【おまけ】〈茨の魔女〉は笑わない
王都西部に〈茨の森〉と呼ばれる森がある。
その森は〈茨の魔女〉の末裔ローズバーグ家が管理する森であり、森の奥にはローズバーグ家の屋敷があった。
森の近くに住む大人達は口を酸っぱくして、子ども達に「あの森に入ってはいけないよ」と言うのだが、入るなと言われれば入りたくなるのが子ども心というもの。
まして〈茨の森〉は、美しい花や甘い実をつける木も多く、子ども達の冒険心をくすぐるもので溢れているのだ。
故に子ども達は大人の目を盗んで森に入り、冒険ごっこをしてみたり、木の実や花を摘んだりするのが常だった。
だが、そんな子ども達にも暗黙の了解が一つある。
それは、森で一番大きな樫の木より奥には進まないこと。
樫の木の奥は棘のある茨が多くなり、更にその奥には恐ろしい魔女の一族が暮らす屋敷がある。
だから、樫の木より奥に進んではいけないのだ。
もし、茨のある場所まで来てしまったら、すぐにその場を離れなくてはいけない。
でないと、〈茨の魔女〉が操る人喰い薔薇に血を吸われ、魔女の薬の材料にされてしまうのだ。
* * *
ある晴れた日、〈茨の森〉を数人の少年が訪れた。彼らは各々、木を削って作った剣をベルトに挿している。
腕白盛りの少年達にとって、木からぶら下がる蔓は行手を阻む大蛇で、流れる小川はマグマの海、黒ずんだ木は邪悪な黒竜だ。
「この大蛇は毒の牙がある! 迂闊に近づくな!」
「俺に任せろ! やぁ!」
「伝説の邪竜、討ち取ったり!」
彼らは英雄ラルフ一行になりきって木の剣を振り回し、川を飛び越え、大蛇や黒竜を退治して森を進んだ。
そうして、ズンズンと森を進んでいったところで、彼らは気づく。
いつの間にか周囲の木に茨が混じり始めている。自分達は超えてはいけない境界線──森で一番大きな樫の木を超えてしまったのだ。
そのことに気づいた少年達が、慌てて来た道を引き返そうとすると、茨の向こう側から小さな人影が見えた。
それは少年達よりいくらか年下の少年だ。年はまだ十歳にならないぐらいだろうか。
「やぁ、こんにちは!」
茨の向こう側から姿を見せたその少年は、朗らかに笑いながらそう言った。
それがただの子どもなら、自分達と同じように冒険に来た街の子どもなのだと思えただろう。
だが、茨の陰から姿を見せたその少年は、あまりにも美しすぎる容姿をしていた。
神々の寵愛を一身に集めたかのような端整な顔立ち、薔薇の花を思わせる美しい巻き毛、長い睫毛に縁取られた鮮やかな緑色の目。
身につけているのは真っ白なシャツとサスペンダー付きの半ズボン。飾り気は無いが質の良い服で、裕福な家の子どもであるのは明らかだ。
冒険に来た少年達は、ジリジリと後退りをした。
茨の森に住む、薔薇色の髪の一族──〈茨の魔女〉の末裔。
初代〈茨の魔女〉の物語は、英雄ラルフの物語と同じぐらい有名だ。
黒い炎を操って数多の竜を焼き尽くし、人喰い薔薇要塞で敵国の兵を血祭りにあげた救国の英雄。それでいて彼女は、その美貌で国王を誑かした毒婦でもある。
そんな初代〈茨の魔女〉を彷彿とさせる美貌の少年は、ニコニコと笑いながら言った。
「なぁ、オレも混ぜてくれよ。一緒に遊ぼうぜ!」
無邪気な笑顔だ。
だが、その笑顔に、少年達は親しみよりも恐怖を覚えた。
飛び抜けた美しさというものは、時に強烈な畏怖の念を人に植え付ける。この少年が持つ美しさは、そういう類のものだったのだ。
少年達は青ざめ後退りをした。そんな中、一際体の大きい少年が、その場に踏みとどまって口を開く。
「あぁ、いいぜ。遊んでやるよ」
その言葉に、薔薇色の髪の少年はパッと顔を輝かせた。
緑色の目がキラキラと煌めき、白い頬が赤く染まる。
「やったぁ! 本当かい?」
「ただし、一つだけ条件がある。オレ達は英雄だからな、弱虫とは遊ばないんだ」
大柄な少年は腰に挿した木の剣を掲げると、その切っ先で一本の木を指し示す。
それは、この森で一番大きな樫の木だ。
「その木のてっぺんまで登って、降りてくることができたら、お前のことを認めてやるし、一緒に遊んでやるよ」
「なんだ、そんなことか! お安い御用だぜ!」
薔薇色の髪の少年は袖捲りをすると、スルスルと木を登り始めた。おそらく、木に登り慣れているのだろう。少年はあっという間に、木の天辺まで登っていった。
そのタイミングで大柄な少年は樫の木に駆け寄り……その木を思いっきり蹴りつける。
薔薇色の髪の少年の小さな体は、呆気なく木から落ちた。
「うわぁあああああ!」
少年はゴロゴロと数回地面を転がって、そのまま動かなくなる。
木を蹴った少年は、勇ましく木の剣を振り上げて叫んだ。
「見たか! 悪い魔女をやっつけたぞ!」
わぁっと他の少年達が歓声をあげたその時、風も無いのにザワザワと、木々が揺れる音がした。
それは、少年たちの周囲の茨が枝を伸ばす音だ。
まるで意思を持つかのように、鋭い棘を持つ茨は枝を伸ばし、少年達に近づいてくる。
その恐ろしい光景に少年達が立ち尽くしていると、茨の奥から一人の少女が現れた。
薔薇色の髪に緑の目。そばかす顔の十代前半の少女だ。少女は眉をひそめて、忌々しげに舌打ちをした。
「あんた達、何してんのよ」
少女が鼻の頭に皺を寄せて吐き捨てれば、それに応えるように茨が枝を伸ばす。
少年達は木の剣を放り捨て、悲鳴をあげてその場を逃げだした。
「うわぁぁぁ! 魔女だ! 魔女の仲間が来た!」
「血を吸われるぞっ、逃げろ逃げろ!」
少年達が泡を食って逃げだすと、そばかすの少女──メリッサ・ローズバーグはフンと鼻を鳴らし、地面に倒れている弟の元に歩み寄った。
靴のつま先でツンツンとその体をつつけば、弟は顔を少しだけ動かしてメリッサを見上げる。
その顔は土と鼻血で汚れて酷い有様で、それなのに弟はまだ、ヘラヘラ笑いを顔に貼り付けていた。
「姉ちゃん。痛い」
「馬鹿なのあんた?」
「…………」
メリッサは腕組みをして、愚かな弟を見下ろす。
倒れた弟に手を貸してやるつもりは毛頭なかった。土と血で服が汚れるからだ。
それでも、弟を連れて帰らないと曽祖母がうるさいので、メリッサはしばし考え、妥協案を口にする。
「歩けないんなら、使用人を呼んできてやるけど。歩けるなら、自分で歩いて帰んなさいよ」
「……なぁ、姉ちゃん」
「なによ」
「オレさぁ、ちゃんと笑顔で挨拶したんだ」
メリッサは口をつぐみ、鼻の頭に皺を寄せた。
弟はその容姿も魔術の才も、初代〈茨の魔女〉に匹敵する本物の大天才だ。
それ故、この弟を当主にすべく、曽祖母──三代目〈茨の魔女〉は「〈茨の魔女〉は畏怖される存在たれ」と常に厳しく言い聞かせていた。だから、弟は家では滅多に笑わない。
だけど、メリッサは知っているのだ。
弟が部屋にこっそり鏡を持ち込んで、笑顔の練習をしていることを。
鏡の前に立って頬を捏ね、ヘタクソな笑顔で鏡の中の自分に「やぁ、こんにちは!」と笑いかけている光景は、控えめに言って不気味だった。
そして今、弟は、鼻血と土と──そして涙で汚れた顔で、ヘタクソに笑いながら呟く。
「ちゃんと笑顔で挨拶したのに、嫌われたんだ」
「…………」
「なにがダメだったのかなぁ」
「知るか。自分で考えな」
メリッサには、弟に対する憐憫も同情もない。ただ、愚かだと思った。
美しすぎる容姿も、有り余るほどの才能も。メリッサには無いものを全て持っているくせに、この弟はその才能に自覚がない。
だから、自分が何故、避けられているのかも分かっていないのだ。
「そうだ、野菜とか花を作ってプレゼントしたらさ、みんな友達になってくれるかな?」
やっぱり、この愚かな弟は何も分かっちゃいない。
メリッサは軽く肩を竦めて、息を吐いた。
「そんだけ喋る元気があるなら大丈夫ね。おばあ様がぶち切れる前に、自力で帰んな」
* * *
ハイオーン侯爵領のとある山の木の上で、七賢人が一人〈茨の魔女〉ラウル・ローズバーグは途方に暮れていた。
「うーん、困ったなぁ」
その手の中には、摘んだばかりの大きな木の実が三つ。
美味しそうな木の実がなっていたので、モニカとシリルに食べさせてやろうと思って木に登ったは良いが、降りられなくなってしまったのだ。
昔から、同じようなことは何度かあった。
木登り自体は得意なので、「まぁ、なんとかなるだろ」と気軽に木に登ってしまい、そして登ったところで高さに足が竦んで、降りられなくなってしまうのだ。
どうしようかなぁ、と困っていると、木の下からシリルの声が聞こえた。
「ローズバーグ卿。地質調査に来たのに何故、木に登る必要があるのか、説明願おうか」
木の下ではシリルが腕組みをしてラウルを睨んでいた。その隣ではモニカが無意味に手を動かしながら、オロオロとしている。
ラウルは木の実を抱えたまま、二人に手を振った。
「いやぁ、美味しそうな木の実がなってたから、二人に食べさせてやりたくてさ」
「……高いところが苦手なのでは、なかったのか?」
シリルの言葉にラウルは親指を立てて、バチンとウィンクを飛ばす。
「おう、苦手だぜ!」
「何故登った!?」
「いやぁ、いけるかなぁって思って」
実際、上を見ながら登るだけなら、然程難しくないのだ。
そうして「いけるいける」と調子に乗って登りすぎて、降りられなくなるのである。
カラカラと笑うラウルに、シリルが深々とため息をつく。
「とにかく、いい加減降りてきてくれ。地質調査の結果について確認したいことがある」
「うん、降りられないから助けてくれ!」
「二度と登るな!」
シリルは眉を吊り上げて怒鳴りつつも、すぐに早口で詠唱を始めた。
氷で坂道を作って、ラウルが木から滑り降りられるようにするつもりだったのだろう。
だがシリルの詠唱が終わるよりも早く、ビュゥと強い風が吹き、風に煽られたラウルの体はグラリと傾く。
「げっ」
後ろ向きに傾いた体を立て直そうと前方に体重をかけたら、足元でバキッと嫌な音がした。
変に体重をかけたせいで、足元の枝が折れたのだ。
「〈茨の魔女〉様──っ!」
落下するラウルを受け止めるのは、下から吹き上げてくる風──モニカが無詠唱で風を起こしてくれたのだ。ラウルの体は風のクッションの上で数回バウンドし、そのままゴロンと地面に転がる。
ラウルは仰向けに寝転がったまま、青い空を見上げた。
落ちていく体、強い衝撃と痛み。耳の奥に蘇る、少年達の声。
──見たか! 悪い魔女をやっつけたぞ!
古い記憶を遮ったのは、こちらに駆け寄ってくるモニカとシリルの声。
「い、〈茨の魔女〉様ぁぁぁっ! だっ、大丈夫、ですかっ」
「怪我は無いかっ!?」
青い空だけが広がっていた視界に、モニカとシリルが映り込んだ。二人とも、心配そうにラウルを見ている。
ラウルは思わず、喉を震わせて笑った。
「ふへっ、へへへっ……へへへへへへへへ」
突然笑いだしたラウルに、シリルが沈痛な顔でモニカを見た。
「……どうやら頭を打ったらしい。すぐに医師の元に連れて行くぞ」
「は、はいっ」
シリルとモニカは真剣にラウルのことを心配してくれている。
それが嬉しくて嬉しくて、ラウルは勢いをつけて起き上がると、ずっと抱えていた木の実を二人に差し出した。
「オレは大丈夫だよ。一緒に木の実、食べようぜ!」
「ローズバーグ卿、それよりも怪我の確認を……」
「外で一緒に何か食べたら、もう友達だよな! あと、ラウルって呼んでくれよ!」
木の実を差し出してカラカラ笑うラウルに、モニカが困ったように笑い、シリルが「人の話を聞け!」と怒鳴った。
この後、彼らはここにエンドウ豆を植えました。
大変なことになりました(そして外伝1「天高く豆肥ゆる秋」へ)




