【おまけ】ビチビチビチッ
「外伝6【15】楽しい楽しい、ソリ滑り」の後のエピソードです。
シリル達を乗せた氷の舟は、カルーグ山を降りた後もしばらく雪原を滑り続けた。
アッシェルピケは雪と面している部分なら、平地でも舟を滑らせることができるらしい。それは非常に便利な能力なのだが、揺れが酷いのが難点だった。
シリルは舌を噛まないように歯を食いしばりながら、右手でラウル、左手でモニカの服を掴んで揺れに耐える。
現役七賢人二人は、ちょっと羨ましくなるぐらい安らかに気絶していた。
できることなら自分も気絶してしまいたいが、ここで自分が倒れたら、三人仲良く舟から放り出されるのが目に見えている。
それにしても重いのがラウルだ。半ばシリルの背中にもたれかかって気絶しているラウルは、繊細で美しい顔と裏腹に、立派な筋肉の持ち主である。
そんな筋肉質な男が意識を失って背中にもたれてくるものだから、細身のシリルは押し潰される寸前だった。
今のシリルは左腕でモニカを抱きこんでいるので、下手をしたらモニカがシリルとラウルに押し潰されてしまう。
うぐぐ、と歯軋りをして呻きながら全身の筋肉を酷使していると、唐突に舟が止まった。
抱き込まれていてモニカは無事だったが、シリルの背中にもたれていたラウルは、シリルの背中から滑り落ちて、顔面を舟底にぶつける。
「ふぎゃっ」
舟底に顔をぶつけたラウルが悲鳴を上げ、メリッサが船の前に座るアッシェルピケを怒鳴りつけた。
「ちょっと! 止まるんなら、そう言いなさいよ!」
「魔力、切れた」
メリッサの怒声にアッシェルピケが淡々と応える。
アッシェルピケはそもそも、既にかなりの魔力を消費していたのだ。それでもここまで無理ができたのは、魔力濃度の高いカルーグ山にいたからである。下山した今、これ以上の無理はさせられない。
幸い、ヤウシュカの街は既に目に見える程度の距離だった。ここからは歩いて移動するのが妥当だろう。
「楽しかったね」
ニコニコと平和な感想を口にしているのは、トゥーレぐらいのものである。
シリルは改めて、トゥーレとアッシェルピケを見た。
二人とも上手く人間に化けてはいるが、トゥーレの服装はどう見ても季節にそぐわないし、アッシェルピケは手足が千切れかけてプラプラしている。
このまま街に入るのは、少しばかりまずいだろう。
「アッシェルピケ、その手足は……その、どうしたら治るんだ?」
ここまで酷使させてしまったことに少しばかり罪悪感を覚えつつ、シリルが訊ねれば、アッシェルピケは大したことではないとばかりに「そのうち治る」と言う。
その言葉にメリッサが腕組みをして、目を眇めた。
「上位精霊なら動物か何かに化けられるでしょ。無駄に宿代がかかるのも馬鹿らしいし、街に入る時は化けといた方が無難ね……そういや、竜はどうなの?」
「できるよ。わたしは丸呑みして『取り込んだ』生き物なら、化けられる」
おっとりと答えるトゥーレに、シリルは苦い顔をした。
竜の言う「取り込む」というのが、具体的にどういうことを指すのかは、彼自身が身をもって思い知ったばかりである。
竜は意識のない生物を生きたまま丸呑みにすることで、その生物を取り込むことができるという。
シリルは改めてトゥーレの姿をまじまじと見た。
銀色の髪に金の目の、〈ハイラの民〉の衣装を身に纏った青年。
「その姿も……取り込んだものなのか?」
シリルの疑問の言葉に、トゥーレは昔を懐かしむように目を細めた。
「今よりずっと昔、〈ハイラの民〉は神様……竜に生贄を捧げる習慣があったんだ。わたしは、生贄をどうこうしたりはしなかったけど」
そもそもトゥーレは、滅多に人前に姿を見せることすらしなかったのだ。神殿にだって、そうそう頻繁に立ち寄ったわけじゃない。
生贄として神殿に捧げられてきた人間は各々好き勝手に山を降り、村には帰らずに旅立って行ったという。
「だけど、ある日、ちょっと変わった人間が生贄としてやってきた」
その人間は重い病におかされていて、下山する体力すら無く、もってあと数日の命だった。
だからこそ、自ら生贄に志願したのだという。
「彼はわたしに言ったんだ……『病弱な役立たずと言われてきたこの身が、神様の糧となるのなら、こんなにも幸福なことはありません』」
そう言って、銀の髪の青年は意識を失った。
命の灯火が尽きかけているのは明白。故に、白竜はその人間の望みを叶えてやった。
青年を呑み込み、取り込んだのだ。
「わたしは人間達が言う『神様』が何なのかはよく分からなかったけど、彼はわたしに食べられることを望んでいた。だから、食べた。わたしがピケと出会う前の出来事だよ」
そう語るトゥーレの顔は穏やかで、柔らかく微笑んですらいた。
そこに、一人の人間の人生を終わらせたことに対する罪悪感は無い。ただ、頼まれたから食べた……それだけだ。
シリルは改めて思い知る。竜とは、人間とは価値観が違う生き物なのだと。
「今後、人間を食べるようなことはさせんからな」
「うん、わかった」
シリルが厳しい顔で言えば、トゥーレは聞き分けの良い子どものようにコクリと頷いた。
そのあどけなさに危うさを覚えつつ、今後、きちんと人間の価値観を教えなくてはとシリルは密かに誓う。
竜に人間の価値観を押し付けることが、竜にとって良いことなのかは分からない。
生贄文化が廃れたように、人間の価値観だって時代と共に移り変わるのだ。
(……それでも、共存のために相互理解は必要だ)
トゥーレの面倒を見ると決めたのはシリル自身だ。
だからこそ、価値観の違いや竜の在り方と、しっかり向き合わなくては。
生真面目なシリルが自分にそう言い聞かせていると、舟底でぶつけた額をさすっていたラウルが口を挟んだ。
「それでさ、トゥーレは人間以外なら何に化けられるんだ? 虫とかもいけるのか?」
「えーと、前に丸呑みにしたのは……あぁ、あれなら小さくて良いかもしれない」
呟きながら、トゥーレが目を閉じた。すると、たちまちその全身を白い光が包みこむ。
やがて光が収束して縮んでいき、積もった粉雪を払うかのように白い光が消えていった。
白い光の下から現れたそれは、銀色の鱗を煌めかせ、雪の上をビチビチビチッと飛び跳ねている。
……魚である。
「何故、魚を選んだ──っ!? みっ、水っ、水は……っ」
狼狽えつつ水を作り出そうとシリルが詠唱を始めれば、ラウルが早口でそれを止める。
「なぁ、シリル。この魚って淡水魚? 海水魚? どっちなんだ?」
「わ、分からん……トゥーレ、今の貴様は淡水魚なのかっ!? 海水魚なのかっ!? どっちなんだ!」
トゥーレは返事をしようとしたのだろう。だが、魚の口はパクパクと動くだけで言葉を発しなかった。
人間の姿になれと一言命じれば良いだけの話なのだが、パニックになったシリルは気づかない。
雪原をビチビチ跳ねる魚を前に、狼狽える大の男二人。
そんなしょうもない光景を眺めながら、メリッサがアッシェルピケに訊ねた。
「ねぇ、竜って何呼吸よ? 肺? エラ?」
「分からない。精霊は呼吸の真似事はするけど、生命維持には必要ない。多分、トゥーレもそう」
シリルとラウルが動きを止めてトゥーレ(魚)を凝視する。
ビチビチと跳ねていた銀色の魚は、再び白い光に包まれて、その形を変えた。
白い光がハラハラと散り、次に姿を現したのは白いイタチだ。
イタチは細い髭をヒクヒクと震わせながら、シリルを見上げた。
「あぁ、そうだ。魚は陸を歩けないんだった。これでいいかな?」
イタチの声は、人に化けた時のトゥーレと同じものだった。
イタチに化けたら人間の言葉を発することができて、魚だとできないのはどういう理屈だろう……そんなことを真剣に悩みつつ、シリルはげんなりと呟く。
「……最初から、それにしてくれ」
シリルがその場にしゃがみこんで深々と息を吐くと、白いイタチはシリルの肩に飛び乗った。
ふわふわの毛並みが首や頬をくすぐる感触は悪くない。
シリルは、ふと気になったことを訊ねた。
「白竜は、何に化けても白か銀の毛並みなのか?」
「違うよ。これは取り込んだ生き物の色を、そのまま真似ているだけ」
つまり、たまたまトゥーレが取り込んだのが、銀の髪の人間、銀の鱗の魚、白いイタチだったということだ。
もし、取り込んだ人間が黒髪だったら、トゥーレは黒髪の人間に化けていたのだろう。
「ただ、目の色だけは何を取り込んでも変わらないよ。目はその生き物の本質だから」
成程と相槌を打ちつつ、シリルは肩の上のイタチをじぃっと見つめる。
イタチは金色の丸い目でシリルを見つめ返し、小さな頭をコトンと傾けた。
「どうしたの?」
「…………いや、その」
「うん」
シリルは少しだけ気まずそうに咳払いをし、小声でトゥーレに訊ねる。
「……少し、撫でても良いだろうか?」
「どうぞ?」
シリルは肩に乗ったトゥーレの毛並みを指先でそぅっと撫でた。
指先に伝わる毛並みは、ふんわりと柔らかい。
その感触にシリルが喜びを噛み締めていると、ラウルが「シリル、良かったなぁ」と笑った。
この騒動の間、モニカは舟の中で安らかに眠っていました。




