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サイレント・ウィッチ(外伝)  作者: 依空 まつり
外伝6:白雪に恋う
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【13】溶けない氷をあげるから

 それは、どれだけ昔のことだっただろう。

 百年、二百年、もしかしたらそれより前かもしれない。

 生まれたばかりのその氷霊は、山の中に一人ぼっちだった。

 力の弱い下位精霊はたくさんいるけれど、上位精霊として意識を持っているのは自分だけ。

 だからその氷霊は、一人きりの雪原にたくさんの友達を作った。

 狐、イタチ、熊、鹿、うさぎ、リス、鳥──どれも、氷像だ。

 まるで今にも動きだしそうなほど精巧な氷像だが、それらは自ら動くことはない。話しかけても言葉が返ってくることもない。

 所詮は氷像。春になれば、溶けて消える友達。


 ──溶けて消えない友達がほしい。


 そう願う氷霊は、ある日、山の中で一匹の美しい竜と出会った。

 美しい竜は、氷霊が作った氷像に目を輝かせてこう言った。


「きれい、きれい、とてもきれい」


 その言葉が嬉しくて、氷霊は今までで一番美しい氷像を作った。

 それは竜の氷像だ。美しく優美な体と翼を再現した氷像は、今にも飛び立ちそうなほど精巧な出来だった。

 竜はその氷像を大層喜び、褒めてくれた。

 だけど、氷像は春になれば溶けて消えてしまう。

 氷霊は考えた。この氷像が溶けて消えてしまったら、自分に飽きて、この竜がどこかにいなくなってしまうのではないだろうか、と。

 だって、氷霊は何も持っていないのだ。できるのは、ただ綺麗な氷像を作ることだけ。

 氷像が溶ける春になったら、自分は要らなくなってしまう。竜もどこかに行ってしまう。

 だから、氷霊は願った。春なんて、来なければいいのに……と。

 氷霊の願いは、そのまま吹雪となり、山も人里も雪で埋め尽くした。


 ──これでいい。春なんて、いらない。


 ところがその日から、山に竜の姿が見えなくなった。

 お気に入りの大きな木の根元にも、氷柱が美しい谷間にも、澄んだ水の流れる川にも、竜の姿は無い。


「トゥーレ、どこ、トゥーレ!! いやだ、いやだ、いなくならないで。トゥーレ、トゥーレぇっ!」


 そうして氷霊が山を彷徨い続けて三日三晩が経った頃、竜は人の姿で現れた。

 銀色の髪に金色の目の若者に化けた竜は、全身雪まみれになりながら、人里に行ってきたのだと言う。

 そうして竜は、氷霊に美しい飴細工を差し出してこう言った。


「ピケ、ピケ、泣かないで。溶けない氷をあげるから」


 竜は、氷霊が氷像が溶けることを悲しんでいるのだと思っているようだった。

 だから、溶けない氷を探して、人里に降りたのだ。

 氷霊が悲しんでいたのは、氷像が溶けることじゃない。

 美しい氷像が溶けたら、竜がいなくなってしまう──それが怖かったのだ。

 正直に本音を吐露すると、竜は穏やかに微笑んだ。


「ピケ、吹雪が止んで、春が来たら。雪溶けの野に咲く花を一緒に見よう。春告げ鳥の歌を一緒に聞こう」


 美しい竜の化身は歌うような口調で告げる。

 この山の美しい春の景色を。春の山を歩く氷霊と竜の未来を。


「若葉が芽吹く春も、川の水面が煌めく夏も、木の実が色づく秋も……長い、長い、白銀の冬も。全部、ピケと一緒がいい」


 山を覆う嘆きの吹雪は、涙の流し方を知らない氷霊の涙だ。

 その涙が、今、ようやくピタリと止まった。


 それから二人は、巡る季節を何度も過ごした。

 春になったら、芽吹く新芽の数を数え。

 夏になったら、太陽の光を反射する川で遊び。

 秋になったら、艶々の木の実を拾って繋いで首飾りを作り。

 そして、長い冬になったら、ピケは氷像を作って披露した。


 春も、夏も、秋も、長い長い白銀の冬も、竜と氷霊はいつも一緒だった。



 * * *



「いたぞ、いたぞ、白竜だ!」

「白竜の鱗があれば、もう、薪に困らなくていい!」

「腹一杯にパンが食える!」


 下位精霊達のざわめきに不安を覚え、山を駆けた氷霊が目にしたのは、槍で全身を貫かれた白竜と、白竜を囲う人間達の姿だった。

 この山の麓の人間──〈ハイラの民〉は、白竜を神として崇め、基本的に山に入ってくることはない。年に一度、神殿に捧げ物をしに来るぐらいだ。

 侵入者達は〈ハイラの民〉ではない。彼らにとって、白い竜はただの獲物でしかないのだろう。

 人間達は皆、貧相な身なりをしていた。

 彼らの望む幸福とは、充分な薪のある家で凍えることなく過ごし、飢えて痩せた体いっぱいにパンを詰め込む──そんな、ささやかな幸福だったのだろう。


 だが、それがなんだと言うのだ。


 氷霊は人間達を全て氷漬けにし、崖から落とす。

 その胸に、一片の憐れみも込み上げてこなかった。

 氷霊は人間の都合も事情も興味が無い。


「トゥーレ、トゥーレ、死なないで……」


 白竜は脆い生き物だ。眉間以外の攻撃も致命傷となりうる。

 氷霊は己の魔力を流しこみ、必死で白竜を看病した。

 そうして、夜が十回訪れたある日の朝、白竜は目を覚ましてこう言った。


「きみは、だれだろう」


 白竜が負った傷は、致命傷だった。

 白竜はもう、自分の力で魔力を取り込むことができなくなっていたのだ。

 その結果、白竜はどんどん衰弱していき、その精神すら壊れつつあった。

 氷霊が己の魔力を流しこめば、一時的に回復することはできる──けれど、精霊の魔力と竜の魔力は性質が違う。精霊の魔力は純度が高すぎて、白竜の体に馴染まないのだ。

 自分の力だけでは、白竜を助けられない。

 だから、氷霊は必死で考えて、考えて、白竜を助けるために、人里に降りる決意をした。


「トゥーレ、わたしは人里に行ってくる。わたしが戻るまでの間、人間に化けて、この神殿に隠れてて」


 氷霊がそう言い聞かせると、人に化けた竜は、ことりと首を傾けて言った。


「こんにちは。きみはだれかな?」


 衰弱した白竜は、氷霊のことはおろか、自分自身のことすら覚えられなくなっている。

 今の白竜は体の奥に大きな傷を抱えていて、そこからゆっくりと壊れつつあるのだ。体も、その心も。

 氷霊は人に化けた竜を抱きしめる。折れそうに細い体からは、血と雪の匂いがした。


「トゥーレ、トゥーレ。きっと助けてみせるから……」


 元気になって、全てを思い出したら、その優しい声で呼んでほしい。


(わたしの、名前を)



 * * *



「私に従え、氷霊アッシェルピケ!」


 〈識者の家系〉の末裔を名乗る人間が、そう口にした瞬間、氷霊アッシェルピケは激怒した。

 どうして、どうして、贄でしかない人間風情が自分の名を呼ぶのだ。


(トゥーレは、その名を忘れてしまったのに!)


 怒りのままに氷の刃で人間を刺し殺そうとしたが、手元の魔力が霧散して思い通りに操れない。

 精霊石に刻んだ真名が、アッシェルピケの行動を制限しているのだ。

 精霊の言葉など、人間に読み解くことなどできないと思っていたのに!

 アッシェルピケは長い年月を生きた精霊だ。上位精霊の中でも、非常に強い力を持っている。

 それなのに、自分が一方的に結んだ契約に縛られ、無力化されるなんて、なんという屈辱!

 契約を解除するには、あの腕輪の精霊石に触れる必要がある。

 一気に距離を詰めて飛びかかれば、あるいは……そう考え、アッシェルピケが前傾姿勢を取ると、背後で響いていた白竜の咆哮が収まった。


「……トゥーレ?」


 振り向くと、バラの蔓に絡め取られていた竜の巨体は、白い光の粒子を散らしながら縮んでいく。

 そうして緑色の蔓の下から這い出てきたのは、ほっそりとした銀髪の青年だ。

 人に化けた竜の化身は、ぼんやりとした顔に淡い笑みを浮かべる。


「おもいだした。ピケ、ピケ…………おかえり、ピケ」


 青年の全身からは白い光の粒が、ホロホロと音もなく溢れ落ちていた。魔力が漏れ出しているのだ。

 トゥーレはもう、魔力をとどめることすらできなくなっている。

 それなのに、こちらを気遣うような顔で、優しい竜は言った。


「ピケ、ピケ、泣かないで。溶けない氷をあげるから」


 そう言って青年は、血に濡れた白い指で何かを差し出す。

 〈氷霊の雪灯り〉の光を反射して、水晶のように煌めくそれは、彼の鱗だ。

 氷霊のアッシェルピケは泣き方なんて知らない。人間みたいに、その両目から涙の雫を溢したことがない。

 それでも優しい白竜はいつだって、泣けない精霊の悲しみに気づき、こう言うのだ。

 泣かないで、と。アッシェルピケを喜ばせるための品を差し出しながら。


「…………ピケ?」


 立ち尽くすアッシェルピケに、トゥーレは首を傾げる。

 その指の先から白い光が溢れ出し──トゥーレの指先が無くなった。体の崩壊が始まっているのだ。


「やだ、やだ……っ、トゥーレ……!」


 魔力を流し込まなくては。

 アッシェルピケはトゥーレの崩壊した指先を掴んで、魔力を流し込む。

 それなのに、トゥーレの指は再生しない。精霊の魔力は純度が高すぎて、竜の体に馴染まないのだ。一時的な動力源にはなるが、肉体を再生できるほどじゃない。


「やだ……やだぁ……っ!」


 無力さに叫んだその時、横から伸びた手が、トゥーレの手を掴んだ。

 指の欠けた手に魔力を流し込んでいるのは、アッシェルピケが契約をした青年──シリル・アシュリー。

 シリルはアッシェルピケを睨みつけ、怒鳴る。


「まずは事情と状況を説明しろ!」

「に、人間に、できることなんて……」

「できるかできないかは、私が判断する! いいから、さっさと言え!」


 アッシェルピケが気圧され口籠ると、バラを操っていた赤毛の男が「助けるのか?」と緑色の目を丸くして言う。

 シリルはフンと高慢に鼻を鳴らした。


「私は、ハイオーン侯爵家を継ぐ者として、常に自分にできる最善を尽くす義務がある! つまり、これはこの精霊のためじゃない。私のためだ!」


 赤毛の男は口を大きく開けて、場違いなほど朗らかに笑った。


「シリルのそういう面倒くさいところ、すげーいいと思うぜ!」


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