第7話 雪上の死闘
12月19日
ソ連首都モスクワ クレムリン
「これは一体どういうことだ? なぜ我が軍はフィンランドごとき小国に勝つことができない? 時間がかかり過ぎではないのかね、同志ヴォロシーロフ」
カザコフ館、共産党書記長室でソ連指導者であるスターリンは声を抑えながらも、苛立ちと怒りを隠そうともせずに国防人民委員のヴォロシーロフに向かって聞いていた。
「同志スターリン、各戦線では天候のせいで膠着しているだけです。この天候が落ち着くまで、いましばらく時間が必要です」
ヴォロシーロフは内心冷や汗をかきながら、必死に弁明を行っていた。彼が言うこともまた事実ではある。
しかし、すでにフィンランドと開戦してからすでに三週間余りの時間が過ぎていた。開戦時の総戦力比では歩兵三倍以上、航空機戦車にいたっては数十倍以上の差があったにも拘らず、一向にフィンランド攻略が達成される気配はなかった。
「攻撃に失敗した指揮官達はNKVDに処分を命じる。君も気を付け給え」
スターリンの放った言葉にヴォロシーロフは息を呑む。例え高級将官といえども、失態を犯した者に待っているのは死。一年前まで吹き荒れた大粛清の嵐を逃れたヴォロシーロフも、いつ彼らと同じ結末を迎えるか分かったものではない。個人的に長く親しい間柄であったとしても。
スターリンの、さっさと出ていけ、といった風に声に出さず机に片肘をつけ、手を払う仕草を見たヴォロシーロフは目を合わせぬよう静かに書記長室から出ていく。
部屋を出た彼は大きく溜息を吐いた。辛うじて首の皮一枚でつながっていることにわずかばかりの束の間の安堵をかみしめた。
「同志ヴォロシーロフ、お話はお済ですかな?」
突然声をかけられ、彼は一瞬びくりと体を硬直させた。
「同志ベリヤ……」
その男はもしかしたら明日にでも自分の死の宣告を行う地獄の使者になりうる立場の人物。内務人民委員部長官ラヴレンチー・ベリヤだった。そしてもう一人。
昨年、大粛清を指導したニコライ・エジョフが更迭され、その後任としてスターリンが配置した男だった。今、もっともスターリンの信任厚い人物であることは疑いようがない。
悪魔的な笑顔が、より恐怖を増幅させる。
「今日は一体何用でここに?」
聞かずにはいられなかった。平静を装おうとしたが、顔は多分ひきつっていただろう。
「国防委員には直接の関係はありません。私の役目は国家に仇なす者や国益を損なう内部の者達を、正義の名の下に鉄槌を下す事ですから」
笑顔を崩さず平然と言ってのける。
「しかし、同志スターリンの意志によっては、国防委員に関わることになるかもしれませんが」
ベリヤの表情はやはり変わることはない。スターリンが命じれば、冷徹な機械のようにどのような人間も躊躇いなく始末することだろう。
短く吐き捨てるように「分かっている」としかヴォロシーロフは返すことができなかった。
彼がそのようにしか言えないのも、前線の戦局が弁明している以上に悪化しているからに他ならなかった。
「ベリヤ入ります」
「チモシェンコ、参りました」
二人が入室するとスターリンは「来たか」と短く呟くと短刀直入に、
「同志チモシェンコ、北西方面軍司令官に任命する。ボリス(赤軍参謀総長)と相談の上での決定だ、ただちに前線へ向かいマンネルヘイム線を突破し首都ヘルシンキを攻略せよ」と驚くべき命令を下した。
いきなり無理難題を吹っかけられたのはセミョーン・チモシェンコ大将。第一次大戦時から最前線で戦功をあげ続け、従軍からわずか2年で連隊長、一年後には騎兵師団長を務める歴戦の勇士であり、また先のポーランド侵攻に際し、キエフ軍管区司令官として迅速に作戦を遂行した実績を評価されてのことだった。
「同志書記長、現在マンネルヘイム線攻撃中の第7軍だけでは不可能であると申し上げます。最低でもあと一個軍の動員が必要です。後ラドガ北方からのフィンランド軍の動きも封じるため、増派を行いつつ正面への支援を絶つのも重要でしょう」
沈着冷静なチモシェンコはすでに予想していたように澱みなく応えた。
「だが、今のこの状況ではいつ英仏が北欧に介入してくるか分からん。両軍が加わり北欧で躓けば、南からは英仏の爆撃機がコーカサスを狙って爆撃を行うかもしれん。東から日本、西からはドイツ、強大な敵が控えている。悠長にしている時間はない」
スターリンは焦っていた。東、満蒙国境ハルハ河での極東軍と日本陸軍関東軍との軍事衝突はジューコフ将軍の活躍により一応勝利の形となったが、実際には優勢な戦力でありながら損害はほぼ同率。航空戦では大敗、後方基地タムスクが戦略爆撃に曝される始末で、帝国陸軍が侮りがたい存在であることは疑いようがなく、また独ソ不可侵条約があるとはいえドイツは言うに及ばず、隙を見せればいつ襲いかかってきても不思議ではない。ソ連にとっては現時点において過大評価とはいえ、弱体化した赤軍にとって列強各国を一度に相手をする事は絶対に避けねばならなかった。
そして、コミンテルン、世界に張り巡らされた情報網にかかった報告によれば、英仏軍が具体的には不明だが作戦行動を開始していることも判明していた。
「政治的な事情は分かりますが、一ヶ月の準備期間後の総攻撃、これが現実的にとりうる最良最短の判断です」
「ああ、わかった。すでに13軍14軍の二個軍が準備中だ。さらに航空機戦車も十分に用意させる」
スターリンは命令書に承認のサインを書いてチモシェンコに渡した。
「では現司令官の同志メレツコフの処分は如何いたしましょうか?」
割って入ってきたのはベリヤだった。こういう問題は彼の専門である。
「今現在、赤軍の指揮官は不足している。司令官クラスの高級将校は何よりも貴重です、同じ立場に立つ者としては命を奪うことは承服しかねます」
チモシェンコが助命嘆願をスターリンに行う。実際、これは大きな問題であることはスターリンも感じてはいた。
「中将への降格処分に留める。同志チモシェンコの好きなようにしたまえ」
珍しく寛大とも言える処遇だった。
「ただし、何もせずに敗北するような無能は直ちに処断せよ」
「御意」
後に、この無情な命令により処刑されることになったのは一人の師団長だった。
「この事態は想定の範囲外だ。フィンランドのごときに遅れを取っては我が国は世界の笑い者にされる。責任の所在は明らかにしておかねばならん。分かっているな、ベリヤ?」
「は、その任務はこの戦いが終結した後に事に当たります。全て同志書記長の意思のままに…」
ラドガ・カレリア戦区
ラドガ湖の北部一帯の更に北西部に位置するトルヴァヤルヴィ。ここでもフィンランド軍による反攻が開始されていた。開戦直後からソ連第8軍に所属する第139狙撃兵師団が、先陣を切ってこの地区を担当するフィンランド第4軍団を大きく迂回するように侵入してきた。
起伏が激しいうえに道路が少なくもっと小規模な部隊であると予測していたが、これに対処する事は即座には不可能であり、この侵攻はフィンランド軍の予想を上回る規模であり、侵攻を許せば後背を遮断されラドガ・カレリア戦区の第4軍団は孤立するという危機的状況に、マンネルヘイムは雪上戦闘、ゲリラ戦のエキスパートであったパーヴォ・タルヴェラ大佐に1個連隊3個大隊を預け、第4軍団の生命線となるここトルヴァヤルヴィへ送り出した。
この第4軍団は主力にして防衛の要であるカレリア地区の側面防御の役目があり、この戦区の崩壊はマンネルヘイム線を擁するカレリア戦区もが崩壊する事を意味しており、マンネルヘイムはこれに平行して第4軍団司令官をヘイスカイネン少将から防御戦の達人の定評があるヴォルデマル・ハグルンド少将に交代させ可能な限りの対処でソ連軍と相対した。
この地区は小さな湖沼が点在し、進軍が非常に困難な地形だった。それに加えフィンランド軍は開戦初期の撤収時に付近の家屋建屋を利用できないように破壊、井戸は埋められ、道と言う道はことごとく寸断して地雷を敷設する焦土作戦を展開したことにより、加えておりからの猛吹雪と低温にさらされ、ソ連軍の進撃速度と戦闘能力は著しく低下していた。このトルヴァヤルヴィで足止めを食っていた139師団を、タルヴェラ戦闘団は長躯スキーを駆って包囲するよう展開していた。
その139師団はヒルヴァスヤルヴィとトルヴァヤルヴィと言う二つの湖に挟まれた地峡で防衛体制を敷いていたが、ソ連兵の体力的な消耗は激しいものがあった。その地峡を南北から各2個大隊で挟撃し、凍てついたヒルヴァスヤルヴィを正面から主力3個大隊が突破し、包囲殲滅する計画をタルヴェラは企図していた。
数度に渡り白いギリースーツに身を包んだタルヴェラ戦闘団の各スキー部隊は、ハラスメント的な夜襲を繰り返しモロトフのカクテルと揶揄された火炎瓶を用いて食糧及び少数の戦車を焼き払い、ソ連軍の士気を大きく下げていた。
この度重なる襲撃に業を煮やした師団長ベルヤエフは、隷下の三個連隊に対してその有力な戦力を持って総攻撃を命令した。ベルヤエフはこの襲撃が開戦初期に撤退した敗残部隊の寄せ集めの反撃と予想、フィンランド軍はせいぜい大隊程度としていたのであった。
「報告します大佐。左翼より進軍していた独立第9大隊がT26を含む敵、恐らく連隊規模と思われますが、と交戦を開始。」
ヒルヴァスヤルヴィの西に位置する雪景色に溶け込むように建てられていた納屋、その中に設置されていたタルヴェラ戦闘団司令部にスキー兵と同じ格好の伝令兵が、極寒の外気に晒されたしもやけで赤くなった顔で息を切らしながら報告した。
「そうか、ご苦労だった。しばらく休んでいくといい」
伝令兵にねぎらいの言葉をかけ、休憩をとるよううながしたのはパーヴォ・タルヴェラ大佐。常に冷静沈着にして勇猛果敢、言うのは簡単だがこの要素を備えることはまれである。
このような報告に接しても部下への配慮は怠らない。
「我慢しきれずイワンどもが先に仕掛けてきましたな大佐。我々も突撃の準備に入ります」
第16連隊指揮官アーロ・パヤリ。タルヴェラの右腕とも言える人物である。
「報告! 右翼第2大隊が敵3個大隊と遭遇、交戦開始しました!」
すぐに次の報告が入り、単なる遭遇戦ではなく大規模な攻撃を開始したことが明確となった。
「右翼第2大隊の左側面に第3大隊を送り反撃せよ。可能な限り敵の注意を引き、その場で釘づけにするんだ。敵は逆包囲の総攻撃に出た。南側で足止めを図り、主力でまずは右翼の進撃してきた部隊を押し戻す」
ソ連軍の動きの速い北面の攻撃を排除し、さらに進撃して地峡部分まで押し返した時に当初の包囲が可能となる。彼に直接率いられた3個大隊は左翼への攻勢へと向かう。
右翼で敵の注意を引いた囮とも言うべき部隊はソ連第169師団の二個連隊と相対する事となり、大規模な戦闘に発展した。第2、第3大隊は実に3倍に及ぶ戦力に臆することなく戦線を維持した。
沼と木々に囲まれた悪路を走破して声を張り上げながら突撃してくるソ連兵に、白いギリースーツで統一し景色と同化したフィンランド兵は銃弾を容赦なくみまった。林の中から、あるいは起伏の陰に隠れながら、姿の見えない敵から銃弾だけが飛来して味方が血をふき出して倒れていく光景は、まさにソ連兵にとっては悪夢だった。そもそもこうなるとは思っていなかったのだから。
「同志諸君はフィンランドの解放者」というスローガンを掲げられ、それを疑うこともなく戦いに参加した素人達であり、解放者としての歓迎があると思っていた者がいるくらいだった。
第一次大戦時と変わらぬ無意味にただ突撃を繰り返すソ連兵たちは、バタバタと弾雨の中で血だるまになりながら倒れていったが、中には軽戦車BT5が混じって攻撃を仕掛けてきたが、軽快さが売りのこの戦車も悪路にはまって身動きが取れないうちに肉薄攻撃を受けて破壊されるといった状況で、なんら影響を与えることなく完全に攻撃は行き詰ることになった。
そして、フィンランド軍の左翼へと包囲するべく迂回進撃していたソ連第718連隊は自軍とほぼ同じ戦力の部隊と遭遇戦に突入し、逆にその機動力の不足から包囲攻撃を受けることになり、損害の多さから不利を悟り後退を開始した。そして、戦力分散の隙を突く形でアーロ・パヤリ中佐に率いられた重機関銃、対戦車砲装備の第16連隊が凍結したヒルヴァスヤルヴィを突破し、右翼と交戦し膠着していた二個連隊の側面に対して攻撃を開始した。
「敵の総攻撃です! 各戦域で味方は崩壊、609連隊は壊滅、364連隊は後退中!」
伝令の報告に師団長ベルヤエフは狼狽していた。
「こんなバカなことがあってたまるか! 奴らいつの間に戦力を増強したのだ! なんとか戦線を維持しろ!」
信じられない、これほどの早さで態勢を立て直し、あまつさえ反撃に転じ我々が苦戦に陥るなどあり得ないといった風に無理な命令を出そうとしていた。
「しかし、すでに連隊長は戦死、部隊は統制もなく逃走中。他の部隊もこのままでは孤立して全滅します!」
この時、ソ連軍の敗北は決定的だった。フィンランド第16連隊の中央突破により中央を守るべきはずのソ連第609連隊は側面を突かれなすすべもなく壊滅し、ソ連サイドは南北に分断され各々が包囲攻撃を受け自衛で手一杯の状況で、ベルヤエフ達がいる師団司令部にフィンランド軍が突入するのも時間の問題となっていた。
「やむをえない、後方の第75師団に救援を要請し凍ったトルヴァヤルヴィを渡って後退する」
苦虫を噛み潰したような表情でベルヤエフは全部隊に後退命令を出した。
ソ連軍各部隊は装備を放棄して雪崩を打つように敗走を始めた。その後には大量の武器弾薬が残されていた。
「逃げ足は一人前のようですな、攻めるときは赤ん坊のような足取りだったのに」
そこらじゅうに散乱した武器の山を見て、アーロはタルヴェラに笑いながら話しかける。
「ああ、何はともあれこれで部隊の強化が行える。使えるものを確保したら敵を追撃する。他のものは後方に送るよう手配してくれ」
もともと物資が欠乏しているフィンランドにとってこれはありがたい置き土産だった。中には貴重なT-26も含まれており、これはフィンランド軍の主力戦車であるヴィッカース6t戦車のソ連製版とも言えるものであり、これを保有しているのはカレリアで温存されている戦車第4中隊所属の10輌があるのみで貴重なものだった。他の武装も改修や資材利用のため後方の工場に送られる事になった。
この後のタルヴェラ戦闘団の追撃により第169師団は大打撃を受け、ボロボロの状態で第75師団と合流したが、更にこれにも果敢に攻撃を加え戦線を一気に国境付近にまで押し戻すことに成功する。
カレリア戦区
垂れ込める雪雲の合間のところどころに晴れ間が覗く、決して良好とはいえないコンディションの空を、三機の戦闘機が飛行していた。フィンランド空軍第24戦隊第3中隊所属のフォッカーD21、通称フォッケル。
連日ソ連機がフィンランドに侵入しヴィープリ、ヘルシンキをはじめとした各都市に無差別に爆弾をまき散らしていたが、前線にほど近いこの空域は爆撃機の通り道と化していた。地上は世界中にその名を轟かしている要塞線マンネルヘイムラインを挟み、フィンランド第1、第2軍団5個師団が、8個師団5個戦車旅団からなるソ連第7軍の攻勢を必死に撃退しており一進一退の攻防が繰り広げられていたが、その上空を守る傘とも言うべき航空機の数はあまりにも少なかった。
「今日もうじゃうじゃ涌いて出てきやがる」
もう何度も見てきた光景に、編隊長エイノ・ルッカーネン中尉は上空から大量のソ連爆撃機の群れが飛行しているのを見下ろしていた。またヘルシンキを空爆するつもりなのだろう。
相変わらずの数に物を言わせたこの飛行態度には辟易させられる。もっとも攻撃するとすぐに逃走するような連中だからやりやすいと言えばやりやすいのだが。
上空に戦闘機が待機していることを知っているのか知らないのか、ただただ直進飛行を続けているのは双発爆撃機ツポレフSB。たまに見たことのない機体が混じっているが、大半、十中八九はこの機体が占めている。爆弾槽に100kg爆弾6、翼下吊架250kg爆弾2の武装であり、地上部隊あるいは都市部に住む住人達にとっては非常に危険な存在だった。余談ではあるが、中国大陸において中華民国が装備する本機が漢口(武漢)に奇襲攻撃を加え、第一連合航空隊司令官だった塚原二四三海軍中将の左腕切断の重傷を負わせるという事件が二カ月前に起こっていた。
目標に困ることはない、獲物はよりどりみどり。ふとルッカーネンは後方を飛行する僚機に視線を向けた。
「イッル、力んで無茶な真似だけはしてくれるなよ」
出撃前にルッカーネンは、イッルと呼ばれている部下に声をかけた。
「遊びじゃないんですから慎重にやります、わかっていますよエイッカ。」
指揮官に対して愛称で返したのはエイノ・イルマリ・ユーティライネン。ルッカーネンとは5歳差がある、偵察部隊出の戦闘機パイロットである。
「お前に死なれでもしたら、俺がお前の兄貴に殺される」
ユーティライネンの兄はフィンランドでは、フランス外人部隊に所属し勇名を轟かせたことから(モロッコの恐怖)の通り名で知られており、畏怖の対象となっているのは余談。要するに彼の兄は怪物だということで皆が納得しているが、つい最近では鼻歌まじりで出撃して戦車5台を破壊して戻ってくる正真正銘の化け物だとの噂が伝わっている。
「まさか」
ユーティライネンは笑ってそういったが、冗談じゃない、本当に殺されてしまう。
しかし、彼もその血を引いているのだからどのような才能を秘めているか分からない。今回の出撃が彼にとっては本格的な迎撃となる、上官としては無事に生還させてやりたいところだった。
再び機上に意識を戻す。遥か下方を飛行するソ連機の集団の中に一際異色の機体の一群が目に入った。
「イリューシン、か? また来てやがったな」
彼の言ったイリューシンDB-3は長距離爆撃機であり、周囲に数多くいるツポレフより大型の機体で最大2t強の搭載力を誇る上に、最大速度はフォッカーを上回る厄介な敵だった。もっともその最大速度は空虚状態で発揮できるものであり、満載に近い搭載量ではそれもおぼつかない。
ユーティライネンもそのことは分かっていた。
ルッカーネン機が急降下を開始するのに続き、ユーティライネンも愛機のスロットルをふかし、遥か下を飛行するイリューシンの編隊に向けて急降下を開始する。
角度80度に達する急降下はわずか毎時395kmの最高速度を600km以上まで加速させ、まるで地中まで引き込ませるような錯覚を覚えさせる。金属外皮がきしみをあげる振動が伝わり、機体が空気抵抗でバラバラになってしまう不安に襲われるが、イリューシンはフォッケルの装備する7.7mm機銃だけで撃破するのは困難であり、邂逅の刹那に加える一撃で墜とすしかない。爆弾を放棄して逃げられれば追従することすらかなわない。
照準器に映るイリューシン目がけ激突しそうになるような機動でイリューシン背面から接近し、操縦席に向けて左右両翼に装備したブローニングM36を撃ち放った。
敵の接近に気づいたイリューシンは、爆弾槽を開いて搭載した爆弾を投棄して回避しようと試みたが、すでに遅かった。放たれた火線は狙い通り操縦席の風防を穴だらけにし、中の人間を血だるまに変えていた。
御者を失ったイリューシンは、機体を傾けながら急速に高度を落としていき、厚い雲の中へと消えていく。降下した後に旋回し、攻撃を加えた相手の動向をただユーティライネンは見ていた。
これが後に無傷の撃墜王と謳われる男の最初の戦果となった。
同日
南米アルゼンチン
首都ブエノスアイレスのとあるホテルの一室。一発の乾いた銃声が周囲に響いた。
ウェイターがその音に慌てて室内に駆け込むと、こめかみから大量の血を流した男が横たわっていた。頭部貫通銃創、間違いなく即死である。
死亡したのはドイツ戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーの艦長ハンス・ラングスドルフ大佐。2日前の17日、ブエノスアイレスのラプラタ河を挟んだ対岸に位置するモンテビデオ港外で彼の乗艦、シュペーは多くの見物人が見守る中自沈。先のラプラタ沖海戦の結果、重大な損傷が明らかとなり行動不能となる前になんとか中立のウルグアイ、モンテビデオに辿り着き、修理と停泊をウルグアイ政府に申し込んだが回答は「3日後に退去せよ」という絶望的なものだった。加えて駐在ドイツ大使館からは即座の帰国を命じられてしまう。
なんとか状況の打開を図ろうとするが、英仏の戦艦空母を含む追跡艦隊が接近している情報から拿捕される事を良しとしないラングスドルフは、出航することにより無謀な戦闘で乗員を無駄死にさせないため自沈させるという苦渋の決断を強いられる。広大な大西洋で孤独な戦いを続けるシュペー艦内で、彼は乗員達と上下関係を隔てることなく接していた事が、この決断に至らしめたと言えなくもない。
その後も、乗員の保護と帰国できるようウルグアイとアルゼンチン政府と交渉に奔走したが、英国とのつながりが深い両国はそれを拒否、ラングスドルフ以下の乗員はブエノスアイレスで拘束されることになった。
そして自身も乗艦を沈めながら敵の手に身を委ねる事を許せなかった彼は、その責任を取り自ら命を絶った。
ドイツ帝国時代の海軍旗に身を包んで。
この事は、シュペーと砲火を交えた追跡部隊指揮官ヘンリー・ハーウッド准将にも伝えられ、敵将ラングスドルフの人柄を悼んだと伝えられる。




