【9】運命の分岐点、羅針盤の針はニンジン
店を出たメリッサは路地裏に入ると、獲物の襟首を掴んで壁に押し付けた。
「わぁぁぁん、なんなんだよぅ! 暴力反対! 痛いのはやめてぇぇぇ!」
「痛くするかしないかは、アンタの態度次第よ」
泣き喚く男に、メリッサは邪悪な笑みを向ける。
ようやく追いついたモニカが「お姉さん、乱暴なことは……」とオロオロしているが、メリッサは男を壁に押し付けたまま、モニカをジロリと睨んだ。
「モニモニはちょっと黙ってなさい。さて、あんた。名前は?」
「おれ? おれは、セオドアだよ」
涙目でセオドアと名乗る獲物は、三十手前ぐらいのヒョロリとした男だ。
ろくに手入れされていない赤茶の髪の毛に、気の弱そうな顔立ち。身につけているのは学者が好んで着るような襟の高い服。
見るからに冴えない学者といった雰囲気のその男は、荒くれ者ばかりの店で一際浮いていた。
メリッサは男の首筋に顔を近づけて鼻をひくつかせる。
(やっぱり、この匂いは……)
趣味で香水の調合などもするメリッサは、人一倍嗅覚が優れている。
その嗅覚が敏感に感じ取っていた。
「……アンタ、『イレーネ』を知ってるわね?」
イレーネ。それは、神話において、神々の楽園を管理する女神の名だ。
だが、この場合のイレーネが指すのは、その女神のことではない。
「イレーネ? 誰それ? おれ、知らないよぅ」
「すっとぼけても無駄よ。あんたから匂うのよ。この街で流行してる薬の匂いが」
香炉で炊いたり、経口摂取することで、強い快楽と多幸感を得られる依存性の高い薬物。それがイレーネだ。
楽園の女神の名がつけられた危険な薬物の材料。それが他でもない。メリッサがかつて作っては売り捌き、作っては売り捌きまくった「魔女の惚れ薬」なのである。
ローズバーグ家秘伝の薬が、違法薬物イレーネとして出回っているなど洒落にならない。故に、メリッサは回収を命じられたのだ。
「い、イレーネは、よく分からないけど、もしかして、バラみたいな匂いのする、お香のこと?」
「そうよ」
「お、おれが使ったわけじゃないよぅ! これは、スロースって奴の部屋にいたせいで……!」
「スロース? スロースって言った?」
メリッサの言葉に、セオドアがコクコクと頷く。
メリッサは「へぇぇぇ」と唸りながら、緑色の目をギラギラと輝かせた。
スロースは、隣国ランドール王国の付与魔術師の名門である。
とは言え、ランドール王国は魔法技術より機械技術の方が発達している国だ。故に、ランドールでは魔術師の家系は年々廃れていると聞く。
つまり、ランドール王国の名門スロース家と、リディル王国の名門ローズバーグ家では、圧倒的に格が違うのだ。
「小国の名門気取りが食うに困って、大国に出稼ぎに来たってわけね。挙句の果てに、本物の名門に喧嘩を売ろうだなんて……良い度胸してんじゃない」
物騒な笑みを浮かべるメリッサに、見るからに気の弱そうなセオドアとモニカが仲良く震え上がる。
メリッサはギラギラ輝く目で、セオドアを覗き込んだ。
「あんたはスロースの下っ端ってわけね?」
「す、好きで手伝ってるわけじゃないよぅ。おれは大事な物を取り上げられて、仕方なく……」
「つまり、あんたは渋々スロースに従ってる?」
セオドアが勢いよく頷くのを見て、メリッサは舌舐めずりをした。これは好都合だ。
「丁度いいわ。あんた、アタシを手伝いなさい」
「え、えぇぇぇ……な、なんでおれがぁ……!」
情けない声をあげるセオドアに、メリッサはキスが出来そうなほど顔を近づけ、ドスの効いた低い声で告げる。
「いい年した男がピィピィ喚いてんじゃないわよ。一応言っておくけど、裏切ろうなんて思わないことね。裏切ったら、全身の血を搾り取って美容薬の材料にしてやる」
「ひぃぃぃっ……!!」
メリッサは震え上がるセオドアから手を離し、思案する。
これで、商品回収の目処は立った。残る問題は、オロオロしているおチビ──モニカだ。
これから、スロースの元に殴り込みに行くなら、モニカがお荷物になるのは間違いない。
だが、メリッサはまだこの辺りの道を覚えていないのだ。
当然、シリルが訪問していた家までの道も覚えていない。だから、シリルとお近づきになるためにも、モニカを手放すわけにはいかなかった。
モニカの主人とシリルは、どうやら知り合いらしい。ならば、モニカの主人から自分を紹介してもらえば、シリルとのお近づきになれる。となると、モニカの主人の印象を悪くするのは避けたい。
だが、モニカを危険なところに連れ回したら、確実にモニカの主人の印象は悪くなるだろう。
(まぁ、いざとなったら、ローズバーグの名を出してゴリ押せばいいわ)
なにせローズバーグ家は、リディル王国における魔術師の名門中の名門である。
リディル王国の魔術師でローズバーグに並ぶ者など、それこそ呪術師のオルブライト家か、或いは七賢人ぐらいのものだ。
大抵の魔術師は、ローズバーグの名を出せば下手に出る。
「よし、おチビ。あんたもついてきな。さっきのギャンブルは度胸試しの初級。ここからは上級編。悪い奴のアジトに殴り込みよ。これをこなせば、大抵のことには動じない強靭な精神が得られること間違いなしね」
モニカは真っ青な顔で指をこねながら、メリッサを見上げた。
「あのぅ、ちゅ、中級は?」
「そんなのまどろっこしいでしょ。ほら、行くわよ!」
* * *
シリルと共にサザンドールの街を歩いていたラウルは、飴で固めたナッツを齧りながら唐突に言った。
「ところでさ、ここってどこかな?」
「まさか、今まで適当にフラフラ歩いていたのか!?」
目を剥き叫ぶシリルに、ラウルは大真面目な顔で首を横に振る。
「酔っ払いじゃあるまいし、フラフラなんてしてないぜ。しっかりした足取りで歩いてただろ?」
つまりこの男は、自信に満ちた堂々たる足取りで、迷子になっていたのである。
ラウルがあんまり堂々と歩いているものだから、道に詳しいのだとばかり思っていたシリルは頭を抱えた。
祝日の前日故に、さっきまでは道に人が溢れかえっていたのだが、今は殆ど人の姿がない。おそらく、この辺りは治安の良い地域ではないのだ。
シリルの故郷にも、治安の悪い地域はいくつかあった。
そういう場所には近づかないように、母から厳しく言われていたのだが、幼いシリルは母との約束を破って、一度だけ足を踏み入れたことがある。
……仕事帰りの父が、治安の悪い地域に向かうところを、見てしまったのだ。だから、こっそり後をつけた。
そうして辿り着いた先の店では、父が見苦しく酒に溺れ、大声で不平不満を垂れ流していたのである。
その頃の父はまだ、家で酒浸りになるほどではなかったので、酒に酔った父の姿にシリルは酷く衝撃を受けた。
どろりと酒に濁った青い目。理性を失った顔。耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言。
自分は、絶対にああはならない、と強く思った。
シリルの容姿が父に似ている、と言われるたびに嫌悪感を覚えるようになったのも、この頃からだ。
シリルが苦い記憶に顔をしかめていると、ラウルが陽気に提案する。
「よし、どっちに進むか、ニンジン占いで決めよう」
「なんだそれは……いや、いい。言わなくていい」
シリルの人生において、一生役に立つことのない無駄な知識になることは目に見えている。
だが、シリルの言葉も聞かず、ラウルはポケットからニンジンを取り出した。
「まず、ニンジンを用意するだろ。このニンジンにいい感じに魔力を込めて……」
シリルはニンジンが割と好きだが、ニンジンに己の未来を託す気は無かったので、無言で右に曲がった。
その後を追いかけながら、ラウルがニンジンを掲げる。
「ニンジン占い、覚えたら絶対女の子にモテるぜ! ……って言ったら、レイはすげぇ真剣に話を聞いてくれたのになぁ」
何故、真に受けた〈深淵の呪術師〉。それでいいのか七賢人。
声に出さずツッコミを入れて、シリルはズンズンと大股で道を歩く。
「オレのニンジンが、次はこっちだって言ってるぜ!」
未来とはニンジンが選ぶのではなく、己で選ぶものである──という信念に基づき、シリルはラウルが指し示した方向と逆に進んだ。
もしこの時、シリルがニンジンが示す道に従っていたら、彼の未来は大きく変化していただろう。
だが、ニンジンが示す未来に背き、己の勘を頼りに歩き続けたシリル・アシュリーは、日が暮れてもなお道に迷い続け……そして、見てしまった。
異国風のランタンを吊るした、娼館じみた雰囲気の派手な店。
そこに入っていく、モニカの姿を。
「おーい、突然立ち止まってどうしたんだ?」
ラウルがニンジンを齧りながら、不思議そうにシリルを見た。
シリルはモニカが入っていった建物を見つめて、呆然と呟く。
「今……あの店に、モニカが」
「へっ? あの店ぇ?」
シリルの言葉に、ラウルは目を丸くした。
シリルが指で示した店には、派手な格好の紳士淑女が人目を気にしながら出入りしている。
見るからに高級娼館か、或いは人に言えない趣味を持ってる金持ちが集まる秘密クラブといった雰囲気である。
とてもモニカが出入りするような店には見えないから、ラウルが驚くのも無理はなかった。
「本当に、モニカだったのか?」
疑わしげなラウルに、シリルはコクリと頷く。
モニカの横には赤毛の女と、赤茶の髪の男がいた。どちらも見覚えのない男女である。あれは、あの店の人間なのだろうか?
シリルが眉間に皺を寄せていると、ラウルがニンジンをボリボリ齧りながら呟いた。
「そういや、モニカ……最近、何か悩んでるみたいだったよな」
〈星詠みの魔女〉の家で行われたパーティで、モニカは何かに悩み、泣いていたという。
そんなモニカの力になるために、二人はサザンドールを訪れたのだ。
だが、モニカは家を留守にし、そして見るからにいかがわしい店に入っていった。
「まさか、モニカ……悩みすぎたあまり、自棄になって、夜遊びを?」
ラウルの言葉にシリルは顔を強張らせる。
モニカが自棄になって夜遊び?
いつものシリルなら、馬鹿げたジョークだと耳も貸さなかっただろう。
だが、シリルは見てしまったのだ。モニカが自らの足で、いかがわしい店に入っていくところを!!
「……追うぞ、ラウル」
シリルの全身からは、春の夜とは思えない真冬の冷気が吹き荒れていた。
ラウルは二の腕を擦りながら、頬を引きつらせる。
「お、おぅ……えーっと、シリル、顔が怖いぜ?」
「セレンディア学園の元生徒会役員が、あんないかがわしい店に出入りするなど、けしからん」
「シリル、シリル? おーい?」
ラウルの呼びかけを無視して、シリルは大股で店へと歩きだす。
ラウルは残ったニンジンを平らげると、大慌てでシリルの後を追いかけた。
婚約者にニンジン占いを披露しようとし「食べ物を粗末にしてはいけません」とニンジンを没収された〈深淵の呪術師〉は、後にこう語る。
「冷静に考えたら、こういうのは顔の良いやつがやるからモテるんであって、オレがやってモテるわけがなかった……くそぅ、顔の良いやつ全員呪われろ……」
婚約者手製のニンジンスープは、とても美味しかったそうです。




