【2】陽気な名前の不機嫌なお客様
モニカがヤウシュカからサザンドールに戻って十日が経ち、手の傷もだいぶ良くなった頃、アイザックとネロが両手いっぱいの土産を持って帰ってきた。
「いやぁ、すごかったぞ、キラキラの屋敷。ベッドはフカフカだし、風呂はデカいし、飯は美味いし」
人間の青年に化けたネロは、ホクホク顔で抱えていた荷物をテーブルに乗せる。ガチャガチャと音を立てるそれは、どれも酒瓶だ。
モニカが物言いたげな顔をすると、別の荷物を解いていたアイザックが苦笑混じりに言った。
「エリン領は、ファルフォリア王国の良質なお酒が手に入りやすいんだよ。モニカには珍しい干し果物と、木の実を……」
そう言って荷物の紐を解くアイザックの横顔は、気のせいかいつもより陰っているような気がした。
戻ったばかりで疲れているのだろうか?
アイザックとネロが戻ってきたら、シリルとローズバーグ姉弟を巻き込んだ、カルーグ山の白竜騒動のことを話そうか思っていたのだが、今はそれよりもアイザックの様子の方が気になる。
「アイク、アイク、あの……」
「うん?」
モニカが声をかけると、アイザックは土産を仕分けする手を止めてモニカを見た。
アイザックは穏やかで、柔らかな笑顔を浮かべている。
それは「アイク」の笑い方じゃない。「殿下」の笑い方だ。
その笑顔に、モニカの胸はざわついた。
(アイクは、何か隠してる?)
もし、アイザックが何かを一人で抱えて苦しんでいるのなら、力になりたい。
モニカにとってアイザックは、大事な弟子で友人なのだ。
何か悩みがあるんですか? わたしは力になれますか? ──モニカがそう言おうとしたその時、酒瓶を並べていたネロがハッと顔を上げた。
「おい、モニカ、ヤバイぞ! あいつだっ、あいつが来るっ!」
「……あいつって?」
モニカがネロを見ると、ネロは緊迫感に満ちた顔で叫ぶ。
「ルンタッタだ! ルンルン・ルンタッタが、こっちに向かって来てる!」
ネロの言葉に、モニカはさぁっと青ざめた。
そんなモニカの様子に、アイザックが困惑顔で首を傾げる。
「陽気な名前のお客様だね?」
「ち、違っ、えっと、ルンタッタさんは……じゃなかった。ルイスさんは、〈結界の魔術師〉のルイスさんですっ! アイクっ、隠れてくださいっ! ネロもっ、早くぅっ!」
第二王子とウォーガンの黒竜が居候しているだなんて、バレたらまずいどころの話ではない。
しかも相手は、あの勘の良いルイスである。モニカに誤魔化しきれる自信は無い。
モニカに背を押されるようにして、アイザックとネロはキッチンに引っ込む。それとほぼ同時に、玄関のドアノッカーを叩く音が響いた。
モニカはビクビクと震えながら、そぅっと扉を開ける。
扉の前に佇むのは、ネロの言葉通り、栗色の髪を三つ編みにした男──〈結界の魔術師〉ルイス・ミラーであった。
ルイスは長距離移動の際は、契約精霊のリンを伴っていることが多いのだが、今日は彼一人らしい。
身につけているのは七賢人用のローブではなく、ありふれた外出着だ。
ところで、モニカの知るルイス・ミラーと言えば、大抵の場合、その顔に余裕の笑みを浮かべているものである。
ところが今日の彼は、どういう訳かムスッとした顔をしていた。なんだか不貞腐れているように見えなくもない。
「ご機嫌よう、同期殿」
「こ、こんにちは……えっと、あの、今日は、どのようなご用件で……」
モニカがルイスを部屋の中に通すと、ルイスはテーブルの上にズラリと並んだ酒瓶をチラリと見て、眉をひそめた。
「その酒瓶は?」
「うぇっ!? あ、えっと、これは……お土産っ。そう、お土産ですっ。お友達から、たくさん貰って……ですね……」
「ほぅ、貴女一人にこの量を?」
「そ、そうなんです。たくさん貰っちゃって……あの、良かったら、一本どうぞ……」
モニカが酒瓶を一本ルイスに差し出すと、台所の方でガタタッと音がした。
ネロが「オレ様の酒!」と叫ぼうとし、それをアイザックが口を塞いで止めたのである。
「同期殿、今、台所で物音がしませんでしたか?」
「ね、猫っ、猫ですっ。使い魔のっ!」
モニカは全身を冷や汗でぐっしょりと濡らしながら、酒瓶をルイスに手渡す。
ルイスは僅かに眉をひそめ、台所に繋がる扉とモニカを交互に眺めつつ、酒瓶を受け取った。
「ありがたく頂戴いたしましょう。おや、ファルフォリアのワインではありませんか。随分と良い物を」
台所の方では、ガッタンゴットンという音がまだ続いている。
オーレーさーまーのーさーけー! というネロの声が、今にも聞こえてきそうだ。
ここは早く用件を済ませて、帰ってもらった方がいい。
モニカはルイスと目を合わせないようにしながら、ボソボソと小声で話を切り出した。
「そ、それで、今日のご用件は……」
ルイスが来たということは、七賢人の仕事の話なのは間違いない。
黒竜退治に、第二王子の護衛に……と、ルイスに振り回された過去を思い出して不安になるモニカに、ルイスはジロリと灰紫の目を向けた。
「同期殿、貴女……帝国の黒獅子皇と、面識はおありですか?」
「……へ?」
予想外の一言に、モニカの思考が数秒停止する。
シュヴァルガルト帝国の皇帝、黒獅子皇と言えば、モニカの頭をよぎるのは、木から落ちて麻痺して部下に支えられている姿と、『隠し武器を疑うなら、全裸で会話に応じよう。余は裸にも自信があるからな』という迷言である。
あの裸に自信のある皇帝陛下の名前が、何故、ルイスの口から出てくるのか。
なんにせよ、あの出来事はルイスに話せるものではない。〈沈黙の魔女〉と黒獅子皇は、公式の場での面識は無いのだ。
「面識、無いです」
「……では、何故、黒獅子皇は貴女を指名したのやら」
「指名?」
なんだか壮絶に嫌な予感がする。この手の嫌な予感というのは、往々にして的中するのがモニカの常だった。
ルイスは組んだ指に顎を乗せ、不機嫌と憂鬱を滲ませながら低い声で告げる。
「近々、黒獅子皇の妹君であるツェツィーリア姫が、我が国に公式訪問することになっております」
「は、はぁ」
「その護衛役に、黒獅子皇は貴女を──〈沈黙の魔女〉を指名しました」
黒獅子皇が、自分を指名。
その意図が分からずにモニカは混乱した。
「わ、わたしが、お姫様の、護衛っ? えっ、あの、なんで……ルイスさんの方が絶対、適任……」
その時、ルイスの手元からバキボキという不穏な音がした。
ルイスから漂う空気は、もはや不機嫌を通り越して、不穏かつ物騒である。怖い。
モニカが半泣きでガタガタ震えていると、ルイスの手元の音が止んだ。
そうしてルイスは顔を上げる。その美しい顔に、不自然すぎるほど、にこやかな笑顔を浮かべて。
「実は私、この度、まとまった休暇をいただきまして」
「……きゅ、休暇?」
「えぇ、ライオネル殿下直々に労いの言葉をいただきました。折角ですから家族水いらずで、ゆっくりさせていただきます」
ルイスは休暇が嬉しくて嬉しくて仕方がないと言わんばかりの笑顔を浮かべている。
それなのに何故か、全身から不機嫌と不満が滲んでいた。
モニカが困惑していると、ルイスは貼りつけたような笑顔のまま言葉を続ける。
「そういう訳ですから、同期殿には早速、明日からでも王都に向かっていただきたいのです。色々と準備がありますからね」
「あのっ、でも、護衛対象って帝国のお姫様なんです、よね? わたし、帝国のお作法、全然分からな……」
「ご安心を。帝国の事情に詳しいご令嬢が、貴女の力になってくれるそうです」
「帝国の事情に詳しい、ご令嬢?」
心当たりの人物が思い浮かばず、首を捻るモニカに、ルイスはその名を告げる。
「〈深淵の呪術師〉殿の屋敷に滞在中の、フリーダ嬢です」
〈深淵の呪術師〉レイ・オルブライトの婚約者であるフリーダ・ブランケは、帝国の辺境伯の妹だ。
なるほど、彼女なら帝国の事情や作法にも精通しているだろう。
「そういう訳ですので、早急に荷造りをして王都に向かってください。なお、今回、私は貴女の力になれないので悪しからず……なにせ私は、これから休暇ですから」
念を押すような口調には、やっぱり不満が滲んでいる。
モニカはもじもじと指をこねながら、口を開いた。
「でも、ライオネル殿下とルイスさんはご友人だし、やっぱり護衛はルイスさんの方が適任のような……」
ルイスが第一王子と同級生で、友人であることはモニカも聞いている。
ルイス・ミラーは七賢人における、第一王子派の筆頭だ。
政治に友情を持ち込むのもおかしな話だが、それでも、実力があって、第一王子派筆頭でもあるルイスが護衛から外されるのは、なんだか不自然に思えたのだ。
モニカがボソボソとそのことを指摘すると、ルイスはふぅっと息を吐いて肩を竦める。
「同期殿は、なにやら誤解しておられるようで」
「……誤解?」
「ライオネル殿下と私は、たまたま同時期、ミネルヴァに在学していただけです。私などが殿下の友人だなんて、おそれ多いというもの」
ルイスはそう言って、まるで念を押すかのように圧のある笑みを浮かべた。
「別に友人なんかじゃないので、貴女の心配は杞憂ですよ」
ようやくモニカはルイスの不機嫌の理由に気がついた。
彼は、大事な時に友人に頼ってもらえなくて、盛大に拗ねているのだ。
* * *
台所の扉の陰で聞き耳を立てていたアイザックは暗い目で俯き、服の胸元を握りしめる。
(黒獅子皇が、モニカを指名……)
皇帝の妹姫と第一王子の間で縁談の話が出ていることは知っていたが、その護衛にモニカが指名されるのは予想外だった。
あのユアンという男の言葉が真実なら、黒獅子皇とモニカには面識がある。そしてそれは、今回、黒獅子皇がモニカを護衛に指名したことと無関係ではないのだろう。
面識があるからこそ、黒獅子皇はモニカを指名したのだ。
(……僕が、背負わせた)
自分が知らないところで、モニカに背負わせた重荷。それを目の当たりにする度に、アイザックは罪悪感に苛まれる。
アイザックが項垂れていると、さっきまで「酒がぁ……」と騒いでいたネロが、腕組みをしてうんうんと唸りだした。
「この状況、オレ様、本で読んだことがあるぞ……」
何と言うんだっけか、と眉間に皺を寄せて唸っていたネロは、その言葉を思い出したらしい。
黒髪を揺らして顔を上げ、得意げにその言葉を口にした。
「思い出した! 間男だ! 今のオレ様達、間男みたいだな!」
「…………」
語弊がある上に、ちょっと傷つくので、どうか訂正してほしい──と、アイザックは切実に思った。




