【5】想いはポケットにしのばせて
アイザックとネロを見送ったモニカは、パタンと閉じた扉をしばし無言で見つめていたが、やがて椅子に座ると、意味もなく足をプラプラさせた。
最近取り掛かっていたレポートはまとめてミネルヴァに郵送したし、共同研究はラウルのデータ待ち。
今のモニカは、珍しく暇を持て余していた。
アイザックとネロがいない家は、シンと静かだ。
(ラナは商談であちこちに寄り道してサザンドールに帰るって言ってたから、しばらく戻ってこないし……)
モニカは足を揺らすのをやめると、なんとなく机にパタンと突っ伏してみた。机のひんやり感が頬に心地良い。
明日は、アッシェルピケの祭日がある。
親しい人に飴を贈るという行事に、モニカは今まで関心を持っていなかったけれど、今年は折角だから、ラナやアイザックに飴を贈ろうかと密かに考えていたのだ。だが、そういう時に限って、みんな留守にしている。
こんなことなら、もっと早くに飴を買っておくんだった。そうすれば、一日早いけれどアイザックとネロには飴を渡せたのに。
モニカは机に頬をピトリとつけたまま、ため息をつく。
寂しい、なんて気持ちを思い出したのは随分と久しぶりだった。
いつもなら気分が沈んでいる時は、数式や魔術式に没頭するのだが、折角天気が良いから、今日は少し出かけてみようか。
(そうだ、一人でおでかけする練習、してみよう……かな)
図書館に借りていた小説を返しに行って、ちょっとだけ屋台や出店を覗いてみて、そして帰りに揚げパイを食べて帰るのだ。
仕事で出かけるわけでもなく、備蓄が尽きたから買い出しに行くわけでもなく「ただブラブラする」というのは、出不精なモニカにとって、ちょっとした冒険である。
(もし、素敵なお店を見つけたら……ラナに教えたい、な)
ラナにはいつも素敵なものを教えてもらっているから、たまにはモニカもラナに「自分のお気に入り」を教えたい。
(今日は、わたしのお気に入りを、探しに行こう)
モニカは「えいっ」と勢いをつけて椅子から立ち上がると、外出用のブラウスとスカートに着替えて、髪をキチンと編み直した。
最後にベストと上着を羽織って、鏡の前に立つ。
ベストは最近買ったばかりのもので、縁に刺繍の入ったデザインだ。こういう小さなお洒落も、モニカにはささやかな冒険である。
「……うん、よし」
一つ頷き、モニカは玄関の扉を開けた。
* * *
街に出て三十分。早くもモニカは心が折れそうになっていた。
アッシェルピケの祭日を翌日に控えているためか、今日はいつもより街に人が多いのだ。
特に飴売りの屋台やワゴンがあちらこちらに出ていて、いつもは潮風の香りがする港町も、今は甘い匂いに満たされている。
ちょっとこの人混みでは、意味もなくブラブラするのは難しい。
(や、やっぱり今日は、図書館でゆっくりしようかな……)
早くも予定変更を考え始めたモニカは、すれ違う人に押され、たたらを踏んだ。
「きゃぅっ」
「おっと」
よろめき、そのまま石畳に顔から突っ込みそうになるモニカを、太く逞しい腕が抱きとめる。
「大丈夫か、ご婦人!」
「あっ、あぅっ、えっと……」
顔を上げたモニカは、自分を抱きとめた人物を見て目を丸くした。
モニカを抱きとめてくれたのは、短く刈った黒髪の大柄な男。アントニーである。横には弟のテオドールの姿もあった。
「我ながら今のは良いタイミングだったな! 見たか、テオドールよ! 男を見せるとは、こういうことを言うのだ!」
「結構前から、話しかけるタイミングを狙ってたよねぇ」
「そのタイミングの見極めこそ、男を見せるのに必要な技術なのだ! 最も劇的な瞬間にご婦人に声をかけてこそ、男が上がるというもの!」
声が大きく大柄なアントニーは、モニカが一番苦手とするタイプだが、助けてもらったことには変わりない。モニカはペコリと頭を下げた。
「あ、ありがとうござい、ましたっ!」
「うむ、怪我が無くて何よりだ。ところで今日は、ラナ嬢は一緒ではないのか?」
「はい、ラナはしばらく、お留守です」
ラナがいないと知ると、アントニーは目に見えてガッカリした顔をしたが、すぐに気を取り直したように「そうだ」と言って、ポケットを探る。
「モニカ嬢、これをあげよう」
「……?」
「アッシェルピケの祭日には一日早いが、なぁに構うまい。溶けない氷だ」
そう言ってアントニーはモニカの手のひらに、紙に包んだ飴玉を乗せてくれた。
モニカは飴とアントニーを交互に見て、それから慌てて礼を言う。
「えっと、ありがとうございます」
「ふふふ、お礼の硝子細工には、是非名前を書いておいてくれ」
「……? 硝子細工? 名前?」
アッシェルピケの祭日と言えば、親しい人に飴を贈り合う日である。それなのに、どうして硝子細工という単語が出てくるのだろう?
モニカが不思議そうな顔をしていると、テオドールがおっとりと口を挟んだ。
「ボクらの故郷のランドールではね、飴の他に、好きな人に硝子細工を贈ったりするんだよ」
なんでもランドール王国の硝子職人ギルドが「溶けない氷と言うのなら、飴だけでなく、硝子細工でも良いじゃないか。似てるし」と言って、アッシェルピケの祭日に硝子細工を売り出したのがきっかけらしい。
それが次第に変化し「アッシェルピケの祭日には、好きな人に想いを込めて硝子細工を贈る」という風習に変化したのだとか。
「まぁつまり、伝承とは全然関係ない、職人ギルドの商業戦略なんだけどね。これが、うちの国では受けて、定着しちゃったんだよねぇ」
「な、なるほど……」
テオドールのまとめ方は身もふたもないが、ランドール王国は技術者の多い国だから、割と納得のいく話ではあった。
彼が言うには、この時期になるとランドール王国では飴の屋台と同じぐらい、硝子細工の屋台が並ぶらしい。
「あのぅ、それで、名前を書くっていうのは……?」
「硝子細工はね、まぁ大体コインぐらいの大きさの小ぶりの物が主流なんだけど、それを直接渡すんじゃなくて、こっそり意中の相手のポケットにしのばせるんだ」
「……こっそり?」
なんでわざわざそんな回りくどいことをするのだろう?
モニカが首を捻っていると、アントニーが芝居がかったポーズで語りだす。
「アッシェルピケの祭日に、ポケットにこっそり入れてあった硝子細工……あぁ、自分に想いを寄せているのは一体誰なのか……もしかしてあのご婦人、いやいや先程すれ違った、あの令嬢かも知れぬ……と、一喜一憂するのも悪くない……が、俺は確実にその想いに応えたいので、できれば記名しておいてほしい!」
「兄さん、今まで一度ももらったことないじゃない」
「きっと、今まで着ていた服は、ポケットの位置が分かりづらかったのだろう! 今年の俺はぬかりないぞ! ポケットの位置が分かりやすい上着を用意したからな!」
そう言って、アントニーは自身の上着のポケットを、モニカにもよく見えるようにバシバシと叩く。
リディル王国では、意中の人に硝子細工を贈る習慣がない、ということは完全に失念しているようだった。
「あ、あのぅ……えっと……その……」
ランドールの風習を知ったモニカは、すっかり困ってしまった。
そんな風習があるのなら、軽率に飴を受け取るのは、なんだか申し訳ない気がする。返した方が良いだろうか、とモニカがモジモジしていると、テオドールが兄には聞こえぬよう、小声でモニカに耳打ちした。
「兄さん、今日は行く先々で飴を配っててね。キミで十四人目だから……ほら」
そう言ってテオドールが目線で示した先では、アントニーが花売りの娘に飴を握らせていた。なるほど、これで十五人目らしい。
「だから気を遣わなくて大丈夫だよ。あ、ボクも飴あげる」
はいどうぞ、とテオドールが渡してくれたのは、棒付きの飴だった。
こちらは飴玉ではなく、平たい型に入れて固めた物で、犬を模した形をしている。
「わんこ型。ふふっ、可愛いでしょ」
「……えっと、ありがとうございます」
「どういたしまして。ところで、今日はどこかにおでかけ?」
「その辺を、なんとなくブラブラしようかと……思っていたんですが……」
モニカがもじもじと指をこねながら答えると、テオドールはいつも笑みの形に細めている目を、僅かに開いてモニカを見据えた。
そうしていると少しだけ目つきが鋭くなり、兄と似て見える。
「今日は用事が済んだら、早めに帰った方がいいよ。特に、日が暮れてからは必ず家にいた方がいい。戸締りも念入りに」
おっとりとした口調は変わらないが、その奥に強く念を押すような響きがあった。
眉を下げて戸惑うモニカに、テオドールはふんわりと柔らかく微笑み、告げる。
「きっと今夜は、騒がしい夜になるからね」




