
他人の腹の底なんて、分からないものだ。
クーンが何をどこまで本気で口にしているのか。シャルロットには見当がつかない。
助けてもなんの得にもならない、役に立たないものばかりを好んで助ける。
きっと、其処にはなんらかの信念があるのだろう。思惑などはなんにもないだろうけど。
ソフィのことはよく知っている。たった一人【町】の下層で生き延びられる娘ではない。
クーンが助けなければ、野垂れ死んでいたに違いない。
立派なことだとシャルは、少しだけ皮肉交じりながら感心した。
「自分と弟の身を削ってまで、ソフィを助けることは出来ない」
貴女と違って。と内心で呟いたシャルに対して、クーンはなにも言わずに肩を竦めた。
クーンは真実、善良で面倒見のいい人間なのかも知れない。
それだけに従妹を切り捨てるシャルに対してはどうおもうだろうか。
どうでもいいか。クーンに軽蔑されようがどうでもいい。
確かに冷たいかも知れないが、ソフィに死んでほしい訳でもない。
幾らかはソフィの為にしてやれることもある。
開き直ったシャルは、腹を割って話してみることにした。
「時々は様子を見に行くよ」
言い訳と思われようが、本音の結論だけを話すことにする。
「幾らかのお金と食べ物を融通する。逆に言えば、それ以上のことは出来ない」
それがシャルの出した妥協点であった。
まず自分が生き残ることに力を尽くさなければ、ティアマットは生き抜けない。
しかし、血を分けた従妹を完全に切り捨てることもしたくない。
普通の人間が出した、なんとも中途半端で玉虫色の、それが結論で、シャルは頭を抱えたまま、苦い思いを飲み込んでクーンにそう告げた。
結局は、自分に対しての言い訳かも知れないが、クーンは目を閉じたまま、何も語らなかった。
何様のつもりだろう。まるで大物みたいに思わせぶりな態度をとりやがって。
内心、腹立たしく思ったシャルに対して、クーンが静かな口調で返答する。
「あの子を救えるのはあの子自身しかいないんだ。
だけど、自力で立つのが困難な子もいる。わたしや貴女とは前提条件が色々と違う」
クーンの声音は、透明な哀しみに満ちていて、抑揚をつけない癖、シャルロットの言葉を詰まらせるような力を不思議と籠っていた。
「厳しい道になる。承知の上で、あの子に話そう。早いうちの方がいい」
それで話は終わったと、二人は暗黙の了解のうちに同時に立ち上がった。
「ソフィの為に、体にきつくない仕事を見つけてやれればいいんだけど……」
何気なく呟いたシャルロットは、幾らか嘘を付いていた。
一人くらいなら、面倒を見れた。
4~6人まで人数を増やしても、チームは十分に機能しうると前々から考えていた。
だけど、ソフィを入れることは考えられなかった。
師事しているギーネやアーネイも、蟹虫の縄張りを直接、教えようとはしなかった。
それは自分で見つけろという事だろう。
帝国人たちがシャルロットたち3人に、蟹虫に関する諸々をレクチャーし始めたのは……もっと言えば、様々に応用できる広範な知識や技能を基礎からたたき込み始めたのは、ギーネとアーネイがもっと割のいい獲物。巨大アメーバなどを安定して狩れるようになって以降の話だった。
アメーバを安定して狩り、廃墟と化した市街地から物資を持ち帰るノウハウを確立して、安定した収入源を確保した帝国人たちがH級ハンターに昇格し、さらに様子見を重ねて、ようやくシャルロットたちに対する訓練と教育を本格的に施し始めたのだ。
自分たちにとって蟹虫用の技能と知識が無用の長物とり、シャルたちに教えても競合しないと判断して、始めて手の内を明かしてくれた。
最近は、肉体と知性の訓練をかなり厳しく施してくれるので、シャルたち3人とも幾度も反吐をはかされているが、同時にそれは全くの素人である3人組を無駄死にさせない為のものだと理解できたし、
帝国人たちにとっても時間を割いて付き合ってくれるのだから負担は大きい筈だ。
ギーネたちと、クーンの慈善は、似たようなものなのだろうか。どこか違うとシャルには感じられた。
見返りがないにも拘わらず、3人の特性や技能、体格、性格に合わせて訓練メニューを考案し、週に数時間を割いて付き合ってくれた。
そこまでしてもらって、漸くシャルロットたちは最下級であるI級の狩人へと昇格できた。
それでも、まだ人並み以下の生活で、これから【町】で初めて過ごす冬に差し掛かろうとしている。
ソフィを心配していることも嘘ではないが、他人の心配をしている場合でもない。
口を糊することが出来るか否か、先行きがなにもかもが不透明なこの状況で、明らかに半病人の従姉妹を抱えることなどシャルロットには出来なかった。
食堂に戻り、クーンが何かをソフィに告げた。
ソフィは縋るような眼差しで見つめてきたが、シャルは口元を固く引き結んだまま、首を横に振った。
肩を落として立ち去るソフィの背中を見送るシャルの傍らで、サラが短く訪ねてきた。
「いいの?」
「なにが?」
頷いたサラは、それきりそのことについては尋ねなかった。
パイは限られている。仮に蟹虫の狩り方や巣穴を教えれば、シャルは自らの身を削ることになる。
ギーネたちさえ、蟹虫の習性と生息しやすい場所は教えても、全ての狩場は明かさなかった。
恐らく、万が一に備えて温存したのだろう。
見つける為の手段も、蟹虫の習性も、思考の訓練も施した。
生息条件と反応パターン。対処法まで、実地で訓練してくれた。至れり尽くせりだと思う。
軽々しく教えることは、厳しい訓練に耐えた自分たちに対しても、帝国人たちに対しても、裏切りにも思える。
それにソフィ。やはり仲間に入れる事はあり得ないとシャルは思えた。
お人好しの彼女のことだ。クーンやドリス。
或いは困った子供に、苦労して積み重ねた蟹虫の捕り方のノウハウ、探し回って見つけた縄張りなんかを、軽々しく教えかねないと危うさがある。
死ぬまで性質の変わらない人間という奴も、世にはいるのだ。
人の本質に良し悪しはない。状況によって、有益に働くこともあれば、害を為しもする。
だから、ソフィを見捨てることも間違いではない。正しくもないが。
肩を落として立ち去っていく従姉妹の後姿を目に焼き付けるように眺めて、あれも私か、とシャルは唇を歪める。
帝国人たちと出会わなかった自分。助けの手が差し伸べられなかった自分。
もう一人の自分の姿か。胸の奥底がほんの僅かに疼いていた。
この奇妙な胸の騒めきは、良心の抗議かも知れないし、将来への不安を感じているのかも知れない。
だが、どうでもいい。むしろ怒りを覚えて、シャルは歯を食いしばった。
自分と弟が生き残るのが優先だ。だから、今は鎮まれ、と胸の疼きを黙殺する。




