【8】ローズバーグ姉弟
サクリ、サクリと雪の大地を踏みしめながら、ヴェロニカは山を登る。
ヴェロニカは自分一人なら雪原の上を滑るように移動することも可能なのだが、人間を抱えているとなると、そうもいかない。
「もうすぐ、もうすぐ……待ってて、トゥーレ」
夜の雪原を明かりも無しに、人を抱えて歩くヴェロニカの周囲に淡い光が浮き上がる。
〈氷霊の雪灯り〉……下位精霊達が集まってきたのだ。
青白い光が、ヴェロニカとその腕に抱かれた青年を青白く照らす。
やがてヴェロニカは小さな神殿の前に辿り着いた。
石を積んで作った簡素な神殿。扉を開ければ、中には石造りの祭壇が一つあるだけ。
その祭壇を見て、ヴェロニカは菫色の目を僅かに見開く。
「……トゥーレ?」
暗く狭い神殿内に、ヴェロニカの声が反響する。返事は……無い。
ヴェロニカは早足で祭壇に近づいた。
石造りの粗末な祭壇。この上で「彼」は横たわっていた筈なのに、その姿が無い。
ヴェロニカは唇を噛み締めると、抱えていた青年を祭壇に横たえる。
ふと、青年の襟元のリボンタイを留めるブローチが目に入った。これはおそらく、人間が作った魔導具とかいうものだ。
この青年は魔力過剰吸収体質。だが、このブローチは余計な魔力を吸い上げて放出する効果がある。
「……これは、邪魔」
ヴェロニカはブローチを引きちぎって神殿の外に放り捨てると、辺りを見回す。
周囲に生き物の気配はない。やはり、「彼」はどこかに移動してしまったのだ。
急いで探さなくては。もう、時間がない。
このままでは、春が来てしまう。
「……トゥーレがいない春なんて、いらない」
ヴェロニカは青年を祭壇に寝かせたまま、神殿を出た。
ヴェロニカはお荷物さえ無ければ、雪原を滑るように移動できる。今は一刻も早く、「彼」を見つけ出さなくては。
ヴェロニカは前傾姿勢になると、まるで氷上を滑るかの如く、夜の雪原を移動した。
足元で雪が舞い上がり、舞い上がった雪に下級精霊が群がって、青白い光を灯す。
〈氷霊の雪灯り〉を引き連れて、ヴェロニカは雪の山を駆け回る。
何よりも、誰よりも大事な「彼」を探すために。
* * *
「お待ちっ、そこの飴泥棒っ!」
鈍臭さの極みのようなモニカと違い、メリッサは非常に俊敏だった。
彼女はスカートの裾を翻し、獲物に飛びかかる猫の如く「しゃぁっ」と物騒な声をあげながら、銀色の髪の青年に飛びかかる。
青年は「わっ」と小さな声をあげて、雪の中にボフンと埋もれた。
その上に馬乗りになったメリッサが、乱れた髪をかきあげて、ふふんと笑う。
「お姉さ……待っ……げほっ」
「姉ちゃん、元気だなぁ」
山登りで既に疲弊していたモニカは、既にヘロヘロとした情けない足取りであった。
ラウルは息を切らすことなく、いつもよりいくらか早足でメリッサに追いつく。
メリッサが銀髪の男の上から退くと、銀髪の男はノロノロと起き上がり、ぼんやりとした顔でメリッサを見た。
「あめ、見せてあげたい」
「誰によ」
「………………だれに、だっけ」
メリッサがこめかみを引きつらせて、怒鳴ろうとした。
それを、モニカはメリッサの服の袖を引いて止める。
「あの、お姉さん……この人、人間じゃない、です」
「ふぅん、じゃあ氷の上位精霊?」
「ちょっとよく分からないけど……ただ、酷く弱ってて……」
感知の魔術を使ったモニカには、この青年が酷く衰弱して見えた。魔力量が人間並に少ないのだ。
(この山は、魔力濃度が高いから……精霊なら、すぐに回復するはずなのに……もしかして、魔力を体内に取り込めていない?)
ラウルが魔力付与したニンジンを食べた時、青年は少しだけ生気を取り戻したように見えた。
やはり彼は、魔力を糧としている生き物なのだ。
そして今、彼は魔力をとりこめず、酷く弱っている。
モニカは銀髪の青年と真正面から向き合った。
眠たげな瞼の下で輝く金色の目には、既視感がある。
「あなたは、もしかして…………」
「トゥーレっ!!」
モニカが言葉を紡ぐより早く、鋭い声が響いた。
目を向ければ、前方から青白い光の塊が近づいてくる。
雪と光の粒を舞い上げて、滑るようにこちらに急接近してくるのは、淡い金髪を顎の辺りで切りそろえた若い娘──氷の上位精霊ヴェロニカだ。
ヴェロニカは菫色の目を鋭く眇め、モニカ達を睨んでいる。
「トゥーレを返せ」
ヴェロニカの声は、今まで聞いた中で一番低く、重く、強い怒りに満ちていた。
ヴェロニカにとって、トゥーレというこの銀髪の青年は、とても大事な存在なのだろう。
だが、トゥーレと呼ばれた青年は、先ほどまでと変わらぬぼんやりとした顔でヴェロニカを見て、ことりと首を傾げる。
「……きみは、だれかな?」
無邪気であどけない子どもじみた言葉に、ヴェロニカの人形じみた顔がクシャリと歪む。それは明らかに、傷ついた人間の顔だ。
それでもヴェロニカは何かを吹っ切るように首を横に振り、モニカ達を睨みつけた
「トゥーレを、返せ」
「お黙り、クソ精霊! そっちこそ、シリル様を返しなさいよっ!」
メリッサが怒鳴り返すと、ヴェロニカは少しだけ困惑したように、ゆっくりと瞬きをした。
「しりるさま? あの人間のこと?」
名前も知らないくせに、この精霊はシリルを連れ去ったのだ。
つまり、この精霊の目的はハイオーン侯爵家絡みのことではない。
モニカの予想が正しければ、この精霊がシリルに目をつけたのは、恐らくシリルの体質。
「ダメ、あの人間は返さない。命が惜しくば、立ち去れ。脆弱な人間ども」
この一言に、メリッサが頬を引き攣らせる。
モニカは聞いた。メリッサの白い喉から「ククク……」と邪悪な笑い声が漏れるのを。
「あの、お姉さん……?」
モニカがおずおずとメリッサを見上げると、メリッサはモニカとラウルにだけ聞こえるような小声で言った。
「おちび、あんた、隙を見てこの場を離れて、シリル様を探しなさい。きっと、この近くにいるわ」
「お姉さんは……?」
メリッサはモニカを見て、ニッコリと微笑む。
笑顔なのに、緑色の目はギラギラと抜き身の刃のように輝いていた。
「ここまでコケにされて、あの女をボッコボコにする以外の選択肢ってある?」
「で、でも、寒冷地じゃ、お姉さんの茨は不利です…………あうっ」
メリッサは指でモニカの額をピンと弾く。
「あんた、アタシが魔法薬作りだけが取り柄の魔女だと思ってなぁい?」
モニカは七賢人時代のメリッサを知らない。
ただ、モニカの見ている限り、メリッサが得意とするのは付与魔術。
茨を操ったり、バラの花に眠りや麻痺などの効果を付与するのが主である。
後者の特殊効果が精霊に効かない以上、メリッサの武器は茨だけのはずだ。
それなのにメリッサは赤い唇を持ち上げ、八重歯を剥き出しにして獰猛に笑っている。
「スロースの店は室内だから、遅れを取ったけれど……アタシは〈茨の魔女〉なのよ? あのクソ精霊……このアタシに野外で戦闘を挑んだこと、死ぬほど後悔するがいいわ」
「姉ちゃん、まさか、アレをやる気か?」
「そうよ。時間を稼ぎな」
メリッサは髪飾りのバラの最後の一つを千切って、ラウルに押しつける。
ラウルがバラに魔力を込めれば、バラは急速に成長し、蔓を伸ばした。
寒冷地故に成長速度が幾らか遅いが、それでも充分な量の蔓が壁のように広がる。これなら、モニカは蔓に隠れてこの場を離れることができるだろう。
「メリッサお姉さん、ラウル様……」
モニカは上着の胸元を握りしめて二人を見上げる。
赤毛の姉弟は不敵に笑った。
「ほら、とっととお行き。そのための白い上着でしょ」
「心配すんなよ、モニカ。友達を助けるために戦うオレって、ちょっと敵無しな感じだからさ」
「…………はいっ!」
モニカは頷き、その場を駆け出す。
鈍臭いモニカにできる、最大限の速さで。
* * *
ヴェロニカが生み出した氷の短剣が、雨のようにメリッサ達に降り注ぐ。
それをラウルはバラの蔓を盾にして防ぎ、同時にその蔓を伸ばしてヴェロニカを狙った。
蔓は、羽を生やした蛇のような俊敏さでヴェロニカの手足に絡みつく。
「……この程度で、わたしを止める? 無駄」
ヴェロニカは、己に絡みつく蔓を氷の剣で切断し、今度は氷の斧を複数生み出した。
ヴェロニカが手を横に振るえば、氷の斧が丈夫な蔓を次々と切断する。
その威力の高さも、込められた魔力の量も、サザンドールで対峙した時より圧倒的に上だ。
魔力に満ちたこの土地──しかも、氷霊の好む寒冷地。ヴェロニカの氷の刃は、並の魔術師の防御結界なら容易く破壊するだろう。
「脆い人間。次はその体も切り刻む」
「あのさぁ」
殺意を撒き散らすヴェロニカに、ラウルはいつもより幾らか低い声で告げた。
初代〈茨の魔女〉に瓜二つと言われた美貌は、表情が無くなると途端に酷薄な印象になる。
切断された茨が大きく蠢く。バラ色の巻き毛の下で、新緑の目が妖しく煌めく。
「オレ、友達に酷いことされて、結構怒ってるんだぜ」
切り刻まれ、ヴェロニカの周囲に散った蔓が一斉に成長し、ヴェロニカに絡み付いた。
人に怖がられることが何より嫌いなラウルは、身内の人間以外の前では──特に友達の前では全力を出せない。
意識してセーブしている分が二割、無意識でセーブしている分が一割。
その三割分を解放したラウルのバラは、恐ろしいほどの生命力と獰猛さで、ヴェロニカを拘束する。
拘束されたヴェロニカの顔色が変わった。この蔓は、今までの蔓とは違う。
「なに、このバラ……わたしの魔力を食べて……?」
かつてリディル王国に君臨した最強最悪の魔術師、初代〈茨の魔女〉は、その茨の要塞で敵軍を食らいつくし、血祭りにあげたという。
彼女が操るバラは、人間の血と魔力を吸う邪悪な人喰い花だ。
そして、歴代の〈茨の魔女〉の中で唯一、初代が扱う人喰いバラを再現できる魔術師──それが、五代目〈茨の魔女〉ラウル・ローズバーグだった。
ラウルは所謂、攻撃向きの魔術を習得していない。莫大な魔力量を誇る自分が攻撃魔術を極めれば、周囲から恐れられてしまうからだ。
彼が持つ唯一の攻撃手段は、植物操作。その植物操作だけで、ラウル・ローズバーグは他を圧倒するバケモノだった。
ラウルはボソリと独り言のように呟く。
「……他人の命を吸って咲く花なんてさ、友達に自慢できるもんじゃないよなぁ」
国内で最も魔力量の多いバケモノ、ラウル・ローズバーグが、その膨大な魔力を惜しみなく注ぎ込むと、彼のバラは人間の血と魔力を吸う食人花と化す。
これがヴェロニカでなければ、バラは血を吸い上げ、赤く染まっていただろう。
精霊のヴェロニカは血を持たない。故に、血ではなくヴェロニカの魔力だけを吸い上げる。
ヴェロニカは舌打ちし、蔓に絡め取られたまま、魔力を周囲に放出した。
光の粒子が辺りに漂い、強い風が雪を巻き上げる。氷の刃混じりの雪が、ラウル達を襲う。
それをラウルは蔓の壁で防いだ。
ラウルの横で、トゥーレがぼんやりと蔓を見上げて呟く。
「なんて、まがまがしい、花だろう」
魔力を吸った蔓に次々と花が咲く。白いバラだ。本来は血を吸うことで赤く染まるバラが、今はヴェロニカの魔力を吸って、淡い菫色に染まる。
魔力供給が途切れれば枯れる短い命の花が、次々と咲き乱れ、吹雪に散っていく。
「姉ちゃん、そろそろ良いかな?」
呟き、ラウルは背後を振り向く。
返事はない。メリッサは目を閉じて長い詠唱をしている。
詠唱をするメリッサの横顔は真剣で、この寒さにも関わらず、頬には汗が滲んでいた。
ヴェロニカが巻き起こす吹雪の音に、メリッサの詠唱が重なる。
「──ヴェゼルダの丘に眠る輝きの王、我が呼びかけに応え、その力の片鱗を示せ」
長い、長い詠唱を紡ぎながら、メリッサは膨大な魔術式を編み上げた。
メリッサの周囲にオレンジ色の光の粒子が漂い、やがて、頭上に大きな門を作りだす。
バラの蔓に絡め取られたヴェロニカが、菫色の目を大きく見開き、頭上に生まれた門を見上げた。
「あれは、まさか……」
「そのまさかよ、クソ精霊」
メリッサはニヤリと笑い、最後の言葉を口にする。
「四代目〈茨の魔女〉メリッサ・ローズバーグの名の下に……開け、門」
開かれた門から零れ落ちるのは、オレンジ色の光の粒子。
それが地面に降り注ぎ、染み渡り、大地を揺らす。
「断絶の底より出でよ、地の精霊王アークレイド!」
現七賢人で精霊王召喚ができるのは、〈砲弾の魔術師〉〈結界の魔術師〉〈沈黙の魔女〉の三人だけです。
ラウルはできません。
「だって、オレの魔力量でそれやったら、怖がられそうじゃんか」




