【17】妹よ
「それではこれで、リディル王国、ランドール王国間における、通商協定の改訂を決定いたします。両国の代表は議定書に署名を」
リディル王国の調停人、ニール・クレイ・メイウッドがそう促し、両国の代表がそれぞれ書類に署名をする。
ランドール王国は、リディル王国やシュバルガルド帝国など、複数の大国に挟まれた小国だ。それ故に、かの国はいつも取引には慎重だった。
常に周辺大国の顔色を窺っているランドール王国は、条約にしろ協定にしろ、締結までにとかく時間がかかるのだ。
締結寸前まで進んだ協定が土壇場で締結を引き伸ばされ、そのまま有耶無耶にされたことは一度や二度ではない。
だからこそ、今回の協定の改訂が無事に終わったことに、ニールは密かに胸を撫で下ろしていた。
署名が終わり、会議も一段落すれば、室内には和やかな空気が流れ、あちらこちらから談笑の声が上がる。
そんな中、ニールに近づき声をかける女性がいた。
艶やかな金髪をまとめ髪にし、紺色の制服に身を包んだ美しい女性──外交秘書官の、ブリジット・グレイアムである。
「お久しぶりですわ、メイウッド卿。この度は協定改訂のご尽力、感謝いたします」
「ブリジット嬢……じゃなかった、えっと、グレイアム秘書官。少しでもお力になれたのなら、幸いです」
セレンディア学園に在学していた頃の呼び方が、なかなか抜けないニールに、ブリジットは気を悪くするでもなく、ニコリと美しく微笑む。
敏腕秘書官で知られるブリジットだが、セレンディア学園にいた頃より少しだけ棘が無くなり、微笑み方が柔らかくなったような気がする。
美貌の秘書官と親しげに話すニールには、羨望の視線が集まっていた。
見た目よりだいぶ若く見えるニールが既婚者で、もうすぐ父親になるということを知る者は少ない。
「失礼、グレイアム秘書官」
ニールとブリジットの談笑に割って入ったのは、ランドール王国の若い書記官だった。
年齢はまだ二十代前半だろうか。銀縁眼鏡をかけた、長い黒髪の青年だ。
書記官であるその青年は、ブリジットを見ると、ほぅっと感嘆の吐息を溢す。
「貴女とは、以前から直接お話しがしたいと思っていたのです」
「貴方はランドール王国の……」
「どうぞ、スヴェンとお呼びください、美しい人。あぁ、まるで朝露に濡れるバラのように艶やかな髪、太陽を閉じ込めたかのような美しい目、貴女がこの部屋に入ってきた瞬間、私は確かに室内に春の風が吹くのを感じたのです。貴女はもしかして春を告げる精霊なのですか?」
春を告げる精霊と呼ばれたブリジットは、夜の海より暗い目で、真冬並みに冷ややかな空気を滲ませている。
ニールはブリジットがこの手の美辞麗句を聞くと鳥肌が立つと溢していたことを知っているので、苦笑するしかない。
ブリジットはその顔に社交用の笑みを貼り付け、スヴェンと向き合った。
「まぁ、スヴェン様はお上手ですこと」
「私はこの胸に込み上げてきた言葉をそのまま紡いだにすぎません。あぁ、貴女の睫毛が上下する様は、まるで黄金の羽を持つ蝶がその繊細な羽を震わせるかのよう……」
ブリジットが愛想笑いを浮かべながら、チラリと横目でニールを見た。
太陽を閉じ込めたような──と称された琥珀色の目が、ギラギラと山猫のように輝いて、こう言っている。
この男も、調停してくださらない? ……と。
ニールは困ったように笑いながら口を挟んだ。
「こんにちは、ヴィンケル卿。学生時代、弟さんには大変お世話になりました」
「おや、これはメイウッド卿。こちらこそ、私の可愛い弟が世話になりましたね」
ニールとスヴェンのやりとりに、ブリジットが微かに眉を寄せて「弟?」と呟く。
ブリジットが困惑するのも無理はない。ブリジットはスヴェンの弟と一応面識はあるのだが、ほぼ入れ違いだったのだから。
「ボクが生徒会長を務めた時に、副会長だったロベルト・ヴィンケル君のお兄さんですよ」
「まぁ」
ブリジットは長い睫毛を瞬かせ、驚きに目を丸くする。
大柄で精悍なロベルトと、見るからに文官といった雰囲気のスヴェンは髪色ぐらいしか似ていないので、驚くのも無理はない。
「我が弟はグレイアム秘書官とも面識があったのですね。どうです、私の弟はとても優秀で良い子でしょう? 自慢の弟です」
確かにロベルト・ヴィンケルは非常に優秀な男である。
実技も座学も学年トップの成績だったし、生真面目だ。生徒会の副会長として、ニールも随分と助けられた。
……だが、ロベルトはチェスが絡むと見境が無くなる男である。
在学中、ロベルトは〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレットをチェス同好会の顧問に招致しようとし、時には直接リディル王国城に乗り込もうとした。それをニールが何度阻止したことか……。
過ぎし日のことを思い、ニールが空笑いをしていると、スヴェンは長い前髪をかき上げながら言う。
「実はこの後、弟と会う約束をしているのですよ。サザンドールで」
「………………えっ」
スヴェンの言葉に、ニールは頬を引きつらせる。
サザンドール。それは、〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレットが暮らす街である。
そのことをロベルトは知らないし、誰も彼にモニカの住所を教えていない。
ロベルトがモニカの家を知ったら「チェスをしましょう」と押しかけるのが目に見えているからだ。
ロベルトは現在、セレンディア学園の高等科三年である。それなのに、何故サザンドールに……。
「実は私の兄弟達が、仕事でサザンドールに滞在していまして」
「は、はぁ……」
「それなら、サザンドールで待ち合わせて、祝日は久しぶりに兄弟水入らずで過ごそうというわけです。ロベルトなど、兄さん達の仕事ぶりを見たいからと言って、前日から学校を休んでサザンドールに向かったんですよ。我が弟ながら、可愛らしいことを言うでしょう」
「そ、そうなんですかぁ……」
引きつり笑いで相槌を打ちながら、ニールは神に祈った。
あぁ、どうか。あの二人が、うっかり遭遇したりしませんように!
* * *
スロースとヴェロニカが逃亡した後、モニカはアントニーと共に店の外に向かっていた。無論、逃げたスロースを追うためである。
「いやはや、しかし、驚いたな。まさか、モニカ嬢が七賢人だったとは」
「あ、あの、わたしのことは、秘密に……」
「あぁ、勿論だとも! 安心するがいい! このアントニー、口の固さには定評がある!」
大声で自分の事情をベラベラ喋った男なので、どうにも疑わしいところであるが、今はその言葉を信じるしかない。
今、メリッサとラウルはスロースの部屋に残り、雪に埋もれた家具の中から、魔法薬の瓶を探している。
メリッサ曰く。
『店主のスロースがいなくなったら、店が騒ぎになるのは目に見えてるわ。とっとと回収するモン回収して、ずらかるわよ。おチビはそこのデカいのとスロースの野郎を捕まえてきなさい。スロースが魔法薬の瓶を持ってたら、きっちり回収すんのよ』
モニカの正体を知ってもなお、おチビ呼ばわりなところが、なんともメリッサらしい。
「えっと、お外でアントニーさんの弟さんが、待機してるんです、よね?」
「うむ。俺には弟が四人いるのだが、その内の二人が同じ騎士団に所属していてな。今回の極秘任務には俺達三人であたっていたのだ。それと、末の弟が兄の仕事ぶりを見学したいと言うので、連れてきている」
極秘任務なのに、弟を連れてきて見学させても良いのだろうか?
モニカが困惑していると、アントニーは少しだけ声を弾ませて言う。
「この末の弟が可愛くてな。まだ学生なのだが、この兄に憧れて、将来は騎士になりたいと言うのだ」
「は、はぁ……」
「おぉっ、噂をすればなんとやらだな。ご苦労だった、弟達よ!」
店を出て裏手に回ったところで、アントニーが前方に手を振る。
空には朝日が昇り始めているが、周囲はまだ薄暗く、モニカには三つの人影しか見えない。
モニカが目を凝らしていると、アントニーの弟達がこちらに近づいてきた。
先頭にいるのは、優しげに微笑んでいるテオドールだ。彼の足元には黒と茶色の毛並みの犬が一匹。
そして、その横を歩いているのは、砂漠の民風の衣装を着た青年だった。
その顔をモニカは覚えている。一階のホールでモニカの接客をし、外に逃がそうとしてくれた、ミシェルという青年だ。どうやら彼もまた、アントニーの弟だったらしい。
ミシェルはアントニーにヒラヒラと手を振りながら、口を開く。
「お疲れ様、アントニー兄さん。スロースは魔導具を取り上げて、部下に引き渡しておいたよ」
「ご苦労だったな、ミシェル、テオドール。ところで、スロースは魔法薬の類は所持していたか?」
「いいや。身につけていた装飾品だけ」
どうやら、メリッサの魔法薬をスロースは所持していなかったらしい。となると、魔法薬は全て部屋にあるのだろう。
そのことを、メリッサに伝えなくては、とモニカが考えていると、テオドールとミシェルの背後にいた人物が前に進み出てきた。
「………………え?」
いやいやまさか、いやまさか……とモニカが目を擦っていると、その人物は早足でこちらに歩み寄る。
アントニーが嬉しそうに声を上げた。
「おぉ、久しぶりだなロベルトよ!」
「お久しぶりです、モニカ嬢」
両手を広げて抱擁しようとするアントニーの横をすり抜け、モニカの前に立ったのは、黒髪の長身の青年。
かつてセレンディア学園で、モニカにチェスを前提に婚約を申し込んだ男──ロベルト・ヴィンケルであった。
モニカが口をパクパクさせていると、アントニーが太い眉を持ち上げて、訝しげな顔をする。
「うん? 弟よ。モニカ嬢と知り合いなのか?」
「はい、以前兄さん達に相談した『振り向かせたい女性』です」
ゆるやかに日が昇り始めている、春の早朝。
夜の名残りの群青に薄紅が溶ける空の隙間から、鈍く輝く朝日の下で、アントニー、ミシェル、テオドールのヴィンケルブラザーズはモニカを凝視し、声を揃えて叫んだ。
「妹か!」
「妹じゃん!」
「妹だねぇ」
飛躍しすぎである。
モニカはブンブンと首を横に振ったが、そんなモニカの反応は誰も見ていないらしい。
アントニーがロベルトに向き直り、苦悶の表情で告げた。
「……ロベルトよ、許せ。兄はお前のことを心から可愛がってきたが……本当は……本当は……っ、妹が欲しかったのだっ!」
力強く告白するアントニーの目元には、キラリと涙が光っていた。どうやら感涙に咽び泣いているらしい。
大袈裟すぎるアントニーにモニカが絶句していると、ミシェルがうんうんと頷く。
「分かる分かる〜。男五兄弟って、ちょっとむさ苦しいもんねぇ」
しみじみと呟くミシェルの言葉には、たっぷりと実感がこもっていた。
モニカが反応に困っていると、アントニーがモニカの肩に手を置く。
「妹よっ! 今度、兄が狩りに連れていってやろう! 兄の勇姿をとくと見せてやろうではないか!」
鼻息荒くモニカの顔を覗き込むアントニーに、モニカが汗だくになりながら視線を彷徨わせていると、今度はミシェルがモニカに詰め寄り、とろりと甘く微笑んだ。
「やだなぁ、アントニー兄さん。女の子は狩りよりお買い物でしょ? ねぇ、俺と一緒にお買い物に行こ? お兄ちゃんが何でも買ってあ、げ、る」
「あ、あのぅ……あのぅ……」
モニカは助けを求めるように、テオドールを見た。
テオドールは厳つい顔の犬を抱き抱えながら、ニコリと微笑む。
「ねぇ、ワンコ好き?」
「…………」
この兄弟、一見似ていないのだが、人の話を聞いてくれないところだけは、そっくりである。
その後も、アントニーは「騎士団の訓練を見学に来るがいい! 兄のカッコイイところを見てくれ」と主張し、ミシェルは「甘いお菓子も買ってあげるね」とモニカの頭を撫で、テオドールは「家にも、ワンコが二匹いるんだ」と犬の話を始める。
いっそ清々しいほど、誰も話を聞いてくれない。
そんな中、力強く声をはり上げた男がいた。ロベルトである。
「兄さん達、モニカ嬢が困っています」
あぁ、良かった、これで話を聞いてもらえる……とモニカが胸を撫で下ろしたのも束の間。
「モニカ嬢は、自分とチェスをするのが先です。安心してください、モニカ嬢。旅行中でも、もちろんチェス盤は持参しています」
「………………」
かくして、男四人の主張は混迷を極めた。
いつしか兄弟の主張は「お兄様と呼ばれたいか、お兄ちゃんと呼ばれたいか」という議題に発展し、自分がいかに妹が欲しかったのか、という主張が始まり、ついには婚姻の日取りの話まで始まったところで、モニカは四人に背を向ける。
「わ、わたし、お仕事がっ、あるので……っ、これで、失礼しますっ」
モニカはバタバタと手足を振り回し、己にできる全速力でその場を逃げ出した。
モニカ嬢! 妹よー! ……という暑苦しい叫びを、背中に聞きながら。




