【1】ウォーガンの黒竜、残飯漁り疑惑を受ける
リディル王国南西部にあるイルマーク宮は、かつて放蕩趣味の王族が贅を尽くして作らせた宮殿で、どこもかしこも豪奢な装飾が施されていた。
緋色の壁から視線をゆっくりと上に向ければ、金色の額に縁取られた絢爛豪華な天井画。
繊細な色使いで描かれているのは、邪竜に剣を向ける建国の王と、王を祝福する七人の精霊王だ。
そんな豪奢な会場で、今宵行われるのは仮面舞踏会。
華やかに着飾った紳士淑女が仮面の下の素顔を隠し、仮の名を名乗って刺激的なひとときを楽しみ、時に素性を伏せたまま一夜限りの恋に溺れる。
そんな夜会の片隅で、食事の並べられたテーブルの一角に陣取り、ムッシャムッシャと食事を堪能している男がいた。
「うめぇな、これ。おい、キラキラ。今度作ってくれ」
「僕の偽名は教えたはずだけど? ミスターアレクサンダー?」
「忘れた」
そう言って、黒髪の長身の男──人に化けたネロは、ハムと野菜のゼリー寄せを口の中に流し込み、まるで飲み物のように飲み込んで、ペロリと唇を舐める。
「それにしても、この仮面邪魔だな。飯が食いづれぇ」
仮面舞踏会という場に合わせて、ネロはアイザックが用意した礼服を身につけていた。
黒を基調とした礼服は、光の加減で紫がかって見える上品な生地で、背の高いネロによく似合う。
目元を覆う仮面は金糸で縁取られた緋色で、礼服の色が控えめだから、尚のこと華やかだ。
だがネロはこの仮面がどうにも気に入らないらしく、不機嫌そうに仮面の端を爪でカリカリと引っ掻いていた。その姿が、猫の姿の彼を連想させて、アイザックは思わず笑いを噛み殺す。
ネロ同様にアイザックも礼服を身につけ、仮面をつけている。礼服は濃紺で装飾は控えめの物を。仮面も光沢を抑えた黒だ。
「よく食べるね」
ネロの豪快な食べっぷりを眺めながらアイザックが言うと、ネロは魚のすり身の揚げ団子をフォークで刺し、上機嫌に頷いた。
「人間の料理って面白いよな。オレ様、魚はあんまり好きじゃねぇけど、この潰して丸めて揚げたやつは割と好きだぜ。前にラナが持ってきたんだが、あれはまた違う味付けで美味かった」
「……コレット嬢の名前は覚えてるんだ? 君、僕の名前はいつまで経っても覚えてくれないのに」
アイザックは穏やかな笑顔に、ほんの少しの恨めしさを滲ませてネロを見た。
だが、ネロはどこ吹く風という態度である。
「モニカが学園にいた頃、一番口にしてた名前がラナだったからな。ちなみに二番目に話題に出たのがヒンヤリ、三番目が声デカな」
「僕のことは?」
「そりゃ、話題にはするだろ。護衛対象なんだし」
「…………そうだね」
つまり、護衛対象としてしか話題にしてもらえなかったらしい。
想像はしていたけれど、とアイザックは苦笑し、自身も魚の揚げ団子を一つ頬張る。特に好物なわけではないけれど、ネロが気に入っているようなので味付けを覚えておこうと思ったのだ。
ネロと交渉をする時は、食べ物で釣るに限る。
「君は、人間と同じ味覚があるんだね」
「本当に人間と同じかどうかは分かんねぇけどな。ただ、お前が作ったモンは大体美味いぜ」
「それは光栄だ。だけど……」
アイザックは言葉を切り、チラリと横目でネロを見る。
「君、本当は食事を必要としていないんだろう?」
ネロはフォークを動かす手を止め、仮面の奥で金色の目をパチクリとさせた。
「……気づいてたのか?」
「君が食べ物から栄養を摂取しているのだとしたら、それじゃあ圧倒的に量が足りないからね」
竜は草食竜なども僅かにいるが、一般的に雑食であると言われている。
だが、それはあくまで下位種の話。
「『上位種の竜は、下位種の竜とは最早別の生き物であり、寧ろ精霊に近いとも言える。上位種の竜が生命維持のために必要なのは食事ではなく、魔力なのだ』──という論文を見たことがあってね」
とある魔法生物学者が書いたその論文は、あまりにも荒唐無稽な妄想だと学会で評され、悪い意味で話題となったものだ。
だがアイザックはネロの行動を観察している内に、その論文が正しいのではないかと感じるようになっていた。
ネロは食べることが好きで、小さな猫の体に不釣り合いな量を食べるが、彼の本来の体の大きさを考えると到底足りない。
モニカは食べることに無頓着なので然程気にしていないようだが、モニカの家の台所事情を完璧に把握しているアイザックは、前々からネロの食事量に違和感を抱いていたのだ。
「最初の頃は、君がモニカが見ていないところで、街のゴミを漁っているのかと思っていたのだけど……」
「待て。お前……オレ様が残飯漁りしてると思ってたのか!?」
思っていたのである。
サザンドールの野良犬と戦ったと黒猫姿で誇らしげに語られたら、残飯を巡る戦いだったのだろうと考えるのは至極当然のことではないか。
ネロがジトリと睨んできたので、アイザックは極々自然にネロから視線を逸らし、言葉を続けた。
「精霊のことは僕も契約しているから分かる。精霊は一定量の魔力がある環境でないと、存在を維持できない……特に魔力の純度が問題となるようだね」
魔力濃度が高い環境の魔力は、大抵純度が高い。そして、この純度の高い魔力が、精霊の存在を維持するのに絶対的に必要なものなのだ。
故に魔力濃度の低い人里などで活動する精霊は人間と契約し、精霊石を通じて純度の高い魔力を供給されることで、その体を保っている。
言うなれば、精霊は空気の綺麗なところでしか生きられない存在で、契約の精霊石は空気を綺麗にするための濾過器のような物だ。契約者はその濾過器を維持する存在、といったところか。
では、この法則が上位種の竜にも当てはまるかというと少し違う、というのがアイザックの推測だ。
「君のような上位種の竜は食事を必要としないが、その代わり生命維持に魔力が必要。ただし、精霊と違って、純度の高い魔力でなくとも構わない……違うかい?」
アイザックの言葉にネロは揚げ団子をゴクリと飲み込み、頷いた。
「まぁ、大体そんな感じだな。オレ様、軟弱な精霊よりすげーんだぜ。崇めろ」
つまり、ネロにとって食事は生命維持に必要ではない、ただの娯楽。
彼の「腹へった。飯食いたい!」という発言は「暇だから構え」と大差ないということである。
「……ちなみに、そのことをモニカには」
「言うなよ? オレ様が飯が無くても生きていけるって分かったら、あいつマジで何も用意しなくなるからな」
モニカは決して非道な少女ではないのだが、たまに合理主義に走りすぎる傾向がある。
今でこそマシになったが、かつては自身の食事すら、木の実と水で済ませていたぐらいなのだ。
「そうだね、君が定期的に空腹だと騒いでくれた方が、モニカも食事の必要性を思い出してくれそうだ」
相槌を打ちつつ、アイザックはかつて読んだ論文の、最後の一文を思い出す。
上位種竜に関する考察論文を発表した魔法生物学会の異端児は、その論文をこう締め括っていた。
──世界の魔力濃度が薄れつつある今、いずれ、魔力を必要とする精霊も上位種竜も衰退し、絶滅の危機に瀕するだろう。
(非常に興味深い論文だったけれど……残念だな。あの論文が日の目を見ることはないだろう)
かつて目にした論文の内容を静かに反芻していると、ふと、近くにいるご婦人がたの会話が聞こえてきた。
「ねぇ、あの噂はご存知?」
「ミーガン夫人が主催のパーティに、フェリクス殿下がお忍びでいらっしゃっているっていうあれ?」
「えぇ、それよ。今日の主催もミーガン夫人だもの。きっと、いらっしゃっているに違いないわ」
噂話に勤しむ婦人達の視界に入らぬよう、アイザックはさりげなくネロの陰に身を隠す。
アイザックがこの仮面舞踏会に出席したのは、食事を楽しむためでも、一夜のロマンスを楽しむためでもない。
「さて、そろそろ用件を済ませよう。ミスターアレクサンダー、君の力を貸しておくれ?」
「とりあえず、これを片っ端から飲んでからな」
そう言って、ネロは酒の飲み比べを始めようとする。
アイザックはネロの手からグラスを抜き取り、テーブルに戻した。
「お酒は屋敷に戻ったら、君が望むだけ用意しよう」
「喉が焼けるぐらい強いやつにしろよ」




