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流転の大戦記  作者: どらごんますたぁ
第1章 日米開戦への道1941
34/34

幕間1 波紋

7月2日

ソ連・モスクワ



 世界が固唾を飲んで状況を見守る史上空前の戦闘が開幕する中、あろうことか政務の全てを投げ出して行方を眩ましていたスターリンがこの日、公の場に姿を現した。 

 他国の人間には単なる狂気と恐怖の支配者だが、このソビエトに住まう人々にとっては、近代化の恩恵を享受したスターリンは恐怖の圧政者ではなく、畏怖すべき存在として君臨しているのだ。

 近代ロシア史上未曾有の事態を迎え、混乱の渦中にある国内の人心の安定を図るために指導者としての演説に臨んだ。

 スターリンの演説は、ヒトラーや独ソ開戦直後の雄弁に語ったモロトフの演説とは違い、熱狂的あるいは情熱的といった部分がない地味な演説だった。

「集え同志達よ。武器を取るのだ、祖国のために」

 しかし、締めくくった言葉は偉大なる指導者の復帰を宣言するものであり、クレムリン内だけに留まらず、ソビエト全土の混乱は終息に向かいつつあった。

しかし、この2週間の時間の空白による影響は甚大で、その奔流に抗するには更なる時間を必要とした。


「……それで、西方面軍は為す術もなく敗走した訳だ」

 演説を終えたスターリンは、側近達と共に最高司令部(スタフカ)に入るなり、司令部を構成するメンバーから報告を受け、内容を聞いたスターリン。

 自身の事で悪びれる様子もなく、装甲部隊の名将グデーリアンとホート率いる2個装甲集団の両翼包囲によって、2週間という短時間で消滅し華麗なる戦果をヒトラーの下に献上した西方面軍に、不満をぶつけるように尊大な態度で言い放つ。


「既にミンスクは陥落。およそ3個軍25万が捕虜となり、即座の反撃は不可能です。ドイツ軍の先鋒はスモレンスクへ向かうものと思われます」

 国防人民委員セミョーン・チモシェンコ元帥が、最も危機に陥っている戦線についての報告をする。

他の戦線、特にウクライナ戦線より300kmも押し込まれている。

 まるで槍の穂先のように、ソビエトの心臓部、このモスクワに対して鋭利な切っ先を突き立てつつあるのだ。


「この失態は許し難い」

スターリンはため息と共に、自身の過去を重ね鬱憤と思い通りにならぬ怒りとを含んで吐き捨てる。

「パブロフと幕僚を召喚し、直ちに軍法会議にかけよ。理由はこの際問わぬ。後は適切に処断せよ」

適切に、と言う表現は、このスタフカ内の人間にとって大体察しがつく。

敗戦の責任を押し付ける事と、他の者への見せしめとする事。

妄想に怯え、鼠のような小男と化していた老人は、再び冷徹非情な鋼鉄の男に戻っていた。


 スターリンの有無を言わさぬ訓示に、視線を向けるチモシェンコ以下の赤軍幕僚達は戦々恐々と言った様相だった。

(圧倒的な敗戦の状況だが、だからこそ恐怖による統率が必要だ。今、内部分裂はスターリンの粛清以上の悲劇が生まれる事は、皆理解している)

 赤軍幕僚の中で、冬戦争においてフィンランドをソ連有利の講和の席に付かせチモシェンコは綺麗に丸めた頭の中で、民族浄化を掲げるナチスと比較するならばスターリンと運命を共にするのが現状やむを得ないと改めて考えを巡らす。

 もし、ナチス・ドイツがソ連を倒したと仮定した時、赤軍幹部に対して寛大な処置が行われるとは到底思えない。この場にいる者は、戦争犯罪人として処刑されるか強制労働に送り込まれるのは確実。もしくは民衆による報復の虐殺である以上、スターリンの下に従って徹底抗戦する以外に選択肢はない。

 

(大祖国戦争。いいえて妙ではあるが、このソビエト2億の人民にとっては、祖国存亡の危機。管理者を失って崩壊したソビエト、その後に訪れる極寒と飢餓に覆い尽くされた極北の地獄に、日本もドイツも興味を示すまい)

 赤軍全軍の引き締めのためには、この程度の粛清は気にしていられない。むしろ、敗戦後の悲劇を思えば、どれ程の犠牲を払っても足りないと言うことはない。


「同志チモシェンコ。モスクワ街道の封鎖はどうなっている?」

 スターリンは質問をチモシェンコに投げ掛ける。

「は。現在、スモレンスク前面ヴィテプスクの門に、撤退できた部隊も含め戦力を集結。ドイツ戦車部隊によるモスクワ街道突破を阻止致します。ドニエプル河中流域左岸に、予備の4個軍を投入し敵の両翼包囲阻止のため展開中です。ドイツ軍の突破を許したとしても、しばらくの猶予はできるかと……」

 チモシェンコは立ち上がり、壁面に掲げられたモスクワ以西の大地図に歩み寄ると指揮棒で指し示す。

 その位置は白ロシア(ベラルーシ)の北東部。南へ向かうドニエプル河と西へ向かうドヴィナ河の両河川によって、モスクワ街道が急激に狭められる場所。

 南西の入り口ヴィテプスクとオルシャの街から、北東の出口スモレンスクに至るまで、奥行き100km、幅20km程の回廊を形成する地峡を、その入口に因みヴィテプスクの門と呼ばれる。


(敵の中央軍集団は強力だ。せめて秋雨の時期まで時間を稼げれば、奴らを泥の海に沈められる)

 チモシェンコは冬戦争後に自軍が陥った苦境を、そっくりそのままドイツ軍に強いる計画を立てていた。

 10月から11月の二ヵ月間にかけて訪れる雨季とその後に続く冬将軍に。

 それまでの三ヵ月間をどのようにして耐え凌ぐか、それこそが難題だった。

 開戦前に召集していた80万の予備4個軍をドニエプル河東岸に配備し時間を稼ぎ、ハリコフ・トラクター工場等の戦車製造に不可欠なウクライナ工業地帯の集団疎開計画を、速やかに実行しなくてはならない。


 ドイツ軍の精強さは類を見ないほど洗練されており、雑多な教育もされていない言葉も通じない人種の寄せ集めの烏合の衆で、計画したような高度な戦いは望むべくもない以上、血河と肉壁をもってして、ドイツ軍を押し止める以外に方法はない。

 今、相対しているのは紛れもなく英仏を圧倒した世界最強の軍隊なのだ。


「よかろう。北部戦線と南部戦線は?ウクライナはどうなっている?」

 スターリンの興味は、最重要拠点ウクライナへと向けられる。

 チモシェンコが目配せし、説明に立ち上がったのは参謀総長ゲオルギー・ジューコフだった。

「此方は善戦しています。ドイツ方面より戦車多数を含むおよそ3個軍がキエフへと向かいましたが、突破阻止に成功。しかし、ルーマニア方面から枢軸軍の歩兵主体3個軍が北上中であり、第12軍がドイツ・ルーマニア連合軍に押し込まれ、第5、第6軍の前線が挟み込まれる形になっており早急な対応が必要です」

 クライストの第1装甲集団を国境付近で一時的に停止させたソ連第5・第6軍ではあったが、ドイツ第6軍、そして第17軍が本格的に攻勢を開始すると、一気に崩壊の兆しを見せる。

 一週間持たせるのが関の山だが、ジューコフもこの点は時間稼ぎでしかないことは承知している。


「キエフを基点とした防衛線を保持できれば良い。同志ブジョンヌイ、同志フルシチョフ。ドニエプル河よりファシスト軍を一歩も先に進ませてはならん!絶対に死守せよ!」

 スターリンは厳命する。

ハッダー!」

 コサック騎兵出身の元帥セミョーン・ブジョンヌイと、政治委員ニキータ・フルシチョフの二人が立ち上がり敬礼する。 

 ウクライナを東西に分かつドニエプル河下流の天然の要害を利用した強固な防衛線・スターリンライン。 その防衛線はドニエプル河に沿って北へと真っすぐ伸び、ヴィテプスクの門、更に北のラトビア国境を経てフィンランド湾へと至る2000kmに及ぶ要塞線は、マジノ線に並ぶ近代の万里の長城とも言える。

 とは言え、守備に就いている兵の質に関しては、ドイツ兵と比較すれば劣悪な状況だった。


「それと、同志スターリン。極東方面軍からもご報告が……」

 声を発したのはジューコフである。

「……日本か」

 苦々し気にスターリンは応え、ジューコフは頷いた。





7月4日

大日本帝國・東京



 霞ヶ関、外務省敷地内にある外相公邸内の応接室。

 じっとりと梅雨の湿気に覆われた室内はほの暗く、その暗さを払うようにオレンジ色の白熱球の灯りで中央部は照らし出されていた。

 今の公邸の主は松岡洋右(まつおかようすけ)

 応接室にて、松岡は珍しく訪ねてきた客を迎え入れていた。


「やあ、石川君。待たせて済まないね」

 和服を着流し、小柄な体格に蓄えた口髭が印象的な松岡は、応接室に入ってくるなりそう言って軽く手を上げる。

「いえ、お久しぶりです。松岡さん」

 白の海軍二種軍装を纏い、応接室のソファーから制帽を外して立ち上がったのは、同じ山口出身の海軍大佐・石川信吾(いしかわしんご)であった。

 石川の対面の席に、我が家の如く身を預けた松岡は、石川にも座るように促す。

 石川と松岡は同郷者の好で昵懇の間柄だった。


「だいぶお疲れのようですね」

 目の下にできたクマを見ての言葉だが、感情はこもっていない無機質なものだった。

「まあね。しかし、君にしては畏まった格好で珍しいじゃないか?それで、今日は何の用かね?」 

 海軍の中で恐らく随一の政将であるのは疑いようがない石川の存在。

 その石川が訪れた事に時期が時期だけに、嫌がおうにも考えを巡らしながら石川の挙動を見詰める松岡。


「そうですな。確かに今回はこれまでの石川ではなく軍務局第二課長として。また海事国防政策第一委員会の一員として、ここに来ております」

 つまり今回は私的な用ではなく、海軍の正式な使者として訪れているのだ、と暗に示している。

 淡々と話す石川の言葉は、その切れ長の双眸から放たれる怜悧な光も相まって寒々しいまでに無機質だった。


 軍務局第二課は、海軍省内での国防政策及び条約規約に関する事項を取り扱う部門で、石川のような制御不能になる人物を課長に据えるのは危険と人事局は判断していた。

だが、ある意味で「石川以上の適任者がいない」と言う軍務局長に就任した岡敬純海軍少将(山口出身、昨年就任)と、人事局長・中原義正(なかはらよしまさ)海軍少将と図り、課長就任に持っていった風聞がまことしやかに語られていた。

 中原は岡、石川と同じ山口出身。積極的な南進論の推進者でもある。

 対米交渉はこのまま推移すれば必ず失敗する、との危機感が彼らを突き動かしている。日蘭交渉が失敗に終わり、アメリカからの最後の石油の駆け込み輸入で、辛うじて備蓄を確保している。


「松岡さん、単刀直入に申します。国防を担当する我が海軍としては、貴方が主張する北進論は容認できない。この際引っ込めて頂きたい」

 まるで自らが海軍を率いているかのような発言に、松岡は眉をひそめる。

 石川は、海軍内で毛嫌いされる陸軍や、政府内部との交渉と言う汚れ役を一手に引き受けている。故に、双方の内部事情に精通している。だからこそ、陰で悪し様に言われようと、誰も石川を止められる者はいない。

石川本人も自覚しており、人に付け入らせる隙を見せぬよう立ち回っている。


 この日の2日前の7月2日。

 天皇臨席の下で開催された御前会議において、日本の行く末を決める「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定された。

 独ソ開戦による国際情勢の激変によって御前会議が開催されたもので、バルバロッサ作戦を同盟国である日本に通達すらせずに始めたドイツに、近衛文麿は激怒し三国同盟破棄を口にする程であったが、簡単にできる事でもなく、その発言は無視された。

 中国撤兵問題と日米通商条約を巡る制裁緩和の日米交渉中の状況下で、日独伊ソ四国同盟構想を模索した近衛の求心力の低下は決定的となる。

 仮想敵国第一位にソ連を指定していた陸軍は、この機会を逃す事なく「独ソ開戦に乗じ、中立条約を破棄し対ソ開戦を期すべし!」と声高に主張した。この事は俗に北進論と呼ばれる。

 この主張に、日ソ中立条約の立役者であった松岡が同調し「対ソ即時開戦、南進論の停止」を主張した。

 中立条約を結んだ人間がそれを自分の都合で破棄するように迫る。この豹変ぶりが松岡の声望を地に貶めた。

 だが、彼なりに信じる所もあった。


「今、対ソ開戦など始められては、海軍部内での作戦計画に影響が大なのは明白。南部仏印進駐は、統帥部で2月に決定している事で、中止はあり得ません」

 やはり、感情なく事務的に語るかのように淡々としている。

 遡る2月2日、大本営政府連絡会議において「対米武力戦問題」が議題に上がり、対ソ国交調整と並行して南部仏印進駐が計画されていた。


「待て。南部仏印になど手を出せば、対米交渉はたちまち行き詰まるのは明白!スターリンは日本の目を南に向けさせ、あわよくば日米を相争わせ、三国同盟を利用して敵の敵は味方の理屈で、イギリスと同じくアメリカを味方に引き込む魂胆なのだ!そうなる前の今!ドイツと共にソ連を滅ぼさねばならん!」

 石川とは対照的に熱を帯びて語る松岡。


 不思議な事にドイツ外相リッペンドロップは、シンガポールを落とせないかと日本に南進を仄めかしていた。

ドイツは最後の敵を英米として日本をけしかけその間にソ連を単独で倒す、つまり勝つつもりでいて日本に分け前を与えたくない証左だ、と松岡は踏んだ。

(ドイツと共に一気呵成に攻めかかれば、いくらソ連とて持ちこたえられるはずはない)

松岡の脳裏には、4月13日の日ソ中立条約締結日の出来事が浮かんでいた。


「これで背後を気にせず南へ向かえますな」

 日ソ中立条約締結後の帰国する松岡の見送りに、暗殺に怯えるスターリンがわざわざ駅のホームにまで出て来て、松岡の耳元で囁いたこの言葉が頭から離れない。

 松岡にとってその時はわからなかったが、日本の目をソ連から引き離し二正面作戦を回避する事と、万一独ソ間に不和があった場合、日本を南方へ向かわせ敵の敵は味方の論理で英米を自陣営に引き込む事の2つの目的が含まれる事が、独ソ開戦で発覚した時、松岡は戦慄を覚えた。

 この恐るべき独裁者に、日本は掌の上で踊らされているのだと、独ソ開戦によって確信へと変わった。

 南へ向かうのは、止めようの無い地獄へひた走る奈落への道を転がり落ちるようなものだ、と痛切に実感した。


 その松岡の言葉を聞いて、ため息を吐く石川。

「フフッ、対米交渉など日独伊ソ四国交渉が破綻した時点で終わりです。松岡さん。残念ですが、貴方の主張が通る事はないのですよ。我々が南部仏印に向かうのは対ソ開戦以上の急務である事は、感じておられるはず。北へ向かっても得られる物は少なく、その間に英米が仏印に進駐すれば我々の道は完全に閉ざされる。そうなった時、松岡さんの首が飛んだくらいでは済まない責任問題となりますが、よろしいのか?」

 鼻で笑いながら手のひらを返すことも、全く良心の呵責も感じる事なく言い放つ石川に、松岡は絶句する。


「松岡さんは把握しておられないかもしれませんが、英国は5月にヴィシーフランス・レヴァント(シリア・レバノン)に侵攻しました。同じヴィシーフランス・インドシナ南部にその手が伸びるのは、もはや時間の問題。それに松岡さんの言われる対ソ開戦も、現実的に不可能であることもお伝えしておきます」

 石川は更に衝撃的な内容を口にする。

「そんな馬鹿な話が!そんなはずはなかろう!」

 動揺しながらも怒りを石川にぶつける松岡。


「田中作戦部長は息巻いていましたし、参謀本部の大半は勿論乗り気です。しかし、実際に動員を行う省側の武藤局長、佐藤課長が難色を示していることはご存じないと見えます。対ソ戦に踏み切るには第一次動員に38万トン、第二次動員に90万トンの船舶徴用と兵員輸送に一日25列車、軍需品5列車が必要でこれを揃えても30個師団に足りません。特に船舶徴用量はこのままでは調達不能であり、これを実行するには支那事変の解決は必須であるというのが陸軍省の試算です。事実上手詰まり。近衛首相や松岡さんに、東條陸相の説得はできないでしょう?仮にできたとしても、海軍は仏印進駐を断固実行いたします」

 石川は松岡の怒りを一蹴する。


 この時、陸軍の動員に関しては75万名の大規模兵力投入を要請する参謀本部第一部長・田中新一たなかしんいち陸軍少将と、財政的理由から20万名規模に抑える陸軍省軍務局長・武藤章むとうあきら陸軍少将との間で激論が交わされた。両名は同期生でもあったが、双方が主張を譲ることはなく議論は平行線を辿り、両者の折衷案で落ち着くことになった。

 この動員は通常の関東軍特種演習とは違う意味を持つとして、関特演と呼称される。

 関東軍14個師団が戦時定員による兵員約2倍増加に加え、内地より4個師団、河北2個師団、朝鮮2個師団が動員され22個師団。最終的に各種輜重部隊を含む総計で450大隊規模、75万名と2個飛行集団1100機を展開することになる。

 輸送船舶は延べ150万トン。

 参謀本部は対ソ開戦準備完了を8月末を目途とし、ソ連極東軍のヨーロッパ方面動員による半減(バイカル以東のソ連軍兵力86万、戦車1700、航空機2700機、内務人民委員部隊を合計すれば100万と関東軍調査班は報告)を期し、対ソ開戦に踏み切る計画だった。


 その陸軍の計画も踏まえた上で、対ソ開戦の時期は遅きに失していると石川は判断、既にアメリカによる全面禁輸は時間の問題と見切りをつけていた。

 この時、アメリカ国内での全面禁輸においての議論も、推進派の商務省の意見が支配的で、戦争発展の可能性から反対する国務省の主張は押しのけられつつあった。

 何より石川が恐れていたのは、イギリスによる蘭印領インドシナ油田地帯の直接の破壊の可能性まで見据えての事であった。

(自己保身のためにはかつての同盟国すら攻撃するような連中)とイギリスを侮蔑を込めて石川は見下していた。

 加えてイギリスだけではなく、駐米海軍武官から送られてくるアメリカ世論の動向も決して無視できない情勢へと変化している。

 1941年後半に入ってのアメリカ世論は、自国の積極的参戦には以前反対が大勢(ほぼ9割)を占めるが、それ以外の自衛的措置或いは枢軸側の膨張を食い止める軍事的行動を容認する内容もまた大勢を占めていた。

 つまり、アメリカの自発的宣戦布告による開戦はない。

 だが1942年以降では、両洋艦隊法で成立した大艦隊が就役を始め、日米の戦力格差が表面化する。

 日本がこれまで堅持してきた日米7:10の戦力比率は完全に崩れ、その潤沢な海軍力によるフィリピンを基点とした南方への海上封鎖は可能となる。加えて帝國海軍の燃料枯渇による行動不能。

 これは日露戦争以後より続く米海軍のロジスティックの完成であり、この想定が現実の物となった時には既に戦いは不可能となり、戦わずしてアメリカの勝利は確定する。

 アメリカの不戦を維持しつつ財政的軍事的圧迫による無血の日本の屈服に、黄禍論と中国同情論による反日姿勢に傾いたアメリカ世論は制裁を加える事自体には決して反対をしない。

 

 勝算は無いに等しいが海軍が戦えぬ等、口にする事は許されない。そんな事を言えば国内の不平不満、怨嗟が全て海軍に転嫁され、圧倒的世論形成による海軍不要論に伴う陸軍による海軍吸収と内乱の可能性。そして戦機を逸した暴走的開戦の流れまでありうる。面子ももちろんあるが、海軍の存在そのものに疑問符を投げかけられれば、それこそ恐ろしい事態になりかねない。

 むしろその可能性が高いと言うのに、口で言うだけで何ら手立てのない避戦派は何も分かっていない。


(最終的に戦いとなるならばもう時間の猶予はない。今のこの情勢で、中途半端な決断など通るはずがないのだ。大陸からの全面撤収を含め恥も外聞も全てを投げ捨てた屈従か、ありとあらゆる国力全てを投じた一戦があるのみ。ならば、答えは一つ……!)

 妥協を見いだせる状況は過ぎた、とそのような考えを顔に一切出すことなく、石川は立ち上がる。

「松岡さん、もう事態は貴方の手を離れているいるのです。どうか今は静かにご自愛下さい」

制帽をかぶりながら、石川は立ち上がる。口調は丁寧だが「黙って大人しくしていろ」と暗に示した事実上の脅迫に等しい。


「待て!君はどのような事になるのか、分かって言っているのだろうな!?」

松岡は尚も怒りを込めた眼差しを石川に向け、引き止める。

「無論、承知の上です」

視線を合わせる事なく、冷たく言い放ち部屋を去る石川。

一人になった部屋で松岡は項垂れる。

「愚かな……」

小さな声を漏らした。

その後、松岡が固執した外相の座は、第二次近衛内閣の総辞職によって剥奪される事になる。松岡個人を罷免するための総辞職だった。





7月6日

東京・市ヶ谷



 陸軍の本拠地ともいうべき市ヶ谷台の兜松に居を構える陸軍航空本部。

「いやはや、参ったね。大事になるとは思ったがこんな大騒ぎになるとはね」

 その総監室にドイツ技術視察の長旅から帰還した元航空総監こうくうそうかん軍事参議官・山下奉文やましたともゆき陸軍中将は、出迎えた総務部長・鈴木卒道すずきよりみち陸軍中将と共にそう言いながら室内に入った。


「おう、山下か。戻ったばっかりだってのに満州に行くんだって?」

 屈託なく二人を迎えたのは、現航空総監・土肥原賢二どいはらけんじ陸軍大将。好々爺のように振る舞う温厚な人柄だった。強面で巨躯の山下と比較すると二回りも小さく見えてしまうほどだ。

「は、関東軍防衛司令官を拝命する流れとなりましたので、航空部に先に挨拶回りにと。鈴木君も留守の間の代行、お疲れさんでした」


 「まぁ、座れや」と土肥原に促されソファーに腰を下ろしながら、労いの言葉を口にする山下。

 関東軍防衛司令部は関特演によって新設された後方警備部隊であり、ドイツ視察途中に航空総監を解任、軍事参議官へと補職されており明らかに事実上の左遷に等しい人事であることは明らかであった。

 鈴木は航空総監代理として山下不在の職務の一切を切り盛りしていた。

 

「いえ、山下閣下が無事お戻りになって、胸をなでおろしておりました。独ソ開戦とシベリア鉄道封鎖の報に接し、一時はどうなる事かと……。閣下がおられれば、安心できたというものですが残念です」

 その言葉に応えて、鈴木は安堵の声を漏らす。

 山下が満州に到着したのは独ソ開戦後の6月26日のことで、情勢によっては拘束される可能性さえあった、まさに滑り込みの帰還だった。

「おいおい、俺の前でそういうことを言うもんじゃないよ鈴木。俺じゃ務まらんような言いぶりじゃないか?」

 真剣な風にも見えるように装いながら、土肥原は鈴木に突っかかるように言う。

「いや、そういうつもりでは……」

 温厚な土肥原から真顔で言われ、鈴木は窮する。

 有能な切れ者として恐れられる鈴木を困らせてみたいとの、子供心からの事だ。 

「俺が不在だってんで、好き勝手できてやり易かったんじゃないかね?」

 そこに山下が追撃ちをかける。

「まさか!悪い冗談はおやめください」

「じゃあ、カミソリ(陸相東條)の相手をするのは鬱憤が溜まるから堪えるという方かね?」

「それは否定致しません。カミソリなどと、それこそ悪い冗談です」

 意地悪く山下は鈴木をからかう。


 山下と鈴木の二人は元々、今は落ちぶれたがかつて陸軍内で皇道派と呼ばれる一大勢力の一角を担った俊英達であった。

 今現在、陸軍内で主流派として牛耳っている東條英機らに率いられる統制派とは、水と油で決して交わることはない。

 その皇道派の中で特に鈴木は、陸軍統帥綱領改定に参加し短期決戦・包囲殲滅論の実践をまとめ上げた陸軍屈指の戦略家として評価されている。

 統帥綱領は日露戦争での奉天会戦での本来の目的であった、ロシア野戦軍の殲滅が果たせなかった事の反省を踏まえて完成されたものだ。

 敵軍殲滅には大規模な砲火力の投入と、その砲兵部隊を迅速に展開する機動力が重要であると砲兵科を専行。

 旅順・奉天でもロシア軍の砲火力が脅威であると分析するが、苦戦の実態を知られることを恐れた陸軍内では黙殺され、陸大教官などのごく一部に配布されるに留まった。白兵戦に特化した戦闘教義は日露戦争の美化された幻想に基づく、誤った思想のまま引き継がれている。

 戦闘の実態を研究する陸軍戦史課などは、この白兵戦至上主義は誤りであると共に、火力における優越こそ重要であると既に結論付けていた。


 その後、第一次大戦後のフランス駐在を経て、砲火力展開に代わる新たな手段として航空部門に着目。

 そして、1936年に血気盛んな若手が暴走に及んで発生した二二六事件と、その後の粛軍によって主流派から追い落とされて中国派遣の砲兵部隊に左遷されたが、その才覚を惜しまれ、中央から一歩下がった航空部門に返り咲いた。今ではその地位に甘んじることなく、事実上の航空部門のトップとして航空の発展に尽力。

 総務部長は、各航空部隊からの意見陳情を受け付けたりもしており、その掌握範囲は多岐に渡る。

 だが「皇道派に属していた」という理由と、作戦課長時代に士官学校で5期も先輩である東條英機を「用があるなら出向いてこい!」と面罵したことで、怒り狂った東條に目の敵にされている。


「大局の見えぬ東條など、小畑閣下の足下にも及びません。小畑閣下の計画通りに進んでおれば、支那の如きに足元をすくわれることなく対ソビエトに備えを固め、今のように右往左往する事もなかったでしょう。現状の兵備では全く不足しており、対ソ開戦は不可であると断じます。それが残念でなりません。返す返すも、真崎が殿下の不興を買って疎まれていたのに気付かず、永田や辻ら統制派に付け入る隙を与え、むざむざあの事件(二二六事件)を起こされたのは一生の不覚!小畑閣下を失った陸軍は、もはや大局を見据える戦略の常道に復する機会を永久に失いました。私が陸軍を辞めぬのも、閣下の意思を受け継いでただ、陛下の御身を守らんがためです」

 独ソ開戦と関特演に伴う大動員の発令と、機密費を用いた皇道派への讒言から宮中工作、その後に発生する二二六事件そのものが仕組まれたことだった事を指して、拳を強く握りしめうち震える鈴木。

 山下の一言が、鈴木の鬱積した内心を曝けさせてしまう。


 小畑敏四郎おばたとしろう陸軍中将。

 皇道派と呼ばれた派閥の真の主導者で(作戦の鬼)と謳われる対ソ戦研究の第一人者。

 鈴木と共に陸軍統帥綱領改定を主導した小畑の戦略は防衛的思考であり、孫子の兵法「百戦百勝は善の善なるにあらず、戦わずして人の兵を屈する事こそ善の善なるものなり」の格言を実践する事、抑止力こそ至高とする考え方であった。

 第一次大戦時、ロシア帝国軍と共に観戦武官として東部戦線を詳細に視察した小畑は、その後に誕生したソ連の躍進と実力を、過剰評価と見られる程警戒する。

 日本はソ連と正面切って戦わば敗北は決定的で無謀と判断し、緩衝地帯としての満州確保とソ連が満州介入の意思を損なわせる徹底的な防備を固める事を至上とし、それでも介入があった場合は、鈴木と共に策定した満州にて、短期決戦によってソ連野戦軍を包囲殲滅し交戦意思を打ち砕く構想をもっていた。

 小畑の持論は「防戦のみでは戦局を決定するは叶わず、防勢の中であっても積極的攻撃の機会を捉えるべし」であった。

 統帥綱領改定を終わらせた小畑と鈴木のコンビは「小畑は作戦の神様、鈴木は作戦の神童」とまで評価される程に達していた。


 土佐尊皇派の維新志士・小畑孫二郎(おばたまごじろう)を父に持っていたため、その影響を受け尊皇思想に傾注。当時権勢を誇った同じ思想を持つ荒木・真崎の目に止まる。

 参謀本部を私物化しようとした謀略の人と言われるが、実際には無私を貫く頑固一徹、信念ある気骨ある人物で、規律に厳しく部隊指揮官時は入隊した初年兵への制裁(いじめ)を禁止し、守らない者は容赦なく営倉にぶちこむが面倒見が良く、陸大教官として赴任した鈴木も、同じ教官であった小畑の、その鬼才と人柄に魅了され信奉者となった一人であった。

 小畑も、鈴木のエリート的な傲慢さもあったが緻密、かつ冷静、判断力と決断力に優れる部分を痛く信頼し、二人は鉄の結束で結ばれていた。


 小畑のその鬼才がいかんなく発揮されたのは、1932年に発生した第一次上海事変であった。

 1月28日の事変勃発時、作戦課長だった今村均いまむらひとし陸軍大佐は現地に派遣され、当時陸大教官であった小畑は急遽、参謀本部作戦課長へと抜擢(2月10日)。

 3日と言うわずかな時間に上海派遣軍(2個師団)の編成と、その上陸地点を選定してこれを投入した。

 兵員輸送のための大発(大発動艇)を大規模に投入した最初の実践運用、そして、海軍でも空母加賀(当時、三段式飛行甲板)を含む第一航空戦隊が実戦参加した世界初の事例にもあたる。


 この上陸地点は七了口と言う名も知られぬ小村で、当時ほとんどの人間が把握していない場所だった。

 揚子江と湖沼地帯が入り混じり、進軍すら困難で場合によっては遊兵化させかねない上陸選定が極めて難しい場所だったが、鈴木と共に過去に視察で目を付けていた小畑の指導は極めて的確で、現地で防衛する日本軍(1個師団2個旅団)と中国軍(19路軍・第5軍計7個師団)の激闘中の背後を突く「衝背作戦」を展開。

 これは遡る事55年前の西南戦争で官軍・黒田清隆が薩軍に二正面戦を強いた事例を応用し、かつ短期間解決を企図したものだった。


 これが決定的な一手となって、包囲されることを恐れた19路軍を撤退に追い込み、上海派遣軍上陸(3月1日)からわずか2日で事態は終息(3月3日)。

 欧米の介入があり得る国際情勢も考慮に入れ、大陸での戦線拡大は唾棄すべき行動とし短期解決を図った小畑の、その後の展開も見下した傲慢ではなく正確に予見した作戦計画を立案する能力を発揮した数少ない事例となる。

 七了口上陸作戦の実行に当たり、特例中の特例で、護衛に当たる海軍軍令部参謀兼務という異例をもってわずかな時間で作戦を計画して完遂したのは、後にも先にも小畑一人。


「参謀本部に小畑あり」

 強襲上陸から包囲戦、機動戦から火力戦と作戦における全般に精通した小畑が、作戦の鬼、或いは神とまで称えられた所以。

 統帥綱領改定も、国力に劣る日本の中で自分達が実践することを前提にしたものであったが、その目的は冷静な分析と判断を前提とした精神論であったが、前提はないがしろにされ、優秀な人間特有の言葉足らずにより誤解を招き、闇雲な精神論の一括りで曲解されてしまったのは悲劇でもあった。

 そして、常人離れした余りにも鮮やかなこの成功は「中国兵恐れるに足らず」の傲慢な認識をも植え付けた。


 小畑と鈴木が改定した統帥綱領に補給の点が書かれていないが、これは短期決戦による殲滅以外に方策がなく、総力戦に耐えられる補給を持続させる国力がないことを把握していたからに他ならない。

 この綱領の内容の真の意味は、用意周到に準備された強大な敵とは極力戦わず、外交で戦争を未然に防ぐ安全保障に重点を置いたものだった。


 この小畑の事変勃発後の人事は、陸相だった荒木と参謀次長だった真崎の両名が、小畑の手腕を評価しての事だが慣例を無視した異例の人事だった事。

 そして、事変終結後の事。

 事変を一月足らずで解決に導いた小畑が作戦課長を退任する時。

「統帥、おおむね常道に復したるを喜ぶ。終わり」

小畑が短く挨拶した。

「正しきを踏み、志向して正しきを踏む。以上」

その言葉を鈴木が引き継いだ。小畑の手法を自分も踏襲するとの宣言だった。この挨拶が反感を買ってしまった。


 統帥綱領改定の実績はあったのだが、本来大佐で就任するべき作戦課長に、鈴木が異例の中佐で就任した事は、風聞のみで実情を知らない周囲から見れば「何たる傲岸不遜!」「皇道派の独裁ではないか!」と批判が巻き起こるのは当然だった。

 そして、この人事によって真崎参謀次長の下、小畑は参謀本部第三部長に昇進、鈴木は作戦課長として第一部を実質的に支配した体制が出来上がった。

 これらの一連の出来事が重なり、参謀本部の私物化と判断した参謀総長・閑院宮の逆鱗に触れる。


 この皇道派の隆盛極まる1933年、陸軍内で一大議論が持ち上がる。

 永田鉄山参謀本部第二部長の対支一撃論と小畑参謀本部第三部長の対ソ戦準備論の衝突である。

 この論争の最中の1934年に荒木陸相辞任後、真崎参謀次長の教育総監栄転と皇道派のトップが更迭され、小畑も陸大へ飛ばされた直後に陸軍士官学校事件が発生。

 主要人物を失っていた皇道派は、この件でほぼ壊滅。

1935年に士官学校事件余波の永田鉄山暗殺(相沢事件)と、統制派と皇道派の間で流血まで起きる不穏な空気の中で、1936年を迎える。


 小畑は相沢事件から二二六事件まで、いやそれ以前の五一五事件から「陸軍は天皇陛下の軍なのだ。義憤に駆られようが私利私欲で動いてはならぬ」と若手の暴走を抑えようとしたが、統制派によるでっち上げと噂される陸軍士官学校事件、相沢事件以降の皇道派将校の主張全てを黙殺した陸軍中央の対応への不信と怒りは、信奉していたはずの小畑の抑えですら効かなくなっていた。


 そして二二六事件は、既に暗殺され故人となった永田がかつて計画し未遂に終わった、三月事件を部分的に踏襲する形で実行に移される。

 皇道派将校は行動を起こすにあたり、真崎を後ろ楯にしようとしたが、かつて三月事件を第一師団長として実質的に潰した真崎が、この一件で黒幕とされたのは皮肉以外の何物でもない。

 寝耳に水だった鈴木は、将校達がどこで計画を知ったのか疑念を持ったが、時既に遅く、まるで亡霊の所業のように事件は引き起こされた……


 事件後、あらぬ嫌疑で国賊の濡れ衣を着せられ誹謗中傷の嵐が吹き荒れる中、小畑は陸軍の将来に絶望し辞職して隠棲、身体の不調に陥る。

 その時、鈴木も共に陸軍を辞めるつもりだったが、「お前まで辞めては誰が陸軍の抑えとなるのだ?」と小畑から諭され陸軍に留まる。

 二二六事件後の縮軍で左遷された鈴木が、それでも異例の昇進を重ねて陸軍航空本部の中核に据えられるまで栄達できたのは、その能力を惜しまれての事だ。普通なら左遷されてそのまま予備役コースを辿るはずだった。

 山下もその派閥に属し、事件の関連者を擁護する一人だったが、不遇の扱いを受けている。

 現在は予備役となったが(在野の智嚢ちのう)と呼ばれ、知る人は大樹の如き人物。その小畑の影響力の波及と二二六事件の再来を恐れる内務省、憲兵による厳重な監視下に置かれている。

 しかし、それは小畑の実像からは程遠い虚像に過ぎない。

 対ソ戦主戦論者と思われているが、それは小畑を追い落とすライバル永田鉄山らに率いられた統制派による讒言と謀略だった。機密費利用による荒木・真崎・皇道派悪玉論の吹聴は、正しく真実のごとく独り歩きを始める。

 対ソ戦を画策する好戦的な戦争狂。その事が誤りであると知られたのは遥かに後で、この事実は天皇にすら讒言を信じ込ませているほどの悪質なものだった。

 この二二六事件で、小畑と鈴木は陸軍中央から追われ、対ソ戦を重視した小畑派とも言うべき皇道派の勢力が一掃された翌年には、廬溝橋事件を発端とする支那事変が勃発。

 戦火は飛び火し、北支~上海~南京へとなし崩し的に拡大。退きようのない大陸の泥沼へと引き込まれていった。 



「鈴木の言い分も分かるが、公の場で口にするのは禁忌だ。君らに同情する余地は多分にあるが、そのことは今は聞かなかったことにする。しかし、山下の扱いは目に余るのは事実。できれば俺の下で鈴木に支えてほしい所だが、どこで連座するか分らんから、気を付けるんだな」

 二人を交互に見つめ土肥原は「年寄りの忠告だ」と語り、両名は頷く。

 20年間大陸に勤務、軍規に厳しく敵地の人間にすら尊敬され土肥原の部隊には難民がついて歩くほどだった。

お人よしの土肥原にとっては、陸軍内部の派閥争いは無縁なものだったが、二人の先行きを心配したのだ。

 尤も土肥原も、鈴木の気難しさとその経歴が尾を引き、会う前は使えるような人物か不安を感じてはいたが、その仕事ぶりの有能さは買うようになっていた。

 

「そう言えば、山下が欧州に行っている間に、鈴木が携わっていたことで快挙を成し遂げたぞ」

 元の好々爺の表情に戻り、嬉し気に土肥原は山下に語り掛ける。

「ほう?それはどのような?」

 山下も興味津々で鈴木を見る。

「ああ、キ46Ⅱの事ですか?確かに」

「ん?百式の性能向上型の事か?」

 山下の問いかけに、鈴木は頷く。

昨年(皇紀二六○○年)制式化された百式司令部偵察機、通称百式司偵。

世界初の長距離戦略偵察機と言える九七式司貞の後継となる偵察機で、その長大な航続力と零戦を上回る速度性能を有した極めて優秀な偵察機として制式化されたが、それでもその速度性能は要求値を割り込んでいたため、改修が続けられていた機体だった。


「はい。3月に行われた下志津しもしづ(千葉県・陸軍飛行学校)偵察部の実測値で、試作2号機が高度5800mで600km/hの大台を突破しました。陸軍機、いや海軍機を含め日本機最速の記録樹立です」

「おお……!空冷発動機では不可能と言われていた、時速600kmの壁を抜いたのか!」

 喜びの声を上げる山下。

「必須性能を要求しながらも設計自体の細目は指定しない、ま、これは海軍の九六式の先例を踏襲しただけですがね。縛りとなるような事を我々が口出ししたところで、技術屋に敵う道理はありませんし、邪魔にしかなりません。もちろん急かしはしましたが、操縦性、安定性、視界、速度、高空性能、いずれの要求も達成する久保技師らの三菱設計陣は、予想以上の良い仕事をしてくれました。このキ46Ⅱの量産に移行中です」

 やや自嘲も入れながらも、まんざらではないように鈴木は語る。

 前面投影面積の大きい空冷発動機(星形エンジン)では、空気抵抗が必然的に大きくなるため、計画時600km/hを越えられないと言われていた。当時、発動機の出力自体が900hpに達していなかった事も大きな要因だった。

 高度5000mで600km/hの過酷な要求を提示されたキ46は、製作する三菱の希望で自社製発動機ハ26(海軍名・瑞星11型850hp)を採用するのを航本は可として開発を命じ、初期型では要求値を満たせなかったが540km/h、出力を向上させたハ102(瑞星21型1080hp)に換装したことでようやく目標値をクリアした。


「設計に自由を与えた鈴木の放任主義が、見事に的中した訳だ。陸軍航空としては鼻が高い。直接関われなかったのは残念だが、まあ、この際それはよかろう」

 朗らかに土肥原は笑って見せる。

「そう言えば速度で思い出したが、戦闘機でも高速機の生産が始まるんだったな?確か……」

「キ44です、土肥原閣下」

 今度は山下が答える。

「ああ、そうそうキ44だったな。呆けるには早いつもりだったんだがなぁ」

「かねてより不要論の声の大きかったキ44(二式戦闘機鍾馗・制式化未)も、ようやく6月に試作機増産に着手しました。速度性能は、発動機を改修でキ46に比肩しうる、重戦としては上出来と中島設計陣の小山技師らも太鼓判を押しています。残念ながら川崎の重戦(キ60)は試作機の完成にはこぎつけましたが、キ44に劣ると判断し計画は凍結、軽戦型式のキ61(三式戦闘機飛燕)の試作を急いでいる状況です」

「重戦も生産の目途が立ったのか。キ60は液冷発動機で重戦の組み合わせでやむを得ないが、キ61の方に期待しよう。まぁ欧州で見てきた機体はメッサーシュミット然り、スピットファイア然り、ほとんどが重戦仕様だったからな。必要に応じて尖った性能も持たねばなるまい」

 したり顔で腕を組んで、山下は頷く。


「ええ。キ44は翼面荷重が過大、上昇加速に特化した暴れ馬のような機体なので、格闘戦に慣れた乗員は間違いなく文句を言うでしょうが、発展性は十分に見込まれます。一部の飛行教官には高評価のようで、九七式だろうが、キ43(一式戦闘機隼)だろうが、海軍の零戦ですら落とせると豪語する者もいるようです。軽戦教官の加藤(健夫・少佐)が絶賛していたのは正直なところ驚きましたが」

「ほぅ、意外な事だ。旋回性抜群の九七式を墜とせるとは、これまた豪気な。そうか。これでノモンハンの戦訓が活かせる機体が出来上がった訳だ」

 山下は再び声を上げる。

 格闘戦が主流とされる中で、九七式戦闘機は単葉機の中では最高の旋回性能を誇り、戦闘機のスタンダードな要求項目に組み込まれている感があった。

 新たなキ44は、偏重傾向にあるこの流れに、一石を投じる方向性を示した機体と言える。ソ連と衝突したノモンハン事件では、初期こそ九七式戦闘機が持ち前の格闘性能で圧倒したが、後半ではその戦訓を経たソ連戦闘機の急降下攻撃(ダイブ)に苦戦を強いられる。

 九七式戦闘機の加速、上昇、最高速度の面で5年前の機体に遅れをとる事を露呈する結果が導き出されたこの戦訓は、重戦闘機の開発を促進させる大きな要因となった。

 

「キ43とキ44の生産改修で計画停止中の次期戦闘機(キ64重戦闘機・計画のみ)は、キ44を叩き台に、キ43の旋回性能と安定性、航続力を持たせ武装強化した万能機化を図りたいと個人的には考えております。土肥原閣下の言われるように、横槍が入る前に進められる物は進めておきたいと……」

 陸軍航空本部からいつ放逐されるか分からない自身の運命を予感してか、そう語る鈴木。

 陸大同期の石原莞爾が待命となり、予備役に入れられるのを鈴木は知った。

 石原は公然と東條批判を繰り返し半ば自業自得だが、鈴木は縮軍以降では落ち度はないどころか、貢献は十分に果たしている。

 だが、声望もあり陸軍大臣候補との呼び声の高かった山下が、職を転々とさせられているのだ。次は自分の番だろうと覚悟を鈴木は決めている。

 

「今月22日から、各務ヶ原(陸軍航空基地)にて我が陸軍戦闘機とドイツ空軍メッサーシュミットとの模擬空戦が行われる予定となっています。飛行実験部より石川少佐、荒蒔大尉、坂川大尉、岩橋大尉の手練れ4名が参加し、ドイツの操縦士パイロットはフリッツ・ロージヒカイト大尉。向こうも英仏の最新鋭機を相手に十数機を墜とした撃墜王エース。この来日が成ったも閣下のドイツでの交渉の賜物。機体は一級品に腕も超一流、キ44の実力を知らしめる良い機会です」

「おお、興味深いね、それは! 我が陸軍航空部がドイツ空軍に劣らぬことを見せつけてやりたまえ!」

 山下は身を乗り出して鈴木の肩を叩く。

「……ハぁ」

 山下の手に力が入りすぎ、叩かれた側の鈴木はたじろいだ。

 ドイツ空軍を支える欧州現役最高峰の戦闘機と直接比較できる、またとない好機。

 メッサーシュミットBf109E7と、陸軍だけとは言え現在装備している九七式戦闘機を含む、最新鋭の一式戦闘機隼・二式戦闘機鍾馗・二式複座戦闘機屠龍(キ45改)の揃い踏みとなる予定で軍関係者でなくとも心踊るオールスターキャストとなっている。


「直接見れないのは残念だがな……」

 満州への赴任はその直前の16日の事だ。それを思い寂しげな表情を浮かべた。

「軍命だが、悲観してはならんぞ。隠忍自重、お前ほどの男なら必ず復帰の道はある」

 今度は山下に同情して、土肥原が山下の肩に静かに手を置いた。

「分かっております閣下。忠勤に励むことこそ至上と心得ております」

 山下は肩に乗った土肥原の手を静かに下ろさせると、爽やかな笑顔を向けて立ち上がる。

 そうか、と土肥原は小さく呟き立ち上がると、鈴木も続いて立ち上がった。

「山下閣下がお戻りになることを信じ、健闘をお祈りしております」

「鈴木、貴様もまた会う時まで壮健にな」

 三人はお互いに敬礼をし合い別れを告げた。 





7月7日

アメリカ合衆国・ノーフォーク



 アメリカ東海岸中央部に位置し、西半球で最大の軍港にして、アメリカ大西洋艦隊母港として機能するノーフォーク海軍基地。

 奥行200kmもあるチェサピーク湾の湾口部に注ぎ込むジェームズ河に対して、西向きにしていくつもの桟橋が並び、一番北側の11番埠頭には係留された公試中の新造空母・ヨークタウン級3番艦ホーネットの姿もあった。

 ジェームズ河を挟んで対岸には、ホーネットを進水させたニューポート・ニューズ造船所も所在する呉と並ぶ一大根拠地だ。


「長官。第19機動部隊及び第1海兵旅団マーストン准将より、アイスランド上陸は無事終了と報告がありました」

 大西洋艦隊司令部。

 日本が関特演動員を開始した7月7日。アメリカ海軍大西洋艦隊は、空母レンジャーを基幹とする第19機動部隊を護衛として、ジョン・マーストン准将率いる第1海兵旅団を、イギリス軍が占領していたアイスランドへと上陸させた。

 5月にアメリカ貨物船ロビン・ムーアがドイツ潜水艦U-69によって撃沈されると、これを好機と捉えたルーズベルトはアメリカ船の安全海域を西経26度(アイスランド西端)に設定し、「イギリス船舶も含む西半球に領土を保有する国籍の船舶は、アメリカ船舶と同様の護衛の対象とし、哨戒圏内に侵入した艦船は敵対行動と見なされよう」とコメント。

 この出来事を重く見たヒトラーは、U-69艦長を叱責するが、アメリカが行動を起こす大義名分を与える。

 アメリカ軍のアイスランド進駐は、西半球を防衛する意思の明確な表明であり、北大西洋上の中央に直接的橋頭堡を確保する形になった。


「インディゴⅠからⅡへとシフトを命じる」

 参謀長から報告を受け、手にする資料から一目もくれることなく、舌打ちをした後にぶっきらぼうに命令のみを発する大西洋艦隊司令長官アーネスト・キング海軍大将。

 インディゴはアイスランド進駐における作戦名であり、常駐へ向けての物資の搬送及び兵力増強がインディゴⅡであり、文字通り作戦第2段階だ。

 キングのその態度に危ういものを感じ、すぐに司令室を退室する参謀長。

 一番親しいはずの娘いわく「常に怒っている」印象しかないという。他者に対しては言わずもがなである。


作戦の成功自体は喜ぶべき事だが、一波乱あることの方が喜ばしく、また完璧と言えるのだ。完璧を期すキングにとっては不満でしかない。

 更に機嫌が悪いのは旗艦としていたノーザンプトン級巡洋艦・オーガスタが改装によりドッグ入りしたが、新型警戒レーダーCXAM搭載を旗艦設備整備とを、キングに無断で並行して行っていたその改装手順が気に入らず、旗艦設備を優先し復帰させろと文句をつけた矢先だったからだ。

 頭脳明晰でありながらデスクワークを嫌うキングにしてみれば、艦上で指揮を執る事を好む。

 旗艦をまるで我が家以上のように愛着をもって乗り込み生活していた。

駆逐艦長時代は海軍大学の戦略関係通信講座を数コース受講し、艦長と艦隊参謀を兼務し艦上にあって全てのレポートを纏めるほど。

艦のエンジン、温度、揺れ、加えて激務という劣悪な環境にあっても、それを物ともしないほど艦と共にあった。

 特に艦長、戦隊司令として任に当たった空母レキシントンやサラトガには特別な思い入れを抱いており、基地司令や参謀職以外では艦に乗り込んで誰かに縛られる事なく、自由気ままでありたいと願う一面も垣間見える。

因みに駆逐艦長時代の戦隊にはスターク、ハルゼー、スプルーアンスが顔を並べている。

 

 キングの怒りのボルテージに拍車をかけたのが、今手にしていた新造戦艦ノースカロライナ級についての報告であった。

(役立たずのショーボートが……。大層なのはスペックだけか!)

 キングが怒りを露にしていたのは、ノースカロライナ級の公試に発生したスクリューシャフトの異常振動問題であった。

 就役後に行われたノースカロライナの機関全力公試において、最高速を発揮する時、艦全体が振動に包まれるほどの異常が発生した。

 先に就役したノースカロライナでこの問題が発生し原因究明中だったが、後から2番艦ワシントンでも同様の事例が発生し、ノースカロライナ単独ではなく、艦型そのものの設計による不調である疑いが発覚した。

 固有振動と共振の問題。

 抵抗軽減のため採用された艦尾のツインスケグと、高速航行時のスクリュー回転振動の同期による異常振動と言われるが、原因までは特定できず、スクリュー形状変更と交換に至る大規模な改装を余儀なくされる。

 ノースカロライナ級は1941年6月までに二隻揃って就役はしたが、改装には数か月の期間を擁し、このままでは戦闘では役立たずになりかねないことを指して、キングは(ショーボート・見かけ倒しの戦艦)と蔑んでいた。

機関参謀職に就いた経験すらあるキングからすれば、あり得ない失態だ。

 同時期設計のエセックス級においては、キング自身が艦長として運用したレキシントン級及び、航空艦隊司令官時代を通してのヨークタウン級、レンジャーを統括した詳細かつ一字一句誤らぬ正確なレポート及び報告をアドバイザーとして提言しており、一切の抜かりはないと断言できるほどの自負がある。

 キングの意見を無視しようものなら後からどのようなことになるかは、その人間性を知れば自ずと理解できる。

 自身が些細なミスを犯す事を許さぬ厳しさを他者にも強要するキングは、部下の些細な失敗すらも見逃さなかった。設計部門であろうが、キングにとって不都合を生じさせる者は憎悪の対象となりうる。


(期待の条約明け第一陣の戦艦がこの有様では、同様の設計で後に続くサウス・ダコダ級、アイオワ級が、来るべき対日戦における禍根になりかねない事を理解しておるのか!馬鹿どもが……!)

 憤懣やるせなく報告書を机上に投げ捨てるとキングは煙草を口に運ぶ。

 来年に就役するサウス・ダコダ級の船体は完成しもう間に合わないが、アイオワ級は改修の時間的余地がある。

 キングは来るべき日本との戦闘に考えを巡らし内心では焦っていた。

 だが、キングの焦りとは裏腹に、今アメリカ国内の関心は欧州と独ソ戦に向けられているが、状況は流動的だ。アメリカ国内でも、労働組合やアメリカ共産党、親ドイツ系反戦団体などのデモが、独ソ開戦を期に一瞬にして鳴りを潜めた。

 相当の共産主義者がアメリカ国内に入り込んでいることは間違いない。


(目障りな共産主義者(コミュニスト)共が。世界情勢は針の一刺しで弾け飛ぶ風船だ。馬鹿共はヨーロッパにばかり目を囚われているが、その一刺し、軍事的に純粋にアメリカへの一撃を与ええるのは日本(イエローモンキー)以外にない)

 キングの思考は、米海軍屈指の戦略家として対日戦に対し注がれていた。


 しかしキングの管轄とする大西洋でも手を抜いている訳ではなく、護衛として派手に艦隊を動かし挑発してるにもかかわらず、ドイツはアメリカ船舶への攻撃を躊躇しアメリカ参戦の危険を巧みに避けている。

(小賢しい)

 キングは再び舌打ちする。

アイスランド進駐時にドイツから攻撃を受ける事を期待していた。その被害を口実として開戦に踏み切ることができるとの算段だった。

 もちろん自身に責任が問われる事の無い規模に損害を抑えて、の前提で。

 キングとしては、海軍戦力に劣る対独開戦が先に起こるほうが都合がいい。戦時体制に移行したとは言え両洋艦隊を率いたと仮定した立場から見ればまだまだ不十分であり、アメリカが参戦すれば世論や政界の制約から解き放たれる。

 仮に対独開戦が発生したとすれば、まず第一に米英両海軍の全力を投入して大西洋の制海権を握り、後は英本土に大量の爆撃機を投入しドイツ本国を灰燼に帰せば海軍はフリーハンドとなる。地中海戦線は深入りするつもりは毛頭なく、イギリスの管轄で自らの手で解決するべきなのだ。

 アメリカが今対独開戦したとしても、日本が三国同盟の自動参戦条項に神経過敏になっている事も織り込み済。

 後顧の憂いを断った後は、更に戦力を増強し日本に対し有利な態勢を構築しつつ、後は政治判断となるが通商条約交渉を引き伸ばし続ければよいのだ。何もせずとも勝手に敵は弱っていき最終的には自棄的に仕掛けてくる死に体を叩き潰す実に簡単な仕事だ。


(だが不利になることを素直に受け止めるのは馬鹿のすることだ。そうはなるまい)

 今の日本海軍の、特に海上航空戦力は米海軍のそれを凌駕していることを自身の専門としている航空、正確に言えば戦艦の艦長以外のほぼ全てという豊富な経験を持つ中ではあるが、キングはよく把握している。

 キングは日本を嫌い蔑んでいる。尤も自身が認めた人間以外は誰彼構わず貶す性分ではあるが…、だからと言って過小評価する訳ではなく、日本海軍こそが全てをかけて打ち倒すに足る宿敵と見なしている。

 中国派遣のシェンノートらの報告は、日本海軍の航空部隊は実戦を経験し精強であるのは疑いない事を物語っているにも拘わらず、海軍省や作戦部の多くの大艦巨砲主義者は理解していない。他にも多くの者も同類だ。

 両洋艦隊法成立とほぼ同時に成立した対空火器配備見直しが顕著な例で、キングがいなければ有耶無耶にされていた案件。

 海軍通の下院議員カール・ヴィンソンの尽力により見直しから一年が経過したが、満足がいく進捗には遠く及ばず、放置されればどれ程の被害を生じるのか、試算すらできない海軍省の無能ぶりに反吐が出る思いだった。


(海軍が真の戦時体制とするには、邪魔な連中が多すぎる!リーヒ、スターク、そしてキンメル!人柄が取り柄だけの役立たずばかりではないか!)

 キング以外の主要なポストは、形骸化しているアジア艦隊のハートは別として、ルーズベルトのお気に入りの人物達で固められている。

 宮廷政治(ルーズベルトサークル)と揶揄され批判されるルーズベルトによる露骨な海軍人事への介入は、はっきり言えば害悪でしかない。

 2月に合衆国艦隊は廃止、司令長官リチャードソンは解任になった。次は自分が合衆国艦隊を率いる事になるのかとキングは思ったが、役職自体が消滅し、次に主力たる太平洋艦隊司令長官に指名されたのは、遥かに後任のハズバンド・キンメルであった。

 ルーズベルトが次官時代にエスコートをした、人柄だけでお気に入りになっただけの男が、キングのポストを横取りしていったに等しい内容にキングは愕然とする。

 キンメル本人にはその意思はなかったとしても、44人の先任順位を無視した内容自体が、逆恨みを買うには十分過ぎる理由だ。

 キングも数々の希望の役職を先任がいるからと後回しにされてきた事で、キンメルに対して密かに憎悪を煮えたぎらせていた。

 幸か不幸か、その道筋で現代戦に必要とされるありとあらゆる能力が培われていったのは、皮肉なのかもしれない。


 同時に経験の豊富さを売り込んでいたキングを無視したルーズベルトに対しても、「戦争が間近に迫っているこの時に、何をやっているんだこの馬鹿は?」と本気で考えたが、相手は期限付きの専制君主の大統領。

 所詮は一介の武辺でしかないキングにとって、米海軍のトップに後一歩の地位までのしあがった今、味方が少ないどころかいないと言っても過言ではないキングは、事を荒立たせるのは得策ではないとの判断が働く。

 ルーズベルトが次官時代の先の大戦時に、直接苦言を呈した作戦部長ロバート・クーンツは忽ち更迭された前例もある。

 ルーズベルトは名門の出で、多くの人間に傅かれ思いのままに生きてきた人間でとにかく執念深く、また女々しいのだ。

 経済的理由で高校進学を諦め、海軍学校アナポリスに入学し己の能力だけを頼りに上り詰めるキングとは対照的だった。


(まあいい。ならば別の手段を講じるだけの話だ)

 連合軍随一と言われた智将の壮大な陰謀が蠢いていた。


7月28日、日本は南部仏印進駐が当初の計画より遅れて実施。

計画では7月中旬実施予定だったが、その直前に南部仏印進駐を懸念する旨がイギリス大使館より伝えられ、内容が部分的にであれ何処かからリークされている可能性が生じた。

だが、計画そのものを中止するには至らず強行される。

これを大義名分としてアメリカは、最後の一線だった石油の対日全面禁輸と、貿易収支決算用の在米資産約1億ドルの凍結で応じる。

日米関係は、望むと望まざる者も構わず双方の思惑に翻弄されて、取り返しのつかない場所へと追い込まれていくのだった。

小畑敏四郎中将は陸軍の幕引きに尽力したとされてます。

戦時中は国賊と罵られながらも、終戦一番難題の陸軍の尻拭いに向き合った人物です。いずれキーマンとなります。

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