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流転の大戦記  作者: どらごんますたぁ
序章 欧州の猛火1939~1940
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第8話 皇紀二六◯◯

紀元、と言えば現在では西暦を用いているが昭和に代わってからのこの時期は、初代神武天皇(太陽神天照から数えて五代目とされる)が即位した年を元年とする皇紀が皇国史観を再認識する目的で使われ始めており、この年はその紀元から2600年の節目の年だった。

そのため、正月から各地で大々的な祝賀行事が催され、国外の事情はともあれ日本国内はお祭り騒ぎの様相になっていた。

しかし、そのおめでたい年であるべきはずの一年の始めの一月早々に水を差すような出来事が起こっていた。


阿部内閣の崩壊である。

欧州大戦介入を否定して支那事変解決を目指した阿部だったが、そもそもこの男が首相に推された一番の理由は、「無難だったから」というひどく曖昧なものだったからであり、事態打開など夢のまた夢と周囲は冷ややかな目で見ており、発足当初より二ヶ月と持つまいと噂されていた。

阿部内閣ははじめから躓きの連続だった。阿部は外相を兼務して首相に就任していたが、欧州の複雑な事情に鑑み国際法に精通した隻眼の海軍大将、野村吉三郎(のむらきちさぶろう)を外相に就任させていたが、支那事変で敵対する蒋介石率いる国民党政府に対して連合国の物資が北部仏印を通じて行われていることに対して外務省局長の関係国を批判する発言が、米仏の感情を悪化させる事態を招き振り回される事になった。

 これ以外にも阿部自身の失態も重なった。かねてより行政改革の一環として、外務省の経済外交の権限を抑制する目的から、重複する外務省通商局、商工省貿易局、大蔵省関税局を統合する貿易省の創設を図り、閣議決定まで持ち込むことに成功するが、関係各省官僚の猛烈な抵抗を受けて計画は頓挫する。更に悪いことは重なり、欧州不介入を決定したにも拘らず後ろ盾であったはずの陸軍からは、長老格にあたる寺内寿一陸軍大将が戦線視察の名目で勝手に渡欧してしまい、阿部の面目は丸潰れになる。そして昨年の不作による米不足、国家総動員法による価格統制令の施行に伴う国民の不満が大きくなり、各地でデモが多発するようになると進退窮まった阿部は内閣を総辞職する。

 退任にあたり「この国には中に別の国がもう一つあるようだ。これで政治がうまくいくはずがあるまい」とコメントを残し、一人寂しく首相官舎を後にしている。1月14日の事だった。



 阿部の内閣総辞職後、各方面では後継首班の物色がしきりに行われていた。最有力候補は畑俊六(はたしゅんろく)陸軍大臣。陸軍からは他に杉山元(すぎやまはじめ)軍事参議官。大陸事情を考察すれば陸軍から首班が出るのは当然であろうというのが、大多数の意見だった。財界からは元蔵相、三井財閥総帥、池田成彬いけだなりあき、前任の阿部と二分する有力候補だったからこれも当然と言えば当然だった。そして海軍からは米内光政(よないみつまさ)軍事参議官の名前が挙がった。

 即刻、重臣(前任の首相経験者達)が招集され、天皇を補佐する内大臣、湯浅倉平ゆあさくらへいが意見聴取を行うことになった。ちょうどその頃、宮中の奥では今上天皇と海軍元帥、軍令部総長伏見宮が会談を行っていた。

 「重臣の方々には帝國を率いるべき首班を推挙していただきたく思います。陛下のお考えでは、米内閣下がよかろうとのお言葉がございますが、重臣の方々の忌憚のない意見を求めたいとおもっています」

 湯浅のこの言は議場の空気を変えた。これに近衛文麿このえふみまろだけは非常に驚いた反応を見せた。参集した岡田啓介(おかだけいすけ)若槻礼次郎(わかつきれいじろう)らはこぞって米内を推薦したが、やはり一人、近衛だけは池田を推薦したのである。しかし、流れは変わらず米内への大命降下が確実となる。

 これに陸軍は憤慨し、怒号の声が上がっていた。米内の首相就任に反対した近衛と陸軍内からはこれは海軍の陰謀であると騒ぎ立てていた。「何故、ここで米内がしゃしゃり出てくるのか?」英米派であるとともに親露、親ソでもあった米内はコミュニストの回し者ではないのか?という黒い噂がもとになっていた。駐露、駐ソ駐在武官を経験し、それ以後ロシアびいきな言動が多かったこともその疑念を持たせるきっかけになった。

 近衛としても、米内が信用に足るとはとても言えたものではない。これまでの事を思い起こしてみれば、謀られたと言わざるをえない。近衛が首相在任中に支那事変が盧溝橋で勃発したが、当初政府と陸軍参謀本部は事変拡大に伴う泥沼化を恐れて不拡大方針だったが、次々と連鎖的に事件が起こり、特に日本人虐殺事件通州事件が国内の対中国感情をどん底まで悪化させた。続く第二次上海事変が発生すると、海相だった米内は強硬なまでに陸軍の派兵を求めるようになる。

 それに平行して第三艦隊、第一連合航空隊を編制して渡洋爆撃を開始させるが、ここに至っても派兵を渋る参謀次長、多田駿ただはやお陸軍中将に対し、内閣総辞職をちらつかせ恫喝する件があった。当時上海に駐屯していたのは海軍陸戦隊であり、いわば身内でもあるため当たり前の対応とも言えた。国民感情も暴虐な中国を断固罰するべしで一致していたため、参謀本部が孤立する珍しい事態となっていた。

 陸軍が上海に上陸すると、民国軍は撤退を始めるとこれを追撃し首都南京を陥落させる快進撃を見せ、気を良くした近衛らは米内、陸相だった板垣征四郎(いたがきせいしろう)陸軍中将と共に、対中講和トラウトマン工作を蹴って「以後蒋介石国民党政府を対手とせず」、いわゆる近衛声明を発表させる。が、その後、蒋介石は米英仏の援助を頼みに徹底抗戦の構えをとると、徐々に考えを軟化させ近衛は「国共合作、容共を改めるならば、交渉の余地がある」とする第二次近衛声明を発表し、蒋介石の下野を講和条件にした板垣もこれに類する桐工作を展開していったが米内の対応は一向に変わる気配はなく、ついに懸念の材料だったソ連と衝突する事態になっても、泥沼から足を抜こうとしない米内に対しての疑惑は増大していた。

 陸軍は陸軍で、ソ連の影がちらつく中でドイツとの同盟は至上命題とも言える問題であり、これに反対する米内は目の敵だった。



 様々な憶測が飛び交いながらも、その日の午後7時、米内光政宮中に参内。

 宮城明治宮殿正殿において、天皇と相対した。

 正に神殿のごとき荘厳な空気が支配する鳥肌が立つほどの緊張の中、正装に身を包んだ天皇を前に、米内は式典に臨んだ。本当は組閣を断るつもりではあったが。

 「朕、卿に組閣を命ず」

 雷鳴にも似たような高い声が、静まり返った正殿の中に響いた。

 米内の辞退する考えはその場で消え去った。

 「この国で首相になるということは、鼻で三斗の酢を啜るほどの苦痛を味わうことを覚悟せよ」との最後の元老西園寺公の言葉が思い起こされた。幕末の動乱から日清、日露両戦役、大正、昭和の混乱の時機を生き抜いてきた彼の言葉には重みがあった。

大命降下の儀式を終えた米内は、その足で伏見宮に予備役への編入を願い出る。理由は統帥権の独立を守るため。現役の将官が首相となっては、軍部大臣を兼任して統帥を政府が勝手にしきる事も可能となる禁忌であった。

最後に現役将官で首相を務めたのは、海軍軍縮条約で世界にその名を轟かせた元帥、加藤友三郎(かとうともさぶろう)以来皆無となっていた。軍を主導できるほどの影響力を持つ人物がそれまでは存在していたが、それを為せるほどの実力者は絶えて久しく、米内もその慣例に従ったのである。

 その統帥権の独立を確保するための手段が、軍部大臣現役武官制度。本来は軍を政治家の玩具と化するのを防ぐためと、危険思想を持った予備役将官が軍を私物化するのを防ぐ目的があったが、次第に曲解されていき、軍の意志にそぐわぬ内閣を潰す手段となりつつあった。しかし、現段階では上原勇作うえはらゆうさく陸相が二個師団増設問題で単独辞職し、西園寺内閣を総辞職に追い込んだ事例がただ一度あるのみであった。


 「陛下のあのお言葉を聞いて、断るのは無理だと悟ったよ。これから忙しくなるな……」

 米内と副官を乗せた黒塗りの乗用車は、半蔵門から宮城を出て南下。新たな任地である首相官舎へと向かう。

 翌日、首相官舎内執務室で会話する米内と吉田の姿があった。

 「吉田君、海軍内でもドイツと同盟しようという意見が多くなっているそうじゃないか?」

 「はい。このところ英国の動きが活発で何かしら手を打つべきと軍令部が騒いでおりまして、この機会にドイツと手を組むのもやむなし、との意見が主に若手、からでありますが挙がっています」

 海相として留任した吉田は米内の質問に答えた。

 支那事変が勃発してから海軍、特に作戦と動員を司る軍令部が気にしていたのは、意外にも英国の動向だった。

 アメリカと違い、中国に直接的な権益を持つイギリスは、たびたび日本の行動に対して抗議を行ってきていた。当時、中国国内には売弁と呼ばれる外国資本に追従し、貿易、為替、不動産、そして麻薬の密売により利益を上げるもの達が多数存在しており、それらの利益は極東最大の銀行、香港上海銀行を通じてイギリス本国に送金されていた。第一次大戦時から財政難に苦しめられているイギリスにとっては貴重な収入源となっていた。加えて香港から対岸の広州を通じて国民党政府に対して物資が送り込まれており、一時期この方面を管轄とする陸軍第21軍が香港の占領を本気で考えており、あわや日英戦争に発展する可能性があった。

 これにあたり海軍は英国艦隊ロイヤルネイビーが極東に出張ってくる事を真剣に検討し、対英支作戦と銘打たれた作戦の策定を開始する。

 作戦目的は第1に東方海域に存在する英国艦隊及び空軍戦力を初撃をもってこれを撃破。

 第2に陸軍と協力の上で香港、シンガポールの要衝及びボルネオ、マレーの要地を攻略。

 第3に東方海面を制圧、来襲する英国艦隊主力を決戦をもって撃滅する。


 これまで対米作戦一辺倒だったが、ここに対英作戦が追加され、もはや従来の建艦計画では追いつけない事は明白となる。この作戦が正式に策定され伏見宮の裁可を受けたの昨年の二月の事であり、これに先立ち海軍はアメリカの第二次ヴィンソン案に対抗するとともに、対英戦も見越したうえで第四次海軍軍備充実計画を始動させる。この計画から補充計画から充実計画へと変更され、想定と事態が変化していることを意味していた。

 このような事態もあって、英国の注意を欧州に釘づけにする純粋な戦略的意味合いで、単独では米英ソと対立する孤立した状況ではドイツと同盟を結ぼうという考えは徐々に支配的になっていく。

 「英国の事情もあるだろうし、彼らに極東にまで手を広げるような余裕はないだろう。いきりたっていたところで何の解決にもならんよ。それにドイツとの同盟を結べば本命のアメさんが黙っちゃいない。対米戦なんて想像するだけ無駄というものだ、僕はそんな決定をするつもりはないからね。それにこれは陛下の願いでもあるのだからね」

 米内は同盟論を一蹴する。なにより大日本帝國の現人神であられる天皇自身の希望という、大きな後ろ盾があった。陸相の畑も協力を約束してくれているのも心強い。英国にとっても太平洋事情が悪化すれば、オーストラリア、ニュージーランドの精兵の動員にも支障をきたす恐れがあり、日本との衝突は望むところではなかった。

 「陛下は聡明であられます。ドイツとの同盟、益無しと判断します。目前の局面に惑わされて大局を見誤ってはなりません。私も不肖ながら米内さんを全力で補佐いたします」

 そういった吉田ではあったが、彼を補佐するべき次官は山本や井上のような強力に後押しできるような人物ではなく、徐々に孤立していくことになる。

 そもそも海軍内で強硬論が支配するにはそれ相応の人物が裏で糸を引いている。その人物に影響を受けた将官、若手参謀達を抑える手段を吉田は持ち合わせていなかった。



 米内が首相に就任して米内内閣が成立し帝國中枢が落ち着きを取り戻す中、大阪湾に一隻の駆逐艦の姿があった。

 陽炎型駆逐艦、黒潮。

 昨日、大阪藤永田造船所から竣工した出来立てほやほやの新鋭艦で、今年最初の竣工艦だった。

 これまでの経験を盛り込み、武装、船体、速力、航続力、全てにおいて艦隊型駆逐艦の集大成とも言われた傑作艦型だった。

 近代日米駆逐艦の変遷は日本海軍が八八艦隊計画、米国海軍が三年艦隊計画が計画中の期間、主力艦建造に制限がない時代には高速を誇る事が予測された米巡洋戦艦に対抗し、捕捉攻撃する速度重視の峯風型、続く神風型を竣工させた。主力艦が五分であるならば、護衛排除の役割以上を無理に求める必要もなかったため、武装は一二糎単装砲四門、五三糎魚雷発射管連装三基とごくごく平凡な攻撃力で想定も日本近海の洋上決戦だったため船体も小ぶりだった。

 駆逐艦の形が劇的に重武装に傾いたのは軍縮条約以後からとなり、主力艦の比率が対米六割に制限されると駆逐艦の持つ意味合いに変化が生じた。それまでは単なる補助艦の位置づけだったが、戦艦を直接駆逐艦によって漸減を図る必要性が新たに生じた。

 これまでも海軍は伝統的に水雷戦を重視してきたが、その最大の脅威はやはり戦艦であり、仮想敵国である米国艦隊と彼我の主力艦比が劣る連合艦隊は、その比率を打開するべく戦艦以外の補助艦の重雷装化が推し進められてきた。

 駆逐艦は戦艦を護衛する敵警戒部隊を突破し、その魚雷を叩きこむのが任務であり、敵駆逐艦を上回る砲力、敵戦艦の防御を貫く攻撃力と命中率を高める射線数が必要な雷装が必須とされたため、軍縮条約の制限上米国英国の駆逐艦に対して重武装だった。

 神風型に続きその改装型睦月型から六一糎三連装魚雷発射管二基の搭載が始まり、次に登場したのは革新的駆逐艦と謳われ米海軍をして当時、理想の駆逐艦と言われた特型駆逐艦、吹雪型でした。砲を一二糎七砲連装三基、魚雷発射管が三基に増強され、居住性、航続力が大幅に改善された本形に対し「我が軍の駆逐艦三百隻とこの駆逐艦五十隻ならば喜んで交換しよう」とまで米海軍提督に言わしめた。しかし、この高性能はロンドン軍縮条約の引き金となっていまうのは皮肉だった。

 同時期、船体の小型軽量化に特型の重武装を施した初春型が竣工、しかしその無理な設計が祟り公試で四十度近い傾斜を生じさせる問題が露呈、その欠点を改良した有明型、改良に際して新たに生じた不満点を更に改良した白露型を竣工させたところで、軍縮条約が失効するのを見越した建艦が可能となり、傑作駆逐艦吹雪型の後継、朝潮型が〇二計画において起工される。

 初春、有明、白露型では復元性を回復させるため武装を減らさなければいけなかったが、朝潮型において枷が取り払われ、ようやく用兵側の希望を満たすことが可能となった。しかし朝潮起工後、第四艦隊事件が発生、波浪により吹雪型二隻に艦体切断の損傷を受ける被害となり、設計が変更され低重心化と航続力の増大が図られ、朝潮型は昨年、昭和一四年に全艦が就役した。

 陽炎型はこれらの経験を積み重ね、同時期の米駆逐艦ベンソン級の127mm三八口径単装砲五門を上回る同五〇口径連装三基六門の火力と、低喫水による極めて良好な安定性、六一糎次発装填装置付き魚雷発射管四連装二基の極めて強力な雷撃能力を持ち、水雷戦においての個艦能力では米艦を圧倒する能力を保持していた。

 あくまで陽炎型は艦隊戦を想定した設計であり、航空機、潜水艦の跳梁跋扈する海域に投入するためのものではない。それらの艦型は次期〇四計画で起工中であり、昨年終わりからマル3計画艦は排水量の少ない小型の第四号型駆潜艇、第七号型掃海艇から順次竣工を始め、主力と期待される陽炎型も十一月から竣工、四日後には四番艦雪風が竣工する予定であり、マル3計画は順調な滑り出しを迎えていた。

 

  


 

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