【7】僕の好きなもの
友人と使い魔の道ならぬ恋疑惑に動転していたモニカだったが、アイザックの言葉で落ち着きを取り戻したらしい。今は、椅子にちんまりと座って、アイザックが作ったレモネードをチビチビと飲んでいる。
そんなモニカを横目に眺めつつ、アイザックは持参した食材で夕食の準備を始めることにした。
今日のメイン食材は白身の魚である。アイザックは手際良く魚を捌き、身とアラに分けると、アラを冷水に晒した。
「アイク、今日は何を作るんですか?」
レモネードを飲み終えたモニカが、グラスを洗いながらアイザックに訊ねる。
アイザックは野菜を刻みながら、それに答えた。
「アラは野菜と一緒に煮込んで漉してスープに……身は、どうしようかな」
「あの、あの……」
モニカはもじもじと指をこねながら、親におねだりする子どものように、上目遣いにアイザックを見た。
「わたし……お魚のソテーが食べたい、です」
モニカがこの手のリクエストをすることは珍しかった。基本的にモニカは出された物は何でも文句を言わず食べる。
思えばセレンディア学園にいた頃から、モニカはおねだりの苦手な少女だった。おねだり以前に、人に何かを頼むのが苦手だったのだろう。
そんなモニカからの貴重なリクエストに、アイザックは目尻を下げて笑う。
「うん、そうだね。今日はバターでソテーにしよう。仕上げに君が好きなレモンを添えて」
「……! アイク、知ってたんですか。私が、レモンとバターのお魚好きなの」
「勿論」
モニカは出された物は何でも食べるけれど、ちゃんと好みがあることをアイザックは知っていた。
なにせモニカは好きな食べ物は分かりやすく後にとっておいて、大事に大事に食べるのだ。
「わたし、塩漬けとか燻製じゃないお魚、あんまり食べたことなくて……セレンディア学園で食べて、ちょっと感動したんです」
「あぁ、最近は氷の魔術を使った運輸技術が発達してるからね」
氷魔術を使った生鮮食品や薬品の保存・輸送技術は近年飛躍的に発達したが、それでも当然割高になる。
故に新鮮な肉や魚を食べられるのは、セレンディア学園に通うような上流階級の人間の特権であった。
海から遠い農村では、塩漬けにした海産物でも贅沢品である。
モニカはしばらく山奥で暮らしていたというし、新鮮な海産物を口にする機会がなかったのだろう。
(ネロは冬眠中だし、しばらくは魚料理尽くしにしようかな)
あの黒竜は、猫に化けているくせに魚が好きではないのだ。そのせいで、ネロが起きている時は肉料理がメインになることが多い。
「アイク、アイク」
「うん?」
「アイクは、食べ物は、何が好きなんですか?」
モニカが自分に関心を持ってくれた。自分の好きな物を知りたいと思ってくれた。
そんな些細なことがアイザックには嬉しい。
だが、モニカの問いに答えようとして、アイザックの舌は凍りつく。
──好きな食べ物を思い浮かべようとしたのに、何も思い浮かばなかったのだ。
(……アークの好き嫌いなら覚えてる。肉も魚も野菜も苦手。果物が好き。でも基本的に少食で、いつも食事を食べきれず、メソメソ泣いていた)
入れ替わったばかりの頃は「フェリクス殿下は病気」ということになっていたので、アイザックは周囲に疑われぬよう、量の少ない病人食を食べなくてはならなかった。
健康になったということで社交界デビューしてからも、少食だったフェリクス殿下が突然大食漢になっていては不自然だから、量を制限する必要があったのだ。
極端な好き嫌いは疑いを招く。だから、何を出されても均等に口をつけるのが一番無難なやり口だった。
完璧な第二王子を演じるのに、アイザック・ウォーカーの好みなど邪魔なだけだ。
もし「殿下の好きな食べ物は何ですか?」と訊かれたら、相手の好物なり、その土地の物なりを答えればいい。そうすれば話題作りができるし、相手の印象を良くできる。
……そういう生き方を十年近く続けてきた彼は、自分の好物なんて、もうすっかり忘れていたのだ。
アイザックは目を閉じ、ゆっくりと己の記憶を辿る。
好きな物、心動く物、幼い頃の彼の好物。
「……どっちかというと、肉料理が好きかな。祭りの日に、串焼きを買ってもらうのを、楽しみにしてた」
「あっ、昔、セレンディア学園の裏庭で、グレンさん達と串焼き食べましたよね! えっと、ダンスの試験に合格した後」
「正直に言うと、あの時はあと三本ぐらい欲しかったな。王子様が食いしん坊だなんて、あまり格好がつかないから我慢したけど」
アイザックが冗談めかして言うと、モニカは驚いたように目を丸くした。
「アイクは、食いしん坊だったんですね」
「普通だよ。ダドリー君と同じぐらいだ」
「わたしから見たら、グレンさんは、たくさん食べる人です」
いつも元気なグレン・ダドリー君の口癖は「肉を食べないと元気が出ないっす!」
その口癖に、アイザックは密かに共感していた。できれば、肉はお腹いっぱい食べたい。
「あの、アイク……えっと、この家では好きな物、我慢しなくていいんです。好きなだけ食べてください、ね?」
懸命に言葉を絞りだすモニカに、アイザックは柔らかく目を細めて笑う。
──例え全てを失っても、こうしてアイザック・ウォーカーとして居られる場所がある。
忘れてしまった「好きな物」を一つずつ思い出して、時に新しく見つけて、そしてこのテーブルいっぱいに並べよう。モニカの好物と一緒に。
(それはきっと……とても、幸せな食卓だ)
そんな思いを噛み締めながら、アイザックは食器棚を開ける。
「……あれ? ティーカップ、新しいのが増えてるね」
「あっ、そう、そうなんです! わたし、カップを一つ割っちゃって……それで、ラナと一緒にお買い物して!」
モニカは手をパタパタと動かしながら、ラナと一緒に買い物をしたこと、一緒に食べた揚げパイが美味しかったことを報告する。
それを幸せな気持ちで聞きながら、アイザックはスープ鍋をかき混ぜた。
* * *
白身魚のレモンバターソテーと、魚のアラと野菜でダシをとったスープ、それと柔らかなパンと、焼いたリンゴ。
モニカがアイザックの手料理に舌鼓を打って、新しいティーカップで食後の紅茶を飲んでいると、ドンドンと乱暴にノッカーを叩く音がした。
モニカが椅子から腰を浮かせると、アイザックが片手をあげてモニカを止める。
「僕が出るよ」
「でも、あの……」
「うん、わかってる」
〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレットが、サザンドールに暮らしていることを知る者は少ない。
弟子入り志願者や、ヒューバード・ディーのような無法者に押しかけられるのを防ぐため、モニカ宛の郵便物はリディル王国城の〈翡翠の間〉から、サザンドールに送ってもらっているのだ。
そして、この家を訪れるモニカの友人達なら、日が暮れてから訪れるなら事前に連絡をよこすし、扉の向こう側から名乗りをあげる。
アイザックは目線だけを動かして、部屋の隅に置いてある自身の荷物を見た。彼は護身用にと猟銃を持ち込んでいるのだ。
アイザックはしばし迷っているようだったが、結局猟銃は持たず、扉の向こう側に声をかけた。
「どちら様かな?」
「フラックス商会の者だ」
その起伏に乏しい声をモニカは覚えている。あれは、ラナの秘書のクリフォード・アンダーソンの声だ。
モニカは立ち上がり、アイザックに声をかけた。
「お昼に会った、ラナの秘書さんです……ラナに、何かあったのかな」
「……ふぅん?」
アイザックが片眉を動かして怪訝そうな顔をしつつ、扉を開ける。
扉の向こう側に佇んでいるのは、癖の強い黒髪を束ね、顔の半分を覆うような丸眼鏡をかけた青年──クリフォード・アンダーソン。
クリフォードはモニカとアイザックを交互に見ると、何故か家主のモニカではなくアイザックの方に向き直った。
「お前が、バーソロミュー・アレクサンダーか」
盛大な人違いである。
アイザックが否定の言葉を口にしようとし、ハッと顔を強張らせた。少し遅れて、モニカもその理由に気づく。
クリフォードの右手には、短銃が握られていた。銃口が向けられた先は──アイザックの心臓だ。
青ざめるモニカとアイザックに、クリフォードは微塵も感情を感じさせない声で、告げた。
「ラナはどこにいる」




