【おまけ】ヴァルムベルクにて
リディル王国から帰国したヴァルムベルク辺境伯ヘンリック・ブランケは、己の机の上に築かれた書類の山に、がっくりと肩を落とした。
領主が留守にするともなれば領主代行を置くのが当然だが、今まで領主代行を務めていたのが、他でもない妹のフリーダだったのである。
そのフリーダがいない今、留守中に仕事が溜まるのも当然だった。
祖父はひがな一日、若者を捕まえては武勇伝を語るのに忙しく、父親はさっさと息子に爵位を譲って夫婦で遠征に出る始末。
他家に奉公に出ている弟達が帰ってきたら、仕事を手伝ってもらおう……と心に誓いつつ、ヘンリックは書類の山に目を通す。
「坊っちゃん、坊っちゃん」
開けっぱなしにしていた扉から、焦茶の髪をひっつめた初老の女が顔をのぞかせる。厨房係のエッダだ。
「どうしたんだい、エッダ?」
「お友達がお見えですよ」
「…………友達?」
友人がいない訳ではないのだが、事前の連絡も無しに押しかけてくる不躾な友人には心当たりがない。
眉をひそめるヘンリックに、エッダは人の良さそうな顔でニコニコしながら「こちらの方ですよ」とその客人を通した。
「よぉ、ヘンリック」
気さくに片手をあげて笑う男を見た瞬間、ヘンリックは全力で顔をしかめた。具体的には顔のパーツが全部中央によるぐらいに。
客人の名は、アインハルト・ベルガー。
帝国騎士団では、知らぬ者はいない有名人だ。
色の濃い金色の巻き毛に、整った顔立ち。スラリと長い手足。
剣の腕もたち、所属はエリートしか選ばれない近衛騎士団。帝国の若い令嬢達は皆、彼に夢中なのだという。
だが、ヘンリックはこの男に対して、あまり良い思い出がない。
ヘンリックが騎士団に所属していた頃、近衛騎士団に抜擢される前のアインハルトも同じ隊の所属だったのだが、アインハルトはことあるごとにヘンリックに絡んできたのだ。
農民紛いの貧乏貴族だの、ヴァルムベルクの戦狼の孫がこれとは嘆かわしいだの。
どうやら、剣の訓練で一度もヘンリックに勝てなかったことを逆恨みしているらしい。
「エッダ、そいつはお友達じゃないから、追い返していいよ」
「ほぅ? こんな田舎まで出向いてやった俺を追い返すのか? それにしても小汚い城だな。城持ち領主と言えど、肝心の城がこれでは何も自慢にならんぞ」
アインハルトは室内を見回して、嫌みったらしく肩をすくめて笑った。つくづく鼻もちならない男である。
「別に城を自慢する気なんてないよ。元々うちの城は、非常事態の避難場所にするために作られたものなんだから……それで、お忙しい近衛騎士様が、こんな辺境くんだりまで何しに来たのさ」
「おうおう、随分な言い草じゃないか。未来の義弟に向かって」
「はぁ?」
ヘンリックは胡乱な目でアインハルトを見る。
アインハルトはなにやら笑いを堪えきれないような顔で、口をニヤニヤさせながら顎を撫でていた。
「今日もフリーダは掃除中か? まったく。伯爵の妹君がメイドの真似事なんて、俺の屋敷じゃ考えられない……」
「フリーダなら、リディル王国だよ」
アインハルトはキョトンと目を丸くした。彼はヘンリックと同じ二十六歳なのだが、そういう表情をしていると、いくらか幼く見える。
アインハルトは首を右に傾け、訊ねた。
「……なんで?」
「婚約者の家に滞在してるんだ。諸々の手続きが終わったら、一旦こっちに帰ってきて、正式に嫁入り……」
「……婚約者って?」
「リディル王国のオルブライト卿」
ヘンリックの言葉に、アインハルトは顎が外れるんじゃないかというぐらい大きく口を開けた。
色男が台無しである。
「は、ぁ、ぁあああああ!? 俺、送ったよな!? 婚約申し込みする手紙!!」
「あの『お前の妹を嫁にしてやらなくもない。精々可愛がってやるから喜ぶんだな』とかいうあれ? 速攻で暖炉行きになったけど」
「ばっっっかじゃねーの!? このアインハルト・ベルガーだぞ! 女の子なら誰もが憧れる黄金の騎士様だぞ!?」
「それ、自分で言っててちょっと恥ずかしくない?」
アインハルトは鼻白むように黙りこんだ。どうやら自分でも、ちょっぴり恥ずかしいなーと思っていたらしい。
「直接、オルブライト卿と顔を合わせてきた。ボクとしては不満も不安もあるけど、フリーダのこと大事にしてくれるみたいだからさ。少なくとも君よりマシ。全然マシ」
「おっまえ、ほんっとバカ! ぶぁーか! ぶぁーか! この大うつけめ! こんな良い男がいるのに、妹を他国に嫁がせるとか!」
突然ワァワァと喚きだしたアインハルトに、ヘンリックはキョトンと瞬きをした。
この反応は、もしや、もしや……。
「……もしかして、あの婚約の手紙……本気だったの?」
「家紋付きの手紙だったろーが!!」
「手の込んだ嫌がらせだなーって思ってたよ」
ヘンリックがサラリと返せば、アインハルトは膝から崩れ落ちた。その背中には、失恋した者特有の哀愁が漂っている。
人の良いヘンリックが、流石に少し可哀想だったかなぁ、と同情の目を向けると、アインハルトはガバッと顔を上げ、ヘンリックの執務机にズンズンと詰め寄った。
「こうなったら、今日は飲むぞ。とことん飲むぞ。オラ、お前んとこの領地に金を落としていってやるから、付き合え!」
「嫌だよ。それに、溜まってた仕事を片付けるので忙しいんだ」
「はんっ! こんな辺鄙な田舎領主の仕事が大変なわけあるか! ……うん?」
アインハルトは机に出しっぱなしになっていた書類の一枚に視線を落とす。
作物の出来栄えだの、牛のお産の経過だのといった報告書に紛れて、一つだけ明らかに異質な書類があるのだ。
「……リディル王国との同盟案?」
「勝手に見ないでくれる? まだ陛下にも見せてないんだからさ」
竜害対策のための同盟案は、ヘンリックがリディル王国に滞在中、かの国の第三王子から提案されたものである。
実際には、同盟の言い出しっぺが第三王子というわけではないのだろう。誰かが裏で手を回して、第三王子にその案件を回したと考えるのが妥当か。
おそらくは、〈星詠みの魔女〉の屋敷に招待されていた、第二王子だろう。彼は数年前の事件がきっかけで体調を崩しており、今は領地に引きこもって療養中だと言われている。
(まぁ、とても体調を崩しているようには見えなかったけど)
実に王族らしい堂々とした振る舞いもそうだが、何より足捌きが武術の心得のある人間のそれだった。
一度、手合わせ願いたいものだ、とヘンリックは密かに思っている。
「とにかく、この同盟の話は、まだ正式決定ってわけじゃないんだ。持って帰って、陛下に相談してみてくれって言われてるだけで……」
「向こうの提案者は第三王子のアルバート殿下か」
勝手に書類に目を通したアインハルトは、腕組みをしながら何かを思い出すような素振りをした。
「アルバート殿下付きの外交秘書官が、すんごい美人なんだよな。一度近くで見たが、あれは俺が今まで見た中で三本指に入るな」
「さっき、婚約断られて喚いてた奴の台詞じゃないよね、それ」
白い目を向けるヘンリックに、アインハルトはフンと鼻を鳴らす。
「馬鹿野郎、失恋の痛みは新しい恋で癒すしかないだろうが……とはいえ、あの美人秘書官はうちの陛下のお気に入りらしいからな。間違っても手を出すなよ。首が飛ぶぞ」
ニヤニヤ笑いを浮かべているアインハルトに、ヘンリックはどうでも良さそうに答えた。
「出さないよ、君じゃないんだから」
「おぅ、表に出ろ」




