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廃棄世界物語  作者: 猫弾正
☆ティアマット1年目 その4 ギーネ ティアマットの地で戦うですぞ 後編
36/117

10 ぼーいみーつがーるなのだ

 柔らかな濡れた布地の感触が撫でるようにして頬に優しく触れていた。

 冷たい水を含んだ布が体の汚れを丹念に拭き取っているのだと気づいて、心地よさにカインは微かに身じろぎした。

 気絶からは目覚めつつあった。が、体は重たく感じられた。

 いま少しだけ此の感触を味わっていたい。

 狸寝入りを決め込んでいる少年の耳元で、か細い声が心配げに囁いていた。

「……酷い怪我」

 声と共に頬を撫でられる。心配させるのは良くない。

 ため息を洩らして、カインは薄く眼を見開いた。

 

 見覚えのある部屋だった。

「……眼が醒めた?」

 寝台の傍らで、椅子に腰掛けた幼馴染のエルミナがカインに微笑みかけている。

 ほっとしたようにやわらかい笑みを浮かべながら、小さなカプセルと水を取り出した。

「抗生物質……飲んで」

 雑菌や毒素による感染症を防ぐそのカプセルは、安価に流通している割に効き目が高いことから、ハンターからも人気の高い製品だった。

 口に含まされた青と白のカプセルをおとなしく飲み込むと、カインは口を開いた。

「……俺は、どれくらい」

 上半身を起こしながらの質問の意図を察してか、エルミナが肯いた。

「三十分か、そこら」

 返答を聞いたカインは、舌打ちして身動きしたが、瞬間、腕に走り抜けた鋭い痛みに小さく息を飲んだ。

 ミュータントの乱杭歯に食い千切られた傷口が、腕全体にびりびりとした痛みと熱を与えていた。

 額に大粒の脂汗が浮き出たが、カインは歯を食い縛って立ち上がろうとする。

 奇妙なだるさが全身を覆っている。脱力感に耐えながら立ち上がると、地面の揺れにも似た強い眩暈が襲ってきた。

「無理しちゃ駄目だよ」

 エルミナが寄ってきた。体を売って口を糊する辛い暮らしも、いまだ若い少女の表情に翳りを帯びさせてはいない。

 見慣れてた馴染みの顔とは言え、綺麗な笑顔を向けられて悪い気はしない。

 ぶっきらぼうに肯きつつ、カインは上着を羽織った。

「……帰るの?」

「おう」

「泊まって行ってもいいよ。リサには私から伝えておく」

 エルミナの提案を、カインは首を振って断った。

「……いや。帰らないと。あいつら、心配しているだろうし。」

「……そっか」

 寝台から抜けでたカインだが、歩き出そうと踏み出した途端に膝からよろめいた。

 駆け寄ったエルミナが、慌てて肩から支える。

「まだ、無理よ」

 苦い表情でカインが呟いた。

「悪いけど、肩貸してくれよ。階段のところまででいいからさ」

 階段を降り終わっても、エルミナは体を離さなかった。

「ほら、無理しないの。」

 強引に腕を絡めると、カインも拒みはしなかった。

 幼馴染に付き添われたまま、家路をゆっくりと歩いている。

 

「……別に大したことない。ちょい派手に血が出てるけど、かすり傷さ」

「馬鹿。強がって……全然、大丈夫には見えないよ」

 腕に巻いた包帯からは、今も血が滲んでいる。

 悪い、と一言だけ礼を言って少年ハンターは俯いた。

 やがて街路を辿っていく最中、何が在ったのか。

 地下水路での狩りの一部始終を、カインはポツポツと語りだした。

 

「ミュータントに襲われてさ……人に助けられた。

 途中ですれ違っただけのハンターが、俺の悲鳴を聞いて戻ってきてくれたんだ」

「世の中も捨てたもんじゃないよね」

 ホッとしたエルミナとは異なる見解をハンターの少年は抱いていたようだった。

「……情けねえ。チームにゃ俺より年下の奴も混じってた。

 地下水路にはあんな子供だって潜っているってのに……俺は」

 悔しげに歯軋りしているカインの言葉を娼婦の少女は黙って聞いている。

 それで気が済むのなら、好きなだけ聞き役に徹してやろう。

 

 半ばから噛み砕かれて高価な金属製のブレードを失った手槍は、ただの棒切れでしかない。

 後生大事に握り締めていた装備が価値を失っていることにやっと気づいて、渋い顔でカインは路頭にそれを放り捨てた。

 小柄な、それこそ子供程度の背丈のミュータント一匹相手に死にかけた。

 散々、振り回された挙句、なす術もなく追い詰められた。

 恐怖の絶叫を聞きつけて、すれ違ったばかりのハンターたちが引き返してこなかったら、水面に引きずり込まれていた。

 生々しい恐怖が細胞に刻み込まれてしまったのか、思い返すたびに体が小刻みに震えてしまう。

 

 地下水路に、ごく少数だがミュータントが住み着いているとは、カインも耳にしていた。

 耳にした上で、勝てないまでも逃げる程度なら難しくないと踏んでいた。

 かつて目にした事のある鼠型のミュータントは素早いが非力であったし、ザリガニのような装甲を纏った甲殻類ミュータントは動きが鈍くて走って逃げれば充分に振り切れた。

 歪んだ進化をした生き物は、どこかに弱点や欠点を抱えているものだと、カインは根拠もなく思い込んでいたのだろう。

 

 思い違いを正される前に命を落とすところだった。

 今回、遭遇したミュータント。剥き出しの筋肉のように赤い肌をしたあの小さな怪物は、そんなカインの固定観念を木っ端微塵に粉砕してくれた。

 今まで見聞きしてきたミュータントとは、まるで異質の存在感と能力。

 素早い動きに加えて異様な怪力を兼ね備えた怪物を前に、カインは正しく死地にまで追い詰められた。

 とは言え、逆に言えば、カインが辛うじて抗える程度でもあるのだ。

 あのミュータントですら、手練のハンターから見れば大した敵ではないのだろう。

 助けが来るまで、子供一人で抗って生き残れる程度の怪物なんて、きっと掃いて捨てるほど世の中には溢れている。

 銃器で武装したチームが、遭遇しただけで全滅を覚悟せざるを得ない怪物も世の中には存在しているのだから。

 

 重い足取りを引きずって街路を進んでいたカインがよろめいた。

 支えきれずにエルミナも壁に寄りかかると、少年の腕に巻かれた朱に染まった包帯の下から、滲んだ血の雫が地面へ疎らに散った。

 恐怖に心挫かれそうなのか。カインは目を見開きながら、荒い息をついている。

 死の気配を間近に感じたこと。そして、日常から壁一枚を隔てたすぐ隣に恐怖が潜んでいることに気づいてしまい、怯えているように見えた。

 幼馴染の心情を忖度しているエルミナ自身、数年前のミュータントの侵攻の後、暫く似たように恐怖に苛まされた覚えがあった。

 

 重く沈んでいたカインの表情が再び引き攣ったのは、家の前に辿り着いてからであった。

 玄関が見えてきた辺りで頬を痙攣させると、少年ハンターは足を止めた。

 新鮮な死体が転がっている。しかも、三つ。初老の大男と若い男、そして老婆。

「……なんだ、これ?」

 記憶が確かなら、今朝、出かけた時にはこんなものは家の前にはなかった筈である。

 幾らスラムといっても限度があるだろう。

 知った顔じゃないけど

 口を半開きにして、家の前に放置された新鮮な死体を眺めていたカインだが、首を振って玄関を潜った。

 

「……ちょっといいか。家の前に死体が三つも転がっていたんだけどよ」

 言いながら帰宅したカインは、思わず息を飲んだ。

 振り向いたリサの白い表情の右半分が、無残な青紫に腫れ上がっていた。

 明白な打撲の痕跡に、剣呑な低い声音で訊ねかける。

「……どうしたんだ。その顔」

 リサはリサで、一見して深手と分かる傷を負っている同居人を見て、動揺を隠しきれない。

「私は……大丈夫。それより腕の怪我は……」

 同居人のカインと幼友達のエルミナが連れ立って帰ってくるのは、子供の頃は兎も角、近頃では希だった。

 エルミナが娼婦になって以降、数えるほどしかなかった筈だ。

 

「おう、やっと帰ってきたか」

 と、奥の部屋から、エプロンを掛けたギイ爺さんが姿を見せた。

 何故か両手に湯気の立ったスープの鍋を持っている。

「……それになんで爺さんがいて、料理しているんだ?」

「まあ、喰え」

 爺さんが卓の上に置いたスープは、かなり美味そうに見えた。

 爺さんの背後では、メルが駆け回ってブリキの皿を並べている。

「……俺んちだぞ」

 憮然としているカインに、大分痛みの引いたリサが取り成した。

「……カイン。強盗が来て、私たちはギイさんに助けてもらったわ」

「私たち?」

 リサはこくんと肯いた。

「わたしとメル。そして、もしかしたら貴方も」

 

 言うか言うまいか、指を噛んで迷う姿勢を見せてからリサは顔を上げた。

「……ギイさんが言うには、私たちは引っ越すべきだって」

 眉を顰めたカインだが、とりあえず話は聞くらしい。

 エルミナに手伝ってもらい、楽な姿勢で手近な椅子に座った。

「引っ越せ?何処に?」

「何処でもいい。直ぐにねぐらを移るべきだな」

 ぶっきらぼうなギイ爺さんに、カインは訝しげな視線を向けた。

「兎に角、スラムから出ろ。此の侭だと、不味い事になる」

 エルミナを含めた子供たちの視線が集中していたが、爺さんは遠慮せずに言いたい事を言っている。

「おっと、何で、とか、どうして、とか質問をぶつけてくるなよ。

 スラムにいい家で餓鬼だけが暮らしている。その意味が分からん歳じゃないだろう」

 

 ティアマットの社会……特に貧困層の多く住まう区画においては、人々は弱肉強食の掟に支配されている。

 生き馬の目を抜くような過酷な生存競争が繰り広げられている土地で、寄る辺の無い子供たちが食い物にされる光景を、ギイ爺さんも幾度となく目にしてきている。

 ギイ爺さんが子供の頃に当時の老人たちから伝え聞いた話に拠れば、昔は違ったとのことだ。

 東海岸にも、人を助けるお人好しがもっと大勢居て、人々は再建への理想に燃えていたそうだ。

 もっとも、老人たちが懐かしそうに語っていたその話も、ギイ爺さんからすれば何処まで本当かは分かったものではない。

 大崩壊の頃を生きた人々が老いた頃、その最後の当事者らから崩壊前の話を伝え聞いた世代から、さらに又聞きした伝聞の伝聞に過ぎなかったのだから。

 俺は、さらにその伝聞……と。

 そして恐らく、大崩壊前について曲がりなりにも伝え聞いた最後の世代だろう。

 胸の奥に埋まっていた小さな感慨の欠片が、ギイ爺さんに子供たちを助けるという気まぐれを起こさせたのかも知れない。

 

 壁の内側の治安は比較的に良好である。とは言え、弱者と見れば問答無用に食い物にしようとする悪人や外道は、ティアマットの彼方此方に蔓延っている。

 法秩序の崩壊した世界で、年端もいかない子供が悪意から身を守るには、有力な市民の庇護か、脅かされないだけの知恵と力が必要だった。

 今まではマゴーネの銃が安全を保障していたが、しかし、もはや防護の傘は失われている。

 

「ふざけるな……ここは俺たちの家だ。追い出そうたってそうはいかない」

 静かに激昂したカインは、血走った眼で睨みながらギイ爺さんに噛み付いた。

「やれやれ。思っていたよりも馬鹿な餓鬼だな」

 座り込んだ爺さんはうんざりしたようにぼやきつつ、スープを碗によそってテーブルに並べている。

「餓鬼だけでスラムで暮らす?夢見るのも大概にしろ。

 僕たち、私たちを食い物にしてくださいって言って廻ってるようなもんだ」

 爺さんに鋭い目で睨まれたカインは、顔を歪ませつつ睨み返している。

「すぐに貪欲な豚共が嗅ぎ付けて、骨までしゃぶられるぞ。

 お前の大事な姉ちゃんも、妹も、変態共にさぞ可愛がってもらえるだろうよ」

 表情を歪めた爺さんが、まるで楽しんでいるようにその時のカインには見えた。

 吐き捨てるように言った爺さんの言葉に、震えたメルが涙を零した。

「う、うあああ」

 

 メルの涙を見たカインは、腹の底から猛烈な怒りに襲われた。

「この糞爺が!子供を脅かすんじゃねえよ」

 逆上したカインが突然、飛び掛ってきたので、不意を突かれた爺さんは思わずよろけた。

「痛えな!馬鹿餓鬼が!」

 すぐさまに体勢を立て直した小柄な老人に凄い力であっさりと壁に突き飛ばされたカインは、苦痛に呻きながらも尚も叫んだ。

「やってみろ!糞じじい!」

「頭を冷やせ!誰が好き好んで脅かすか!

 それが現実だから早めに手を打っておけって言ってるんだ!」

「言い方を考えろよ!」

 ぎゃあぎゃあ叫びあっている二人の傍らで、エルミナは息を飲んでやり取りを見守っている。

 メルを抱きしめて慰めているリサは、口を挟まずに俯き加減で何かを考え込んでいる。

 

 あっさりと爺さんに押さえ込まれたカインが、荒い息を吐きながら表情を歪めて毒づいている。

「痛えな!離せよ!」

「いいか。身内が可愛いなら、常に先手を打って行動しろ!

 力のない奴が、大事なものを守れる唯一の手段だ」

「でていけ……出て行けよう。畜生……俺たちの家から出て行け……」

 顔を伏せた少年は、体を震わせて泣き出してしまう。

「けっ、馬鹿な坊主だ……勝手にしろ」

 毒気を抜かれたのか。口ほどにはカインを見限ってる訳でもないのか。

 地面にうつ伏せて震えている少年に哀れむような視線を投げかけながら、爺さんはため息を洩らした。

「……面倒見切れねえぜ」

 捨て台詞と共に立ち上がったギイ爺さんに、リサが歩み寄ってきた。

 床に落ちていた黒いベレー帽を拾い上げると、差し出してくる。

「色々とありがとう。それと……ご免なさい」

 何かを言いたげに爺さんを見つめていたが、何を言っていいのか。

 リサにも浮かばなかったようで、すぐに眼を逸らした。

「ああ、うむ」

 爺さんは口元にほろ苦い笑みを浮かべながら、ベレー帽をかぶり直した。

 悔し涙を零しているカインだが、本当に憤っている対象は爺さんではないだろう。

 幼い身内を抱えた少年ハンターのこれからの苦労に想いを馳せて、爺さんは少年の八つ当たりを水に流してやった。

 

「お前ら……これからが大変だぜ」

「カインも、きっと……ギイさんの言葉。今は無理でも」

 ぽつぽつと呟いているリサには、ギイの忠告が通じていたようだった。

「まあ、何か困ったことがあったら会いに来るといい。金以外なら、相談に乗るぜ」

 ベレー帽をかぶり直した爺さんに付き添いながら、リサが玄関に見送りに出た。

 

 荒い息をつきながら立ち上がったものの、カインはすぐに壁にもたれかかった。

 脱力したようにずるずると床にへたり込んだカインに、エルミナが歩み寄ってくる。

 ギイ爺さんとリサの背中を一瞥してから、娼婦の少女は淡々とした口調で言った。

「傷が開いたわ。手当てが無駄になった」

 カインは苦痛に呻きながら、エルミナを見上げた。

「……爺さんの言っていたこと。どう思う?」

 どこか力のないカインの眼差しを受けて、エルミナは首を振った。

「わたしには判断つかない」

「老いぼれハンター。耄碌しちまったのさ」

 呻きながらカインは毒づいている。

「……親切ごかしに近づいてきたあいつこそ、俺たちを食い物にしようとしているのかも知れないぜ」

「……本気で言ってる?」

 嗜めるような冷たい口調でエルミナに言われたカインが、冷水を浴びせられたかのように頬を痙攣させて口を閉じた。

「自分でも信じていないことを口にするべきではないと思うの」

 言いながらも、エルミナはどっと疲れたようなカインの相貌を見つめていた。

 ギイ爺さんを悪し様に罵っているのは、脅えているからかな。

 沸いてくる不安を抑えようとでも言うように、カインは唇を強く噛み締めている。

 

 エルミナは、口元にふっと笑みを浮かべた。

 カインが求めているのはきっと正論ではなく、共感だろう。

 心細げなカインの表情を見れば、心情を察するのは、エルミナではなくても可能であった。

 少女娼婦は、微笑みながらカインの頬を撫でてやった。

「でも、確かに酷い爺だよねえ。酷い爺だ。

 こんなよわっちい少年を叩きのめすなんて」

 下げたら、上げる。行動の理不尽を窘めたら、次は心情に寄り添って慰める。

 それが男の子を育てる為の基本だよね。

 エルミナは、くすくす笑いながら、途方に暮れている幼馴染の顔を黒い瞳で覗き込んだ。

 

「……だって、俺たちの家だろ。そんなの……酷すぎる。

 家を出て……どうしろって言うんだ」

「ほら、お姉さんが胸を貸してやるさ」

 抱きしめてやると、引き寄せた顔を胸に押し付けた。

 胸に顔を埋めたまま、カインが文句をぶつぶつといった。

「……年上ぶるなよ。一カ月かそこら早く生まれただけの癖して」

 呟きながら震えて動こうとしないカインの耳元で、エルミナはそっと囁いた。

「……私たちに行けるところなんて、ないよね」

 

 

 玄関先で何かを話し合っていたのか。リサが戻ってくるのは随分と遅かった。

 長い間、抱きしめているうち、カインは安心したのか。

 何時の間にか、眠りに落ちていた。

「同居人を慰めてやろうと戻ってきたら、女と抱き合っていたで御座る」

 戻ってきたリサが、部屋の入り口で足を止めていた。

 

 先刻まで心配になるほどのぴりぴりした雰囲気を醸し出していたカインの寝顔は、随分とすっきりした表情になっていた。

 叩きのめされたのと泣いたので、張り詰めていたものが解消されたのか。

 エルミナの胸の効果だけではないはずだ。多分。

「平和な顔しちゃって」

 近づきながらカインが寝ているのに気づいたリサは、呆れたように鼻を鳴らした。

「あーあ。甘やかす役、取られたか。やりたかったのに」

「やればいいじゃない」

「駄目、駄目。此れで私まで甘やかしたら、駄目男になっちゃう」

 少しだけ複雑そうな表情を浮かべたまま、カインを抱きしめているエルミナを見つめつつ、リサはこれからのことに想いを馳せていた。

 

 ティアマットでは、世界の其処此処にミュータントや野盗が跋扈している。

 襲撃などで親を失い、家無き子に転落する子供たちは世に絶えない。

 そしてティアマットは、一度転落したら浮き上がるのは不可能。とまでは言わないまでも、かなり難しい社会であった。

 

 保護者を失った子供がいきなり社会に放り出された場合、大抵はハンターの真似事をして暮らすか、奴隷も同然の下働きをして暮らすことになるが、下層の生活水準はかなり劣悪であるし、それ以上に危険といっていい。

 半数から三分の一が、成人になる前に命を落とすと言われている。

 一応はハンターとしての生き方を知ってるカインたちや、家を確保しているエルミナでさえ、彼ら、彼女らに比べれば随分と恵まれている方であった。

 その意味では、リサには家を出ても三人で暮らしていけるだけの目処は一応立っていた。

 

 まあ、今となったら、此の家は子供には分不相応か。

 よくない連中を呼び寄せちゃうね。

 で、何処に越すかな。

 安全で考えるなら防壁の内側がいいけど、無断で住み着いたのが保安官や自警団に見つかったら、財産を奪われて家を追い出される事もある。やはり、そんな危険は侵せない。

 ティアマットの行政機構そんなものがあるとすればだがは、基本的に公平でもなければ、慈悲深くもない。

 殊更に悪辣や冷酷という訳でもないが、何の伝手も財産もない弱者にとっては生き辛い世の中である。

 リサは、壁外でも安全な場所をリストアップしてみたが、無人のところよりも、やはり家賃を払ってでも人が管理している物件に住む方がいい。

 大家がどんな人間か分からないのが不安だけど。

 悪党だったら、子供と見て、家具や家賃だけ奪われて追い出されるかも知れない。

 時々、聞く話だけど此の町は治安もいいし、まず心配はないだろう。

 けど、ないとも言い切れない。

 ……そうだな。家族連れの多く住んでいるアパートを探そう。

 それと、要らない家具は売るしかない。

 箪笥やテーブルに視線を送ってから、未練を振り切るように首を振った。

 思い出は残ってるし、色々と惜しいけど、持っていけない。

 それにしても……

 

 エルミナの形のいい胸に顔を埋めたカインが、安らいだ表情をして寝息を立てているのに気づいたリサは、自身の大草原の小さな胸と見比べて顔を曇らせた。

「……やはり胸か?男は胸なのか?」



 

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