【1】黒竜は見た
サザンドール港のとある倉庫の中、雑に積まれた木箱の裏で男は目を覚ました。
年齢は三十手前の中肉中背の男だ。煉瓦に似た赤茶の髪はクシャクシャに乱れ、目元にかかっている。
身につけているのは学者が好んで着るような襟の高い服だが、全体的にくたびれていて、いかにもうだつの上がらない学者といった風貌であった。
男は瞼を擦り、辺りを見回す。そして自分が北風の寒さを凌ぐためにこの倉庫に忍び込み、そのまま寝てしまったことを思い出した。
(あぁ、よく寝た……ちょっと寝過ぎたかも……)
上半身を起こして、軽く肩を回していると、木箱の向こう側から話し声が聞こえてきた。どうやら、四、五人ほどの若い男達が何やら話し込んでいるらしい。
この倉庫の持ち主だったら少々バツが悪いので、男は物音を立てぬよう、木箱の陰からこっそり様子を窺う。
「スロースの旦那。これが例のブツです」
「ほぅ、随分と質が良いな。香りが違う」
「へへっ、こいつを使えば、一発で女神の楽園にトベますよ」
そう言って男達は、何やら怪しげな紙包みの受け渡しをしている。
紙包みの中身は、乾燥した草のようだった。それがどういう物なのかは、男達の会話の内容でお察しである。
目覚めたばかりの男は、顔を引きつらせて硬直した。
(あっれぇぇぇぇぇ、これって、もしかして、見ちゃいけない感じの取引なんじゃぁ……)
どうやらこの場を仕切っているのは、スロースと呼ばれている三十代半ば程度の焦茶の髪の男らしい。派手な服を身につけ、全身のいたるところに装飾品を身につけている。あれは恐らく全て魔導具だ。
それ以外の連中は、見るからにゴロツキといった風体だった。軍人崩れといったところか。
ただ、その中に一人だけ若い女がいる。毛皮のマントを身につけ、淡い金髪を顎のところで切りそろえた女だ。その腰には立派な銃を二丁ぶら下げているから、傭兵なのだろう。
(ひぇぇぇ、おっかない……)
このまま隠れてやり過ごすのが一番だ。そう思い、様子を見守っていると、スロースと呼ばれている男が受け取った紙包みを自身の荷物袋にしまう。その時、荷物袋にキラリと光る何かが見えた。
(あ、あれっ、あれって……まさか……)
それは、手のひらに乗る大きさの黒い宝石箱だ。大小様々な宝石を散りばめ、金細工を施した繊細で美しいその箱は、この目覚めたばかりの男が眠る直前まで懐に入れていた物と酷似していた。
男は慌てて己の懐に手を突っ込む。案の定、そこにあるべきはずの宝石箱が無い。
(まさか、まさか、まさかぁぁぁ!)
男が物陰で青ざめていると、ゴロツキの一人がスロースに訊ねた。
「おや、スロースの旦那。その綺麗な箱はなんなんです? それもご自慢の魔導具で?」
「あぁ、こりゃぁ、そこに転がってる死体から頂戴したんだ。貧相な身なりの割にイイモン持って……」
「それ、おれのーーーっ!」
思わず叫び、彼は慌てて己の口を塞いだ……が、時既に遅し。
あっ、と思った時には、二丁拳銃の女傭兵が、その銃口をこちらに向けていた。
ひぃっと息をのみつつ、彼は震える声を絞り出す。
「あのぅ、おれ、死体じゃないので……その箱、返してもらえると、嬉しいな〜って……」
男の必死の懇願に、スロースはヤニばんだ歯を見せて笑った。
「なんだ、こんなところでピクリともせず寝てるから、行き倒れの浮浪者かと思ったぜ」
「……箱、返してくれる?」
可愛らしく小首を傾げて上目遣いをしてみたが、三十路前の男がやっても可愛げなどあるはずがない。
スロースはゲラゲラと笑って、荷物袋から取り出した宝石箱を見せつける。
「おいおい、これは俺が拾った物だぜ。お前の物だっていう証拠はあるのかよ?」
「な、名前は書いてないけどぉ……でも、返しておくれよぉ……大事な物なんだよぉ……」
「ほぅ? こんな立派なモンを持ってるなんて、さぞかし名のある家のお坊ちゃんなんだろうなぁ……今まで何一つ苦労せず育ってきたんじゃないか? んん? 俺ぁ、苦労知らずのボンボンが嫌いなんだ。そういう奴を見ると、ついつい薬漬けにして売っ払いたくなっちまう」
「ボ、ボンボンってなに? おれは、ただのセオドアだよぅ。返しておくれよぅ」
スロースはいやらしく目を細めながら歩み寄る。
そして、たくさんの指輪をはめた大きな手で、バシバシと乱暴にセオドアの肩を叩いた。
「よーし、セオドア。じゃあこうしよう。お前はこれから、俺の傘下にある店で働くんだ。汗水垂らして働いて、金を貯めたら、この箱を返してやろうじゃないか」
セオドアはビクビクしながら、スロースを見上げる。
「ほ、本当に、おまえの言うとおりにしたら、返してくれる?」
「『おまえ』だぁ? あぁ!? どうやら、お坊ちゃんは口の利き方から学ばないといけないらしいなぁ!」
殊更大きな声を出すスロースに、セオドアは涙目で震えあがった。
そんなセオドアの様子にスロースは満足そうに笑い、そばに控えていた女傭兵に言いつける。
「おい、ヴェロニカ。ダヤンの店が人手不足だって言ってたろ。そこに放り込んどけ」
「了解……ついて来い」
ヴェロニカと呼ばれた女傭兵が、セオドアの服の首根っこを掴んで歩きだす。
セオドアは「痛い、痛いよぅ」と泣き言を口にしながら、ヴェロニカに引きずられていった。
* * *
〈沈黙の魔女〉の寝室に置かれたカゴの中で、ウォーガンの黒竜もといネロは冬眠から目覚めた。
「にゃっふぁぁぁ、あー、よく寝たよく寝た」
ネロは黒猫姿のままカゴからピョコンと飛び降りると、器用に前足で扉を押して廊下に出る。
きっとモニカは下の階にいるのだろう。今日は、あの料理上手の弟子は来ているのだろうか。
(キラキラがいたら、寝起きに美味い飯にありつけるんだけどなぁ)
そんなことを考えつつ階段に近づいたネロは、下の階から話し声が聞こえることに気がついた。だが、聞こえてくる声はモニカの声じゃない上に、なにやら声をひそめているのだ。怪しい。
ネロが足音を殺して階段を降りると、玄関先にアイザックとグレンの姿が見えた。
グレンは鞄から紙包みを取り出すと、それをアイザックに差し出す。
ところでグレンと言えば「声デカ」である。ところがグレンは、彼らしからぬヒソヒソ声でアイザックにこう言った。
「会長、これ……例のブツっす」
「あぁ、随分と質が良いね。香りが違う」
「へっへっへ。これを使えば、もう一発で幸せになれちゃうっすよ」
ネロは衝撃を受けた。にゃんてこった。
(オレ様、ヤバイ取引の現場を目撃しちまったぜ……!!)
やがてグレンは帰っていき、アイザックはキッチンにこもって料理の準備を始める。
まさか、今の取引で手に入れた怪しさ満点のブツを料理に混ぜる気か。
ネロがテーブルの陰からアイザックの様子を窺っていると、玄関の扉が開いた。モニカが帰ってきたのだ。
モニカは珍しく華やかなローブを身につけていた。どうやら遠出をしていたらしい。化粧をした顔は真っ青で、なんだか具合が悪そうだった。
「おかえり、モニカ。顔色が悪いけど、大丈夫かい?」
「……あ、はい、ちょっと馬車酔いしちゃって……」
「着替えたら横になった方がいい。食事は、今夜は軽い物にしておこう」
モニカは「すみません……」と小声で言い、そそくさと部屋に引きこもる。
心配そうにモニカを見送っていたアイザックは「おや」と呟いて、テーブルの陰に隠れているネロを見た。
「やぁ、起きていたのかい?」
「おい、キラキラ。オレ様見たぞ」
「何を?」
どうやら惚けるつもりらしい。
ネロはビシリと前足でアイザックをさす。
「お前、声デカとヤバい薬を取引してただろう! それをモニカの飯に盛るつもりだな!」
「………………薬?」
アイザックはネロの言葉に首を捻っていたが、やがてポンと手を叩くと、キッチンから紙包みを持って戻ってきた。
包みの中身は赤と黒の粉末だ。ふわりと漂うのは、食欲を誘う香り……。
「ダドリー家秘伝のスパイス。試験勉強を見たお礼にって、持ってきてくれたんだ」
「…………」
「モニカは羊肉が苦手だから、これで臭みを取ろうと思って」
「…………」
ネロはアイザックをさしていた前足を下ろす。
そして、数秒前のやりとりなど無かったかのような態度で言い放った。
「そういや冬眠明けで腹減ったな。おいキラキラ、飯」
ふてぶてしい態度を崩さぬネロに、アイザックはスパイスの包みをしまいながら言う。
「残念でした。今夜は消化に優しいスープって決めたんだ」
「肉! 肉! 肉!」
「すまないね。誰かさんに冤罪をかけられたショックで、肉が喉を通りそうもないんだ」
「処刑されそうになっても飯食ってた奴が何言ってんだ!?」
肉ー肉ー! と主張するネロに、アイザックはくつくつ笑いながら、キッチンへ戻っていった。




