第20話 電撃戦Ⅵ 赤色作戦
ダンケルクの奇跡。
連合軍33万名余りが脱出を果たし、史上最大の撤退作戦は幕を下ろした。
ドイツ軍にとってもこれは幸いしたと言える。
フランス最強の戦力が、ろくに戦いもしないうちに海の向こうに逃れてしまっていたのだから。これを無理に壊滅させようとすれば、凄まじい損害が出た事はアニューの戦いの事例からして明らかだ。正面から当たれば、フランス軍の戦備はドイツ軍とほぼ拮抗している。
フランス第1軍集団が戦線を縮小している以上、必然的に迂回戦術は限界を迎え、装甲部隊同士の正面衝突を招く事になり、突破作戦中のような一方的な戦いを展開するのはまず無理である。
地形的な有利は連合軍側にあり、無理に突入した装甲部隊は砲兵の支援を受けた凹陣地に囚われる事になる。ドイツ装甲部隊の機動力を封じたまま、歩兵と砲兵、戦車の共同によって大打撃を与える事も可能。例え全滅したとしても、だ。
フランス軍最高司令部、それを主導していたウェイガンの命令は徹底交戦し、ただ死守せよとの命令のみであったのだから。
フランスにとってダンケルクは正に敗北の象徴なのである。
わずか10日あまりの短期間に、ありとあらゆる手段をこうじて戦いを主導したウェイガンの努力を台無しにしたのは、利己的で同盟とは名ばかりとなった友邦のイギリスなのである。
国家の事実上の死を受け止める事ができない以上、ウェイガンは極めて冷徹に、現実的に手段を選択してきた。
努力の全てが無に帰そうとしている。打つべき手立てを失い、絶望的な戦いが始まろうとしているウェイガンの心中は、イギリスへの怒りと憎悪にも似た感情によって支配されていた。
このような状況下で図らずとも装甲部隊の大半を温存できた最高の状態で、フランス本土を攻略せんとする赤作戦は発動された。
6月5日
「フランスに止めを刺すのだ! 立て直しの時間を与えては、マルヌの奇跡を二度も起こさせてはならん!」
ヒトラーはシャルルヴィルを出て、その北西にある小村ペッシュに司令部を移した。小さな住人のいなくなったホテル内の一室でヒトラーは陸軍総司令官ブラウヒッチュと、国防軍最高司令部総長カイテルを前に厳命を下していた。
「ジーク・ハイル!!」
直立不動の態勢で両名は敬礼する。前大戦の苦い思い出であるマルヌの戦い、あれによって先の大戦は短気決戦から塹壕戦による長期戦へと突入していった。
自らさえも驚くほどの、この驚異的な軍事的成功を納めることになった黄色作戦を裁可したヒトラーのこの自信に満ち溢れた言葉に、二人は陶酔に近い感覚に陥っていた。この男の言に間違いはないのだと、そう思わせるほどの魔力をこの男から放たれる言葉は持っていたのだ。他者には決して揺るがされる事の無き、確固たる意志と信念を感じさせた。
「ハイル・ヒトラー!」
そこに遅れてやってきたのは空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥であった。失脚したブロンベルクを除けば、元帥はエーリッヒ・レーダー提督のみで、その存在は別格。
ゲーリングは総統司令部とは別の専用司令部装甲列車アジア号に乗って指揮に当たっており、総統が移動したと報告を受けた彼は連絡機シュトルヒに乗ってここに到着したのだ。
ゲーリングは敬礼の後、巨体を揺すりながら入って来たが、ブラウヒッチュとカイテル両人の「何をしにやってきたんだ、このデブ」と言わんばかりの視線は刺すように冷たい。
その目は「お前の大言壮語のお陰で30万の連合軍に逃げられてしまったではないか!」そう暗に批判するものであった。
直接は言えないのだが。何せ前大戦のエースパイロットにして英雄、ヒトラーの事実上の後継者と言っても差し支えないこの男に対しては。見た目は贅肉まみれのオークを思わせる容貌だが、国民の人気は高い。
先の大戦でも空の戦いは、泥まみれになりながら這いずり回るひどい塹壕戦とは違い、一対一の正々堂々とした正に騎士の戦いを思わせる華々しいものだった。数千数万、あるいは数十万に上る兵士が砲弾、銃弾、ガスを敵に向かって撃ちまくり、ただひたすらに塹壕を奪いあい死体の山を築いていく、地獄絵図に多くの人々は目を反らし、この空の戦いばかりが注目を集めたのは、その地獄を戦い抜いた者にとっては我慢ならないものがあったであろう。
尤も、ブラウヒッチュは前線近くにはあったが参謀職にあり、カイテルは前線に一度立ったが一年目に負傷し、参謀本部付きとなっているから直接は塹壕戦の地獄には踏みいっていない。カイテルにとってこれが唯一の前線勤務であったのは、コンプレックスとなっているのは小さな話しだ。
この中で地獄に片足を踏み込んだのは、ヒトラーただ一人。直接戦闘を行う訳ではない伝令係ではあったが、その歪んだ地獄の前線との関わり、厭戦気分で批判的な後方との解離、敗北主義者による祖国崩壊の経験こそが彼を変えた。
しかし、ヒトラーにとってゲーリングに対しての信頼はまだ揺らいでいない。ゲーリングは先の大戦で並み居るエースパイロット達を見事に統率し、空軍再建に奔走し成し遂げた尊敬の対象であり、政策面の不安はありながらもヒトラーはそのことを含めてゲーリングを認めている。連合軍撤退は問題ではなかったのだ。
「申し訳ありません総統閣下。ダンケルク方面での失態、深くお詫びいたします」
ブラウヒッチュ、カイテル、二人の視線を気にする様子もなく、最高指導者に対して言葉の通り深く頭を下げる仕草を見せるゲーリング。かつての凛々しかったパイロットのようにきびきびとした動作はできず、その動きは緩慢だった。
「その事はよい。重要な事はこれからの赤作戦が成功するか否かである。それに余はイギリスとの講和を考えている」
静かな口調でヒトラーは、ゲーリングの詫びを流し自身の考えを述べる。攻撃が失敗しているという評価は下していない。
「頼みの綱であるフランスを降伏に追い込めば、イギリスは必ずや講和に応じてくるであろう。イギリスは装備を全て放棄して再起不能、単独では大陸に再び戻る事が叶わぬのは明白。戦い続ける事の無意味さを理解するだろう。それよりも元帥」
英大陸派遣軍の撤退劇から導き出された希望的観測。ヒトラーにとっては、彼らに先の大戦時のような徹底交戦する意志はなくなっていると思い込んでいた。もちろんそれはドイツ軍の大半の人間が持つ共通の認識だ。
「フランス本土の制空権についてだが……」
「はい。そちらは全て順調に進んでいます。3日前から航空基地の集中するパリ近郊を攻撃。フランス空軍の抵抗は激烈ですが、前線の制空権はほぼ掌握しております総統閣下」
ゲーリングは誇らしげにそう言った。
南側面の前線は1200kmにも及び、ドイツ空軍の作戦区域内では陸軍前線部隊上空の防空、フランス軍前線陣地への爆撃、後方の道路鉄道の交通路の寸断、フランス空軍基地への空爆と、その任務は広範で膨大だった。
ドイツ空軍は戦闘機爆撃機3400機を投入していたが、最も力を入れていたのは交通路の寸断であり、フランス軍の行動は大きく阻害されていた。先の大戦の教訓を生かし、この効果はかなり大きな影響を与えたのである。
優先順位第一位がフランスである以上、その攻略の露払いを空軍が担っている限り陸軍から批判を受ける事はまずない。ゲーリングから言わせれば、装甲部隊が温存できたのは空軍の活躍あっての事だ、という認識を持ってはいた。
陸軍が意地になってダンケルクに深入りすれば、それこそフランス軍の思惑通りであり、空軍がダンケルク撃滅に固執するにしてもフランス本土への圧力が軽減される事となり、二兎を追うものは最悪の結果へとつながりかねない。すなわち第一次大戦の地獄の再現を、子の代まで演じる事になる。
作戦の方向転換は絶妙かつ的確なタイミングで行われた、作戦の理想的な形を維持していた。
さかのぼる事、二日前の6月3日。
6月1日からドイツ空軍はフーゴ・シュペルレ航空兵大将を指揮官とする第3航空艦隊3個航空軍団を投入し、フランス空軍撃滅作戦パウラを発動。
第3航空艦隊は1936年から戦われたスペイン内戦に参加し、世界にその名を轟かしたコンドル軍団を母体に発展したとも言える。司令官以下多くの名だたるパイロットも所属していた。
マルセイユ・リヨン、そしてパリに対して爆撃を行った。特にパリ空襲は戦闘機メッサーシュミットBf109・双発戦闘機Bf110、双発爆撃機ハインケルHe111、爆撃機ドルニエDo17の戦爆連合計524機が参加するこれまでで最大の規模となった。
対してフランス空軍も首都防衛戦ということもあり、これまで早期警戒概念、敵機の接近を前もって感知し迎撃を行うシステムを持たなかったため地上撃破が相次いでいたが、度重なる空襲と戦況の推移からパリが攻撃を受けるであろう事を予測し、多数の迎撃機を用意して待ち構えていた。
「今作戦の目的は残るフランス空軍主力が集結するパリ近郊に点在する航空基地を攻撃、迎撃に上がる敵戦闘機を完全に駆逐する事にある! これに成功すれば我々を脅かすものは存在しない! フランス軍も必死であることは間違いないであろう! これまでの戦闘を遥かに上回るものである事を覚悟し、全力を持って敵を粉砕せよ!!」
シュペルレは居並ぶ戦闘航空団所属のパイロット達の前で訓示を述べた。
「貴官らはその主役である! 我がドイツ空軍が世界最強である事をこのフランスの空で示すのだ!」
シュペルレの後に続いて咆哮にも似た声を上げたのは、第8航空軍団司令官ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン少将。
第一次大戦空の伝説「赤い男爵」リヒトホーフェンの従兄にして、自身もエースパイロットの一人。そしてシュペルレの指揮するコンドル軍団を補佐した名将。
「ヤヴォール!!!」
リヒトホーフェンの咆哮に呼応するように怒涛のような声と共に英雄に向けて敬礼をささげるパイロット達。その中には、戦闘航空団副官・パイロットの一人として参加しているアドルフ・ガーランドの姿もあった。
占領したランスとクレシー郊外の航空基地から出撃した編隊は途中で会合。編隊は170機以上に上り三波に分けられていた。豪々と爆音と飛行機雲を引きながらパリへと向かう大編隊を、前線の部隊が捕捉、パリへと報告を入れる。
パリ市南西部15区のフランス空軍防空司令部は警戒警報を発令。
けたたましいサイレンの音がパリ市内外に響き渡った。
パリ南東の最高司令部ヴァンセンヌから東に3km程のローニュ空軍基地。
早朝から待機所で出撃を待っていたパイロット達はサイレンの音が鳴り始めると同時に、自分の愛機の下へと全力で走り出す。
機体に飛び乗ったパイロット達は、素早くエンジンを始動させ離陸を開始。上空3000mで各隊がデルタ隊形の編隊を組んでゆく。ローニュ基地からは、戦闘機2個大隊が上がった。
機種は木金混合のモラン・ソルニエMS406、ブロックMB152、そしてアメリカ製カーチス・ホークH75など、合計78機。
各編隊はパリ北部へと展開し、迎撃態勢を整える。
「来たぞ!ファシストの戦爆、およそ100…、いや、もっと多い!」
パリ防衛に当たる第2戦闘機大隊第4飛行中隊を率いるルイ・デルフィーノ大尉は、指揮下の中隊機に手信号で警戒するように合図を送った。
雲の切れ目の遥か彼方に、蚊の群れに似た黒点の集合体。
予想を上回る規模だ、そう思いながら操縦桿を握る手に自然と力が入る。
乗機は旧式のブロック戦闘機からようやく新型のデヴォアティーヌD.520に更新されたばかりで、練度の点ではやや不安があったが、それでも性能に劣っていたBf109にようやく追従が可能となった。
旧式のブロックMB152を駆ってデルフィーノは、Bf109Eを2機を圧倒的性能差を覆して撃墜した猛者だった。
デヴォワティーヌは文字通りのフランス空軍最精鋭機で、ドイツ空軍が誇るBf109Eと比較すれば、最高速度では若干遅かったが、その設計は空力特性に優れ、翼面荷重が大きいながらも機動性では凌駕している。
これは個人芸的操縦を得意としたフランス人パイロットに合致した性能と言えたが、部隊配備の遅さが致命的で、何せ前線部隊の運用が始まったのはグデーリアンがスダンを突破した翌日だったのだから。
対してメッサーシュミットBf109Eは、その高速性能を活かした高空からの一撃離脱戦法を最も得意としており、その構造は急降下性能に耐えられる頑丈なもので、現在、尾翼支柱を取り払い設計を一新した改修型のF型が生産を開始している。
元々、迎撃戦闘機として設計されており旋回性能は優先されていないため低い傾向があり、そこを突かれて撃墜された機も割合多い。血気にはやって、フランス空軍パイロットに格闘戦を挑んでしまう若いパイロットなどが少なからず存在していた。
独仏戦闘機性能
メッサーシュミットBf109E
全長 8.8m
全幅 9.9m
全高 2.6m
全備重量 2600kg
発動機 ダイムラー・ベンツDB601A 液冷倒立V型12気筒
出力 1100hp
最高速度 550km
航続距離 660km
兵装 MG151/20 20mm機関砲2門 MG17 7.92mm機関銃2門
デヴォアティーヌD.520
全長 8.76m
全幅 10.18
全高 2.56m
全備重量 2780kg
発動機 イスパノ・スイザ12Y45 液冷倒立V型12気筒
出力 910hp
最高速度 524km
航続距離 990km
兵装 イスパノ・スイザHS.404 20mmモーターカノン1門 MAC1934 7.5mm機関銃2門
「フロッグの出迎えだ! 各隊、ロッテを崩すな! 高度6000まで上昇!」
「ヤヴォール!」
フランス戦闘機の姿を遠巻きから確認したガーランドは、無線で指揮下の部隊に命じた。
編隊は2機1組となり上昇を始める。
ズーム&ダイブ。有利な高空から超高速で降下することによって、敵の迎撃する手段を封じながら一方的に攻撃を加える。
設計者ウィリー・メッサーシュミットの提唱した「不利な相手にわざわざ付き合う必要はなく、不利となれば敵機を振り切ればよい」という単純にして明快な理論の体現こそがBf109であり、この機体はまだまだ発展の途上にあった。
編隊は爆撃機とその護衛に当たるメッサーシュミットBf110C、敵の撃滅を狙うBf109Eの集団へと別れた。
Bf110は長距離飛行が可能な双発戦闘機で、ゲーリングはこのBf110を絶賛しており事実ポーランド戦では教導飛行団がずば抜けた活躍を見せていた。Bf109と同様小型の機体に強力なエンジンを搭載するコンセプトを踏襲し、Bf109の双発機型といってよいもので戦略重戦闘機の名称にふさわしいものだった。
メッサーシュミットBf110C
全長 16.2m
全幅 12.1m
全高 3.5m
全備重量 6750kg
発動機 ダイムラー・ベンツDB601A 液冷倒立V型12気筒 2基
出力 2200hp
最高速度 560km
航続距離 910km
兵装 MG151/20 20mm機関砲2門 MG17 7.92mm機関銃3門(内1門旋回機銃)
速度そのものはBf109を上回っており、同じ運用が行われているならば決して低性能な機体ではない。しかし、与えられている任務は爆撃機の護衛なのだ。
「こっちはボンブをやる。俺らにはおあつらえ向きだな。こいつじゃ単発には敵わんからな……」
モラン・ソルニエMS406を駆るロベール・ウィリアム大尉は、接近しつつある爆撃機群に狙いを定めた。
「低空域なら我々に分がある! 鈍重な双発など敵ではない!」
ロベールは突撃せよの手信号を合図に、先頭をきってドイツ編隊に突入していった。
フランス空軍の戦闘方法はあまりにも単純なものだった。連携を全く考えず各々が自分の力量を頼みに勝手に格闘戦を挑んでいくという前時代的な戦い方で、編隊を組む意味はほとんどなかった。
モラン・ソルニエMS406
全長 8.15m
全幅 10.71m
全高 2.84m
全備重量 2720kg
発動機 イスパノ・スイザ12Y45 液冷倒立V型12気筒
出力 860hp
最高速度 486km
航続距離 800km
兵装 イスパノ・スイザHS.404 20mmモーターカノン1門 MAC1934 7.5mm機関銃2門
デヴォアティーヌD.520に比べて横転性能と速度は劣るが、旋回性能・機動力では勝るまずまずの性能であったが、Bf109と比較すれば60km以上低い速度性能は遥かに劣っていた。
速度性能とそれにマッチした空戦方法の確立によって、Bf109Eは世界最強といっても過言ではない地位にあった。
「ダイブに入る! 援護頼むぞ!」
「ヤー!」
攻撃に参加する中に、ドイツ空軍が誇る撃墜王ヴェルナー・メルダース大尉の姿もあった。すでに撃墜数は21機に伸ばしており、アドルフ・ガーランドと共にスコアを競い合っていた。そのスコアは全軍でこの時点で第一位である。
僚機に背後についてもらうと、急降下の態勢に入った。
狙いを定めた目標は爆撃機を標的にしているであろうMS406。
見慣れない機体が此方に合わせ上昇してきているが、出力が低いのであろうか追い付けるほどの上昇力はないようだ。
新型だろうがこのメッサーに敵うはずがない!
「混戦に入る前に叩く! 各隊は隊型を維持しつつ、突入!!」
メルダースもやはり先頭を切って降下を開始。
独仏両空軍が入り乱れて、パリの上空でぶつかり合った。
「作業員は直ちに作業を中断し、防空壕へ避難せよ!」
パリ市内の工場ではドイツ軍機の接近に伴って、避難命令が出される。
「今回は避難訓練じゃないの?」
工場で働く若い女性工員が一斉に敷地内を避難している工員に混じって、隣を走っている年配の女性に話しかけてみる。
「違うと思うねぇ、監督官の慌てぶりからすると。東の方じゃ毎日爆撃されてるって話だよ」
「そうなんですか…、なんかパリは結構平和って感じがしてたんで、てっきりいつもの訓練かと」
「能天気だねぇ。うちは旦那が軍関係の仕事をやってるもんだから、わりと情報が入んのさ」
訳知り顔で話す女性は溜息を吐く。若い方の女性はやや俯きかげんで列の流れに沿って走っていく。
「あんた、出身はどこだい? 家族とかはいるの?」
「え、あたしはルーアンです。父は出征していて、母はいません。仕送りだけじゃやってけないんで、働きに出てきたんだけど、まさか攻撃を受けるなんて思ってもいなかったから」
こんなことに巻き込まれるなんて、どこか他人事のように思っていたのは間違いない。
「大変だったねぇ。うちも似たようなもんでさ、前の戦いのときもあんたと同じように工場に働きに出てさ」
「おばさんも?」
「おばさんは失礼、でもないか。もう40だからね。とにかく爆弾なんかで死んでられないから、まぁさっさと逃げるよ」
「はい」
意外に若かったんだ、と思いながら苦労してきた感じをにじませる女性に笑顔で応じる。
遠くからは対空砲火の発砲音が轟いてくるが、その音が止む気配はない。今までも散発的なものはこれまでも何度もあったが、今回は様子が違うこと、危険がすぐそこまで迫っているのを肌で感じている。
メルダースは深く倒した操縦悍を握り絞め、強力な圧力を受けながらその身を機体に預ける。仰角80度の突入角度、降下速度は750kmを超え秒速200m以上で降下していく。
10秒そこそこで遥か眼下にある目標に到達する。
何度も繰り返してきた動作。目測に誤りは無い。
「墜ちろっ……!!」
正面に設置されている照準器内に敵機の姿をおさめようとする瞬間、操縦桿と一体になっているレバーをメルダースは引いた。
翼内装備の20mm機銃2門が一斉に火を吹き、目標となったMS406の主翼から垂直尾翼までを粉々に打ち砕き、機体は主翼がもぎ取られた状態のまま揚力を失い、鋼鉄の塊と化したMS406はパイロットと共に垂直に落下していった。もちろんメルダースがその様子をうかがい知ることはできない。
残っているのは仕留めたのが確実だ、という手応えのみだが、僚機がいれば確認も容易だ。
「また俺の勝ちだガーランド。貴様に負ける訳にはいかん」
メルダースは徐々に操縦桿を引き、機体を引き起こし始めた。
燃料には余裕がある。もう一度……
しかし、勝利の余韻を戦場の空は与えてはくれない。
十分に降下してから引き起こしに入ったはずが、いや、今までであったならば安全な高度と距離を稼いでいるのだが、メルダースの予期せぬ難敵が現れた。
メルダースの機体をかすめる太い火線。危うく命中するところだったが、どういう訳か途中でその射撃は止まった。20mm弾が命中すればさっきの二の舞になるのは確実だったメルダースは冷や汗をかいた。間一髪。
「クソ、弾づまりか?! だが逃がさん!」
何度か引き金を引くが弾が出る気配がない。怒りに任せ風防を殴りつける。
デルフィーノの駆るデヴォアティーヌD.520。プロペラ軸に設置されたモーターカノンは特性上、射線軸が機体の正面であるため命中率は高いはずだったが、負荷がかかった状態では頻繁に装弾不良を起こすという信頼性の低さが、このモーターキャノンの現時点の泣き所だった。
だが、上空から辛うじてではあったが追尾できたのは、この機体の性能が今までの機体と一線を引いたものである事を証明した。
メルダースは背後を追っていたはずの僚機を確認しようとしたが、僚機ももう一機のD.520に食いつかれ援護に入れるような様子はない。単独でコイツを始末しない限り離脱も難しい。
かなりの低空域まで降下してしまっておりこれ以上のダイブは不可能。高度をそれでも落として対空砲火を潜り抜けるか、高度を維持して振り切るか、あるいは上昇力を頼みに反撃に転じるか、いずれにせよあまりいい状況ではない。だが。
「おもしろい」
メルダースは悪い気はしない。むしろ楽しんでいる風にも見えた。
こう追い詰められるといった事は、スペイン、ポーランド、北フランスでも訪れる事はなかった。
初めて得られた好敵手の出現、血が沸き躍る感覚とでも言うのだろうか。
「着いてこれるかフロッグ!」
メルダースは引き起こしを止め、水平飛行へと移行。
ダイブブレーキを持たず、エンジン、DB601Aの出力を絞っていたが、スロットルを目一杯に開放。
一気に加速を始める。
デルフィーノもまたスロットルを開放し更に加速しながら上空から、7.5mm機銃を浴びせかける。高所、後方の有利を活かし一方的に攻撃を加え続ける。
回避するために操縦捍を倒しラダーをけって機体を横に滑らせるが、その都度、どうしても速度が犠牲になってしまう。同高度の水平飛行であったならば、間違いなく振り払えるのだが。
誤算、すぐ振り切れると甘く見ていた。
こうなっては下に逃げる以外に方法がない、そう思った矢先、ついにデルフィーノの放った7.5mm弾がメルダースの機体を捉える。
「機体の制御が…!」
キャノピーから後方を確認すると、尾翼が破壊されているのが見えた。
起動に関わるラダー、エレベーターの双方を失って機体は制御を失った。やむ無くメルダースは、エンジンの出力を落とし機体を降下させる。静かな撃墜。
「やってくれる……」
初めて"撃墜"の恥辱を受けたメルダースは、自分を墜とした機体を見上げる。
その機体は途中まで速度を落として上空から着いてきたが、再び速度と高度を上げて戦闘へ復帰していった。
パリ近郊に不時着したメルダースは、フランス地上部隊に拘束され捕虜となる。
パリ上空の戦いは、戦果的には双方中途半端に終わった。
ドイツ軍は爆撃機を中心に46機を失い、フランス軍は地上撃破も含め32機。
フランス空軍も経験を積んで、回避重視の傾向を強め一撃離脱戦法が初期の頃ほど通用しなくなり始めていた。
しかし、撃墜が非常に難しい事に変わりはなく、Bf109とまともにやりあえる機体は少なく、モラニエ、ブロックでは対抗しえないのは明白だった。
爆撃機は空軍基地、道路、鉄道、そして軍需工場と爆撃を行い、基地爆撃は航空機の撃滅は空振りに近かったが、基地機能の無力化と何よりパリの住民に恐怖を植え付けた。しかし、双発戦闘機の護衛は成功とは言えず、運用が誤っていることの証明となった。
双方戦力的には大規模だったが、目に見える決定的な戦果を上げるには至らなかった。しかし、この攻撃によってパリは戦略価値を失い、フランス空軍は戦力を後方に下げ、機体の更新を急ぎ持久戦の体制に入った。
空の戦いは不本意な結果ではありながらもドイツ軍はフランス軍を後退に追い込む事に成功。場面は陸へと移る。
「戦車隊前進!!」
鋼鉄の猛獣の群れが、砂煙を上げ列を為して前進を開始する。それまで小部隊による小競り合いこそあったが、前線の不気味な沈黙はついに破られる。
北に向けられていた部隊を南へ集結させ、損傷した車両の修理、燃料弾薬の補給、総数2700輌の戦車の再編成に5日の期間を必要とした。
総統命令に従って陸軍総司令部は作戦を立案、攻勢は三方向から成る。
まず、主攻勢軸となるマジノ線西端からエーヌ河の間隙部を突破するのはハインツ・グデーリアン装甲兵大将がそれぞれ指揮する装甲集団。
グデーリアン装甲集団はクライスト装甲集団から分離の上で格上げされ、マジノ線後方に展開するフランス第2軍集団とマジノ線自体を本土から切り離して包囲する役目を負う。その戦力は第1・第2・第9・第10の4個装甲師団、2個機械化師団。
エヴァルト・フォン・クライスト騎兵大将が指揮するクライスト装甲集団はソンム・エーヌ間隙から南方面へと突破。フランス軍を再起不能に追い込むパリ近郊の攻略と後方の蹂躙を主任務とする。戦力は第3・第4・第6・第8の4個装甲師団、2個機械化師団。ヘープナー装甲軍団はクライストの下に統合される。
そして、クライスト・グデーリアン装甲集団と行動を別にし、ソンム河下流域を突破して南西方面への助攻となるのは、へルマン・ホート装甲兵大将のホート装甲集団。戦力は第5・第7の2個装甲師団と同じく2個機械化師団である。
3個の装甲集団を軸とし、ドイツ軍は予備軍であった第2軍、第9軍を新たに投入、総数は145個師団にまで増強されていた。
「フランス第2軍を粉砕する! 目指すはアルプス!敵地から見るアルプスはまた格別だぞ!」
Ⅲ号指揮戦車に跨がり、怒涛の進撃を開始しようとしている戦車部隊を鼓舞するべく、グデーリアンが大声を上げる。
ダンケルクでは不覚をとって、英仏連合軍を逃がしてしまい、不完全燃焼であったのは言うまでもない。状況がそれを許してはくれなかったのではあるのだが。
「すぐ前線で指揮を執りたがりますな、閣下。まぁもっとも、それが閣下の優れているところだが、少しは御身には気を付けてほしいものだ。韋駄天と云われる所以か」
参謀長ヴァルター・ネーリング少将が、後方の軍用車両の助手席から溜め息を吐きながらグデーリアンを眺める。
そのような心配も、今現在の両軍の戦力から考えれば杞憂に過ぎない。
スケジュールの上では、前線に展開するフランス第2軍の突破に3日、アルプスまでは10日程度で到達可能と見積もっている。
フットワークの軽さこそがグデーリアンの持ち味であり、素早く敵に乱打を浴びせ翻弄し続ける事こそ至上とする。ネーリングはその乱打を的確に敵の弱点に打ち込ませる精密さが求められているものと理解している。
グデーリアン達が北西に向かって進撃している間、エルンスト・ブッシュ歩兵大将の第16軍がマジノ線西端からエーヌ間隙までに攻撃を加えて、フランス第2軍に打撃を与えていることが、ジワジワと効果を生んでいた。
ブッシュの率いる第16軍は歩兵主体の編成ではあったが、マジノ線攻略の一端を担う役目もあったため、重火器も比較的多く配備されている。マジノ線の一端であるモンメディを攻略する活躍も見せている。
マジノ線と直接相対するC軍集団第1軍、第7軍からすれば、その質量共に劣るのはやむを得ない話であった。
機甲部隊の側面防衛ではあったが、参謀長たるヴァルター・モーデル少将はこのエーヌの間隙こそが、フランス軍のアキレス腱となり得る事を見抜いていた。
ディールプランにおいて、シャンブルー間隙部に最強の第1軍を投入した先例がある。しかし、今その最強戦力は消失し、防衛しているのは予備部隊に毛が生えた程度の第2軍でしかない。
後方、マジノ線を補完する第5軍と第8軍から戦力を引き抜いていたが、ドイツ空軍の効果的な交通網遮断により、その移動は間に合わなかった。そこに第16軍は攻撃を加え続けていた。
「我々としては敵が損耗していることは願ったり叶ったりだ。ブッシュ将軍の功績を奪うようで気が引けるが、この機会を有効に活用させて頂きましょう」
そういえば、そのブッシュ将軍の下で参謀長をやっていたのはモーデル将軍だったな。効果的な援護が期待できそうだ。
ただ、懸念としてはグデーリアンとブッシュの関係は良好とは言えず、脇から現れて嵐のように過ぎ去って行けばどのような反応をするか気になるところではあった。
故にその所属は第12軍ヴィルヘルム・リスト上級大将の下に留め置かれている。
改めてその事を思い出しネーリングは考えを巡らせた。恐らく突破に3日と掛かるまい。
対してフランス軍の戦力は局所的には強化されつつあったが、既に64個師団にまで落ち込んでいた。
マジノ線後方の第2軍集団、ウェイガン線の第3軍集団、そして、中間を防衛する第4軍集団と北東戦域軍予備が前線における現在の即戦力である。
他に目を向ければイタリア・アルパイン線にアルプス軍団約20個師団、スペイン方面軍同じく20個師団、アルジェリア・イタリア国境に約15個師団と広範の防衛に分散され、これらを主攻勢面の防衛に振り向けられる時間的な余裕は皆無。
しかし、ウェイガンは限られた中であらん限りの経験と知識を総動員して準備を行っていた。
フランス軍の準備が完了していない事を見越して進軍を開始したドイツ軍であったが、ウェイガン線におけるその抵抗は予想を越える激しいものだった。
まず、前線の集落という集落はことごとく要塞化されている。塹壕が張り巡らされ、対戦車用障害物の設置、鉄条網の展開、隠蔽された対戦車砲陣地といったものだ。不用意にこれらの集落に当たった部隊は、フランス軍は集中砲火の洗礼を浴びせかけられることになった。当初の予想を上回る、かなりの出血を強いられた。
各軍の編成は
着任からわずか1週間と経ずに、北部地域一帯での大敗北の教訓を活かした見事な采配と言えるものだったが、いかんせんありとあらゆる準備が不足していた。人員、資材、兵器、さらには移動手段を封じられ、最も貴重な時間さえもなかった。
「マジノ線と総予備から25個師団を引き抜いたが、数が足りん!」
ウェイガンはヴァンセンヌ城内の作戦室で、机上に広げられたフランス全土の地図に視線を落とす。
電撃戦に対抗する縦深防御策によって防衛線を構築したが、その縦深は浅く、薄く引き伸ばされたものでしかなく、現状では持って5日と判断している。
「このままいけばパリの陥落は必至だ!」
避け得ぬ運命のようだ、とばかりに参謀に向け声を上げるウェイガンの悲痛な叫びに応えるものはいない。重い沈黙。
歴戦の名将をもってしても、この現状を覆すことがもはや不可能に近いことを認識していた。
しかし、ウェイガン線正面に布陣する第4軍、第6軍、第9軍を指揮下に置くB軍集団を率いるフェードア・フォン・ボック上級大将は、この防衛線の猛烈な抵抗を高く評価していた。
実際、その防衛線に捉えられた戦車大隊が押しとどめられ立往生を喰らっていた。
これは戦線を支えうる可能性を示すものと判断したが、この膠着を打破せねば1917年のカンブレーの戦いの二の舞となることをボックは危惧。
揮下の第4軍に配属されたホート集団が攻勢の中核となった。
このウェイガン線の縦深の抵抗は凄まじく、圧倒的に優勢であるはずのドイツ軍を3日に渡って食い止めた。撤退を禁止する死守命令は、想定以上の効果を生み出していた。そして、この命令に従って激戦を演じたのは多くの名も知られぬ植民地の黒人兵達を多数含むものだった。その激戦により、周辺の集落は灰燼と帰した……




