【11】冷たい激昂
今から二年半前、山小屋で暮らすモニカに、ルイスが第二王子の護衛任務を引っ提げてやってきた時、モニカは震え上がりながら「あぁ、どうしてこんなことに」と途方に暮れた。
思えばあの一年はまさに「どうしてこんなことに」の連続。
そうして激動の一年を経て、モニカはほんの少しだけ成長できたつもりでいたし、昔ほど簡単に流されたりはしなくなった……と思っていた。思っていたのだ。
(ど、どうして、こんなことに……っ!)
異国風のランプに妖しく照らされる広々としたホールでは、見るからに高級そうな服を着た紳士淑女がソファにもたれ、各々酒や果物を摘まみながら歓談を楽しんでいた。
店内には何箇所かで香が焚かれ、甘い香りのする白い煙が室内に漂っている。
そんな店内のソファにちんまりと座ったモニカの横に座るのは、砂漠の民風の衣装を身につけた黒髪の男だ。男性ながらに露出の多い踊り子風の衣装で、口元にはベールをつけている。
「君、こういうお店は初めて? お姉さんに連れてきてもらったんだ?」
「え、えぇっとぉ……」
「俺はミシェル。君は?」
ミシェルと名乗った男に肩を抱かれ、モニカは落ち着かなげに視線を泳がせた。
「あのぅ、そのぅ……」
初対面の人間が苦手なモニカがガチガチに硬直していると、ミシェルは気を悪くするでもなく、ベールの下で笑みを浮かべ、皿の上の葡萄を一つ摘んだ。
「あはっ、照れちゃって、かーわいい。はい、あーん」
「むぐぅ」
ミシェルの細い指が、モニカの口に葡萄を押し込む。
モニカはモグモグと葡萄を咀嚼しながら、ちらりと横目で隣に座るメリッサを見た。
メリッサはソファの上に踏ん反り返って、茶髪の青年に酌をさせている。そのもてなされ方は、実に堂に入っていた。まるで絵に描いたような「美男子を侍らせる悪女の図」である。
(……メリッサお姉さんは、どうするつもりなんだろう)
メリッサが言うには、この店の主人であるスロースなる人物こそが、メリッサが売った商品を改悪して売り捌いている極悪人らしい。
メリッサはその商品を回収するために、セオドアという男を脅してこの店に客として入り込んだ。
メリッサ曰く、敵情視察ということらしい……のだが、単にお酒が飲みたかったからではないだろうか、と邪推したくなるぐらいに、メリッサは景気良く酒をがぶ飲みしていた。
店内は酒と煙草と、それとなんだかやけに甘ったるい香の匂いに満ちている。大きく息を吸うと、それだけで気分が悪くなりそうだ。
モニカがぬるい葡萄をコクンと飲み込むと、メリッサの横に座っていた茶髪の男がテーブルの上の小さいポットの蓋を開けた。どうやらキャンディポットらしく、中は丸い飴玉で満たされている。
「レディ、レディ、キャンディをどうぞ。今夜のために特別なキャンディを用意したんだ」
「あら嬉しい。いただくわ。おチビも食べるでしょ?」
メリッサはポットのキャンディを二つ摘むと、そのうちの一つを自身の口に放り込んだ。
そうして残る一つのキャンディを手に、反対の手でモニカの頬を包み込む。
(………………あれ?)
メリッサの指が一瞬、素早く動いた。
メリッサは白いキャンディを自身の袖の中に落とすと、最初から手の中に隠し持っていたらしい、ピンク色のキャンディを指先につまむ。
動揺が顔に出そうになるモニカに、メリッサは己の顔を近づけた。
「……いいこと、あの男達が勧めたキャンディは口にするんじゃないわよ。舐めるんなら、こっちのキャンディにしときな」
モニカにだけ聞こえるような声で囁いて、メリッサはモニカの口にピンク色のキャンディを押し込む
「はい、おチビ。あーん」
「は、はい……」
「やっだぁ、このキャンディおーいしーい! もう一つ貰っちゃおーっと。ほらほら、おチビも貰っときなさいよ」
メリッサは大袈裟なほどはしゃぎながら、キャンディポットの飴を三つ掴んだ。
そうして掴んだキャンディをドレスの袖に落とし、素早く手元で別の飴とすり替えてモニカに握らせる。
もしキャンディを勧められたら、これを舐めろということなのだろう。
(それってつまり……このお店のキャンディは、危険な物?)
コロコロと口の中で転がしているピンク色の飴は、溶けると中からシロップが出てきた。濃いバラの香りがする甘いシロップだ。
その香りが口腔を満たしている間は、不思議と周囲に漂う香の煙が気にならない。
(もしかして、あのお香って……)
至る所に設置された香炉をモニカが凝視していると、メリッサが茶髪の男にもたれかかった。
「あぁん、ちょっと酔っ払っちゃったみたぁ〜い。ねーぇー、貴方のお部屋に連れて行ってくださるぅ?」
茶髪の男は「えぇ、勿論」とニンマリ笑い、メリッサの肩を抱いて立ち上がる。
「あ、あのっ、あのっ、お姉さん……っ」
「おチビはちょーっと、ここでお留守番してるのよぉ……いいわね?」
甘ったるい猫撫で声だが、最後の一言だけが低く言い含めるような響きを持っていた。
モニカがコクリと頷くと、メリッサは「よし」と頷き立ち上がる。
そして、いかにも酒に酔ったようなふらついた足で、茶髪の男にしなだれかかった。男はメリッサの腰を抱いて、ホールを出ていく。
どこに行くんだろう、とモニカがその背中を見送っていると、モニカの隣に座っていた黒髪のミシェルが、モニカの肩を抱き寄せた。
「あーあ、お姉さん行っちゃったね。寂しい?」
「えっと…………ひぅっ!?」
モニカが口籠もっていると、ミシェルがモニカの肩を押した。
モニカの背中はソファの背もたれをズルズルと滑り、軽い音を立ててソファに沈む。
ミシェルは妖しく微笑み、モニカの手首を掴んだ。
「ねぇ、俺達もイイコトしようよ。こういうとこは初めて? 大丈夫、俺、たーっぷり優しくしてあげるから」
* * *
モニカを追いかけて、見るからにいかがわしい店に足を踏み入れたラウルとシリルは、ホールのソファに案内された。
ホールはちょっとしたパーティ会場ぐらいの広さがあって、あちらこちらで裕福そうな紳士淑女が煙管をふかしたり、酒や食事を楽しんでいる。
そんな客をもてなすのは、異国風の衣装に身を包んだ若い男女だ。砂漠の踊り子のような衣装はまるで下着のようで、若い娘達は豊満な体を惜しげもなく晒している。
「なんだ、この店は……っ」
ラウルの隣に座るシリルの眉間には、マッチ棒が挟めそうなほど深い皺が刻まれていた。
「なぁ、シリル。本当にこの店にモニカが入っていったのか?」
「あぁ、間違いない」
シリルは力強く頷き、周囲をキョロキョロと見回す。モニカの姿を探しているのだろう。
だが店内は薄暗い上に、数ヵ所で香を焚いているせいで白く煙って視界が悪い。
その煙の独特の甘い香りに、ラウルはかすかに眉根を寄せた。
(あれ、この匂いって……もしかして……)
もし、ラウルの予想があっているなら、この香には魔法薬が使われている。
いわゆる媚薬に似た効果があり、感情や理性の抑制が効かなくなる類のものだ。
経口摂取するよりは効き目が薄いが、長時間嗅いでいるのはまずい。
「シリル、いったん外に出ようぜ。この香りはやばい……」
ラウルが言い終えるよりも早く、シリルは立ち上がった。その視線の先には、ソファに押し倒されている小柄な少女と、少女にのしかかる黒髪の男。
ラウルの位置からだと、少女の顔は見えないが、ソファから垂れている薄茶の髪とリボンには見覚えがあった。
シリルはそのソファに向かって早足で近づいていく。その横顔は無表情だが、青い目がギラギラと物騒な輝きを宿していた。
ラウルはさぁっと青ざめる。
(待てよ。そういやシリルって、魔力過剰吸収体質……)
周囲の魔力を人より吸収しやすい体質のシリルに、この香はあまりに効きすぎる。
普通の香なら問題無いが、この香は魔法薬──魔力を含んでいるのだ。当然、シリルの体は人より早く、香の魔力を吸収してしまう。
「シリル! 待てっ! 止まれっ!」
ラウルは慌ててシリルを追いかけようとした……が。
「きゃー、素敵なお兄さん!」
「ねぇ、今夜は私を買わない?」
「ずるーい、アタシが先よぉ!」
ラウル達のテーブルに酒と果物を持ってきた女達が一斉にラウルを取り囲む。
その残念な言動故に忘れられがちだが、彼は初代〈茨の魔女〉譲りと言われる美貌の持ち主である。接待役の女達は目の色を変えて、ラウルに群がり、豊満な体を押し付けた。
女達に囲まれて身動きの取れなくなったラウルは、悲鳴を上げる。
「ちょっ、ちょっ、待ってくれよぉ! 今、友達が大変なことに……っ!」
* * *
「俺、もう我慢できないや……ねっ、俺の部屋に行こ?」
モニカに覆い被さる黒髪の男、ミシェルはモニカの手首を片手で掴んでソファに押し付け、反対の手で部屋の鍵らしき物を取り出す。鍵には紐で小さな札がつけられ、部屋番号が刻まれていた。
ミシェルはキーリングを指に引っ掛けてチャリチャリと鳴らしながら妖艶に笑い、モニカの耳元に唇を近づけ……。
「しーっ、大声出さないでね?」
「……え?」
「君、お姉さんに無理やり連れてこられた感じでしょ? 俺の部屋からこっそり外に逃してあげるから、ついておいで」
そう言ってミシェルは妖艶さを引っ込め、人懐っこく笑った。
ミシェルの言葉を信じて良いものかどうかモニカが戸惑っていると、ミシェルは茶目っ気たっぷりにウィンクをする。
「今夜は、ちょーっと騒がしい夜になるからね」
(……あれ、その台詞、どこかで……)
その言葉をどこで聞いたのか、思い出そうとモニカが記憶を辿っていると、ミシェルが「おわっ」と悲鳴をあげてソファから転げ落ちた。
誰かがミシェルの肩を乱暴に掴んでソファから引き摺り落としたのだ。
「失礼」
頭上から響く低い声に、モニカの心臓が跳ねる。
ソファに倒れたまま丸い目を動かしたモニカは、冷ややかに自分を見下ろすシリルに言葉を失った。
「……ぇ、……ぁっ」
なんで、とモニカが口をパクパクさせると、シリルはモニカの手首を掴んでソファから立ち上がらせる。
そうして彼は、ミシェルを鋭く睨みつけた。
「彼女は私の連れだ」
「あー……あはは、なーんだ、彼氏さんがいた感じ? うん、じゃあ、俺の出る幕無かったねー。良かったら、お部屋どーぞ」
シリルは差し出された鍵をふんだくるように掴む。
そんなシリルに、ミシェルはヘラヘラと笑いかけた。
「優しいお兄さんからのアドバイスだ。今夜は朝まで、部屋から出ない方がいいぜ」
「…………」
シリルは何も言わずに、モニカの手首を掴んだまま歩きだす。
「あ、あのっ、シリル様……っ」
モニカがオロオロと名前を呼んでも、シリルは振り向かない。
だから、彼がどんな顔をしているのかモニカには分からないけれど、それでも彼が激怒していることだけは分かる。
モニカの手首を掴む手は熱いのに、全身から漂う冷気は肌を刺すように冷たく、まるで彼の激情をそのまま表しているかのようだった。




