薄暮
【町】には水路巡りと呼ばれる者たちがいる。と言っても、観光客相手に水路のガイドなどをする訳ではない。
【町】の周囲に張り巡らされた農業用水路網には、土砂と泥濘の堆積して埋もれた部分もあれば、枯れ果てて水の通らない部分もあるが、底部を僅かな水が流れている水道も幾ばくかは残されている。
水のあるところには、生命が息づいている。小虫や水蛇、水草などを採取して口を糊するのが<水路巡り>、或いは<水路歩き>と呼ばれる者たちの生業だった。
幸いというべきか、水が化学物質に汚染されているが故に、綺麗な淡水によくいる寄生虫の類は殆ど見当たらなかった。中間宿主の貝類や微細な寄生虫は、皮肉なことに人間よりも遥かに汚水に弱かった。
水蛇や蜥蜴、水草の一部は、他の物資と交換することも出来る。そうして物々交換で換金性の高い物資や食料を入手し、それをさらに塩と交換しているようだ。
<水路巡り>にとっては、僅かな現金でさえ貴重であって、以前は、自身もその一人であったシャルは、辛苦と困窮を伴うその生活の危うさが身に染みている。
冬になったら、きっと少なくない人数が脱落するんだろうな。
湯気を立てるポトフの具を錫のスプーンでかき回しながら、苦みを覚えたシャルは思わず口元を歪めた。
まあ、他人の心配する余裕なんかないけどね。
下手をすれば、私たちもどうなるか分からない。
多少の憐れみを覚えつつも、一方で、シャルは明日をも知れぬわが身を憂い、それ以上に貧しい者たちが困窮するであろう冬の間に【町】の治安に与えるだろう影響について想いを馳せた。
きっと、飢え死にするよりは、盗みでも何でもして生き残ろうとする奴は出るに違いない。
間違いなく冬の間【町】の治安は悪化する。とシャルロットは踏んでいる。
当局は、流れ者に対してどう対処するだろうか。
十把一絡げにされて、私たちにも累が及ぶのではないか?
不安を覚えたシャルロットは、強張った口元を掌で覆って隠して考え続ける。
今は、当局の動きを考えても意味がない、か。どうにもならない。
それよりも、どう無事に冬を越えるか。頭を絞る方がまだ建設的だね。
……不特定多数で雑魚寝するギルド施設に泊まるのは無いかな。事故が恐ろしい。
最近のシャルロットたちは、多少の蓄えも生じ、装備も整い始めていた。
言い換えれば、失うものがある身となった。
加えて、徒党が小さいから、悪意に対して身を守れるかも分からない。
敢えて狙うほどの財産は持ってないにしても、若い娘が襲いやすい獲物であることに違いはない。
だからと言って、ホテルが安全とも言い切れないのが崩壊世界の悩ましいところではあったが、【ナズグル】の客層は比較的に固定化されている。
常連が多い宿泊施設の方が、まったくの見ず知らずばかりの中で雑魚寝するよりは、幾分かは安全に違いない。
そう結論づけたシャルロットは、思考をいったん打ち切った。
半分ほど残したポトフを【ナズグル】で待つ弟の為に持ち帰ってやろうと飯盒に蓋したところで、肩を落とした三人組の水路巡りが調理の火でも借りるつもりか、傍まで歩み寄ってきて気づいた。
中央の娘が立ち止まり、シャルをまじまじと見つめて呟いた。
「……あれ、もしかして?」
顔見知りだろうか。シャルを凝視している水路巡りの相貌が揺れる焚火の炎に照らされた時、シャルも相手が誰かを気づかされた。
僅かに間を開けてから、言葉をかけた。
「……ん、ああ。クーン。それにドリス。久しぶりだね」
もう一人の娘は、知らない顔だった。大方【町】へやってきたばかりの新顔だろうか。
クーンは面倒見がよく、好んで新参の面倒を見ることが多かったとシャルは思い起こす。
久闊を叙するというには、渋い表情を浮かべてしまったかもしれないが、乾燥した空気の中、弱々しく揺れる焚火だけが光源の食堂の片隅は薄暗く、躊躇も一瞬であったのできっと誰にも気づかれなかっただろう。
「やっぱり」
屈託のない笑みを浮かべて、クーンはシャルの傍へと駆け寄って来た。
「最近、姿を見なかったから心配してたんだぞ」
朗らかに言葉を掛けてくるクーンに、シャルは言葉少なに頷き返した。
「ああ、うん。最近は、河岸を変えててね」
「いい服着てる。上手くいってるんだね」
我が事のように喜ばしげに話すクーンを見て、何故かレーゼが不快そうに鼻を鳴らした。
「……相変わらず、馴れ馴れしい奴だな。クーン」
低い呟きには、微かに険が含まれていた。
「なにさ」
大柄なドリスがムッとしたようにレーゼを睨みつける。
文明が崩壊したティアマットでは、新品の服はそこそこに貴重品であった。
庶民の手に入らないという事はない。時折、崩壊前の倉庫で完璧な状態で保全されている新古品が数十、数百のオーダーで発見されることも侭あるので、流通自体は珍しくないが、それでも人々が普段、着こなすのは基本的に十数年を着古した古着が多い。
親の代、祖父の代の衣服も、当たり前のように受け継がれており、中には修繕を繰り返しながら、人から人へ百年近くも受け継がれている衣服もあって、袖がほつれたよれよれの着古しも珍しくはない。
水路巡りであるクーンの装束も、到底、サマになっているとは言い難かった。
ズボンとシャツは、きっと修繕を繰り返したのだろう。薄くなった天然生地が所々に破れ、色違いの布切れで継ぎ接ぎをされている。
袖口も完全にほつれており、ズボンに至っては膝上までボロボロに分解されていた。
無骨ながら分厚いジャケットとカーゴパンツ。半長靴の整然としたシャルと比べれば、明らかに見劣りした身なりにも関わらず、クーンが本気で他人の成功を寿いでいるように見えるのが、レーゼには滑稽でそれ以上に不愉快に感じられた。
床に敷かれた毛布の上で猫のように寝転がりながら、サラはどうでも良さそうにその仲間たちとクーンを眺めている。
シャルもかつて水路巡りをしていた時期があった。
と言っても、【町】へとやってきたばかりのほんの一時期。もう1年近くも前の話だ。
サラと言葉を交わすようになったのも水路巡りのさなかで、同じく同業であったクーンやドリスを見知ったのもその頃だったが、結局、2か月もたたないうちに見切りをつけ、サラとレーゼを誘って虫狩人に転職したのだ。
ギーネやアーネイとの知遇を得られなければ、此れほどとんとん拍子に物事が進まなかったであろうから、帝国人たちから指導を受けられたのは、まぎれもなく幸運だっただろうが、シャルとて努力しなかった訳ではない。
かつて、ギーネたちが示唆したように、ハンターに転職するに当たってシャルも仲間を集める必要に駆られた。
誰と組むべきか、選ぶ相手によっては、戦利品も、生存率も、未来が大きく左右されるだろう。
当然の話だが、サラとレーゼ以外にも幾人かの候補を考えていた。
ドリスは鈍重で話にならなかったが、クーンに関しては実は最後まで迷った。
ギーネたちに仲間を探せと示唆された時、真っ先に思い浮かべたのは、実はクーンだった。
レーゼは体力に恵まれているがやや狷介であったし、サラは観察力に長けている代わり、自己の内面に籠りすぎるところがあった。
熟練の水路巡りであり、陽性の気質の持ち主であるクーンは、能力的にも、人格的にも、欠けた所は無いように思えた。
何度か一緒に水路を歩き回ってみて、頼りに出来ると思わせるだけの雰囲気を確かに持っていたのに、何故かそれでも誘うのは気が進まずに、シャルは最終的にサラとレーゼを勧誘した。
性格に難があった訳ではない。粗暴でもなければ、盗癖もない。そうした娘たちは、端から考慮に値しなかった。むしろクーンは信頼できる人格の持ち主だった。仲間を思う気持ちが強く、一度、友人となれば此れほど頼れる人間はそうはいない。生涯の友人となるにも不足ないとシャルに思わせるだけの器量を持ち合わせていた。
無論、向こうにも選ぶ権利はあるだろう。が、断られることを恐れた訳でもないのに、シャルロットはどうしてか、クーンと友人になりたいとは思わなかったし、仲間に誘うことすらしなかった。
自分でも理解できない気持ちからクーンを忌避したシャルであったが、クーンとドリスの背後に控える見慣れぬ三人目。疲れ切った様子の痩せた少女に一瞬だけ視線をくれてから、小さく唇を舐めた。
「……相変わらず」
相変わらず、足手まといを切れないみたいだね。
自身でも思ってなかった毒のある台詞を吐きそうになったシャルロットは、少し驚愕しつつ、慌てて言葉の続きを飲み込んだ。
ぎこちなく笑顔を浮かべて、言い直した。
「……そっちは、相変わらず」
「うん、シャルと組んでいた時みたいには、なかなか上手くいかなくてね」
シャルの言葉に、首を傾げたクーンは何処か困ったような苦笑いを浮かべて応えた。
と、それまで押し黙っていたクーンの後ろで、三人目の娘が顔を上げた。
「……シャル?」
蚊の鳴くようなか細い声には、微かに聞き覚えがあった。
興味を覚えなかった三人目の水路巡りの娘。
改めてシャルが視線を合わせると、その娘は視線で穴が開くほどに強く凝視していた。
「……シャルなの?」
三人目の娘のおずおずとした問いかけは、否定されることを恐れるような響きを含んでいて、顔見知りなのは確かかも知れないが、
シャルロットには心当たりがない。
「誰……どこかで会ったかな」
そう応えてから、しかし、見覚えのある瞳が微かに記憶を刺激して、シャルロットは目を見開いた。
「いや、待って。ソフィ?……ソフィーア?」
「シャルロット。シャルロット!」
感極まったように抱き着いてきたソフィを抱きとめると、毛布の上で丸まっていたサラが顔を上げた。
「団長、知り合い?」
「……従姉妹だよ」
僅かに当惑を隠しきれない表情でシャルは応えた。
「良かった。シャル。ずっと……もう会えないかと」
シャルに抱き着いてきたソフィは、従姉の胸に顔を埋めてから感極まったように嗚咽した。
慟哭する従妹を慰めるように肩を撫でてやったシャルロットだが、一方で、何処か困ったように視線を彷徨わせている。
今日まで積極的にソフィの面倒を見てきたドリスが笑顔を浮かべた。
「ソフィ。よかった」
対照的に、シャルの仲間であるレーゼとサラは他人事なのだろう。露骨に醒めた様子で再会劇を眺めていた。
故郷を離れて以来、離れ離れになっていた従妹との思わぬ再会に、シャルロットは戸惑いを隠せず、結局、口をもごもごと動かして何とか言葉を絞り出した。
「……生きてたんだ。まあ……お互いに無事で何より」
間抜けな一言だった。
小さく唇の端を舐めたシャルロットは、実際のところ、不意打ちを受けて混乱していた。
(落ち着きを取り戻さないと)
従妹のソフィーアを見下ろしながら、会話の主導権を取り戻そうと尋ねる。
「それで、今はどうしているの?」
優しそうな声音の質問に、安心したソフィは昂った気持ちのまま、現状を話し始めた。
「今は……クーンとドリスに助けてもらって……水路で蛙捕まえて、町で売って……」
此れでソフィとお別れか。微笑んだクーンだが、ソフィを見下ろすシャルの眼差しに引っかかりを覚えた。
クーンは、改めて観察する。従妹に対して困惑し、疑わし気なシャルロットの眼差しは、完全に厄介者を見るそれだと気づかされて、クーンはまるで硬い石を飲み込んだようなやりきれない感覚を覚えた。
(ああ、またか。またその表情。ハッピーエンドとはいかないみたい)
クーンの感情を敏感に察したのか。シャルが静かにクーンを見つめ返してきた。
二人の視線が交差して束の間、奇妙な沈黙が食堂の片隅に降りたった。
シャルロットは困ったように首を傾げると、クーンに呼びかけきた。
「ちょっと話せるかな。二人きりで」
会館の小廊下には、どこからか隙間風が吹いていた。
地下への階段には金網が張られ、その後ろに机を積み上げたバリケードが張られている。
遠吠えを思わせる吹きすさぶ風の音が、時折、地下深くから階段を伝って響いてくる。
不気味な音が人を遠ざけるのか。食堂の喧騒が嘘のように壁一枚隔てた廊下はひとけが無かった。
「……獣が叫んでいるみたいだね」
二人きりで闇に佇み、金網に触れたシャルが呟いた。
「町の下には、地下街や地下鉄が広がっているからね。
中には、見たこともない化け物もいるかも。
酒場の爺さんたちの話だと、崩壊前に造られた旧地下都市と何処かで繋がっているとか……まあ、与太話の類だろうけど」
両手を組んだクーンが、そう言ってから寒さが応えたのか。小さく鼻を鳴らした。
それきり沈黙したクーンとシャルは、互いに様子を窺うように静かに見つめあった。
緊張を解きほぐすためか。シャルロットが財布から紙巻を一本取りして咥えた。
煙草ではない。【町】では、安価な値段で入手できる一種の合成麻薬だった。
ティアマットの共同体は、大半が中毒性薬物を取り締まる法律を施行しているが、大概が有名無実となっているのが実情で、強力な中毒性を持ち、肉をも溶かす劇物から、酒や煙草よりも害のない代物まで、多種多様なケミカルが簡単に入手できた。
シャルの咥えたそれは煙草よりも中毒性も薄く、使用者によっては軽い酩酊感に加えて思考の冴えを与えてくれる合法的な代物だったが、それでも錯乱した麻薬中毒者が危険な生き物であることは、ティアマットでも同じであり、薬物の使用を嫌う人間も少なくない。
「吸うようになったの?」
クーンが胡乱な目を向けるも
「……狩りの師匠たちが同じやつを吸っていてね」
シャルロットは言い訳のように呟いてから、紙巻を差し出した。
「吸う?」
「いらない」
嫌そうな顔で紙巻を眺めてから、クーンは断固として断った。
燻らせた紫煙を目線で追いながら、シャルロットはぽつりと呟くように口を開いた。
「……誰かの助けがなければ、あの子は生きていけない。きっとお礼を言うべきなんだろうね。クーン」
「……まるで助けたことを望んでいなかった。そんな風に聞こえるよ。シャル」
「……仲は良かったよ。おじさん夫婦にも世話になった。
一年前なら喜んで助けた。多分、一年後でも助けられた」
好事魔多しというべきか。順調に見えて、思わぬ落とし穴を見つけてしまった。
足を取られるかどうかは、自分で決めないとならない。
壁に寄り掛かったシャルロットは、其の儘、ずるずると地べたにへたり込んでしまう。
「……参ったな。なんで今なんだ」
低く呟いたシャルの言葉は、まがうことなく本音だったけれども、クーンにとっては、誰も彼もが他人を見捨てる時に口にする通り一遍の言い訳にしか聞こえなかった。
育てられない。余裕がない。自分一人で手一杯だと、そう誰に言い聞かすでもなく呟きながら、誰かは誰かを見捨てていくのだ。
「貴女が見放したら、あの子は長く生きられない」
責めるでもなく、口説くでもなく、淡々と事実を突きつけるようにクーンは言葉を紡いだ。
両手で頭を抱えたシャルロットが無意識のうちにか、押し殺されるような呻きを喉の音から漏らした。
意味を成さない呻きを暫く漏らし続けてから、シャルロットは首を振った。
「……わたしには、ソフィを助けられない」
葛藤はせず、動揺も見せず、ただ強張った表情でクーンを見上げた。
既にシャルロットの中で結論は出ていると理解しつつも、クーンは最後にもう一度だけ言葉を重ねた。
「シャルのチームは、余裕がありそうに見える」
頭を掻きながら言うも、声に出しての返事はなかった。
他人に何が分かると思いながら、シャルはただ首を横に振った。
吹けば飛ぶ程度の余裕に過ぎないことは、誰よりもシャル自身が熟知している。
弟にティアマット底辺層の生活をさせない為、シャルロットは薄氷を踏みようにして少しずつ生活の基盤を築いてきた。
ここでもう一人抱え込むことは、生きてきた理由そのものが本末転倒となることを意味しているようにシャルには思えた。
『クーンが詰るのではないか』内心身構えていたシャルに、クーンはなにも言わなかった。
人一人を救うということが、どれだけ身を削るか。クーンもよく知っている。
だから、他人に自分と同じように、無私の行動をしろとは要求できなかった。
大きくため息をついてから、クーンは廊下の対面にシャルと同じように力なく座り込んだ。
「やっぱり、一本くれる?」




