第13章 出会い
気づいた時は、自分自身がまるでサーカスの曲芸でもしているかのような気分だった。
――そう、逆さまを向いていたのだ。
視界に入る空が、地面のように近い。
雨粒が、ガラスの割れ目から斜めに落ちてくる。
重力の向きがどこかおかしくて、胃の中身まで逆流しそうになる。
「……どういう状況だ……」
まだ朦朧とする意識の中で記憶を辿る。
そしてすぐに、“やばい”と思い出した。
感染者が二体、襲いかかってきた。
それを振り払い、軽トラで逃げた。
――そして車が横転した。
断片的だが、妙に鮮明な映像が頭にこびりついている。
早く逃げないと……。
起き上がろうとして、ようやく気づく。
……体が、動かない。
いや、正確には動く。局部は動く。指も足先も感覚はある。
ただ、全体として動きたくない。
動かした瞬間、全身に大激痛が走る未来が、手に取るように分かる。
「動いたら終わる」
本能がそう言っている。
痛みの予告が、脳を縛っている。
だが、起き上がらなくてはならない。
まだ感染者がいる可能性がある。
俺は二体を車の下敷きにした記憶がある。
横転の瞬間、鈍い音がして、荷台側で“何か”が潰れた感触も残っている。
それでも――あの二体だけとは限らない。
一体いれば複数いる。
それがこの世界の常識だった。
早く逃げないと。
この大雨の中なら、今はまだ気づかれていないかもしれない。
覚悟を決めた。
息を吸う。
そして一気に起き上がる。俺は腹に力を入れて体を捻った。
……来る。
痛みが、遅れて爆発した。
「――っ!!」
声にならない呻き。
背中から腰にかけて、鉄棒で叩かれたような痛みが走り、視界が白くなる。
歯を食いしばる。
気を抜けば意識が飛ぶ。
それでも、止まれない。
俺は横転した車内で、まるで狭い穴から抜け出す虫みたいに、ゆっくり這い出した。
ドアは歪んでいたが、隙間がある。
雨が容赦なく顔に当たる。冷たい。
地面に手をつく。
ぬかるみ。
泥。
立ち上がろうとして、また痛みが来る。
膝が震える。
だが、無理をすれば動けないことはない。
……骨まではいってない。たぶん。
この「たぶん」が、今の俺のすべてだった。
医者もいない。レントゲンもない。
痛みの種類だけで判断するしかない。
雨はまだ、かなり大粒で降っている。
大雨は世界を洗い流す。
匂いも、足跡も、音も、全部。
まずは奴らはいないか……周囲を確認しようとした、その時だった。
雨音に紛れて、別の音が混じった。
足音。
ザッ……ザッ……と泥を踏む音。
近い。
心臓が跳ねる。
咄嗟に身構えるが、すぐに理解する。
感染者なら終わりだ。
今から走って逃げる余力はない。
戦える武器もない。
バットは村に置いてきた。作業の邪魔になるからと、軽く考えた。
万事休すか――。
そう思った瞬間、
「おい、大丈夫か?」
雨音に混じって、人の声がした。
……人?
俺はゆっくりと声の方を振り向いた。
そこには鉄パイプを持った男が一人、立っていた。
背が高く、がっしりした体格。顔立ちも整っている。
フードを被り、雨で服が重く張り付いていた。
感染者ではない……。
感染者は確か、喋らない。
だが、こちらも喋らないと怪しまれる。
「ア……ンた……だ、レだ?」
八ヶ月ぶりに人へ向けて発した言葉は、ちゃんと発音にならず、
カタコトみたいに口から落ちた。
男はキョトンとして、俺の顔を見た。
「……外人か?」
俺は首を振った。
「日本人だ」
二回目は喉が開いたのか、自分でも驚くほど普通の声が出た。
まだ喋れる。
少しホッとした・・。
男は鉄パイプを向けたまま、一歩も近づかない。
「動くなよ……感染はしてないな?」
正しい反応だ。
この世界では、疑うことが生存率を上げる。
「していない」
俺は両手を上げ、体をぐるっと回す。
噛み傷がないことを示す。
腕も、首も、肩も――露出できる範囲は見せた。
男はしばらく俺を観察し、視線を足元に落とした。
横転した軽トラ。
そして、下敷きになった感染者。
「……やったのか、これ」
「……まあ、事故だ」
俺は短く答えた。
男は問いただすように言う。
「こんな山奥で、何してるんだ?」
俺は、状況までの一部始終をかいつまんで説明した。
村に拠点を作ろうとしていること。
足場板でバリケードを作り、車で土台にしようとしたこと。
そして、ここにはその車を探しに来たこと。
その瞬間に感染者が走り込んできたこと。
男は最後まで黙って聞き、最後にフッと息を吐いた。
「なるほどな……そういうことか。大変だったな」
鉄パイプの構えが、少し下がる。
「俺は佐藤。実はこの先の村の出身でな」
――え。
俺の拠点予定地の、住人?
一瞬、思考が引っかかる。
「故郷を勝手に荒らしてた奴」だと思われたら終わりだ。
追い返されるならまだいい。
最悪、争いになる。
佐藤は雨の中、淡々と言った。
「避難してたんだが……避難所が二ヶ月前に崩壊した」
その言葉が、冷たく刺さった。
「両親も、そこで死んだ。
……だから、どうせ死ぬなら故郷でと思ってさ」
佐藤は空を見上げた。
雨粒がフードを叩き、彼の声を少し掻き消す。
「結構遠い避難所だったし、ここまで二ヶ月かけて歩いてきた。
この辺りの村って、標高一三〇〇メートルくらいだろ。
道もかなり荒れてるし、今じゃ整備されていない道路だらけだ。
遠回りしながら……車もないし、乗ったら奴らに襲われるし、まあ、歩くしかなかった」
二ヶ月。徒歩で。
相当な体力がないと無理だ。
……いや、体力だけじゃない。
心が折れてたら続かない。
俺は単純に“すごいな”と思った。
だが同時に、俺も一年間歩いて放浪している。
「すごい」と言うのが変な気もして、黙ってしまう。
佐藤は続けた。
「それでさ。
この雨の中で……さっき、すげえ音がしたんだよ」
横転した軽トラを顎で示す。
「雷かと思ったけど違う。
金属が潰れる音だ。
嫌な音だった。
だから急いで来たら、この状況だ」
――なるほど。
だからここに現れたのか。
佐藤は俺を見て、少し笑った。
「あんたの話を聞くに、
俺の故郷の村を砦に変えて生き残る作戦なんだな」
怒られるのか。
「勝手に何してんだ」と言われるのか。
俺は身構えた。
だが佐藤は、肩をすくめた。
「面白いな、あんた」
……え?
「俺も手伝うぜ。
どうせ死ぬつもりだったし、今さら村が荒らされたってしょうがない。
こんな時代だしな」
雨音の中でも、言葉がはっきり聞こえた。
揺らぎがない。
「あんたを手伝って、もう少し生きてみても悪くない」
――勝手に、仲間が一人増えた。
俺は本来、仲間を増やしたくない。
信じない。
集団を作らない。
避難所の惨劇が、まだ瞳の奥に残っている。
でも、今の俺には選択肢が少ない。
佐藤はこの村の人間だ。
無碍に「出て行け」と追い返すのは難しい。
「出ていくのはお前だ」と争いになったら、この体格差では負ける。
何より俺は争いが苦手だ……。
そして、ここまで二ヶ月かけて歩いてきた相手に、そんなことは言えない。
何より――佐藤には、俺に足りない知恵がある。
佐藤は言った。
「俺、この村にいた頃は農業やってたんだ」
「まあ、農業と林業と土木くらいしかない村だからさ。
その中じゃ農業が一番楽しかっただけだけど」
ははは、と自虐気味に笑う。
だが農業のスキルは、本当に助かる。
食料が動き出せば、生きる確率は飛躍的に上がる。
水と畑を確保した拠点の意味が、やっと現実になる。
本来なら、自身の保守的な部分が邪魔をする。
仲間は増やしたくない。
だが――この世界では、何より生存確率だ。
一人でやるより、二人の方が効率がいい。
もちろん消費する物資の量も増えるが、彼のスキルはそれを補って余りあるだろう。
最悪、判断が間違っていて、佐藤が魔王みたいな奴だったとしても仕方がない。
その時は、この場所を捨てるだけだ。
今までだって、そうやって生き残ってきた。
佐藤が言う。
「あんた、名前は?」
俺は名前と年齢を伝えた。
「……え、年上なん……スカ」
妙な敬語が混じった。
「敬語はいらない」
俺が言うと、佐藤はまた笑う。
「了解っす……じゃなくて、了解」
なぜかこの会話で、彼に好感が持てた。
佐藤、いいやつ説。
佐藤は鉄パイプを肩に担ぎ直し、俺の体を見た。
「肩、貸そう。だいぶボロボロだしな。まずは村に行こう。
この雨もまだしばらく降るだろうし。
奴らに気づかれず歩くなら、今のうちだ」
俺は小さく頷いた。
雨は冷たい。
体は痛い。
世界は相変わらず地獄だ。
それでも――
この山の中で八ヶ月ぶりに聞いた人の声は、
思ったよりも、ちゃんと温度があった。
佐藤の肩を借りながら、
俺は村へ向かって歩き出した。




