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廃棄世界物語  作者: 猫弾正
ハンター日誌 ライオット
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いつも心に要塞を

おもしろーいとか、ありがとーとか、一言あるとやる気が出る。


「さて、第3フロア。どっちかな」

 ホールには、八方を取り囲むように複数の出入り口が設置されている。

 どの通路が何処に通じているかは、ギルドの建物に不案内なシャルたちには知る由もない。

 廊下に会ったプラスチック製の見取り図は、とうの昔に打ち壊されて燃料としてくべられてしまっている。

 案内図だったのか。床に記された文字も風化して掠れており、元を推測することさえ難しい。

 この時代のティアマットには珍しくない話だが、大きな建物を再利用して暮らしている住人など、自分が住んでいる家で抜けた床から落ちたり、住み着いた怪物に襲われて命を落としたりする者も少なくない。

 下手をすれば職員でも建物内を掌握してないかも知れない。

「おっきな建物って、いつも方向感覚が狂うねえ」

 腰のポケットからコンパスを取り出しつつ、ぼやいているシャルたちの右手。炎の近くで毛皮を纏った若い男女がカブトムシの幼虫にも似た形状の巨大な芋虫を串に刺して炙っていた。

 埃っぽい空気の中、揺らめく影。肉を焼く香りに饐えた体臭が入り混じっている。

 手持ちの鉈で端から切り取っては、蠢き続ける肉片を口に運ぶ男女からは、化学製品と金属を同時に焼いたような刺激臭も微かに漂ってきて、軽く吐き気を催してしまう。


不快気に鼻に皺を寄せたレーゼに、よたよたのシャツを着込んだ男が歯の殆ど無い口を大きく開けて笑顔を向けてきた。

「姉ちゃん、いくらだ?」

 未だ穢れを知らない乙女なレーゼに値段を尋ねてくる。

「てめえのお袋とファ××してろ」

 中指を突き立てながら横を通り過ぎる際、合成麻薬使用者に特有の甘ったるい体臭と腐敗臭が入り混ざった異様な匂いが強烈に鼻孔に突き刺さってきて思わず顔をしかめた。


襤褸を纏って床に寝転がっている連中を避けながら、シャルたちは恐らく会館の中央部へと続くと思しき廊下への入り口へと足を進めてみた。と、擦り切れた毛布の上で赤子に乳を与えていた襤褸を羽織った女が、近づいてくる足音に顔を上げた。真っ赤に充血した瞳が、シャルロットの青い瞳を凝視する。

 母親の表情は、深い絶望に濁っていた。剥き出しとなった乳房は鮮血に濡れており、抱きかかえた赤子のまあるい口からは、無数の牙がのぞいて見えた。

 母親は感情の見えない眼差しをシャルに向けて壊れた笑顔を浮かべる。

「見て?あたしの子よ。とても可愛いでしょう?」

 赤子の横顔が揺れる炎に照らされる。光に照らされたのは、異形の子であった。

 男か、女か。性別も定かではない横顔には、頭頂まで広がるような、恐ろしく肥大した右目。明らかに変異を起こしていた。


「可愛いでしょう?抱いてみる?」

 聖母のように穏やかな微笑みを浮かべたままの母親に掛けられた優し気な声。何の変哲もない言葉のうちに潜むおぞましさに本能的な恐怖を抱いたのか。冷たいものが背筋を走り抜けた感覚と共に、無意識のうちに一歩、後退ろうとしている自分にシャルは気づいた。

【平常心を保ちなさい。終わりが避けられないとしても、少なくとも誇り高く死ぬことはできる】

 シャルの耳元に空耳が聞こえた。記憶の沼から響いてきた涼やかな女の声。

 狂気からの後退を臆病とも恥とも思わなかったが、怯えている自身に気づいたシャルは、咄嗟に歯を食いしばり、何とか踏み止まった。


 赤子を優しく抱いている母親に強い眼差しを向けて、口元を固く引き結んだまま鼻から腹式呼吸を行い、緊張を解きほぐそうとする。

 肉体が怯えを覚えた瞬間。シャルの脳裏をよぎったのは、鍛錬を行うホテル裏の公園の地面。

【強くなりたいと言ったのは口先だけか?立て、ティアマト人。

 肉体の苦痛の反応を精神力で支配しろ。慣れれば、腕が千切れても無視して動けるようになる】

 臓腑に強烈な拳が直撃し、反吐と唾液をぶちまけてうずくまるシャルロットを見下ろしている赤毛の帝国人と、積みあげた大型タイヤの上に坐して足をプラプラさせている銀髪の亡命貴族。

【肉体が思考よりも正しい解答を示す時もあります。が、肉体の怯えに引きずられて動作が鈍っていると自覚している時は、意志の力で己を支配するのだ】


 精神は、肉体を凌駕する。心のうちで呟いたシャルは、自身の呼吸が平静に戻りつつあることに気づいて、薄く笑った。

 あの時、よろめきながら立ち上がろうとするシャルロットを前に、タイヤから降りたギーネ・アルテミスは、薄く笑って手を差し伸べた。

【続けますか?よろしい。

 もちろん、普通の娘さんに今すぐには出来ません。

 でも、恐怖に相対した時、苦痛を味わった時、絶望的な状況で、常に考えなさい。思考を絶やしてはなりません。同時に本能の囁きにも耳を傾けなさい。理性と本能を使いこなし、取捨選択し、勇気をもって恐怖を超克するようにしなさい。大きな恐怖に遭遇する前に、小さな恐怖を砕きなさい。

 折に触れて戦い、心のうちに刃を抱くのだ。

 己がうちに潜む恐怖を従えれば、いずれ、汝の魂には絶望にさえ立ち向かえる勇気が宿るでしょう】


 記憶のうちで夕日が沈みつつあった。公園に伸びる影とまるで踊るかのようにしてくるくると舞ってから、ぴたりと止まったギーネが悪戯っ子のようにほくそえんだ。

【己の魂に要塞を築くのです。恐怖に打ち勝ち、己が力とする為の、それが第一歩です。

 勿論、ティアマットは厳しい世界です。恐怖に立ち向かえば生き残れるとは限りません。私も、貴女も、鍛錬が無駄になってあっさり死ぬこともあり得ます。けれども……】

 黄昏を背景にして、ギーネ・アルテミスの深い紫の瞳がシャルロットを覗き込んできた。

【少なくとも、絶望を前にした時、戦って死ぬか。怯えたまま殺されるかは自分で選べるようになります】


 シャルロットは、目の前の恐怖を直視してみることにした。

 分析しろ。これは『小さな恐怖』に過ぎない。脅威としては小さい。

 多分だけど、見誤ってはいない。己の心を鍛える好機だ。

 恐怖した時、どうしろと言われた?シャルの心の中で、公園のタイヤに腰かけたギーネ・アルテミスが口を開いた。『よく観察しなさい』そうだ、観察。

 母親から放射される陰惨な陰りが目を曇らせたのか。第一印象では、数倍の齢を閲した老婆のようにも見えた母親の相貌が、しかし、よく見れば自身とほぼ同年齢か、やや年上程度であろうことにシャルは気づいた。

 肌の綺麗さからして、恐らくは町の生まれ。廃墟民や放浪民は、皮膚病に掛かっていることが多いから。

 人生経験が苦痛と闇に包まれていたとしても、町生まれが精神的な怪物に成り果てるには時間が足りない。だから、いきなり喉笛を食いちぎられるようなことはない。多分。


 次の呼吸では、赤子に視線を移す。禿げ上がった右の側頭部と前頭部には、無数の青黒い血管が浮かびあがり、脈動していた。

 顔面の左部は、対照的に黒髪のあどけなく可愛らしい容貌を保っている。左手の爪は鉤爪のように黒くとがっている。左腕のみ肩から筋繊維が隆々と盛り上がり、相当の腕力を誇っているようにも見えた。

 時々は、出会う。怪物に変わり果てた我が子を見捨てられず、共に地獄へと落ちてしまう親。

 何人くらいいる?統計も考えろと言われていた。詐欺や詐術を見抜きやすくなる。今は分からない。保留する。


 数瞬の観察の後、母親の相貌に視線を戻す。額の皺は深く、唇は絶えざる苦痛に激しく歪んでいる。

 顔に刻まれた苦悶の印が老いた印象を与えるが、しかし、顔かたちにはいまだ幼さが残されている。落ち窪んだ瞳が深い絶望に染まっていたが、逆に言えば、絶望する人間は、どこかで健全な価値観を保っている。

 生来、持ち合わせている価値観にとって耐えられない状況だからこそ、人は絶望に襲われる。

 正気だからこそ絶望するのだ。だからこそ目前の母親は完全には壊れていない。

 なんとなれば、完全に壊れた人間は、もはや絶望すらしない。

 守りたいものなど何一つ無いからだ。

 かと言って、侮れるわけではないが、目の前の女性は、尋常な判断能力を未だ保っている。


「綺麗な娘さん。ねえ、あなたも何時かは子を産むわ。」

 優し気な響きの呪いの言葉。お前も同じように変異を産め。と二重音声で聞こえたような気がした。

【相手の意図を分析しろ】今度は、アーネイ・フェリクスの声が耳の中に響いた。

 何の脈絡もないように聞こえる言葉に思えて、しかし、其処には一定の規則が存在している。

 結局のところ、目の前に立つ母親は自分の抱いた想いを中心に言葉を紡いでいる。


『自分の感情を分析しろ。慣れないうちは処理しきれないが、大抵は何種類かのパターンに分類できる。例えば、恐怖と憧れ。例えば嫌悪と憧れ。例えば、恐怖と哀れみ……映画や小説は好きか?読書感想文を書いてみるといい。自身の心を整理し、他者の心を洞察するのに役立つ。例えば、エドモン・ロスタン作のシラノを読んだことは?』

『……とても素敵な、哀しい物語だった』

幼少期を思い出しながら、ホテルの一角でシャルロットは肩を竦めて返答した。

『主人公シラノにとって愛は命よりも重い。そして同じ愛でも、愛する人の幸せを願う想いは、恒星の如く魂を輝かせる。人によって善悪の基準も、目的の優先順位も全て異なっている。シラノにとってロクサーヌの幸福は、己の人生の喜びよりも大きい。いや、愛するロクサーヌの幸福が、彼の喜びなのだ。

お前が自らの幸福を最優先するならば、自分の目的と可能性を見誤ってはならない。そう、可能性を』

『可能性とは?』

『仮定として、シラノに気持ちを投影するとしよう。お前がシラノだとする。考えろ。目の前には、二つの道がある。ロクサーヌを愛する人と結びつける未来と、成否は別として自らがロクサーヌを手に入れようと動く未来。わたしは、ロクサーヌを奪えとは言わない。また、ロクサーヌの幸福を願えともいわない。お前は、二つに分かたれた愛の未来の先を認識し、その上で己が望むままに歩めばいい。


 シラノは、醜い容姿へのコンプレックスから、ロクサーヌへと愛を告げることが出来なかった。

 幼少から揶揄われてきただろうシラノは、信頼を築き上げた美しく優しいロクサーヌに嫌われることに耐えられなかったのだろう。シラノにとって、ロクサーヌは光であり、希望であった。

 だから、きっと、万が一にでも嫌われてしまうなど、シラノには耐えられなかったのだ。

 打ちのめされて、魂が死に絶えてしまうに違いない。


 だけど、お前がシラノの立場に立った時、それを真に望むなら、己が野望から目を逸らしてはならない。

 愛して得られた未来と、愛する人の幸せな未来の両方を想像しろ。失敗した時と成功したときについて考えろ。成功した場合、それを維持する為の方策について考えろ。失敗したときに失うものについて考えろ。すべてを想定した上で、欲するがままに、愛する人の幸せを願ってもいいし、己が愛を手に入れてもいい』

 アーネイ・フェリクスのただでさえ鋭い瞳がさらに細められて、射抜くようにシャルを見据えた。

『道徳や善悪を踏破し、その上で魂が求めに応じろ。力の全てを己自身へと捧げろ。その時、運命はお前自身のものとなる』


 自分の感情を解析しろ。いかなる時も己を支配しろ。シャルは自分に言い聞かせる。

 恐怖と哀れみ。この場合、恐怖は理解できない存在。未知から生まれる当然の反応だ。

 この激しい心と肉体の拒絶反応は、相手を自分の鏡として見たところから生じた。

 きっと、同化を恐れているからだ。


 第一印象では、己の心を分析できずに本能的な激しい恐怖を覚えた。

 心の奥底から、殺意に近い恐怖が吹き出してくる。恐らく自身の未来を見たからだ。変異の怪物の苗床になることを恐れた。それはティアマットに住む若い娘なら、誰でも抱くだろう恐怖だ。

 あの変異した赤子に不吉の象徴。或いは予兆を見たのだ。


 だが、それは恐らく錯覚。対して、哀れみは生来持った他者への自然な共感から生まれた。

 二つの感情が混じり合って、思考を混乱させた。分割し、分析しろ。

 拒絶と哀れみの割合は、当初はほぼ9対1。自身のうちにある強烈な拒絶反応の正体を知り、今、感情は恐慌と混乱の兆候から、操作できるレベルに落ち着いた。

 今のティアマットの人々の姿を象徴するような母子を前に、シャルは吐息をゆっくりと漏らした。

「捨てられないか。母親とはそういうものなのかな」

 会話せず、自分の内面の思索に耽溺するようにシャルは独り言を呟いた。


 シャルの声に反応して、母親の口元が歪む。と、笑い出した。泣きそうな顔で笑っている。

 ホールに響き渡る虚ろでヒステリックな哄笑を背に、シャルは前へと足を進めた。

 母親の首には、ネックレスが揺れている。どこかの宗教の聖印だったとシャルは記憶していた。自力ではどうにでもならない時、人は神に祈らざるを得ないのだろうか。


 むしろ、狂気こそが慈悲なのかも知れない。

 この世界は笑えるほどにくそったれだ。私たちは、その肥溜めを這いまわる蛆虫なのだろうか。

 だけど、諦めたくはない。諦めたくないのだと、歩きながら、シャルは自身の二の腕を強く掴んだ。

 わたしたちは、この世界の底辺を這いずり回る価値のない虫けらだ。

 歯を食い縛り、シャルは苦い事実を噛み締める。

 ねえ、虫けらで終わりたくない。もしかしたら、虫けらで終わるかもしれない。

 だけど、試したい。己の持って生まれた人間の限りを尽くして、未来をつかみ取りたいのだ。


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