【12】どっせーーーーい!(姉ver.)
〈氷霊の雪灯り〉の青白い光が舞う夜空に、白竜の咆哮が響き渡った。
ラウルのバラに絡め取られた白竜は必死に翼を広げ、飛び立とうとしている。だが、ここで逃がすわけにはいかない。
メリッサもラウルも飛行魔術は使えないのだ。逃げられたら最後、シリルを救う手立ては無くなってしまう。
(急ぎなさい、おちび……!)
白竜は咆哮の合間に、ギリギリと苦しげに歯軋りをしていた。
メリッサは慌ててバラの蔓に魔力を流しこみ、強化する。これが食い千切られたら、命綱が途切れてしまう。
バラの蔓に絡め取られた白竜は、鱗の隙間から血を流し、その美しい体をまだらに赤く染めていた。
他の竜ならバラの棘程度で傷ついたりしないのだが、白竜は脆い竜なのだ。白竜が苦しげにもがくたびに、血に濡れた鱗がハラハラと雪原に落ちる。
「トゥーレを離せ!」
「オレの友達返せってば!」
ヴェロニカとラウルが互いの主張を叫びながら、氷の刃とバラの蔓を交える。
ヴェロニカの氷の刃がバラの蔓を切り裂き、それをすかさずラウルが再生させる。
ヴェロニカは既に左腕を失い、残った四肢も穴だらけだ。欠損した箇所からは、血の代わりに魔力が白い光の粒となってハラハラとこぼれ落ちている。
それでも、ヴェロニカの冷たい敵意は失われていない。人形じみた無表情ながら、その全身から発せられる気迫は上位精霊に相応しい威圧感だ。
ヴェロニカはラウルの茨を切断するのに必死で、白竜の口に飛び込んだモニカに気づいていない。
気づくな、気づくな……とメリッサが念じていると、ヴェロニカがハッと顔を上げて白竜を見上げた。
「……トゥーレ?」
ヴェロニカの目が、白竜の口から伸びる蔓を凝視する。気づかれた。
ヴェロニカが手を振り上げる。その指先から生まれた氷の斧が、命綱である蔓に振り下ろされる。
ラウルが短く詠唱をし、右手を振るった。
「させないぜっ!」
白竜を拘束していた蔓の一本が伸びて、氷の斧をからめとる。
その時、バラの蔓がピクリと反応した。モニカからの合図だ。
メリッサは残った魔力の全てを注ぎ込んで、バラの蔓を引き寄せる。
メリッサは決して蔓を握って引っ張っているわけではないのだが、それでもその場にしっかりとふんばった。こういうのは気分だ。
口紅の剥げた唇を釣り上げて獰猛に笑い、四代目〈茨の魔女〉は、大物を釣り上げた漁師のように、腹の底から叫ぶ。
「どっせーーーーい!」
* * *
シリルとモニカの体は、風の魔力に包まれて勢いよく上昇していた。
モニカの飛び方は酷く覚束ないが、モニカに繋がる蔓が二人を外へと導いてくれる。
この蔓がなければ、とてもではないが脱出は困難だっただろう。それほど、モニカの飛行魔術は拙かった。基本的に跳躍するだけで、細かな制御はまるでできていないのだ。
右に左にぶれる二人の体を、蔓が強引に上へ上へと引っ張り上げる。
シリルにできるのは、モニカの体をしっかりと抱え込むことだけだった。モニカの右腕はもうほとんど力が入らなくなっていたし、左腕も震えている。限界が近いのだ。
やがて狭い喉を抜けた先は真っ暗で、空の色は見えなかった。白竜が口を閉じているのだろう。
「……ごめんなさい」
モニカがポツリと呟き、風の魔術を放つ。
圧縮された空気の塊は、白竜の口を乱暴にこじ開けた。
パッと開けた視界いっぱいに広がるのは、青白い光の舞う夜空。
ひんやりと冷たい夜風を全身に感じながら、白竜の唾液まみれになった二人は外に飛び出す。
その時、シリルは気がついた。腕の中のモニカがぐったりしている。
「──モニカ?」
返事は無い。
そして、外に飛び出すと同時にシリルとモニカを包んでいた風の魔力が消え、二人の体は落下した。飛行魔術が途切れたのだ。
白竜の口は建物で言うところの、二階か三階相当の高さがあった。
このままだと地面に叩きつけられる。
(間に合えっ)
シリルは早口で詠唱をし、自分の真下に氷の坂道を作り出した。
二人の体は間一髪のところで氷の坂を滑り、地面にたどり着く。そこにラウルが駆け寄った。
「シリルっ! 良かった、無事かっ!」
「私はいい、それよりモニカが……っ」
地面に座り込んだシリルにぐったりもたれるモニカは、血の気の無い顔で浅い呼吸を繰り返していた。
うっすらと開かれた目は虚ろで、焦点が合っていない。
シリルとラウルが狼狽えていると、横から伸びてきた女の手が、モニカの口に何かをねじ込んだ。
「典型的な魔力欠乏症ね」
そう言って赤毛にそばかすの女が、モニカの右腕にグルグル巻きにされていた白い布──どうやら上着だったらしい──を剥ぎ取る。
上着の下は、想像通り酷い有様だった。腕のいたるところに血が滲んでいるし、蔓を巻きつけていた手首は、無理矢理引っ張られたせいで赤黒く変色している。
いたましさにシリルが顔を歪めていると、モニカが赤毛の女を見上げて、血の気の無い唇を動かした。
「おねー、ひゃん……これ……」
「魔力付与したキャンディよ。魔力欠乏症を緩和する程度の魔力しか付与してないから、魔術を使うんじゃないわよ」
「ひゃい……」
モニカがコロコロと飴を舐めながら頷き、赤毛の女はモニカの腕に食い込んだバラの蔓を引き剥がす。
手際良く棘を抜いていく赤毛の女に、シリルは困惑の目を向けた。
「失礼、貴女は……」
女はシリルに目を向けると、ニッコリと微笑んだ。
「ラウルの姉の、メリッサ・ローズバーグですわ。お見知りおきを」
なぜ、ラウルの姉が同行しているのかは知らないが、彼女もまた自分を助けるために力を貸してくれたらしい。
「……レディ・メリッサ。モニカを頼みます」
シリルはメリッサにモニカを託すと、立ち上がり、白竜と向き直る。
ラウルのバラに絡め取られている白竜は、全身を赤く染めながら、苦しげに唸り続けていた。
その足元で、血塗れの白竜に寄り添い、悲痛な声で叫んでいる女がいる。
「トゥーレっ! トゥーレぇぇぇっ!」
淡い金髪に菫色の目の、見たことのない女だ。
だが、シリルにはそれが、自分をさらった氷の精霊だとすぐに分かった。
左手首に嵌められた腕輪が、細い魔力の糸で、彼女と繋がっているのを感じる。
あの精霊はあろうことか、シリルを攫ったのみならず、勝手にシリルと契約を結んだのだ──おそらく、人里で自由に行動するために。
……そして、最後はシリルを白竜の餌にしようとした。
これが腹を立てずにいられるだろうか。フツフツと沸き上がる怒りに、シリルの歯が軋む。
取り乱していた氷の精霊は、シリルが立ち上がったことに気づくと、淡い金髪を振り乱し、憎悪に満ちた目でこちらを睨んだ。
「……トゥーレを傷つけたな、人間」
背筋が凍るような冷たい怒りに満ちた精霊の声に、シリルはよく響く声で怒鳴り返した。
「その言葉、そっくりそのまま返してやろう! よくも私の後輩を傷つけたな、精霊!」
「うるさいっ、黙ってトゥーレに食べられろ!」
「黙って食べられる人間がどこにいるっ! 人の姿を借りるなら、人の常識ぐらい身につけんかっ!」
氷の精霊の罵声を遥かに上回る声量のシリルに、ラウルが尊敬の眼差しを向ける。
「すげぇや、シリル。遂に精霊に説教を始めたぞ」
ラウルの呟きに、メリッサに支えられていたモニカが、ふへっと息を吐くようにして笑った。
「……いつものシリル様だぁ」
そんな背後のやりとりも耳に入らないぐらい、シリル・アシュリーは目の前の精霊に激怒していた。
シリルは己の左腕を持ち上げ、無理やり嵌められた腕輪を掲げる。
「挙げ句の果てに、一方的に契約など結んで……仮にも契約を結んだのなら、貴様は私の契約精霊なのだろう!? ならば、私に従うのが筋というもの!」
シリルの言葉を精霊は鼻で笑う。
人間よりも遥かに長い年月を生きてきた精霊にとって、シリルなど取るに足らない、脆弱な生き物にしか見えないのだろう。
契約とて、シリルの意思など関係なしに一方的に結んだもの──精霊側にしてみたら、シリルなど都合の良い傀儡でしかない。
「お前に、何ができる、脆弱な人間。仮初の契約者。わたしの真名も知らないくせに」
人間と精霊の契約において、精霊は力を貸す人間に己の真名を差し出す。
契約した人間は、その真名を術式に織り込むことで、精霊を御することができる。だが、一方的に契約をされたシリルは、この精霊の名を知らされていない。
腕輪に嵌められた精霊石には、精霊の名前が精霊語で刻まれている。
精霊語を読める人間など、現代では殆どいない──だからシリルに読めるはずがないと、この精霊は高を括っていたのだろう。
「……私は〈識者の家系〉の末裔、シリル・アシュリー!」
シリルは決して、万能でも天才でもなかった。
それでも、ハイオーン侯爵家に引き取られた日からずっと、シリルは屋敷にある膨大な本を読み、勉強を続けてきたのだ。
たとえ、クローディアには届かなくとも、〈識者の家系〉を継ぐ者として胸を張れるように。
だから、シリルには読むことができた。腕輪に刻まれた精霊の真名を。
「私に従え、氷霊アッシェルピケ!」




