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心優しき狼よ、曠野を行け  作者: 柿ノ木コジロー
第二章 ― 2 ―
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02 犬の散歩道

 ラブを散歩させながらカケルは、つらつらと思いを垂れ流して歩く。仕事がない、というのはいつもこんな感じなのだろう。犬を連れ歩いていて、ソイツをしっかりと制御しながら道を歩いているつもりなのに、気がつくとソイツに操られながら惰性で進んでいる。進んでいるというのはまだ前向きな言い方だ、ただ、動いている、というだけ。

 しかも、その犬の散歩ですら姉から『命じられた』作業だときている。


 俺の主体性は、いったいどこの世界にあるのだろう。


 カケルは思春期以降この三十過ぎになるまでの決して短くはない期間、幾度となくその問いを頭に浮かべて放り投げていた。

 そして今も、それが心の中、漆黒の宇宙を慣性の法則に従ってゆるゆると飛んでいく様をいつものようにぼんやりと呆けたように眺めている。

 それは普段、部屋で寝転んでいる時によくやっていたが、歩きながらでもできることだった。もちろん、犬を散歩させながらでも。


 急にリードがぴん、と反対方向に引っ張られて、カケルは草地でよろめいた。

 サンダルが脱げかかる。

「っんだよ」

 右手に二巻きくらいリードを縮め、犬を引っぱって戻そうとする。「こっち来い、ラブ」

 ラブは舌を長く出して、ちらりと上目に彼を見ながら丈の長い草の中から帰ってきた。

 申し訳程度にしっぽを振ってみたものの、すぐに反対側の空き地に何か動くものを認めたらしい、急に軽い跳躍をみせてその中に飛び込んでいった。

 刈り取られて倒れた枯れ草を叩きながら、ラブは腰が抜けたかのような低い伏せの状態のままあちこちに飛びまわり、何かを懸命に抑え込もうとしている。


 カケルが近づいてみると、黒い小さな蛙が数匹、犬の足もとに跳ね必死にどこか安全な場所へと逃げようとしているのが見えた。犬は口と前脚とを巧みに使ってリードの届く限りの範囲で、どたばたとそれらを捕まえようとしていた。


 犬は狩りが上手ではないのか、蛙の動きに目線をなかなか追いつかせることができないようで、すぐに追いかけている獲物に逃げられていた。少し離れたところでぴょんぴょん跳んでいるものはすぐに目に入らないらしく、一旦追いかけはじめた獲物に、つい夢中になって深追いしては見失う、ということを繰り返している。


「ばかだなあ、ラブ」カケルはまたぐいとリードを引いた。

「そっちじゃない、左にいるじゃん、大きいのが」


 犬は自分のすぐ左にいる大きな蛙には気づかず、たった今逃がした小物が跳んでいった先を恨めしげに眺めていた。そのチビでさえ、すでに犬の目をごまかしてしっぽの後ろへと向きを変え、草陰に潜んでしまっていた。


「オマエはほんと、鈍いよなあ」

 カケルがため息とともにそのことばを吐き出したとたん、ラブがいきなり前方に大きく跳ねた。油断していたのもあって、カケルは「うあああっ」と引っぱられて前につんのめる。踏み出した左足の先が緩い泥の中にずぶりと沈み込む。

「何すんだよ、このアホ犬」


 ラブはそんな罵倒には一向にお構いなしだった。そうだろう、かなり大きいヤツをどうにか掴まえることに成功していたから。目をキラキラさせて何度かあごを動かし、しっかとくわえ直している。蛙の白っぽい足先がぴくぴくと口の端から覗いていて、カケルは思わず顔をしかめた。

「おい……」ラブは蛙をしっかと咥えたまま数歩、先に進む。今では獲物を獲った方が主である、といった感じにあごを上げている。

「ラブ、それ離せよ」カケルが言うと、急にラブはそれを足もとに落とした。白い腹が上を向いた。と、次にラブはそのぐったりした蛙に口の端を近づけ、何度か自らの頬を当てた。それから、その遺体の上に横たわり、頬から肩口にかけて何度もなんども擦り付け始めた。目にはどことなく恍惚の光を浮かべている。

「うっわ」顔をしかめたまま、カケルはリードも引くのを忘れ、それを見守っていた。


 止めさせたほうがいいのかな? それともこれはインディアンの儀式みたいなもんで、やらせとくべきなのか? 


 匂いに反応しているのか、それとも本能なのか、カケルも少し集中すれば匂いは嗅ぎとれたかもしれないが、鼻をつかう気にはどうしてもなれなかった。


 ピアスしてなくてよかった、しみじみ思いながら、ようやく正気づいてリードを強く引く。「やめろ、ラブ、やめろよ」


 ちりりん、自転車のベルと軽い波のようなチェーンの音が近づいてきた。


「そう兄、何してんの」


 夏実が真っ赤な顔に汗をぽつぽつ浮かべて帰ってきた。聞いたら、プールからの帰りだという。髪がひとかたまりにもつれたまま濡れ固まっている。白と水色の半袖ワンピースは、すでに夏ですが何か? と開き直ったような明るさがあった。


 見りゃ解るじゃん、という前半部分の科白は呑み込んで「ラブの散歩」とだけ応えると

「あ、ラブ、また蛙獲ってるでしょ」まるで恵みたいな口調になった。

「蛙はね、寄生虫がいっぱいだから食べさせちゃだめなんだって!」

「食べさせてないよ」思わず気弱に言い訳している。

「ラブが勝手に獲ってるだけだし、食べないでその上を転げまわってるだけだし」

「うへええ」あんなにいつも可愛いかわいいと犬に頬ずりしている夏実なのに、それを聞いたらとたんに可愛い顔をしかめてみせた。

「きもい、きもい、キーモーイー」

「なっちゃん帰って来たんだったらあと散歩させてよ」さすがにむっとして、カケルがそうリードを持ち上げると

「今からアユナちゃんちに集まるんだ、またねー」

 片手を振って自転車に向き直ると、鮮やかにそこから去っていった。


 ぐい、とまたリードに圧を感じ、カケルは軽くよろめく。ラブはまた蛙を見つけたようだ。

「つき合ってらんねえ、もう帰るぞ」

 低く犬を脅して、その後はいくら引かれようと知らん顔してどんどんと家に向かって歩き出す。


 犬は最初のうちはフラフラしていたものの、そのうちに相手が本気だと悟ったらしく、急にしおらしく彼の脇について歩いていった。

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