冬の訪れ
リハビリ中
元々、地球に比して全般的に寒冷な気候の惑星ティアマットだが、北半球に位置するノエル大陸においては、いよいよ寒さの厳しい時期に差し掛かろうとしていた。
薄い塵の層は、大気圏を取り巻くようにして天空を覆いつくしている。それでも太陽は、大地への熱と光の恵みを絶やすことはない。
地べたに芽吹いた雑草も潮風に揺れていた。この世界でも、人は辛うじて生き延びている。
朝の鍛錬を終えたシャルと仲間たちは、その足でギルド支部を訪れた。
両開きの扉を開けてギルドの建物に足を踏み入れると、普段、業務が行われている窓口からは完全に人気が失せていた。
半壊した天井や大きな亀裂の走った壁から、冷たい隙間風が潮の匂いと共に吹き荒んでくる。
「おう、無人だよ?遂にギルドも夜逃げしたかね」
誰もいない。いつもと異なる会館の様子に戸惑いつつも、レーゼが軽口を叩いた。傍らのサラが奥の張り紙に気づいて、子供のように軽い足音でととっと駆け寄った。
「……ん、御用の方は、中央の第3フロアまで。それと、入ったら扉はすぐに閉めるべきこと。
追記、毛皮はギルドの備品です。盗んだら死刑。脅しじゃないぞ。すでに3人射殺?」
がらんとした待合室の壁に、業務を奥の大ホールに移転して継続していることを告知する張り紙が張られていた。
「毛皮?なんのこっちゃ」
読み上げたサラが戸惑って仲間に振り返ったが、シャルロットにも分かる筈がない。
やはり困惑して首を捻るだけであった。
いずれにしても、寒風吹きすさぶ中、冷え切った部屋での仕事は職員にも辛いものが在るに違いない。
此処で待ちぼうけしていても、シャルたちも体が冷えるだけである。
顔を見合わせた三人娘。壁や天井が半壊した正面入り口の待合室から、少し奥へと進んでみれば、建物中央へと続く通路の入り口に扉代わりなのか。冷気を遮断する為の布切れや毛皮が何重にも垂らされて、風に揺れていた。
「おー、これか。毛皮」
一体、何処に感心する部分があったのかは不明であるが、見上げたサラが、ふむふむと感慨深げに頷いている。
半導体素子の電灯が照らす近代的な建物で、まるで古代世界のように布の扉が使用されている奇妙な組み合わせは、しかし、文明の遺産と天然資源の両方を巧みに活用して生き延びているシャルたちティアマット人には馴染みの光景でもあった。
毛皮は盗まれないように巨大な釘でしっかりとコンクリートの天井に縫い止められており、ギルドの文字が大きく印刷されている。
毛皮はどれもこれも見るからに擦り切れた襤褸布の如き代物であって、こんなものを命がけで盗もうとする奴がいるのかと疑問を抱くシャルであったが、しかし、此処は惑星ティアマットである。
裸一貫、無一文の放浪者も珍しくないが、さらに言うなら民度も全然、期待できない。目の前で盗めそうなら、特に欲しくなくても、取り合えず盗んでみようとする奴が出てきても不思議ではない。
汚い毛皮の為に命を懸けるのだ。一部の町育ちには意味が分からない生き様であったが、曠野育ちだと、そもそも所有権という概念そのものが希薄であったりする。
それ以前に文字を読めるかもかなり疑わしいのだが、とりあえず警告文を張っておけば、幾らかは盗みの被害も減る筈であった。
色々と世も末な感じ漂う惑星ティアマットで、兎も角も天井からぶら下がる毛皮をかき分けて会館の廊下を進む三人娘。と、親切なことに入ってすぐの壁に案内の矢印が大きく記されていた。
「毛皮はギルドの備品です。盗んだら死刑。現在、4……の上に×がつけられて7人」
読み上げたサラが、無表情で毛皮に触れた。随分と古いのだろう。指先で感じる肌触りもざらざらしている。あまりいい毛皮ではない。
建物の中にも拘らず、三人の吐く息は微かに白かった。無機質なコンクリートと古びた毛皮だけの灰色の空間。壁や天井が半壊している玄関ホールと廊下を通り抜けるとようやくに幅広い廊下へと出た。
外気と遮断されたからか。そこはかとなく暖かな空気が流れているように感じられる。
人を飲み込むほどの大きな亀裂が床に走った廊下の突き当り。
観音開きの大扉の隙間から、微かに橙色の明かりが漏れている。
無言のまま、手を当てて扉を押す、と向こう側からムワッとした暖気が吹き出してきた。
廊下の冷たい空気と混じりあって、絶妙に心地よく感じられる対流がシャルの周囲に生まれる。が、いつまでも浸っている暇はなさそうで、部屋の中から罵声が飛んできた。
「はやく閉めろ、馬鹿!あったかい空気が全部逃げちまう!」
苦笑を浮かべたシャルは、つま先から素早く部屋へと滑り込み、次いで入り込んだレーゼとサラが扉を閉める。
三人が踏み込んだのは、円形をした広大なホール。
薄明の空間に視線を走らせれば、四方には幾つもの人影が蠢いていた。
闖入者に対して向けられた仮借ない数多の眼が異様に白く闇に浮き上がる。
「……ふっ」
以前に比べれば、多少は豪胆になってきたシャルであったが、おびただしい視線の圧を受けて、一瞬だけ身を強張らせた。
が、集中してきた視線もすぐに外され。同時に、目前の人の群れの正体にもなんとなく思い当たる。
「大丈夫だよ、二人とも。多分、これ【冬ごもり】だ」
「あ、冬ごもりか。もうそんな時期なんだな」
「おらが村とは雰囲気違いすぎ」
リーダーであるシャルの言葉に、安堵の吐息を漏らしつつレーゼとサラが呟き、素早くあたりを見回した。
寒さの厳しい時期、乏しい燃料を節約する為、人々が公共施設の一か所に集まることは、何処の共同体であっても割とよく聞く話だった。
【町】では、ギルドがその役割を果たしているのだろうか。或いは、大きな共同体では複数の避難所があるのか。兎に角、無料。或いは比較的、安価な値段で一冬の間、暖かく頑丈な構造物で過ごせるのは悪い話ではないだろう。
一見するだけでは、場の雰囲気も荒廃しているように感じられる。集まっている人々とて、いずれも見すぼらしい格好であり、栄養状態も良くないと見えて、痩せぎすで目ばかりが大きく感じられる。
屯する人々から漂うどこか余裕のない切羽詰まった雰囲気は、シャルを警戒させ、僅かに警戒感を引き起こした。が、正体が分かれば脅えるほどの状況でもない。
「此処は公共施設。ハンターギルド会館の一角だし……」
やや迷いながらも、シャルは口の中で呟いた。
恐らくは、冬ごもり用として、比較的に貧しい人々に貸し出された区画なのだろう、と推測を口にする。
闇に目が慣れてみれば、老若男女。舟をこいで転寝する老人に恋人らしく囁き合う年若い男女。玩具の車を片手に遊ぶ幼い子供なども見かけられて、微笑ましさを覚えた。
くすりと笑ったシャルの眼前。三々五々と小集団を形成し、広間のあちらこちらに点在して思い思いに過ごす姿からは、最初に部屋に踏み込んだ瞬間、此方の身を竦ませた狷介な警戒の眼差しが想像できないほどに和やかな家族の情景が見て取れた。
(……ここは安全だ。何故なら、この人たちは穏やかな顔つきを見せている。
大人も子供も疲れ切った目を見せている。争いに倦んだ瞳。やっと手に入れた平穏を、たとえそれが束の間であっても壊されたくないと思い、楽しんでいる。
ならばきっと、追い出されるのを恐れてもいるに違いないし、揉め事は起こすまい。
今だけは、争いを忘れたいと思ってるならば、向こうから襲われることはまずない筈。
多分、きっと大丈夫。多分だけど)
かつて自身も、咎なくして故郷を奪われ、放浪を強いられた人間であるがゆえに、シャルは、この場所は安全だと踏んで、警戒心の段階を落として行動することにした。
ティアマットでは、日常に死が潜んでいる。が、警戒心だけを最高に高めて行動すると、他の領域の観察や思考が幾らかおろそかになる。人によって個人差はあれ、精神的なエネルギーや思考力もまた有限なのだ。
……読み誤っていませんように
やや迷いながらもホールへと足を踏み入れるシャルロット。やや遅れて、表情を強張らせながらレーゼとサラもその後に続いた。
【町】は、ティアマットでは比較的に治安のよろしい土地であったから――この場合の良好とは、あくまで無法者が大手を振るって闊歩したり、公共の場で好き勝手できない程度の状態を示している――絡んで騒ぎを起こせば、会館から追い出されることもあり得るだろう。
少なくとも、よその土地でも、ギルド会館のように公共性のある建物は比較的に安全だった。
ともすれば、侮られがちな若い娘ではあるが、一応は三人組。
女とは言え、纏まって武装している。揉め事の心配はしないで済みそうだ。恐らく。多分。
確信はシャルにはない。状況がいきなり激変することもある。
時に理不尽に、時に唐突に。自然の災禍も起こりうるし、人工の悪意が襲ってくることもある。
ティアマットでは、強者の都合と気まぐれで弱者は簡単に踏み潰される。そして誰もそれを咎めはしない。
ホールはかつて、大きな企業の会議室か、或いは地方の議会場かなにかだったのかもしれない。
(或いは音楽堂かな。壁の装飾が少し素敵っぽい)
子供の時分、映像媒体で憧れた崩壊以前の世界の美を思い起こし、シャルは一瞬、感慨に耽った。
高い天井。クラシックコンサートも開けそうな広大な空間。往時にはさぞ優美だっただろう柱と壁に残されたロココ風の浮き彫りが、今は物悲しく朽ち果てるのを待っていた。
かつては純白だったのだろうか。
流線型の金字で何やら詩文らしき文章が記された壁の前に、今は末裔である人々が見すぼらしい襤褸に身を包んで身を寄せ合い、犇めきあっている。
唐突に強い悲哀がシャルの胸を締め付けた。
何故かな。戸惑いつつも、シャルロットは立ち止まり、おのれの胸の内から不意に湧き出してきた感情の奔流に必死に耐えた。涙で霞んだ目の前の情景を静かに見つめ直すと、灰色に薄汚れた部屋の壁に、天秤と剣を持った女神像の象眼が施されているのに気付いた。
その背後には在りし日の世界だろうか。満天の星空を背景に、美しい自然の背景が描かれている。
それはシャルロットの生きる世界からは、恐らく永劫に失われてしまった光景なのだろう。
(世界はあんなにも美しかったのに……失われて、もう二度と取り戻せないんだ)
合わせた両掌の先端の指を僅かに絡ませ、桃色の唇で軽く噛んだ。感情が昂った時の、それがシャルの癖だった。
すでに旧世界の殆どが失われてしまった世界に生まれ落ちながらも、美しいものに惹かれる性分があるのだろうか。風化した装飾の残滓がひたすらに物悲しく無念だった。
かつて天の星にも届いたと言われる高度文明の末裔でありながら、零落し、地を這うようにして生き延びているティアマット人たちの姿も、それはそれで命の輝きとして尊いのかも知れないが。
なぜ、どうして失われたのだろう。何があったのだろう。破局は避けられなかったのか。
それはきっと廃棄世界に生まれた者が、一度は祖先に対して抱く疑問に違いなかった。
問いかけるような子孫の視線の先、雅さを何処かに残した小さなモニュメントは黙して語らなかった。
ホールの東西南北からは、各々に扉が設置されて廊下へと続いていた。
他の棟と連絡できる構造となっているようだが、幾つかの経路は机を積み上げたバリケードや打ち付けた板で遮断され、封鎖されている。
シャルの耳に、微かに呻き声が響いたような気がした。或いは、通路の果ては、動く死者や有象無象の怪物が彷徨う地下世界の闇へと続いているのだろうか。
薄闇に包まれたホールの中央では、木材や燃料が高々と積み上げられ、大きな炎が仄暗い周囲を照らして赤々と燃えていた。
天井の片隅に走った細い亀裂からは僅かに灰色の冬の空がのぞいていた。隙間風が風よけ用に間近に張られた黄ばんだカーテンを揺らしており、換気にも問題はないように見えた。
陰に沈んで黙々と歩いているシャルの背後、サラとレーゼは辺りに視線を走らせていた。
「……意外、なんか快適な感」
ポツリとサラが呟きを漏らした。外よりも随分と暖かい。ホールの間取りは広く作られており、息苦しさや圧迫感も感じない。
背後にいたレーゼが、肩を竦めつつ、ブーツの先で床に転がる変異鼠と思しき小さな骨を蹴飛ばした。
「やや不衛生だけどね。割れ窓の下のナズグルの簡易寝台よりは、たしかに快適かな。
ただ、向こうの方が清潔だよ。それに何より安全だ」
「……ん?安全?ギルド会館?」
時折、サラには端的な単語で疑問を発する癖がある。
ギルド会館なら、少なくとも外からの攻撃には難攻不落なはずだ。と言いたいのだろう。
見当をつけたレーゼは己の下腹の辺りに、両手で抱え込むような仕草をしながら、へらっと笑った。
「別の危険さ。雑魚寝だろう?女の子が泊まるには、ちょっと不安を覚える場所だよ」
「あー」
理解したらしい。瞳を軽く細めて、こくんと肯いている。
何しろ娯楽の少ない世界だ。美食の機会にも恵まれない。興味は、自然と性に絞られることが多い。
人の数が、ひいては生まれてくる赤子の数が少ない世界だからだろうか。性病が蔓延するリスクを入れても兎に角、子供を産むことが歓迎されているのか、土地によっては、表立っての乱交さえ忌避されない慣習を持つ居留地もある。
例年よりも早く冬が訪れたが為、偶々、通りがかっただけの辺境の村で冬ごもりする事になった旅人の娘さんが、冬ごもり終わったら、若い身空で父親の分からない子供を身籠っていたなどという話も決して珍しくない。
場には甘ったるい香りが漂っていた。ホールから嗅ぎ取れる空気に入り混じった香りは、ケミカル系の興奮剤を決め込んだ体臭の残滓によく似ていた。苦しみやミュータントへの恐怖、空腹を忘れる為によく使われるそれを、今は媚薬代わりに使用している者がいるのだろうか。
かくいうレーゼも父の名も顔も知らない。母は、望まない子を孕んだにもかかわらず、堕ろさずに命と引き換えにお前を生み出したと、レーゼを育てた婆様には執拗に囁かれて育ってきたのだ。
真実は、分からない。法秩序の崩壊した時代、子供が出来るまでの過程も合意したとも限らないのだが、もしかしたら愛し合った結果かもしれない。或いは、母親が雰囲気に呑まれて淫らな快楽に身を委ねてしまったとも限らない。レーゼは、母親のことを伝聞でしか知らない。写真さえ残ってないのだ。
兎にも角にも、レーゼ自身は、己が生まれた事情が如何なものであろうと、貞節を適度に保ちつつ何時かは愛する人間と結ばれたいものだなと漠然と思っていたりする。
長身でややボーイッシュな外見とは裏腹に、夢見る乙女の部分が多分に残っているのだ。
貞操観念を保っている乙女な同志も、世の中にそう少なくない筈だと思いたいレーゼだが、裏切者が出やすい教義の上、そもそも貞操観念がいいものだというのもレーゼ個人の価値観に過ぎない。自身の考えが普遍の真理と固く思い込んでる訳ではないが、それでも最近知り合ったちっちゃな友人が望まぬ行為の結果、お腹が大きくなるような不始末に襲われるのを避けたいと思う程度には情も移っていた。
不衛生で薬も栄養も不足しがちな崩壊世界である。兎に角、妊婦の死亡率は赤子と共に馬鹿にならない高さであった。
治安の悪さもあって、人はよく死ぬ。辛い別れの繰り返しに心が擦り切れそうな時もある。
尚更ではないが、レーゼは性行為を恐れていたし、愛のない強制された行為には怒りを覚えもする。何処にでも転がっている望まない子を孕んで死ぬ娘の姿がしょっちゅう心の傷をチクチクと刺激してくれる。
別にサラが隙だらけ、という訳ではない。むしろ、非力で小柄な分だけ、常に油断せずに振舞っている。が、見た目の問題だ。
三人の中で狙われるとすればサラだ。悪くない容貌の持ち主で小柄。仮にレーゼが反社会的、凶暴かつ短慮な男性だとして、気軽な性欲のはけ口にするとしたら、三人の中では狙うのは間違いなくサラだ。
愛し合った結果は別として、友人がそんな目に合うのは出来れば避けたい。しかし、望まない行為の結果でも、生まれてくる子に罪はない。これは、自分の生い立ちからの引け目かな。想像が飛躍しすぎかも知れないが、望まれない妊娠は、実際にこの惑星では身近によく聞く話なのだ。母親によっては、自らの産んだ子供を己の手で処理することもある。つらつら考えつつ、体温を保つためか、毛布に包まってもぞもぞしている男女の脇を通り抜ける。はみ出した尻と体液に塗れた丸見えな結合部に、なぜか激しい笑いの衝動が襲ってきたレーゼは、けらけらと軽く笑いながらサラの肩を軽くたたいてみた。
「こうしたところで知り合って、結ばれる縁もあるんだろうけどね。
番って、子を産んで……でも、少なくとも、今はまだ望んでないだろ?」
己の肩より少し下のサラの黒髪を、年下の妹にやるようにクシャクシャと撫でながら、いやらしくニヤッと笑って言葉をつづけた。
「それに、この体躯じゃ、子供が子供を産むようなものさ」
「同い年!同い年!来年は大きくなる!レーゼもすぐに追い越すから」
抗議するサラにレーゼが冷たく言い放った。
「君、十七だろ?無理だね。もう伸びない」
「死ね、邪悪なトロール族め」
怒り狂ったサラが、ビシビシとレーゼの脹脛にローキックを叩きこむ。
「あはは、痛くも痒くもない。汝、ホビットよ、なんとも非力な種族なり」




