第9話 同情と称賛、そして危機
ソ連とフィンランドとの北欧の戦いは佳境を迎えていた。
フィンランドを弱小国と侮ったソ連指導者スターリンは、ヴォロシーロフ以下の赤軍に対して全面攻勢をかけるように指示。ポーランド戦において達成した電撃戦をフィンランド戦で再現するつもりだった。
しかし、フィンランド領内に攻め入った赤軍は、名将マンネルヘイムの采配と各軍を率いる将軍達と率いられた精兵達の活躍によりことごとく敗退。トルヴァヤルヴィではパーヴォ・タルヴェラ大佐率いる2個連隊にも満たない部隊に2個師団が、フィンランド中部のボスニア湾岸の要衝、オウルに通じるスオムッサルミでは、ヤルマル・シーラスヴォ大佐率いる1個師団に、2個師団と1個機甲旅団、続くラッテ林道の戦いで、スオムッサルミ救援に向かおうとしていた1個師団を壊滅に追い込んだ。
特にラッテ林道の戦いではウクライナ兵で主に組織された第44狙撃兵師団を、隘路、細い枝のような道が一本の道にまとまる場所、を利用してわずか2個中隊をもって進撃を停止させ、ソ連軍の両サイドから襲撃。得意とするモッティ(奇襲を用いて敵を分断し包囲殲滅する戦法)に引き込んで、自軍の損害400名に対し、その40倍にあたる17000名にも上る膨大な戦死行方不明者を出させる圧倒的な戦果を上げる。最後まで師団長ヴィドグラフは、NKVDの処刑を恐れ退却しなかったが、目を覆う惨状にやむなく撤退する。彼の危惧した通り、帰国した彼を待ち受けていたのは、ベリヤの死刑宣告と無数の銃弾だった。
この林には累々たるソ連兵の屍が連なり、天に助けを求めるように手を伸ばしたまま凍り付けになった彼らを、柔らかく隠すように銀世界は覆っていった。
この戦いでフィンランドを南北に分断する赤軍の目論見は完全に潰え、全線攻勢による電撃戦は失敗に終わった。そしてこの勝利はヘルシンキに駐在する各国の特派員達を通じて「雪中の奇跡」として大々的に世界中に伝えられることになる。
これらの勝利により、一ヶ月も持たずにフィンランドがソ連に飲み込まれるだろうと予想した世界は、苦しい状況で必死に戦いぬくフィンランドを称賛した。
「さすがは元帥閣下、あのような寡兵では我が軍であったならば一たまりもなかっただろう。我々連合国はどんな協力も惜しまない。フィンランドは何があってもソ連に屈してはいけない、あなたがたが屈すれば次の悲劇を生むだけだ」
大英帝国首相、ネヴィル・チェンバレンは北欧に軍を派遣する用意がある事を、マンネルヘイムとの電話会談で伝え、フランス首相エドゥアール・ダラディエも同様の声明を発表、英仏連合軍計20万名の派兵を約束した。
国境をソ連と接しその脅威にさらされていたルーマニア、反共のイタリアも支援を表明。中立のアメリカからも非公式ながら義勇兵がフィンランドに入った。しかし、スェーデンとノルウェー両国は頑なに中立政策を貫き通していた。
民主主義国家である英仏にとって共産主義は受け入れられない思想であり、今回の強者による一方的な、あまりにも理不尽な戦争を国民も看過することはできなかった。それに西欧で戦闘が始まることを嫌った両国では、北欧に介入して独ソの衝突を誘発させる事を期待していた。仏独国境にはマジノ線が横たわっており、第一次大戦の要塞線が存在しない状態ですらドイツ軍は膨大な戦死者を出した先例があり、要塞線のない部分、ベルギー国境低湿地帯は英国大陸派遣軍が補強しており隙は存在しない、よってドイツ軍による西進はないとする経験からくる希望的観測に基づいて、ドイツの目を北欧に向けさせようとする動きがあった。
英国海軍大臣に就任したウィンストン・チャーチルはスカンジナビア半島、大西洋に面したノルウェーに目をつけた。かねてよりナチスの行動を敵視し、挑発屋と言われた禿げ頭は、独仏開戦後、ドイツが必要とする鉄鋼石の大部分がスウェーデン北部イェリヴァレとキルナ鉱山から陸路ルーレオに輸送されボスニア湾、バルト海を海上輸送されるが、冬季にバルト海が凍結するとそのノルウェー近海を北部の港湾都市ナルヴィクから北海を横断して輸送されていたルート(大半がノルウェー領海内を通過)を機雷で封鎖し、中立ノルウェー領海から英海軍の行動可能な公海上に引きずり出すことを目論んだ。
それまで、戦争遂行に必要な鉄鉱石はフランス、ロレーヌからの輸入で賄われていたがそれが途絶するとこの鉄鉱石の供給ルートの重要度は格段に跳ね上がった。一年でドイツが消費するであろう鉄鋼量1500万トンの実に70%にのぼる1100万トンがスウェーデンからの輸入に頼ることになる。第二次大戦勃発よりチャーチルは、ノルウェーを機雷で封鎖する案をたびたびチェンバレンに提出していたが、中立国を侵犯して大英帝国の信義と名誉の失墜を恐れる彼と政府内の判断から、実行に移されることはなかった。
しかし、今回起こった冬戦争の予期せぬ進展により、連合国が北欧に介入する絶好の機会が訪れた。
「我々はフィンランドに同情と援助の手を差し伸べる。これは我々にとっても歓迎すべきことであり、欧州の安定へ繋がる一歩となるのだ」
チャーチル、いや連合国の意図は明白だった。真の目的はフィンランド救援に向かう過程でスウェーデンのイェリヴァレ、キルナ両鉱山を占領しドイツの継戦能力を奪うことにあった。
フィンランド救援の大義名分の下に、2個軍団が出撃の準備を整えつつあった。
この事態に当事者であるフィンランドでは、連合国の援助が間に合うかもしれないという希望が見え始めていた。
「ようやく、連合国が重い腰を上げてくれたか」
ヘルシンキ郊外にある貴族の館と呼ばれる宮殿。ソ連軍による空爆が激しいため、大使館、領事館が多くある比較的安全と思われるこの場所にフィンランド首相、リスト・リュティは避難していたが、英仏両首脳が正式に発表した援助の約束に胸を撫で下ろしていた。
「あなた方の奮戦と、今回の件でソ連と有利な条件で講和を結べるかもしれない。将軍の意見はどうでしょうか?」
リストは楽観論的な発言を行っているが、これに対してこの場所に訪れていたマンネルヘイムは眉をひそめる。
「確かに我が軍は大きな戦果を上げている。だが、戦場には恐るべき現実が迫っている。軍を預かる私としては即刻講和を希望する。」
意外な言葉にリストは驚きを隠せなかった。
「しかし、今の講和条件はあまりにも厳しすぎる。なんとかならないだろうか?」
「私はあなたの決定には反対しないし、全てにおいて従うつもりだ。私も最善の努力をしてみよう」
全面的な信頼をマンネルヘイムはリストに預けていた。このまま講和すれば屈従以外の何物でもないことも理解していた。
マンネルヘイムはすぐに総司令部のあるミッケリに戻ることになった。一時的な小康状態にあるとはいえ、戦況は予断を許さない状況であり、早く司令部に戻らねばならなかった。
「我々の武器はいずれ尽きる。勇気と銃剣だけで勝てるはずなどない、過酷な条件であろうと講和の機会を逃してはならない」
館を出る去り際にリストにかけたマンネルヘイムの言葉があまりにも印象的だった。すでにフィンランド軍の武器弾薬の備蓄は六割まで落ち込んでおり、増強が続くソ連軍に対抗することはまず無理だった。
「閣下、カレリア正面のソ連軍が大幅に増強されております。各方面でもソ連軍の増強が始まりました」
総参謀長、レンナルト・オシュが司令室に戻ったマンネルヘイムに報告を行う。そう遠くないうちに、いやすぐにでもイワン共が押し寄せて来てもおかしくはない。
最善の努力、か…。やるだけの事をやってみてから考えるか。
「閣下?」
「いや、なんでもない。それよりもハグルンドの第4軍団に指令。来る決戦に備えラドガ北面で限定的に攻勢を仕掛ける。多少なりでもリスクは減らしておきたい、それに首相達の援護射撃にもなろう」
「分かりました。しかし、ソ連側の焦りが見受けられます。これが決定打になってくれればよろしいのですが…。では失礼いたします」
司令室を後にするレンナルトの後ろ姿を見送り、部屋の扉が閉まるのを見届けるとマンネルヘイムは天を仰ぎながら目を閉じると、未来をかけて前線で戦う兵士たちの事を思い、祈りをささげた。
(汝らスオミの勇者達に祝福があらんことを)
この事態を最も恐れていたのは実はソ連指導者、スターリンだった。連合国の介入が現実味を帯び始め、北欧事情でもし中立協定を結んでいるドイツと連合国で和解が成立すれば、欧州連合と日本との二正面戦の可能性が浮上し、そうなればそれこそ最悪の事態である。
「同志ヴォロシーロフ、前線での攻撃はいつ始まるのだ。いつになったらあの忌々しいマンネルヘイム線を突破できるのだ?」
カザコフ館ではスターリンがヴォロシーロフを書記長室に呼びつけ矢のような催促を行っていた。スターリンの苛立ちは頂点に達し、ヴォロシーロフは心労とストレスで痩せこけていた。
「同志書記長、朗報です。北西方面軍より連絡があり、第7軍、第13軍は今月末日に準備が完了。来月一日をもって攻勢を開始いたします」
待ちに待った報告に、スターリンの態度は一変する。
「そうか、やっとこれで調子に乗るフィン人どもを叩きのめせるのだな」
今までと打って変わって邪悪な笑みがこぼれる。スターリンは狡猾な男であり、軍事による殲滅以外に外交的方法も準備していた。外相モロトフに対しては、フィンランドと交渉の余地があることを示すため、自らが建てた傀儡政権オットー・クーシネンのフィンランド民主共和国の解体をほのめかしており、政戦両略においてしたたかに準備を行っていた。しかし、いずれにおいてもフィンランドの優位は存在してはいなかった。
1月16日、フィンランド第4軍団、キッティラにおいてソ連第8軍と交戦開始。
この戦闘において、ラドガカレリア地区を包囲する形で展開し、攻勢に失敗して残存しソ連第8軍の薄弱となった左翼を形成していた2個師団と1個機甲旅団が、ハグルンド少将率いる第13師団のモッティに取り込まれ、左翼が完全に戦闘能力を失い消滅する。
危機の迫った左翼を救援するべく第8軍司令官シュテンは主力部隊4個狙撃兵師団をかき集め、フィンランド第12師団が後背を防衛しているコッラー河へと差し向ける。
「きやがったぞ、イワンの野郎ども」
コッラー河の対岸から視界に入ったソ連兵の姿を認めると、中隊長アールネ・エドヴァルド・ユーティライネンは周りに聞こえるように声をかけた。
「偵察機の報告じゃ、6万から8万はいるって話だぜ」
塹壕から覗き込みながら、別の隊員がそう応える。
なんて数だ、我々第34連隊1500に対して分割しても最低2万以上の戦力差がある。特に猟師や正規兵の精鋭が集められた俺らの担当地区は他よりも数が多い激戦区に回されている。
「後、上空からの支援はカレリアに取られてコッチに回す余裕はないそうだ。たまに来てくれるかもしんねえがな」
「そいつは重畳、おもしれえ事になってきやがった」
ユーティライネンは口笛を鳴らしながら呟いた。若い奴らにゃ酷な話ですぜ、ハグルンドの旦那。
攻勢の前に指揮官ハグルンドとユーティライネンは面会する機会があったが、その時ユーティライネンは「コッラーは持ちこたえます。閣下が撤退を命じられないかぎりは」と応えている。
しかし、徴集兵や志願兵達にはいくら戦い慣れたとはいえ、今回は凄まじいものがある。
「俺達はできることをやるだけで、俺にできるのはこれだけだ」
おもむろに背負ったモシンナガンを構えると、間を置かずに引き金を引いた。
銃口の遥か彼方、200mは離れているのではないかと思われる、のソ連兵が倒れるのが見えた。続いて二発目、三発目と発砲した銃声と共に再びその様子は再現された。驚異的な命中率、そして速射、しかもスコープを使わずに。
「相変わらず凄まじいな、さすがは白い死神。その調子で他んとこも頼むぞ、シムナ」
シムナことシモ・ハユハ。白いギリースーツに顔を覆うマスク、狙われた人間はスイカのように頭が弾け飛び、まず助からないことから付けられたあだ名が白い死神。現在、世界最強の狙撃兵である。
彼らの守る陣地に突撃したソ連兵は瞬く間に頭を撃ち抜かれ、あるいは弾幕により蜂の巣にされ屍となって、小川のコッラー河を埋め、血で染めた。
ユーティライネン自身も夜陰に乗じて、白兵戦まで展開する豪胆さを見せつけ、怪物の名に恥じない活躍を見せる。
結局、残ったのは第8軍の左翼消滅とコッラーの奇跡と言われる戦果をフィンランドに献上する結果だった。
しかし、フィンランド軍の攻勢はこれが最後となる。
この時ドイツ、ヒトラーの意識は北欧にはなく、ただただ対フランス戦へと注がれていた。問題はやはり国境突破の方法だった。直接国境の接する部分に進路を防ぐように構築されたマジノ線の存在はやはり大きな障壁であり、正面突破は事実上不可能であることはドイツ軍、フランス軍両軍はおろか世界中がその認識であり、ヒトラーでさえこの一点では同意していた。
ドイツ陸軍参謀本部では第一次大戦で当時の参謀総長小モルトケが採用したシェリーフェンプランの見直しを行い、これを軸に攻勢計画を立案していた。
シェリーフェンプランとは「右翼を極限まで強化せよ」の一言に代表される旋回戦術で、対仏正面の右翼、ドイツから見ればベルギー方面に強力な部隊を配置し、この右翼軍がベルギーを突破しフランスに侵入、左翼と中央は持久に徹し右翼がそのまま前線のフランス軍の背後を迂回して左翼、中央軍と共同でこれを殲滅するというものだった。
第一次大戦では小モルトケが計画を状況に合わせ、変更を加えていったため攻勢が停滞してしまい、最終的に両軍がにらみ合いを続ける塹壕戦に移行してしまった。そもそもシェリーフェンプランには決定的な落とし穴があった。右翼軍の長大な移動距離、そしてあまりにも薄い左翼。当時の機動力では事実上不可能な作戦だった。
現段階ではドイツ陸軍参謀本部では議論が行われていたが、それらの議論に見るべき点がない事に総統ヒトラーは苛立ちをつのらせていた。




