幕間2 飛翔する零
1940年7月16日
大日本帝國
東京府霞ヶ関首相官舎
梅雨の終わり、湿気による不快感が纏わりついてくる蒸し暑い昼下がり。
官舎の前に勢いよく滑り込んできた公用車が停車し、車内からカーキ色の軍服に身を包む三人の陸軍の人間が降りると、官舎内へと吸い込まれるように進んでいく。
飾緒をつけた佐官二名を従えて勝手知ったる官舎内を、その主のいる執務室へと足早に歩くのは陸相、畑俊六陸軍大将。
「米内さん、遺憾ですが私ではこれ以上陸軍大臣の職務を続ける事はできない。残念ではありますが辞表を提出させていただきます」
首相執務室内。相撲取りと見紛うばかりの偉丈夫である米内が座ると重厚な執務机が手狭に感じられなくもない。
畑はその対面に立ち、そう言って静かに執務机の上に辞表を提出した。
米内は椅子に腰を下ろしたまま、少しうつむき加減で、目の前に出された辞表を無表情で見つめている。
国内の状況を鑑みれば来るべくして来たな、と米内は覚悟していた。
その覚悟をしたのも、最近では陸軍だけに留まらず、新体制運動に迎合する国会の有力議員も、露骨な倒閣運動を起こしはじめていたからだ。
そして、このような国内不安定な現状下で、欧州に目を向ければフランスがドイツに敗れ、英本土上陸作戦の前哨戦である航空撃滅戦バトル・オブ・ブリテンが開始。
その友邦イタリアは地中海を東、アジアへ至る最大の要衝スエズを擁するエジプトを窺う姿勢であり、イギリスの降伏が目前に迫っている。かつては世界史上最大の領土を誇った大英帝国が、破れ去る幻想が現実味を帯びはじめ、実情をよく知らぬ者から見れば、ドイツ・イタリア枢軸同盟が欧州を制覇するかのように見えてしまっている。
東欧諸国はこれに迎合する姿勢であり、ソ連と激闘を演じたフィンランドも、密かに接近を図り北欧も枢軸に染まりつつある。
様々な圧力を加えてくるアメリカと、その動きに連動するイギリス憎しの一念で、ドイツ・イタリアと結ぶべしの気運は日本国内に蔓延していた。
支那事変に対してのアメリカの制裁の一環として、日米通商条約が破棄されて以降、日本製品の価格の下落が徐々に加速している。第二次大戦が始まりその渦中にあって、対日融和に転じかねない、大英帝国に対しての牽制を兼ねたこの制裁は、確実に日本の経済を圧迫し始めていた。
日本の貿易収支は、1930年頃までは絹綿製品の輸出が半数をしめていたが、意外にも1940年に差し掛かるとその輸出品目は機械類のアジア、主に満州・中国への輸出比率が増大し、欧米向けの生糸輸出は縮小の一途を辿っているため、外貨獲得が難しい状況に追い込まれつつある。
外貨の依存度は欧米からアジアへとシフトし、日満支ブロック経済圏の確立が成されつつあるが、アメリカからの輸入依存は80%を超える情勢下で、真綿で首を絞めるかのようにアメリカは段階的に圧迫を加えてくるのだ。
この危機的状況を打開するための日独同盟案……
大戦勃発前の同盟案は、対ソ連だけを見据えた防共協定だったが、独ソ不可侵条約の締結によって流れた。
しかし、今回は状況が変わったのだ。しかも劇的に。
世論が反米英に急激に傾き、欧州の事情が激変する中で、アメリカが発表した両洋艦隊法は、アメリカを仮想敵国としながら本音は反戦にあった海軍内に、凄まじいまでの衝撃をもたらした。
このままいけば、日米の戦力比は対米四割にまで落ち込む事になる。日本が優越するはずの航空母艦比率もが、完全に逆転したうえに更に突き放されるのだ。
帝国海軍が大艦巨砲主義に傾注していたと一般的には認知されているが、英米海軍と比較して、洋上航空戦力の整備に、非常に重点を置いていた事はあまり知られていない。
戦艦か空母か?主力の地位を巡って激論が交わされたが、既に主戦力たる戦艦に並ぶ、前時代的と言われる複葉機全盛時代で、甲乙付けがたい地位にまで向上している。戦艦派の言い分としては、重装甲、低速だが回避運動も対空装備もあり、そもそも護衛を含む艦隊をもって運用されるものであり、これにはもちろん空母も含まれてしかるべきで戦艦単独と比較するなどナンセンスである。
軍縮条約が失効するのを見越したマル3計画では、戦艦2対空母2の同率に対し、これに対抗する初期のアメリカは戦艦4対2の半分の比率になっており、大艦巨砲主義を引き摺っていたアメリカも、日本の戦備計画に徐々に追従している状況にあった。
空母の保有も軍縮条約で制限され、戦艦改装の赤城・加賀、正規空母蒼龍・飛龍、そして龍驤の5隻。これは帝國海軍にとっては不満の残る状態だった。
米海軍は戦艦改装のレキシントン・サラトガ、正規空母ヨークタウン・エンタープライズ、そしてレンジャーの同じく5隻。隻数は同数であっても排水量、船体の規模、搭載機数、運用能力で凌駕されているのは否めない。
後に正規空母で日本は翔鶴・瑞鶴が加わり、アメリカはホーネット・ワスプが加わり、辛うじて追従しているが、搭載機数の不利は覆せない。
そこで帝國海軍が苦肉の策として採用したのが、戦時改装を見越した民間船の建造だった。
日本郵船貨客船、橿原丸、出雲丸などがそれであり、後に隼鷹飛鷹として改装が行われる予定だ。
更に空母改装を目的とした高速油槽艦や水上機母艦の計画は、軍縮条約下から既に準備されている。
これ等の10年に渡って築き上げてきた帝國海軍の準備を、一瞬にして瓦解させた。
帝國海軍はマル4計画で装甲空母大鳳を計画したが、わずか一隻に終わったのは財政的理由の他に、アメリカを必要以上に刺激させないという外交的な影の要因があった。
それを嘲笑うかのように、正規空母10隻を一度に配備する計画が始動してしまったのだ。
尤も、アメリカからしてみれば太平洋と大西洋の両洋に展開させる都合上、この数量をもってしても不安があるのは否めないのだが。
1941年からの6ヶ年計画である、両洋艦隊法の総予算は100億ドルを超過し(それでも5000億ドルの国内総生産の1割程度にすぎない……)、その前段階にあたる第3次ヴィンソン案に対抗する第五次海軍軍備計画、俗に言われるマル5計画ですら策定中の域を抜けない状況であり、緊急課題としてそれに続くマル6計画の立案が叫ばれている。
もはや、対米七割を維持せんとするこれ等の戦備を整える事すら、困難が立ち塞がる日本単独では、逆立ちしても覆せない圧倒的大艦隊が数年で完成する。帝國海軍の航空関係者が夢見る、搭載機1000機を擁する機動部隊が、現実の敵として立ち塞がる日が迫っている。
その渦中、真っ只中にぶちこまれた、海軍省がどれ程の危機感を抱いたかを示す資料は、重要であるはずなのに明らかに少ない。
これに対抗するにはドイツと結ぶより他に道はない、とする海軍親独派、のみならず海軍の中枢部を実際に動かしている局長部長課長級までもが、一斉に意見を共にし始めた。そればかりか研究の一端として、早期開戦論が公然と議論されるようになり始める。
万に一つの勝ち目もないと分かっていながらも、戦わずにアメリカの犬と成り下がるなど決してあり得ない。五大国の一つに数えられた日本の、そして、世界三大海軍の一角たる帝國海軍の意地と誇りが重くのしかかっている。
アメリカと戦う事が、どれ程無謀であるかを理解する吉田は対米融和の道を模索し続け、強硬な意見にも頑なに抵抗を続けていた。
統帥部の事実上のトップと言える軍令部次長、近藤信竹海軍中将(海兵35期)が業務連絡に訪れた際、吉田は近藤に詰めよって「貴様らはこの日本を一体どうすると言うのだ!」と掴みかかるほどに激昂するも、近藤は冷淡にあしらい「皺勢は決している。もはや吉田さん一人でどうにかできる問題ではない」と言いはなった。
軍令部総長が伏見宮であることから、非常に慎重に動いている近藤から、そう言った発言が飛び出す事自体が深刻な状況なのだ。
それでも、これらの動きを孤軍奮闘の様相で必死に抑えていた吉田は、下からの突き上げに耐えきれず、米内のドイツとの同盟は対米戦争への確実な引き金になるとの説得に対し、「現実が見えていない」と厳しい一言を放った。
既に吉田はノイローゼに陥っていた。海軍大臣という重責もそれに拍車をかけた。神経衰弱により自殺未遂まで起こそうとしたとまで噂が飛び交っている。
もはや、海軍内で日独同盟に反対するものは村八分にされるか、何を語ろうが負け犬の遠吠えといった扱いを受ける。
例え組織の上位にあったとしても、つまはじきにされるといったものは存在するのだ。
5月15日から一週間に渡って行われた軍令部と海大の日米衝突を真剣に検討した図上演習は、短期戦における勝利の見込み無し、間違いなく長期戦に突入すると言う結果に終わっている。
長期戦となればジャワ・スマトラ・ボルネオ南方資源地帯の確保は必須事項であり、対英蘭への宣戦で対米開戦を避けても、その中間にはフィリピンがあり、海上封鎖を受けた挙げ句の開戦が関の山と分析。
開戦の理想的なタイミングは、マル3計画の主力艦たる戦艦空母が戦力化し、対米七割が実現する1941年末。
情勢の変化により石油の供給を止められた場合を想定すれば、戦わずして帝國海軍は敗北する事を意味する。準備だけは進めるべきであるとの意見は、強硬派・穏健派を問わず共に一致している。
この軍令部からの要求に従って、吉田は出師準備発動を条件付きながらも認めた。
連合艦隊戦艦10隻、空母9隻、重巡18隻、軽巡18隻、駆逐艦90隻、潜水艦55隻、稼働機1270機を臨戦態勢にする準備であるが、これだけの資材、人員、輸送とあらゆる面を秘密裏に行わなければならず、少なく見積もっても半年はかかる難事に、吉田が苦悩したのは言うまでもない。
米内を支えるべき支柱の一本は既に折れていた。
「本当のところは……」
海軍の内部事情を把握していない畑は話しだす。痩身から言葉にはしないが、申し訳ないがない、と絞り出すような声で。
「私個人としては陸相を続投して陛下の信頼に応えたいが、殿下の命令に背く事は絶対にできない。どうか辞表は受理しないでいただきたい」
陸軍大臣に命令する事ができる人間はそう多くはない。伝統的に陸軍内では参謀本部が組織としては上位に位置する。
そのトップ参謀総長の座に君臨するのは元帥、閑院宮載仁親王。満州事変直後の1931年より、元帥として実に9年にもわたりその任に当たるが、整った顔立ちにガイゼル髭をたくわえた米内に劣らぬ体躯とは裏腹に、その実態は威光を放つ陸軍内の飾り物として納まってしまっていたのだ。
海軍の閑院宮の対抗馬たる伏見宮が、自ら率先して所属組織である軍令部権限拡大に邁進したのとは対照的だ。もっとも陸軍では参謀本部の権限が大きかった故に、自ら動く理由がなかったのかもしれないが。
どちらにせよ、その存在自体が持つ影響力は計り知れない。
畑の辞表提出には、陸軍省副官と元帥副官の両名が付き従っていた。それを見届けるために。
陸軍大臣が辞めることは、すなわち内閣の崩壊を意味する。
陸海軍大臣は現役であるべし。
四年前の陸軍内の反乱、二二六事件後、事態を重く見た時の広田弘毅内閣は、事件の黒幕と目された真崎甚三郎、荒木貞夫ら予備役に追いやられた将官が陸軍大臣として復帰、影響力を行使する事を阻止するため、軍部大臣現役武官制を復活させた。
首相はあくまで内閣の代表であって、陸海軍大臣の任命権はない。帝国主義がまかり通る時代にあって、国防を担う両大臣無くして政府無しの理論が成り立っている。そもそも明治維新以後の近代体制が、西欧列強によるアジア植民地支配への恐怖が根底にあったからこそ、その恐怖を克服する方法が富国強兵であり、それをただひたすらに実践してきた。
明治から大正期であれば、維新の功労者であり山縣有朋や桂太郎、山本権兵衛と言った軍の要職者が政治を行う、いわば政軍一致がいびつな形ながらも運営されていた。
勿論、それが全てに当てはまる訳ではないが、政治の側に軍に物を申す事ができるだけの強大な人物がいた事が大きい。政府側から統帥側に割って入る事ができたからだ。
昭和に入ってからは、重きを為した維新の元老達も世を去り、政府と統帥は分け隔てられた別個の存在として、また伝統として通例化し支離滅裂の様相をていしている。
「畑さん、辞表は確かに受け取りました。よく検討するので今日のところはひとまず、どうかお引き取りを……」
抑揚のない声で、米内は畑に声をかけ、畑は一礼した後踵を返して執務室を出ていった。
「どうにもならんなぁ~」
一人になった執務室でため息を吐きながら、手を頭の後ろで組んでお大きく椅子にもたれかかる米内。
「まぁ、僕には過ぎた仕事だったと言う事なんだろうね。立つ鳥は後を濁さず、きっぱりと辞めさせてもらおう」
どうせ、後継の陸相は出ないだろう。と米内は考えていた。
そもそも米内が首班として立ったのも、陛下が間接的にでも口添えを行うまったくの異例の出来事で、本当は畑が首班に立つと予想した陸軍の復讐とも言える。
温厚ではあるが、気が弱い畑本人にはその気が無かったとしても。
普段は面倒臭がりな米内が、首班として半年の間踏ん張っていたのも陛下たっての要請によるものだが、その米内であっても制度の壁と、高まる世論に抗う事はできなかった。
陸軍三長官会議で後継陸相を推薦しない事を決定し、それに伴い米内内閣は総辞職することが確定。
三長官は陸相の畑、参謀総長の閑院宮、そして教育総監の山田乙三陸軍大将であり、誰が主導的立場にあったのかは言うまでもない。
翌17日、宮中の一室
「今頃になって、人気取りだけで政治をやれるものかねぇ」
毎度恒例となっている重臣会議の席上で、皮肉めいた口調で発言したのは最後の元老・西園寺公望。齢90、いつお迎えが来てもおかしくはない老齢である。
「しかし、西園寺公がそうおっしゃられましても、時流は近衛公で決まりでしょう。第一、推薦できるような者もおりませんし」
そう返したのは、重臣の一人、若槻礼次郎。満州事変時の首相でもあり、穏健派・重臣の筆頭格で陛下の信任も非常に厚い。
若槻が言うように実際、米内の後任に納まれるような人物が見当たらない。陸軍が倒閣の力技に打って出てきた直後ということもあって、その意に反する者は候補から自動的に省かれる。
若槻が首相時代でも、陸相参謀総長が辞任を仄めかし、予備役からも後任は出さぬと陸軍は息巻いていたのだから、何度でも起こりえると諦めがあったのは事実だ。
ならば、流れの中で選びえる最良の選択をとる以外にない。
近衛文麿
五摂家筆頭、近衛家の当主。公爵。天皇の前において唯一、正面に対峙して席に着く事を許されている。
古くは平安の時代より天皇家の側近くにあって、縁戚関係にもある。大化の改新、中臣鎌足まで遡り、摂政関白を多数輩出した藤原家へと連なる由緒ある家柄。
血筋を重んじる国内にあっては、正に格が違う存在なのだ。
その日本人離れした長身と貴公子然とした容姿、そして家柄の良さも手伝って、その人気は凄まじいものがあった。
新体制運動、国家による統制経済、挙国一致による事態打開を標榜するこの運動は、孤立無援となっている日本を覆う闇を振り払うものであると期待する動きは非常に強く、ナチスに倣った強力な体制の構築を臨む陸軍、国民受けの良いカリスマを持つ近衛を担ぎ政治不信を払拭したい政党、平沼・阿部・そして米内と短命内閣が続き強力な指導力を発揮する一党体制挙国一致によって軍をコントロールする事を望む、様々な国内の思惑が完全に一致するものだった。
ワイマール体制下で停滞しきっていたドイツの躍進、
対支政策に失敗して退陣した近衛ではあったが、その後も平沼内閣の影で暗躍し、返り咲く機会を伺っていた。
しかし、平沼内閣は独ソ不可侵条約締結の余波で崩壊し、その後はその場しのぎの阿部内閣、近衛にとっては何故か降って湧いた米内内閣と続き、その機会は中々訪れなかったが、ドイツの伸長とアメリカの戦時体制発動を好機と捉えた。
アメリカはドイツを恐れていると。
この勢いに乗って汚名を返上し、ドイツと同盟する事によって状況を一気にひっくり返し、暗憺たる空気を払拭できると、しきりに皇室に対して大命降下を働きかけていた。
「また投げ出すんじゃなかろうねぇ」
どこまでも辛辣な言葉を発する西園寺。
第一次近衛内閣の成立した時は大変期待していた西園寺だったが、その期待をあっさりと裏切ってくれた近衛への失望の念は深い。
その言葉の通りなのは、参集した重臣達も重々承知している事ではあったが、あまりに軍に迎合した人物を上げたところで陛下の信任を得るのは難しい。
名前をあえて上げるとすれば、二二六事件の粛軍に功のある陸軍中将、梅津美次郎などが候補としては上げられる。陸軍内では畑と並ぶ陛下が信任をおく人物ではあるが、陸軍が倒閣した直後に首相に立つ事は原則避けなければならない。
前回の倒閣は、軍縮を推し進めた第二次西園寺内閣の二個師団増設問題で上原勇作陸相が辞任した時だった。
後継は陸軍の桂太郎が引き継いだが、その倒閣は桂の野心と世間一般からは受け取られ、凄まじい非難の嵐に曝され桂内閣はわずか二ヶ月で総辞職に追い込まれた。歴代最短の短命内閣となり、桂の命脈は絶たれ護憲運動へと繋がっていった。
世論の力は、いかに強権的な陸軍と言えども無視できる軽い存在ではない。前例が前例なだけに、事に及んだ後の事も織り込み済みだった。
陸軍の私利私欲と周囲に受け取られてはならない以上、あえて火中の栗を拾うほどの勇者がいるはずもない。
その点で近衛は陸軍からすれば、うってつけの人物だ。陸軍への非難を回避するに留まらず、支那事変中は軍事費を四億円ばかり調達しているし、何より扱い易いと目されていた。
「今はいいかもしれないけどねぇ……」
西園寺は、近衛の政治家としての保護者的立場にあると自認している。
何しろ近衛には人を率いるリーダーシップを発揮する経験と言うものがない。前回は思い通りにいかず、嫌気がさして内閣を投げ出した事に失望していた。
山縣有朋ら維新の元勲達、大隈重信ら政党政治の巨頭、海千山千の強者達。その者達がひしめく時代を歩んできた西園寺だが、今、国内はまだ良いとして国外には、ナチスを率いるヒトラー、共産主義を掲げるスターリン、窮地に立たされながらも奮闘するチャーチル、そしてアメリカを率いるルーズベルトら、大国を率いる巨人達がしのぎを削る世界が混沌とした状況下で、近衛がどれほど渡り合えるかは、経験を積んだ西園寺からしても予想がつく。
近衛は秘策あり。と言っているが、はっきり言って無理だ。この一言が言えれば、どれほど気が楽になろうことか……
日露戦争の時は、イギリスと言う強力な味方がいたが、今度盟友となるドイツは大陸の遥か彼方。
東にアメリカ、北にソ連、西に支那、南にイギリス、敵に取り囲まれた日本が手を組むには、あまりにも心もとない。
西園寺の不安をよそに結局、重臣会議は近衛を首班とする事を決定し、ナチス・ドイツの強力な指導体制を模倣し、挙国一致の国家総動員体制を築きあげ、日本を一つにまとめ上げるという大義名分の下に、近衛文麿を首班とした第二次近衛内閣が成立する。
この時点での近衛内閣の課題は、大きく三つに分けられる。
一つは終局の見えない支那事変の解決。
二つ目は冷え込みが一段と厳しくなる日米関係。
三つ目は日米問題を打開するための日独伊三国軍事同盟の締結。
この難題を解決するために、最重要ポストたる外相の席に近衛が白羽の矢を立てたのは外交官、松岡洋右。外交に陸軍の口出しはさせぬと発言し、この大言を近衛は真に受け、単なるお飾りに納まらないと言う所を見せようと、独自性のある人事を行っていた。
満州事変後の1933年に日本が国際連盟脱退を表明した時「十字架上の日本」と銘打って、連盟総会で大演説をぶちあげた松岡だが、連盟脱退は本意とする事ではなかった。
連盟脱退時期尚早論が陸軍内からですら上がる中、脱退へと強硬に舵を切ったのは、満州事変で変心した時の外相、内田康哉からの指示がなければ大使である松岡に大胆な行動がとれるはずもない。この時から日本は孤立の道を更に深めていくことになる。奇しくも敗北者として孤立していたドイツが、ヒトラーと言う強力な指導者を中枢に迎えたのと時を同じくしている。
もはや、日独同盟は避けられぬ状況となっているのは明白であり、対米開戦を避け同盟に反対する立場にある海軍も内部崩壊が始まっており、情勢は緊迫の度合いを深めつつあった。
7月22日、近衛内閣発足。
主要閣僚の顔ぶれは外相に松岡、蔵相に河田烈、大蔵次官として世界恐慌の波が覆う非常に困難な時期を支え、上司であり緊縮財政を実行に移したがゆえに暗殺と言う非業の死を遂げた井上準之助とも接し、その暗部を知る河田を抜擢。これは統制経済を推し進める意を共にする近衛の強い主張でもあった。海軍の英雄、軍神東郷平八郎の葬儀委員長を務めた人物でもある。
海相は吉田が留任したがもう時局に抗うすべはなく、極度の精神的な疲労により病魔に蝕まれ始めていた。
そして陸相に就任したのは東條英機陸軍中将。生来生真面目、カミソリと渾名されながらも、メモ魔、せいぜい師団長止まりと陰口を叩かれ、天才肌で陸軍の奇才と言われた石原莞爾などからは東條上等兵と馬鹿にされ有名ではあるが、軍官僚としての有能さは衆目の一致するところであり、対ソ防衛の要である関東軍参謀長と言った満州経歴が長く、陸軍の主要派閥である統制派の首領格で、現航空総監を務めた経歴を重んじた陸軍上層部からの推挙もあり、軍政のトップ陸相へと上り詰める。
次官時代の強硬的な発言も、世論受けが良かったとの判断もあったのであろう。そうでなければここまでの大抜擢はなかったはずだ。
その東條の下で、総務部長として航空関係全般を取り仕切っていたのが、統制派と相対した皇道派の生き残り、鈴木率道だったのは皮肉である。
首相を含めた外相、蔵相、陸海相は五相と呼ばれ、海相の吉田を除けば、わりと癖の強い人物達が目立つ。
「一年と半年振りかな。この場所に戻ってきたのは」
首相執務室内を眺めながら感慨深くそう言ったのは、首相の座に返り咲いた近衛である。時間は夜の8時を回っている。宮中での親任式を終え、内閣発足の最初の写真撮影を終えたところだ。
「前の時と変わらず片付けなければいけない事は山積しているが、上手く事が進めば一気に片付けられるだろう」
おもむろに執務机に向かうと、まるでくつろぐかのような優雅な動作で椅子に腰を下ろす。
「全てドイツ頼みというのは些か不安と言うのが本音ではありますが、八方塞がりの一方でも道が開けるならばやむを得ないのでしょうか。しかし近衛公からの指名を受けるのは正直意外でした」
執務机の対面に立つ、近衛の内閣生命と運命を共にする人物が、胸の内を吐露する。
「それは一重に君が優秀だからさ。帝大法学部卒、警保局長、知事まで歴任した秀才。更には治安維持の功績まである殊勲者。僕も挙国一致を完成させるために、優秀な人間をかき集めているからね。だからこそ君を内閣の要、書記官長に抜擢したんだ。優秀なブレーンとしてね」
手を目の前で組み、意味深な微笑みを浮かべて見上げる近衛を、何事もないように振る舞いながら見つめているのは富田健治。
「そこまで近衛公に買っていただけるのは光栄です。改めまして書記官長の任、謹んでお受けいたします。近衛公が首相に就く間、全力を上げて職務に励む所存です」
深く頭を下げ、決意を表明する富田。
内務官僚のエリート、多数の共産主義者、反体制的な人物を検挙する辣腕を振るい、内務三役の一つ警保局長(現在の警察庁長官に該当)を務め、秘密警察たる特高を掌握していた切れ者である。
内務官僚が書記官長に登用されるのは広田内閣より実に四年ぶりの事であり、直近の首相は実業家や逓信・大蔵官僚系の経済派が多かった。
近衛は満足する様子で微笑んでいたが、近衛内閣の人事は非常に複雑であった。
「久原さんの政友会も統一政党に合流する気は満々のようですし、フランスのように、いたずらに政争に明け暮れるようではいけませんからな。やはりドイツやソ連のような、強い指導体制を造り上げるのは目下の急務なのですよ。まさにバスに乗り遅れるな、です」
突然現れたかのように錯覚する声に、一瞬驚くような表情を富田は浮かべたが、すぐに表情を平素に戻す。
隣に立ったのは、一次近衛内閣の書記官長を務めた風見章。現在は司法大臣へと鞍替えする形で就任しているが、近衛はともかくとして、この風見に関しては富田にとってどこか引っ掛かるような、信用ならない感情を抱いているのは否めない。
1936年に日独防共協定が結ばれた時、共産主義者撲滅の功績で勲章を授与された富田にとって、元信濃毎日新聞のジャーナリストで、数々の共産賛美記事を掲載した風見は思想的にアカと睨んでいた。
尻尾を掴むどころか、政治の中枢に共産の手先とおぼしき怪しい輩が堂々と居座っている。
本来取り締まられている側と、取り締まる側の人間が同じ場所にいる、まさに呉越同舟の奇妙な構図ができあがっているのだ。
結局、近衛内閣が終焉を迎えるその時まで在職にあって近衛に付き従っていたのは、富田の方であった。
近衛内閣の発足後、日本国内の経済統制は加速。
支那事変が解決の目処が立たないまま、戦時体制は更に一歩踏み込んだ段階へと進んでゆく。
その頃、欧州では英空軍と独空軍がその総力を上げて激突する、史上最大の航空戦バトルオブブリテンが、英本土上空で繰り広げられている最中、東アジアでも、伝説を打ち立てる空の戦いが始まろうとしていた。
1940年8月25日
中華民国
湖北省上空
薄い雲が覆う湖沼地帯を遥か眼下に見下ろす、地上4000mの上空を、36機の編隊が爆音を轟かせ排気の帯をたなびかせながら西へと飛行していく。
中でも巨大な機体は九六式陸上攻撃機。帝国海軍が昨年より本格的に実戦投入した画期的双発攻撃機で、1000馬力級エンジンの三菱製金星を二基搭載、爆弾搭載量は最大1tを上回り、台湾からの渡洋爆撃で一躍有名となった機体。海軍航空関係者をして「我々は中攻と言う空軍を保有している」と言わしめた。
しかし、陸軍もこれに遅れをとる訳ではなく、ほぼ同時期に九七式重爆撃機を採用。海軍戦闘機九六式艦戦を上回る高速性能を発揮した傑作機で、ノモンハン事件でのタムスク越境爆撃で名を馳せた。
設計思想の違い、敵陣地後方の航空基地覆滅を目的とするため、海軍の九六式陸攻と比較して航続距離は短かい。
だが、使い勝手は非常に良く、格納式爆弾槽、防弾設備を海軍に先駆けて備えた先進的な機体に仕上がっている。
長距離洋上飛行後の敵艦への雷撃を任務とする陸攻にとって、渡洋爆撃は本来の任務でなかった訳だが、その搭載量と航続距離を活かし、陸戦隊や陸軍の対地支援任務に従事し、かなりの活躍を見せている。
しかし、九六式艦戦を含め、渡洋攻撃が可能なその長大な航続距離に追従できる護衛機がいなかったため、中華民国空軍の制空権下での爆撃任務では、甚大な被害を被る事になってしまった。
支那に展開する海軍連合航空隊では、長距離飛行が可能な戦闘機の登場が熱望されていた。
双発の大柄な九六式陸攻の周囲を固めるように、陽光を浴びて乳白色に鈍く輝く機体。
九六式艦戦に比べ機首周りから尾翼までの流れるようなラインの胴体。翼形は先端に行くほど狭まる直線的ながらも、その先端は綺麗な円型となっているテーパー翼。主翼、垂直・水平尾翼と胴体の接合部もつなぎ目が分からないほど滑らかに仕上げられており、無駄を一切省いた美しさは見る者に強烈な印象を与える。
設計者堀越が自身最高の傑作と言った九六式艦戦に代わる、海軍側から出された難題の数々を乗り越えて送り出した新たなる翼。
7月にようやく支那前線へと配備された十二試艦戦改め零式艦上戦闘機一型。
生産が開始されたばかりの先行量産型。一型は艦戦ではあるが、空母に搭載するうえでの追加要素があるため機体の改修が必要な、いわば陸上戦闘機型といっていいものだ。
母艦搭載するための着艦フックの装着、格納の最適化するための翼端の折り畳み機構を採用した完成形は、二一型として海軍の主力戦闘機として活躍する事になる。
陸攻に追従できる航続力は、本来、敵艦隊上空に留まり続け戦艦の砲撃を支援する観測機を援護し続ける事と、直衛として艦隊上空に滞空し警戒に当たる事を目的としたものだが、その目的が思いもよらず別任務に用いられる事になったのは陸攻と同じだ。
海軍の前線航空部隊である連合航空隊が司令部を置く漢口基地の第一連合航空隊司令官、山口多聞海軍少将と参謀長、大西瀧次郎海軍少将の要請に応えるべく、艦上機型への改修を先送りして、最優先で送られてきた二個中隊、18機が配備されていた。
まだ20機しか生産されていない最新鋭機。
武装も初装備となる、エリコン社製航空機用20mm機銃をライセンス生産した九九式二十耗機銃を搭載。対重爆撃機用の炸裂弾が使用可能なため、これまでの7.7mm機銃と比較すれば桁外れの高威力を誇る。初速、重量などから算出された威力係数は20mmを100とした場合、7.7mmはわずか12に過ぎず、まさに桁が違うのだ。
戦闘機用機銃の選定に当たっては同時期に出現した、アメリカ・ボーイング製四発爆撃機B17に対して、13mm機銃は威力不足で対抗不能という潜在的な恐怖が存在した。
当時、フランス駐在武官からエリコンFFが最も威力に秀でたものであると報告を受け、その照会に当たったのが横須賀浦賀船渠であり、社長は寺島建予備役海軍中将で加藤隆義とは同じ海兵31期で条約派として海軍を追われた人物であり、直近になって社長に就任していたのは同じく条約派で山本五十六の同期にして英才を謳われた堀悌吉予備役海軍中将。いずれもが軍縮条約を巡って因縁浅からぬ間柄で、寺島と加藤は海兵卒業順位でそれぞれ4位と5位の双璧をなし、軍縮条約を巡っての派閥争いでは加藤が勝利したものの、海軍の実権を掴み取る事は叶ず窓際に追いやられたのは皮肉と言える。
余談ではあるが、海兵31期首席の枝原百合一予備役海軍中将もまた霞ヶ浦航空隊、第一航空戦隊司令官から航空工廠長を経て、水上機メーカーとして名高い川西の副社長へ出向しており、経営の中核として関わっている。
寺島、そして堀の両提督は予備役に退いてなお、海軍を影から支え続けている逸材。
浦賀船渠はエリコンと技術提携を結び、2年に渡ってエリコン社技術団から生産方式及び生産用治具の供与を受け、九九式二十耗機銃として横須賀富岡工場で、本格的な量産を開始したのは7月初旬の事。国内生産がようやく本格的に動き出したのだ。
「前回は会敵できなかったが、今日こそは……」
遥か空高い極寒の機内で、周囲の様子を窺いながら呟くのは、横山保海軍大尉。
以前は空母加賀に所属し、華中・華南で最新鋭だった九六式艦戦を駆って、多数の敵機を撃墜してきた撃墜王の一人だ。史上初の零戦で編成された分隊長を務めることとなった。
第二中隊長として9機の零戦を率いて、九六式陸攻の護衛に当たっている。中隊に所属しているのは、佐伯航空隊で鍛え上げられた精鋭を揃えている。
零戦隊は3機ずつの小隊に分かれ、編隊の前方、左、右後方を警戒するように飛行している。
眼下には湖北と四川を隔てる大巴山脈が飛び込んでくる。
2000m級の山々が連なり300kmに渡って渓谷と河川が入り混じる、複雑な地形を形成する天然の壁。
この山脈さえ無ければ重慶攻略も夢物語ではないが、踏破するのにどれほど犠牲と労力を払うかは想像に難くない。
歩兵の仕事は行軍にあり、とまで言われるがこれを30kgにもなる重装備を背負って、歩いて越えようなど、想像するだけでもゾッとする。
漢口から重慶までのおよそ600kmの行程の半分が、この山脈上を飛行することになるのだからその巨大さが窺い知れる。
数十分の巡航飛行は何事もなく重慶へと向かうことができる。何せこの地形故に基地の設置にはあまりにも向かないため、民国空軍の迎撃を受ける心配はない。
よしんば迎撃を受ければ、この零戦の性能を思う存分試すことができると、自信をみなぎらせていた。
(敵さえいなければ遊覧飛行と洒落込みたいところだが)
この大山脈を縦断する長江の流れは山水画を彷彿とさせる、雄大な渓谷が延々と続く風光明媚な場所だ。地上の様子を見ながらふとそんな事を考える。漢口基地への進出の際、長江上空を飛行したがあまりの巨大さに、どちらが上流か下流かわからなくなってしまったのは、いい思い出である。
油断と言えば油断だが、そう考えられる理由がまたあるからだ。
零戦が配備されてから今回の重慶爆撃の前に二度、爆撃が行われたが、どういう訳か二度とも接敵の機会に恵まれなかった。中攻が毎回損害を受けていた今まででは考えられないことだ。
迎撃を受けなくなったのは零戦が配備されてからの事で、この事態から導き出されるたのは、零戦の配備が敵に知られている可能性があり、敵はこの零戦との戦闘を避けているという推論だ。
二度の攻撃が空振りに終わり、性能試験もままならない事に業を煮やした山口は、編隊を二つに分け時間差を設けた上での強攻を指示した。
横山が巡航飛行中に余裕を持てたのも、第一陣が先に重慶へと攻撃を仕掛け、帰投中のはずなのだ。迎撃を受け交戦中の可能性もあるが。
ただし、これまでの二回の攻撃では、長時間滞空して敵を捜したが見つからなかった。恐らく大丈夫だろう。
この二回の飛行で長距離飛行と燃料消費具合を把握できたのは、一番の成果だった。
何はともあれ、第一陣とは途上ですれ違う。この第一陣の被害いかんで、自分達の成すべき事が決まる。
第一次攻撃隊
九六式陸上攻撃機27機
零式艦上戦闘機9機
第二次攻撃隊
九六式陸上攻撃機27機
零式艦上戦闘機9機
漢口に展開する連合航空隊の全力投入である。
重慶付近の敵情観測
戦闘機30~40機
爆撃機10~20機
多くは旧式のI-15、I-16と推測されていた。カーチス、あるいはダグラスなどアメリカから供与された機も含まれる可能性ありともいわれる。
山脈上の飛行は何事もなく、中頃までの行程を消化している。
そこで前方から接近してくる機影を確認し、横山は一瞬身構える。が、それは杞憂に終わる。
「双発が20…4、単発全機、健在。3機は対空砲火に食われたか」
横山は接近する第一次攻撃隊の被害を確認する。全36機のうち、損害は陸攻3機に抑えられた事から見るに、民国空軍の迎撃は受けなかったと推測できた。
編隊同士がすれ違う時、零戦が一機、編隊を離れ近づいてくる。それを敬礼し横山は見送る。零戦隊を率いる第一中隊長、進藤三郎大尉の操縦する零戦だった。
すれ違いざまに、進藤の顔に苦笑いのような表情が浮かんでいたのは、気のせいではないだろう。
「進藤。こりゃあ、本命はもらったな」
外れクジを引いてしまった、飛行学校の同期の悔しがる様子が見てとれる。
一時間近くの山脈上の巡航飛行も、間もなく終わろうとしている。山脈を越えれば、先に四川盆地が見えてくる。
長江を含む大河が盆地内を縦横に走っている影響か、雲量は常に多いのが四川の特徴だ。
その四川盆地の南東側に、蒋介石が率いる国民党軍の本拠地重慶市がある。
民国空軍の主力も展開しているだろうが、これまでの陸攻隊の報告から、民国空軍が装備している機体はソ連製の複葉機が半数以上を占め、単葉機も旧式で数は多くない、加えて各国の機体の寄り合い所帯とも聞いている。
そんな機体など、この零戦の敵ではない。
ふと、もしまた会敵できなかったら?という真逆の不安が横山の中に起きた。そうなったら、わざわざ二波に分けてまで攻撃を指示した山口少将の面目丸潰れとなる。
訓練の厳しさから、人殺し多聞丸と渾名される、山口の訓練に更なる拍車が掛かりかねない。零戦が配備されるや、まだ運用試験段階で説明書すら用意されていない中、手さぐりに近い状況で運用を進めなければならないのに、即実戦に投入しようとする性急さにも正直閉口させられた。
しっかりした運用体制ができあがってから運用を開始するべきと横山は主張したが、度重なる多大な損害を受ける切迫した状況を危惧する山口からは、「命が惜しいのか!」と叱責を受ける場面もあったが故である。
そう言いたくなるのも理解はできる。が、横山も持論を曲げず、結局は山口が折れる形となった。
横山率いる第二中隊9機は陸攻隊から分離、制空隊として重慶へと急いだ。
軽快高速の零戦に比べれば、陸攻は鈍重に過ぎる。自由が利くように先行するべきと判断する。
敵情不明。まだわずかではあるが、陸攻が奇襲を受ける可能性のある一か八かの賭けだが、長年やっている飛行機乗りのカンが、敵の存在を告げている。
横山は一度スロットルレバーを全開にし、それに応え930馬力の栄が唸りを上げる。エンジンの調子は良好。
技官・高橋大尉が言うには調整が完璧とは言えず、全力運転をするとシリンダー内での焼き付きの恐れがあるためリミッターを設けている、と最初に注意を受けたが、それでも速度は九六式より遥かに勝っている。
続いて機首に装備された7.7mm機銃の試射を行う。弾詰まりもない。
翼内装備の20mm機銃も試射をやっておきたいところだが、円形のドラム型弾倉の弾数はわずか60発。撃ちっぱなしだと10秒ともたないが、威力は折り紙つきだ。当たれば一撃必殺となるが、こちらも実際に運用してみると、マイナスGがかかると弾詰まりを起こしやすい不具合が見つかっている。油断はならない。
準備万端整い重慶上空に到達するころから、横山は敵の姿を探した。
そしてついに、眼下の雲間に長らく探し求めていた20機以上の戦闘機と思しき機影を発見する。
「敵機発見!」
横山は表現のしようのない、昂揚感に身を包まれていた。ようやく見つけた!
敵はまだ此方に気付いてはいないが、敵は倍以上の劣勢。
横山は僚機に対し、三本、指を立てたのち、肘から先を立て前方に振る手信号を送る。
各分隊ごとに突入せよ!
スロットルレバーを押し込み操縦桿を前に押し倒し、一気に機首を下げ急降下の姿勢に入る。横山に率いられた残りの中隊8機も一斉に急降下を開始。
零戦による編隊空戦は初めてのことだが、選りすぐりの精鋭が集められているがゆえに不安は感じない。
遥か下で戯れているように群がって飛び回っている哀れな獲物に、致命の爪を打ち立てる猛禽の如く襲いかかる。
わずか10秒ほどで2000m以上は降下したであろう。近づくにつれ敵の全容がわかってきた。数は3個中隊規模、横山の部隊の3倍に近い。
「これほど多いとは」
予想を大きく上回る敵の多さだったが、そんなことはもはや問題ではなかった。強力なGをその身に受けながら、横山の目は標的を捉えて離さない。
急降下する零戦に気付いた数機が、回避するべく動きを見せたが多くはそのままだった。
もらった!
心の中で咆哮を上げ、左手の機銃発射レバーを引いた。
機首の7.7mm機銃から銃弾が吐き出され、狙いを外すことなく、如何にも鈍重そうな機体中央へと吸い込まれていく。
横山は弾道を確認するや素早く、機銃発射レバーを切り替える。機首から翼内の20mm機銃に切り替わり、一際大きな火線となって降り注いだ。
機体中央からはやや外れた機銃弾は、敵機の主翼中央付近から尾翼にかけて見事に命中し、その両翼を一撃の下に打ち砕く。
主翼に青地に白丸、中華民国の国籍を表す青天白日が描かれてこそいたが、見覚えのあるその太く短い独特の胴体はソ連製I-16。当時最新最速を誇った機も、今では骨董品に過ぎない。
撃墜確実!
横山は降下姿勢から、スロットルを絞り引き起こしに入る。
バラバラと重慶の市街へと落下していく敵機の姿が見て取れた。上空を見上げれば、離脱にかかる機や果敢にも追尾してこようとする機もあり、完全に統制を失っているように思われた。
初撃で5機以上は撃墜し、敵は浮足立っている。そんななか追尾してくるのは、意外にも同じソ連製複葉機のI-15。
この零戦に離脱することなく真っ向から挑んでくるのは蛮勇か無謀か。
後者であれば若気の至りであろうが、前者であれば手練れだ。
無謀と承知しながら、あえて挑まんとする気概は買いたい。
だが何よりも、与えられた命令は敵戦闘機の排除・殲滅。
この零戦の発揮しうる全力をもって撃墜する。獅子博兎、獅子は兎を狩るにも全力を尽くすのだ!
横山はスロットルを全開に開き、500kmの最高速まで一気に加速する。I-15とでは150kmの速度差がある。
零戦の機体特徴はその幅広の主翼と補助翼からなる単葉機としては規格外の旋回性能と、その安定性による操縦のしやすさにある。
この特徴は格闘戦を主眼に設計された零戦の最大の長所ではあったが、相手が複葉機となると話が違ってくることを横山は理解していた。
追尾してくるI-15をその加速で一気に突き放すと、操縦桿を引き上昇へと転じる。
フラップの作動によって得た揚力は、零戦の極限まで軽量化された機体を高みへと舞い上げる。
今回の戦闘に限ってしまえば、零戦が最も秀でている点、それは圧倒的な速度性能の優位。そして、旋回性能とともにも非常に優れているのは上昇力にある。上昇力ではライバル機である米海軍のF4Fと比較すれば、約半分の時間で高度6000mに到達できる圧倒的性能差。
距離をとり上方に遷移するのは経験からくる鉄則だ。お世辞にも成績優秀とはいえず、技能習得にもなかなか苦労したがこうして生き残ってこれた。
油断ならないのは低空まで覆っている重慶特有の分厚い雲。
この中に逃げ込まれるとどうしようもない。逃がせば後の禍根となる以上、手近な敵機を叩き落す他ない。
右フットバーを踏み込み機を右旋回させながら、周囲の状況を確認する。機体の特性をよく理解しているようで皆一様に距離を離したことにより、敵はもはや打つ手なしの状態に追い込まれている。
圧倒、まさにこの言葉が表現するのに相応しい。
上空から一撃と優速を活かした離脱による反復攻撃。戦闘は一方的な展開を見せ、機銃弾を撃ち尽くすまで攻撃の手を緩めることはなかった。
この戦闘による、敵戦闘機の撃墜数は21機と報告され、実際の撃墜数は10機であったが損傷破棄も含めれば、実数は17機に上る空戦史上例を見ない凄まじい戦果を上げた。
陸攻隊はその間隙を縫って、重慶近郊の飛行場、対空砲陣地を爆撃。
戦果を待ちわびていた漢口基地では、熱狂と歓呼をもって迎え入れられた。
供与されたグラマン・ダグラスを多数撃墜しながらも、支那の空に惜しくも散った軍神・南郷茂章の再来とまで称えられる。
後に、その爆撃成果は、横山自身が偵察制空任務で直接確認し実に正確であった旨を報告している。支那方面艦隊長官より感状授与。
幸いにしてこの戦果は、他の列強各国では一部の人間を除き、眉唾物と受け取られた。あまりにもセンセーショナルな内容に、その情報を認められなかったからだ。
零戦の初陣は、無敵零戦の伝説を生み出す。日進月歩の航空技術で日本が世界レベルに到達し、一瞬であってもそれを追い抜いた瞬間でもあった。




