【11】NOT使用人
それはまだ、ラナがモニカと知り合ったばかりの頃。
モニカのダンスの練習を手伝っていたラナは、フェリクス殿下のスカーフの刺繍が気になって気になって仕方がなかった。
──あぁ、もっと近くで、あの刺繍を見たかった!
ダンスの練習の後にラナがそう口にすると、モニカは突然筆記用具を取り出して、手元の紙に刺繍の模様を描きだし、モジモジしながら「……これ」とラナに差し出してくれた。
『すごい! すごいわ! 素敵!』
『うん、と、とても素敵な図形……刺繍、だと思う』
ポソポソと小声で言うモニカに、ラナは違う違うと首を横に振り、モニカの顔を覗き込んだ。
『刺繍の柄のことじゃなくて、貴女のことよ!』
『……へ?』
『貴女って、絵が上手いのね! しかも、あんな短時間で模様を覚えるなんて、すごいわ!』
ラナがそう褒めちぎると、モニカは真っ赤になって俯き、それでも小さく小さく微笑んでいた。
まだ、ラナがモニカの正体を知る前の出来事だ。
そういう出来事を思い出すたびに、七賢人だろうと大天才だろうと、モニカはモニカなのだと思う。
恥ずかしそうに、でも嬉しそうに、控えめに笑う顔は、今も昔も変わらない。
* * *
真新しい紙の上にモニカがサラサラと羽ペンを走らせ、資料も見ずに精緻な紋様を描き込んでいく。恐ろしいことに、その手は一つの図案を描き終えるまで、殆ど止まることがない。
(すごい……!)
驚くラナの前で、図案が一つ描きあがる。
ラナは受け取った図案をまじまじと眺めた。とても短時間で描きあげたとは思えない出来栄えだ。
ラナは感心しながら、モニカが描きあげた図案をどんどん机に並べて、ローブのデザインと合わせていく。
それをアントニーとテオドール兄弟が、横からヒョイと覗きこんだ。
「おぉう、あんなに幼く見えるのに、大したものだな」
「うん、すごいねぇ。本当に全部、頭の中に入ってるんだ」
素直に感心しているアントニーとテオドール兄弟の横では、ポロックが厳しい顔で唇を引きむすび、モニカの仕事ぶりを凝視している。
その顔に酒精の名残はなく、鋭い眼光は一流の職人のそれだ。
ラナはポロックの目の鋭さに緊張しつつ、モニカが描きあげた図案の中からイメージに近い物を慎重に選ぶ。
モニカは記憶にある千三百以上の図面を無秩序に描いているわけではなく、ラナが当初使う予定だった案に近いデザインの物を選んでくれている。だから、選ぶのは然程苦労しなかった。
「モニカ、この紋様に似た形で、もう少し大きめのものはある?」
ラナの問いに、モニカは手を動かしながら頷く。
「該当する紋様が七十三……他に条件はある?」
「角の部分は直線的にできるものがいいわ。あと、ここの線は途切れないようにしたいの」
「該当する紋様が十七……ちょっと待ってて」
ラナの要望に応えるモニカの声は淀みはない。そうして口を動かしながらも、モニカは次々と図案を描きあげていく。
その一つを見て、ラナは「これだわ!」と声をあげた。
「これ! この図案を胸元の刺繍に使いたいわ。色は赤系の糸で……」
「おっと、嬢ちゃん。また勉強不足が露呈したな」
喜ぶラナに水を差すように、ポロックが意地の悪い顔で口を挟んだ。
「そいつは〈ウルカ族〉の紋様だ。〈ウルカ族〉にとって血は忌むべきもの。故に〈ウルカ族〉は身につける物に、血の赤を使わなかった。これは魔法史を少しかじれば分かることだろ」
「……うぅっ」
ポロックの指摘にラナが唇を曲げて黙り込むと、モニカが羽ペンを動かしながら静かに言う。
「いいえ。魔法史の権威であるスケルディング教授が半年前に発表した論文で、〈ウルカ族〉が信仰していたヴェーユという神が、火の精霊王フレム・ブレムと同一のものであると指摘しています。だから、火の精霊王を表す赤色は神の色として重んじられてきたと考えられます。〈ウルカ族〉は赤を意味する言葉が五十以上あって、火の赤と血の赤は別物なので、血の赤を避ければ問題ありません」
ポロックが片眉を持ち上げて「ほぅ?」と呟きモニカを見る。
どうやらポロックは、同じ赤でも「火の赤」に近い色なら、問題ないと分かっていた上で、ラナを試すように口を挟んだらしい。そして、モニカはそれを即座に看破したのだ。
モニカは羽ペンを動かす手を止めると顔を上げて、ラナを見る。
「刺繍糸のサンプルはある、かな? オレンジがかった赤や、赤銅色なら問題なく使えるはず……特に赤銅は〈ウルカ族〉にとって身近な物で、民芸品でも多く使われている色だから、丁度良いと思う」
「分かったわ、ちょっと待ってて」
ラナはクリフォードに手伝わせ、刺繍糸のサンプルを収納した箱を机に並べる。
薄い木箱には微妙に色味の違う金糸、銀糸がずらりと並んでいた。その中のいくつかをモニカは指で示す。
「これと、あとこっちも……この色の糸なら、使っても問題ない、はず」
「なら、三十八番の糸がいいわ。一番イメージに近い」
ラナの言葉に、クリフォードが口を挟んだ。
「ラナ、赤みがかった色の金糸は、在庫が少ない。特にこの手の特殊色の金糸はタリス商会が独占しているから、手に入れるのに時間がかかる」
「大丈夫。タリス商会の商会長はラトリッジ夫人に頭が上がらないの。ラトリッジ夫人にはこの間、絹織物を融通してコネを作ったから。そこ経由で金糸を融通してもらうわ」
コネっていうのは、こういう時のためにあるのよ! とラナは胸を張る。
なにもラナは道楽でサロンに出入りしているわけではない。サロンに出入りして流行を調査し、同時にサザンドールの富豪との繋がりを、少しずつ築いてきたのだ。
「さぁ、胸元の刺繍は決まったわ! 次は袖口を決めるわよ!」
刺繍職人のポロックは、モニカとラナの作業をしばし黙ってみていたが、やがてフンと鼻を鳴らすと、部屋の隅にあるソファに座り、酒瓶を取り出した。
そうして、手持ち無沙汰にしているアントニーとテオドール兄弟を手招きする。
「どうやら俺が口を挟む必要はないらしい。デザイン案が仕上がるまで、酒盛りに付き合えや、兄ちゃん達」
「ふむ、では、ご相伴にあずかろう」
ウキウキとした様子を隠そうともせず、酒瓶を受け取るアントニーに、テオドールがおっとりと首を傾げる。
「ねぇ、兄さん。ボク達、ここにいていいのかな」
至極真っ当な意見であった。
なにせこの兄弟、なんとなくポロック氏に意気投合して、ついてきてしまったが、この場にいる理由が何もないのである。
だが、アントニーは酒瓶から直接酒を一口呷ると、もっともらしい口調で言い放った。
「テオドールよ。一度でも共に酒を飲み交わせば、その者は友人だ。そこに国境も年齢も関係ない」
「つまり、お酒を飲みたいんだね」
「うむ。ところで、そこの眼鏡の御仁よ。すまぬがツマミは無いのか? できれば腹に溜まるやつがいい」
アントニーの言葉に、刺繍糸のサンプルを片付けていたクリフォードは手を止める。
そして、眼鏡の奥の灰色の目で、ジトリとアントニーを見返した。
「ボクは給仕役じゃない。そういうことは、あの使用人らしき男に頼んでくれ。キッチンで暇を持て余しているようだった」




