【1】私情でしか動かない男
──それは、今から十年前のことだ。
当時十九歳だったルイス・ミラーは、竜討伐の報酬でブーツを新調し、大層ご機嫌であった。
ピカピカのブーツで歩く足取りは軽く、彼が歩く度に、最近伸ばし始めたしっぽ髪が首の後ろでピョコピョコ跳ねる。
そんな彼が握りしめているのは、魔術師の杖ではなく酒瓶。それも、少しばかり値の張る上等な物だ。
竜討伐から戻った彼は友人が婚約すると聞き、冷やかしと祝いの言葉をくれてやろうと企んでいたのである。
くだんの友人──ライオネル・ブレム・エドゥアルト・リディルは、このリディル王国の第一王子だ。
魔法兵団の一団員でしかないルイスが、気軽に会える存在ではない……が、そこは飛行魔術でヒョイと窓から入ってしまえばいい。
バレたら当然に大目玉だが、どういうルートで飛べば、人目につかずライオネルの部屋に辿り着けるかを、ルイスは熟知していた。
さてさて、まずは城の裏手に回って……と、コソコソ移動していた彼は、人の気配を感じて物陰に隠れる。
近くを通り過ぎていったのは、宮中貴族達であった。それは別に良い。問題は彼らが口にしていた話題だ。
「聞きましたか、例の噂?」
「あぁ、あの話ですか。いやはや、ミフォーク伯爵令嬢もお可哀想に……」
ミフォーク伯爵令嬢。
それは、ライオネルの婚約者となる女性のことだ。
その令嬢がどうしたというのか? 聞き耳を立てたルイスは、その内容に……
……激怒した。
ライオネルとミフォーク伯爵令嬢の婚約は、ミフォーク伯爵令嬢の急病のため、解消となったのだという。
しかし、急病というのはあくまで表向きの理由。
真相は……ミフォーク伯爵令嬢は、ライオネルとの婚約を拒むために服毒自殺をはかったというのだ。
幸い発見が早く、令嬢は一命を取り留めたが、婚約は解消する流れになった。
問題は、その後だ。
この騒動について、社交界で顔の広いリストア公爵夫人が、こんな発言をしたらしい。
──ミフォーク伯爵令嬢は、既に心に決めた殿方がいたのだとか……きっと、この度の婚約で心を病まれてしまったのでしょう。お可哀想に。
この発言のせいで、ライオネルがミフォーク伯爵令嬢に横恋慕をして、無理矢理婚約を迫り、かの令嬢を自殺に追い込んだような空気が生まれてしまったのである。
ミフォーク伯爵は第一王子派寄りの中立派だが、リストア公爵夫人は第二王子派。この婚約解消騒動にかこつけて、第二王子派は第一王子のライオネルを貶めたのだ。
ミフォーク伯爵令嬢との婚約は、ライオネルが決めたわけじゃない。第一王子派の重鎮達とライオネルの母が決めた政治的なものだ。
それなのに、ライオネルが横恋慕をして無理矢理婚約を迫っただなんて、誹謗中傷にも程がある。
こんなふざけた話があるかと腹を立てたルイスは、怒りのままに友人の部屋に乗り込み、そして、消沈している友人を目の当たりにした。
ライオネルは、顔も体も厳つい大男である。端的に言うとゴリラに似ている。
だが、このゴリラは誰よりも心の優しく繊細なゴリラなのだ。
理不尽に貶められたライオネルは、赤く腫れた目を擦り、静かに言った。
「ミフォーク伯爵令嬢が、生きていてくれて良かった。本当に、良かった……」
ルイスに言わせてみれば、婚約が嫌で自殺を図ったミフォーク伯爵令嬢も大概だ。
貴族の家に生まれながら、王族との結婚をこんな形で拒むなど、愚かにも程がある。
それなのに、ライオネルは自分を貶めた馬鹿娘の無事を喜んでいるのだ。
あんまり腹が立ったルイスは、持参した酒瓶の中身をその場で一気に飲み干した。
自殺を図った伯爵令嬢も、あらぬ噂を流した公爵夫人も、噂を鵜呑みにする社交界の馬鹿どもも、気に入らない。こんなの、まとめて殴り倒さねば気が済まない。
だが、酒瓶片手に殴り込みに行こうと息巻くルイスを、ライオネルは羽交い締めにして止めた。
ライオネルがルイスを止めたのは、ルイスが大暴れをすることで、ライオネルの立場が悪くなるからではない。
ライオネルはルイスを羽交い締めにしながら、真摯な顔でこう言ったのだ。
「お前は七賢人になりたいのだろう! 私のために、お前の未来を閉ざしてくれるな!」
馬鹿がつくほどお人好しなこの王子様は、他でもないルイスのためを思って、ルイスを止めたのである。
殴り込みに行こうと暴れるルイスと、それを止めるライオネルの取っ組み合いは、結局、一晩中続いた。
そうして朝日が昇り、ルイスが悪態を吐く体力すら尽きた頃、ライオネルはあざだらけの顔をクシャクシャにして笑いながら、こう言ったのだ。
「私のために、怒ってくれてありがとう、友よ」
……本当に、この王子様は、どこまでもお人好しなのだ。
* * *
在りし日の、若気の至りを思い出しつつ、七賢人が一人〈結界の魔術師〉ルイス・ミラーは、十年前と同じ部屋で、第一王子ライオネル・ブレム・エドゥアルト・リディルに品良く笑いかけた。
「この度は、ご婚約おめでとうございます、殿下」
「それは些か気が早いぞ、ルイスよ」
「何を仰います。水面下では既に、決定路線なのでしょう?」
十年前のミフォーク伯爵令嬢との婚約解消騒動以降、この手の話から逃げ回っていたライオネルだったが、ここ最近になって、ようやく縁談の話がまとまりつつあった。
相手はシュヴァルガルト帝国皇帝の異母妹であるツェツィーリア姫で、近々リディル王国を公式訪問する予定がある。
この公式訪問で、正式に婚約の決定をするのだろう。
ツェツィーリア姫は今年で二十歳。ライオネルより九歳年下の、若く美しい姫君だ。
それなのに、ライオネルの表情はどこか晴れない。
「ツェツィーリア姫から見たら、私などオジサンも同然だろうな……」
「王族同士の結婚など、親子ほど年が離れていることも、珍しくはないでしょう」
実際、リディル王国現国王と第三王妃は二十歳近く年が離れている。
そもそも現国王が三人も王妃を娶っているのに、王太子であるライオネルが、二十九歳で未だ未婚であることの方が異常なのだ。
「世継ぎを残すことも王族の義務。縁談から逃げ回るのは、王族として些か不誠実では?」
「……ぐぬっ」
ルイスの言葉にライオネルは言葉を詰まらせ、項垂れる。
ライオネルは、未だにミフォーク伯爵令嬢の自殺未遂のことを気にしているのだ。
だが、くだんのミフォーク伯爵令嬢は、最初から死ぬ気などなかったのだろう、というのがルイスの見立てである。事実、すぐに回復したミフォーク伯爵令嬢は、その後すぐに、他国の若くて美しい貴族のもとに嫁いだ。
それなのに、狂言自殺に振り回されたライオネルは、未だにあの時のことを気に病み、新しい婚約者候補が自分との婚約を疎み、自殺を図ったら……と不安に思っているのだ。
(……ツェツィーリア姫との婚約、何としても成功させなくては)
この国のためにも……そしてこのお人好しの友人が、過去のトラウマを乗り越え、未来に進むためにも。
そのために、ルイスはあちらこちらに働きかけて、裏で手を回してきたのだ。
「殿下、ツェツィーリア姫の身辺警備でしたら、ご安心を。既に人員の手配も済ませていますし、何より当日は、この私が控えて……」
「ルイスよ、その件なのだが……」
ライオネルは気まずそうな顔をしつつ、ルイスを真正面から見据えて、キッパリと言った。
「お前には、姫の警備から外れてもらう」
「………………はい?」
ルイスは言われたことの意味を反芻するのに、しばし時間を必要とした。
他国の要人警護に七賢人が駆り出されるのは、一種の慣例である。
一騎当千とも言われる七賢人がいれば、外出先にゾロゾロと警備兵を連れ歩かなくて良いし、何より他国に自国の魔術師がいかに優れているかをアピールできる。
そして、ここ数年だと、この手の要人警護任務に駆り出されるのは常に〈結界の魔術師〉ルイス・ミラーであった。
ルイスは防御結界の達人だし、何より容姿に優れて社交性もある。
実に馬鹿馬鹿しい話だが、この容姿というのが要人警護では非常に重要視されるのだ。王族を警護する近衛兵隊も、精鋭部隊は容姿が重要視されている。
ルイスは見栄えの良い男なので、要人警護任務では度々重宝されていた。
だから、今回のツェツィーリア姫の警護も、ルイスは自分が務めるものだと疑いもしなかったのだ。
それなのに、何故自分を警備から外すのか?
ルイスはしばし考え込み、片眼鏡の奥で灰紫の目を剣呑に眇める。
「ライオネル殿下、貴方は、私が私情で、いらぬことをするのではと疑っているのですか?」
「何を言う。お前はいつだって、私情でしか動かぬではないか」
ライオネルの言葉は正しい。既にルイスは私情で、こっそりあれこれと根回しをしているのだ。
だが、ルイスはさも心外そうに首を横に振ってみせた。
「もう、公私の分別がつかぬほど、若造ではないのですよ」
「いや、すまぬ。お前の魔術の腕と人間性を疑っている訳ではない。ただ……帝国のレオンハルト陛下から直々に指名があってな」
「黒獅子皇直々の指名?」
訪問先の警備に口を挟むなど、随分と傲岸不遜な振る舞いだ。
まったく何様だ、と顔をしかめるルイスに、ライオネルは神妙な顔で言う。
「うむ。レオンハルト陛下は、妹姫の護衛に…………を指名されたのだ」
予想外の名前に、ルイスは片眼鏡の奥で目を見開き、絶句した。




