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心優しき狼よ、曠野を行け  作者: 柿ノ木コジロー
第一章 ― 2 ―
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15 長い夜 5

 永遠の闇をようやく抜けて、車はすべるように病院の敷地に入っていった。サイレンが止み、車は普通のバンとなって、ゆっくりとバックで入り口につける。「はい到着しました」後ろのドアが開いて、隊員がカケルに声をかけた。

「入って右の、まず窓口に行ってからそこで待っていてください」

 ありがとうございます、カケルはバッグを抱え、邪魔にならないようにひっそりと、しかし素早く車から降りて救急窓口に向かう。


 病院はしんと静まり返っていたが、その近辺だけは数組の救急患者やその家族が、時も忘れてそれぞれの事情の中に浸っていた。


 受付の紙に住所などを書きながらカケルは、背中で父親のストレッチャーが救急処置室に運ばれていくのを聞いていた。


 すでに、自分の手から離れたのだ、彼は。


 茶色いビニル張りのベンチには、初老の夫婦が既に座っていたが、その右端に、彼は遠慮しつつも腰を下ろす。女の方が、じっとこちらの耳元をみていた。

 彼が目をやると、さりげなく目線を外して手元に目を落とした。ピアスを見たのだろう。カケルは、かゆい振りをしてそっとピアスに触れた。


 そのまま来てしまった。今、あの言葉をつぶやいたらここにいる連中はさぞ、びっくりするだろうな。びっくりなんてもんじゃない。病院の職員も驚くかな。動物が院内に入ったと大騒ぎだろうか。衛生上問題がある、とかね。


 そんなつまらないことを次つぎと思いながら、カケルは両手で顔を覆い、中指で目がしらをこする。ムカイヤに電話をしておかねばならないのに思い至った。今夜は仕事に行けない、そう伝えねばならない。


 ズボンのポケットに突っ込んであった携帯を取り出す。いつの間にか、不在着信が2件入っていた。ひとつは家から、もうひとつは姉の携帯からだった。


 メールもひとつ。姉から「着いたら連絡をお願いします」と。彼らは後から来るつもりなのだろうか? 圭吾は飲んでいるので運転はできないだろう、とすると、残りの組み合わせから考えても今夜ここに来られる家族は、他に考えられない。


 どちらから先に連絡しようか、迷うのもつかの間、「ヤマナシノブキチさんのご家族の方は」と声がした。奥の処置室、長く続く廊下の途中から紫の作業着に身を包んだ看護師らしい女性が身を伸ばすように受付の方をみている。

「はい」立ち上がり、彼女に続いて通路を進む。


 出入り口から左にずっとのびる通路の、左側にはカーテンの間仕切りがみえ、4つか5つ、ベッドが並んでいるのが分かった。手前のひとつは空いていたが、父親は次のベッドに寝かされていた。足先が軽く開いてこちらを向いていた。


 カケルは、そのベッドのある場所、通路を挟んで反対側にあった診察室のような仕切りに案内された。すでに、医者が座って待っていた。


「ツキミサト・ノブキチさん……」と話し始めたので軽く遮って「ヤマナシ、と読むんです」医者のプライドを傷つけないように「……すみません読みづらくて」そう付け加える。

 医者は、少しだけ目を上げて全然構わないんだが、といった鷹揚さを口の端にわずかに浮かべてから、「ヤマナシさん」それでも言いなおし、「息子さんですか」と尋ねた。

 はい、と答えると、まず簡単に現在までの父親の状況と、風呂で溺れた時の様子を一問一答のように聞かれていった。一通り詳細を掴んだようで、ようやく彼は、カケルに説明を始めた。淡々とした口調だった。


 お父様は自発呼吸もなく、血圧もゼロですが心臓はかすかに動いています、しかし心臓が動いているというのは痙攣的でありまして、ここに電気で刺激を与えますと、少しは持ち直すのですがすぐに乱れてしまう、水を大量に飲んでまして、気管支の分れまで水が詰まっておりました、ここで思いきった処置をして呼吸器を付けたりすれば、もしかしたら呼吸も戻るかもしれません、ただ脳に長いこと酸素が行っておりませんでしたので、万が一呼吸が戻っても、元のように意識が戻ってはっきりとされるかは疑問です。もとより良くなるということは、まず考えられません、そこで今後どうされるかご相談なのですが。


 オヤジを、殺してください。


 簡単にそう言えればどんなに楽だろうか。


 お任せします、口の中でもごもごと言う。それとも、母や姉に相談しますと答えたほうがよかったのだろうか。そんな躊躇いがみえたのか、ご家族の方は他にはこちらには? と聞かれてカケルは口ごもった。


 考えてみたら、自分は正式に家族とは言えないのでは?


 少し待合室でお待ち下さい、と医師に促されカケルは頭を下げてからその仕切りを出る、が、すぐに後ろから呼びとめられた。

「お父様に付いてもらえますか、あの」


 最期を看取れ、ということらしい。


 カケルは看護師に続いて反対側のカーテンをくぐり、簡素なベッドサイドに寄り添った。今度はモニタに波形がみられた。しかし、医者がいうようにその鼓動はかすかで、時おり瞬間的に大きな波形を刻むが、痙攣という表現に相応しい動きだった。

「電気信号のようなもので、鼓動とは言えないのです」遅れて入ってきた医者が、モニタをみていたカケルにそう説明した。父親に目を戻すと、その顔は風呂から上げた時と全く変わる様子はなかった。すでに土気色となった皮膚からは、例え痙攣的にでも心臓が動いているという兆候はまるで読みとれない。


「よろしいですか?」 医師に問われ、カケルは目だけではい、と答えた。


 モニタが外され、医師が瞳孔を確認する。ピーという音と共に平坦な直線が目の前に現れる、というお終いではなかった。ただ単に見るのをやめただけ。「21時58分」時計を見上げ、それから寝ている姿に深く頭を下げてからカケルに向き直る。「ということでございます」と息でできた言葉が聴こえた気がした、それともご愁傷様です、と言ったのだろうか。彼らの習慣は全然分からない、それでもカケルも同じように頭を下げた。

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