第12話 冬戦争終結
3月7日
フィンランド・コッラー地区
フィンランドとソ連の戦闘はいよいよ終わりの時を迎えようとしていた。
カレリア地区のソ連軍主力軍による総攻撃と歩を合わせるように、ラドガ・カレリア地区でもソ連第8軍と、新たに編成された第15軍による苛烈な攻撃が実施されていた。ソ連軍砲兵による砲撃も激しさを増していた。偵察機の写真撮影でも500門の野砲の存在が確認され、日がな一日中、その爆音を轟かせている。そんな中でも防衛する砲兵大隊も移動を繰り返しながら、反撃を行っていたがソ連軍の数に任せた砲撃に抗するには至っていなかった。第34連隊一部はゲリラ大隊として、ソ連軍後方の攪乱と攻撃を鈍化させるべく、戦線に投入したが突破は時間の問題だった。
ついに上級部隊第12師団司令部は後退の可能性を模索し始めており、コッラーの放棄が現実になろうとしていた。
「いよいよやばくなってきたぜ…」
迫りくるリャッシュ(ロシア人)達の数はますます増え続けている。少なくとも前面には3個師団以上が展開しており総計10万は下らないだろう。原型をとどめないほど蜂の巣にされた肉片に変えられようが、ソ連兵は声を張り上げながら突撃してくる。豪胆で鳴らしたユーティライネンも悪態をつく。つい先日、シムナ(シモ・ヘイヘ)が、敵のカウンタースナイプで顎を撃ち抜かれて顔の半分が吹き飛んだ。
2月18日、度重なる戦闘で損害の多いテイッティネン第34連隊は、ライニオ第69連隊と交代することになったが、古参兵達と共に彼も残った。その前日にシムナは、フィンランド最高の眼を持つ兵士の名とスウェーデンから贈られた小銃が栄誉として与えられた矢先の悲劇だった。
さすがに敵も馬鹿じゃなかった。千人近くを屠っているんだ、いや非公式なら千人を超えているかもしれん。まさにワンマン・アーミー、一人で一個大隊に相当する。あれだけ殺しまくればさすがに有名になっちまってんだろう。味方だけじゃなく敵にも。白い死神と言われながらも、神ならぬ人の身。いつかは終わりが来る。
「だが、まだ終わっちゃいねぇ」
スキーを駆り、ユーティライネンは敵狙撃兵の狙いを躱しながら、林の合間を進撃してくる敵の小隊に向けKP31を撃ち放ち、数人を血だるまに変えるとすかさず敵弾の届かぬ斜面へと滑りぬける。一発撃てば、十発は撃ち返される、まったく豪勢な弾の使い方をしやがって。
素早く40発入りの弾倉を入れ替え、再び移動を始める。KP31は反動が少ないのが利点だが、何分重いのが欠点のサブマシンガンだった。疲労困憊で目がかすむ。
シムナが撃たれたのもそうだが、最近ではソ連軍の中にも凄腕のスナイパーが出没するようになっている。しかもチームを組んで士官連中を狙撃している。恐らく猟師をやってたような奴らだろう。蛇の道は蛇、スナイパーにはスナイパーか、厄介な連中だ。既に3人の士官がその犠牲になっている。
姿を敵に見せれば、その二の舞になる可能性が非常に高くなる。元々寡兵の我が方にしてみれば、一人一人の存在価値は重い。既に部隊の損耗は半数を超え、被害は連日うなぎ登りで壊滅的な打撃を受けている。
後方との連絡を取る電話線も砲撃で寸断され、降り注ぐ砲弾はもはや後退することすら困難にしてしまっている。もう戦線を支えるのは数日、せいぜい1週間が限界だ。我々にはもう増援は望めない。このコッラー川を保持する約束を守る事ももう……
だが、何としても敵の進撃を鈍らさなければならない。この身が朽ちようとも。
コッラーを突破されても、後方のロイモラには味方ですら突破は無理と言われる防衛線が設定された。命令があれば即座に後退して、そこに引きこもる。春の雪解けまで持ちこたえれば、リャッシュ達の足元は、全てスオミの深い泥の大地に沈むことになる。そうすれば奴らは前に進む事すらおぼつかなくなるだろう。淡い希望を抱き、ユーティライネンは極北の沈みゆく日の光を受けながら、再び銃を携え敵中へと向かう。
ちょうどその頃、ヘルシンキ北東の街ミッケリ。
フィンランド軍総司令部で開かれた司令官級会議において、マンネルヘイムから各軍司令官に対して重大な決断が伝えられることになった。
「これまで本当によく戦ってくれた。貴君らの奮闘に敬意を表する。本日、我がフィンランド政府は、停戦協定に同意し講和する旨をソ連に通達した」
壁面に掲げられた、白地に青の鉤十字が記されたフィンランド国軍表記ハスカリティの前で、強ばった表情でマンネルヘイムは政府の決定を伝えていた。
覚悟はしていたが、やはりこの決定は衝撃的なものだった。
ここに至った背景は2月25日、ノルウェー、スウェーデン両国が連合国の通過を拒否した事で、フィンランドに早期救援が訪れる可能性は消滅した。両国共に世界大戦に巻き込まれる事を恐れ、隣人を見捨てたのである。他国の事情で自国領土が焦土になる事を避けるための正当な手段であった。
もう一方の大国ドイツは、ソ連との秘密議定書がある以上、これもまた頼りにならなかった。そして、そのドイツでは前日に西方作戦と、北欧作戦に関しての総統命令が密かに出され、目まぐるしい変化が生じようとしていたが、それがフィンランドに伝わる事はなかった。
「閣下、私は反対です。我々は連合国の救援が無くてもまだ戦えます!」
マンネルヘイムに反論したのは、カレリア地峡軍司令官エリック・ハインリッヒス。
「私も司令官の発言に同意します。ヴィープリは包囲されましたが、まだ我が第3軍団は健在です。どうかご再考を」
パーヴォ・タルヴェラも同様に反論した。トルヴァヤルウィの戦いで活躍した功績から、エリックが指揮官を務めていた第3軍団の指揮を継承した。第3軍団はカレリア地峡東半分を防衛し、タイパレからブルナヤ・ヴオクサ河に連なる天然の要害を終始守り通し、わずか2個師団でソ連第13軍10個師団の侵攻を寄せ付けなかった実績があった。
「そうだ、我々はまだ戦う力は十分にある」
マンネルヘイムの言葉を聞き、「ならば!」と指揮官達は口を開こうとした。
「しかし、戦う力を失って残るのは完全な屈従だけだ。だからこそ、今講和しなければならないのだ」
最高指揮官の決定が苦渋の判断である事が伝わり、指揮官達は言葉を失った。フィンランド第2の都市、ヴィープリの失陥は精神的に大きな痛手であり、ソ連側からの要求が更に過大になる前に、何としても講和交渉に入らねばならない切迫した事情によるものだった。既にヴィープリ南に広がる凍結したヴィープリ湾は、ユーティライネン弟も参加した全航空機を投入したが、損害を無視してただ前進する、ソ連軍6個師団と1個機甲旅団によって走破され南西部に橋頭堡を築かれてしまい、ヴィープリは北部を除きほぼ包囲が完全なものになりつつあった。
大国ソ連に対して、圧倒的劣勢に立ちながらもここまで戦い抜いての譲歩ならば、併合と言う最悪のシナリオだけは回避できる。戦わずしての譲歩は、スオミの独立を危ういものにする。我々はその心意気を世界に示した。
ここが最高の退き時であると。
同日、モスクワ
クレムリン・カザコフ館書記長室
「同志チモシェンコ、このまま前線を突破しヘルシンキを落とした方が手っ取り早いのではないのかね」
モロトフから、フィンランドが講和に応じる事が伝えられると、スターリンは軍事的見地から、前線部隊の責任者であるチモシェンコを呼び寄せていた。
「講和に応じるのが賢明であると私は判断します。同志書記長」
対面に立つ綺麗に禿げ上がった偉丈夫を見上げながら、やや不機嫌な表情をスターリンは見せた。
「前線を抜くことは可能でしょう。しかし、猛烈な抵抗を受ける事が予想され、更に時間をかければ雪解けの泥濘に巻き込まれます。進軍はますます困難となり、いつまでも大軍をフィンランド正面に張り付けておく事は、他の大国の介入を招きかねません。赤軍恐るるに足らぬと」
赤軍の現状を正しく認識するチモシェンコは、冷静な判断を行っていた。この混迷とした世界情勢では、いつソ連の安全保障が脅かされるか分からない。言い様のない危機感だけがひしひしと感じられた。
「む、そこまで言うならば、ひとまず講和に応じよう」
心底残念と言った様子で、スターリンは講和に同意した。
しかし、スターリンの自尊心を傷付けるのに、この結果は十分なものとなった。
とんでもない誤算だった。これではソ・ポ戦争と同様の失敗の繰り返しではないか?
(お前は無能なのだよ)
そう言って嘲り笑うミハイル・トゥハチェスキーと、レフ・トロツキーの声が、ふいに脳裏をよぎる。
(黙れ! これは内部の裏切り者、そうエジョフのせいなのだ! 奴があそこまでやらなければ、こんな結果にはならなかった! 忠臣面した小男め。だが奴は地獄に送ってやった。そのエジョフに殺された貴様も哀れなものだ。そして残るはトロツキー、貴様の番だ! 近いうちに必ず地獄に送ってやる…)
声を掛けているチモシェンコにも気づいていないように、スターリンは怒りに震えていた。時折見せる様子は、周囲の人間にとっては堪らない不安を煽る。全て疑心暗鬼から来る妄想の産物であり、現実と混同する状態にスターリンは日夜苛まされていた。やっと現実に戻るとスターリンは「体調がすぐれぬ、下がれ」とだけ言うと、俯き加減に目頭を押さえる。チモシェンコは一礼だけして、足早に書記長室を退室する。
昨月、この敗退の全責任を前NKVD長官ニコライ・エジョフに被せ、ドイツの諜報組織のスパイであると自白させ、ベリヤに命じて処刑させた。血の大粛清、俗に言われるエジョフシチナにより、かつて存在したレーニン派、トロツキー派といった内部のスターリン反対者と、外敵に通じる不穏分子はほぼ全て抹消したが、それと引き換えに国内は機能不全に陥った。その犠牲者の中には赤軍の至宝トゥハチェスキーも含まれており、彼はエジョフ本人の激しい拷問を受けながらもクーデターを計画していたという罪状を認めず、頑なに抵抗し、スターリンを批判しながら非業の死を遂げる。彼の調書は彼の血で濡れていたと言う。この一部の粛清に影響を与えたのは、ドイツ現国家保安本部(RSHA)、当時は親衛隊保安部(SD)長官、親衛隊中将ラインハルト・ハイドリヒが仕組んだものであるというのが噂となっている。この工作は、将来敵対するであろうソ連の屋台骨を骨抜きにする計画と見られるが、工作を仕掛けた時期とトゥハチェスキーが逮捕された時期はほぼ一致しており、赤軍の弱体化を望むハイドリヒと、自身の脅威を排除すべくその名目を探していたスターリンに、行動させる導火線としては十分なものだったのだろう。
しかし、ソ連は天文学的な血の代償によってスターリンの下、完全なる一極支配が盤石なものとなった。これらは全て、頂点に立ったスターリンの恐怖の裏返しであり、赤軍も主要だった指揮官の八割を処刑、軍司令官18人中15人、師団長186人中154人他多数が粛清され、指揮能力を持つ有能な人物は数えるほどしかいない状態で、ソ連政府、赤軍はスターリン主義に染まった30代前半の若い指揮官や官僚によって、スターリンの命令をただ忠実に実行する親衛隊と化していた。
その結果は、弱小国と見られていたフィンランドに、事実上敗退するという屈辱的なものだった。しかし、軍事的には文字通りの泥沼に嵌る可能性から、外交による圧迫政策で優位を保つ方向へと舵を切る。
度重なる激戦で戦線維持が限界に達したコッラーの放棄を決定した、その3月13日。
ソビエト・フィンランド戦争、モスクワ講和条約締結により終結。
フィンランド側
参加総兵力 約25万名
戦死 26700名
戦傷 39800名
捕虜 1000名
ソ連側
参加総兵力 約100万名
戦死 126700名
戦傷 265000名
捕虜 5000名
ソ連側が払った犠牲は膨大な数に上った。この数値は最低でも、という意味合いで実際の詳細は不明。被害は全体の四割の40万に達し、本当に勝者であるのか正直疑わしい内容だったが、この結果にも拘らず、開戦前と同様、ソ連側の要求は苛烈を極めるものだった。これこそが大国の面子である。今風に言えば相当な無茶振りである。
条約締結によりフィンランドはヴィープリを含むカレリア地方、ハンコ半島を失った。開戦前のカレリアとの交換を持ちかけられたラドガ北方地区は、オットー・クーシネンを首班とする傀儡国家、フィンランド民主共和国改めカレロ・フィン・ソビエト社会主義共和国へと編入される。これらの地域に住む人々は、再びこの地へ戻ってくることを誓い、住み慣れた土地を離れることになった。
ベルリン
プリンツアルブレヒト通り8番地
「閣下、ヘルシンキとモスクワ間の非常に活発な無線交信を傍受いたしました。これまでにない動きです」
フィールドグレーの制服に身を包んだ男が、執務室のデスクに座る同じ制服を着用する金髪の男に報告を行う。
「フィンランドは持ちこたえたか」
膨大な量の書類に囲まれながら、そう短く金髪の男は返す。
「は、敵対関係にある両国首都間の、恐らくは外務用無電。しかもこれほどの怒涛のような量から、まず間違いないかと。ソ連側の損害は、各方面の報告から集計いたしますと、20万は下らないものと思われます」
報告していたのは、国家保安本部第Ⅳ局、(通称ゲシュタポ)E課(情報課)課長ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少佐。報告した相手は、国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将。その容貌から金髪の野獣、またはジークフリートと呼ばれる。やがて彼が、このドイツを率いる時が来ても、何ら不思議とは思わないだろう。
現在、ドイツ帝国の情報管理において、国防軍防諜部と二分する巨大組織であり、同時に国内の治安維持、警察部門をも統括する。そのトップであるラインハルトは、ICPC、国際刑事警察委員会(現在のインターポールの前身)の総裁も兼任するが、位置的にはゲシュタポの下位となる。第二次大戦の勃発によって、その役割は小さなものとなってしまっている。
「3年前に蒔いた種が、ここまで大きくなるとは正直、予想を遥かに上回る。たかだか20万程度のフィンランド軍に100万の軍を投入して、この損害とはな。ソビエトは柱はおろか土台まで腐り果てたか」
決裁の書類にサインして、そのファイルを閉じると、綺麗に積まれた書類の山の上に静かに置きながら、ラインハルトはそう話す。彼の下には毎日大量の書類が送られてくるが、それら全てにしっかりと目を通し、適切に処理していく彼の実務能力は恐ろしく高い。
「この結果は、そのまま我がRSHAがアプヴェーアに対して優位に立つ事を意味する。総統閣下もお認めになるだろう」
これを聞いて、シェレンベルクは暗い表情になった。アプヴェーア、国防軍内に存在する情報組織の長は、ヴィルヘルム・フォン・カナリス海軍大将だったが、ラインハルトとは個人的には家族ぐるみで親しい付き合いをしていたが、本人同士は険悪な仲だった。そしてカナリスとはシェレンベルクも付き合いがあり、当人はシェレンベルクを気にいって良くしてくれていた。二人が会う時は、シェレンベルクがいないと会話にすらならないという状態だった。
事あるごとにラインハルトは、国防軍防諜部を敵視してその権限を奪うべく、ドイツ国内の情報部門を一手に握るため虎視眈々と機会を狙っていた。ソ連の大粛清のきっかけとなったトゥハチェスキーの粛清も、自らの功績と触れ回っていたため、(そして実際ソ連外相モロトフなどは、トゥハチェスキーがクーデターを企てていたと本気で信じていた)その一件では国防軍防諜部を憤慨させていた。
そして、この結果である。カナリスに一泡も二泡も吹かせる宣伝材料としては、もってこいの内容だった。赤軍はここまで弱体化させたのは我々であると。
金髪の野獣の野心は止まるところを知らない。
おもむろにラインハルトは立ち上がると、「仕事は終わりだ、出てくる」とシェレンベルクに告げる。
「お気をつけ下さい、閣下の命を狙う者は多いですから」
と、心配する様子でシェレンベルクは声をかける。ラインハルトの敵は非常に多い。業務上やむを得ないが、それにしても彼の場合はずば抜けている。それだけ危険で有能である証拠でもあるのだが。
「そう言うしがらみから解放される場所に行くのだ。君もたまには付き合ったらどうかね?」
思いがけない事に、シェレンベルクの顔はひきつった。何せラインハルトにシェレンベルクは殺されかけた事がある。プレイボーイだったシェレンベルクは、ラインハルトの妻リナに手を出したと疑われ、毒を飲まされた事件があって以来、ラインハルトを恐れていた。任務には忠実ではあったが。
「いえ、私は閣下ほど仕事が早くありませんので、丁重にお断りいたします」
シェレンベルクの応えを聞いて「つまらん」とだけ言うと、シェレンベルクの脇を通り抜ける。
「お気をつけて、親衛隊中将閣下」




