【19】支えられたり、支えたり
シリルの右手中指に戻ってきた〈識守の鍵ソフォクレス〉が強い輝きを放った。
シリルはその場にしゃがみ込み、指先で地面に触れる。すると、触れたところから、指輪の輝きが染み渡っていくかのように、地面が白く発光した。
「〈識守の鍵ソフォクレス〉の契約者シリル・アシュリーが命じる。書と現の狭間を切り取りて、ここに修復室を展開せよ!」
地面に広がった輝きは、小部屋一つ分ほどに広がったところで、ピタリと止まった。
それは、さほど広くはない立方体の防御結界だ。一辺あたりが、シリルの足で十歩分にも満たない。
モニカが「あっ」と声をあげた。
「この空間に閉じ込められた時から感じてた、油膜に覆われてるみたいな違和感が……なくなり、ました」
そう言ってモニカは、無詠唱魔術で火を起こす。この中だと、魔術は問題なく使えるらしい。
それを見たラウルが、納得いかなそうな顔で言う。
「じゃあ、最初からこの修復室を展開して、この中でオレとモニカが魔術を使えば良かったんじゃ……」
『修復室の展開には、条件があるのだ。気軽にポンポン展開できたら、苦労はせんわ!』
ソフォクレスの言葉は正しい。本来、改竄された本は、簡単に修復措置をしない。改竄された部分もまた歴史の一部であり、本の一部であると考える者もいるためだ。
故に、改竄された本が見つかった場合、修復措置が必要かを吟味した上で、必要と判断された場合のみ修復の専門家に引き渡される。
今回のケースは、本を破壊するか、修復しないと脱出できないから、やむをえず行う緊急措置なのだ。
『シリルよ、まずは本の確認だ。取り出すぞ』
「分かった」
地面に触れた指先に全神経を集中し、小さなとっかかりを探す。魔力が固まっているような部分が、確かにあった。それを掴んで、引き上げる。
すると、地面に埋め込まれていた本を引き抜いたかのように、白く光り輝く本が現れた。
この本は、『植物標本庭園』を、擬似的に再現したものだ。いわば、この世界の分身と言っていい。
シリルは立ち上がると、掴んだ本を前に掲げる。本がひとりでに開き、宙に浮かび上がって静止した。
シリルは熟読した手順書を思い出す。
「まずは、解体」
シリルがスイッと指を横に一振りすると、開いた本が空中でバラバラに広がった。
ページの一枚一枚が宙に浮かび上がり、シリルの指の動きを追いかけるように整列する。
漆黒の指輪が、ピカピカと黄色く点滅した。
『さぁ、大変なのはここからであるぞ。お前はこの中から、改竄されたページを見つけ出し、切断、封印措置をしなくてはならない』
宙に浮かぶページの一枚一枚には、シリルには分からない魔術式がビッシリと書き込まれている。
この中から、改竄されたページを探しだす──口にすると簡単だが、改竄の特定は知識、技術、経験が問われ、非常に時間のかかる作業だ。
本来必要なページまで切り離してしまったら、目も当てられない。
(それでも、やり遂げなくては)
その時、シリル達を追いかけてきた黄色い薔薇が木々の向こう側から姿を見せた。
それと、この『植物標本庭園』の管理人である子どもの影も。
『魔女様、魔女様、おかえりなさい……神様は、見つかりましたか?』
あの影は自分達を──正確には、ラウルを追いかけてきたのだ。
黄色い薔薇が、修復室に侵入しようと押し寄せてきた。だが、修復室には一応、防御結界としての機能があるらしい。修復室を覆う透明な壁が、黄色い薔薇の攻撃を弾く。
ソフォクレスが、いつもよりやや早口に言った。
『この修復室の壁は、さほど強度はない。耐えられる時間には限りがあるのだ。急ぐであるぞ』
黄色い薔薇や、周囲の木々が枝を伸ばして、修復室に攻撃をしかける。
〈識守の鍵ソフォクレス〉の契約者であるシリルは、指輪を通じて、修復室の結界が軋んでいることを察した。確かに、このままではいずれ、修復室は破壊されて、黄色い薔薇が雪崩れ込んでくる。
その時、風の刃が黄色い薔薇や木の枝を、容赦なく切り裂いた。モニカの無詠唱魔術だ。この修復室の中にいれば、モニカは魔術が使えるのだ。
「修復作業の邪魔は、させません」
モニカの声は、静かで、そして力強かった。
(モニカが、私を信じてくれている……絶対に修復作業を成功させなくては)
シリルは目の前に広がるページの一枚一枚に、指先で触れた。紙面に触れ、そして綴じる側の側面を慎重に指でなぞる。
シリルには、旧時代の禁書作りの技術は分からない。だから、本を構成する魔力の性質に触れて確かめることで、改竄箇所を探すしかないのだ。
それは、本作りに使われた紙や糊の違いを、指先で触って確かめるのに似ている。
(……集中しろ。集中して、魔力の性質の違いを探し当てろ)
こういう作業をしていると、子どもの頃、母の手伝いで糸紡ぎをしたことを思い出す。
指先に意識を集中して、ダマやムラができぬよう丁寧に──この作業はそれに似ていた。
酷く地道な作業だ。それでも地道な作業ができなければ、図書館学会役員は務まらない。
(六九ページ、一一七ページから一二〇ページ、二○三ページ……魔力の質が、違う……気がする)
だが、「気がする」というだけで、簡単に結論を出して良いのだろうか、と不安がよぎる。
そもそも、『植物標本庭園』は作られてから、相当な年月が経過しているのだ。魔力の性質が変化している可能性はないだろうか?
繰り返し魔力の質を確かめていると、ここも気になる、あれも気になる、と気になる部分が幾つも出てくる。
自信がない時、不安な時、シリルは過剰に見直しをしたがる癖があった。
(他に、見落としているものはないか……いや駄目だ。今はゆっくり見直している時間など……)
見直しをしたい。だが、黄色い薔薇は、もはや雪崩のような勢いで迫ってきている。
──急げ。だが正確に。急げ。だが、間違いがあってはいけない。急げ、急げ、急げ……。
シリルが眉間に深い皺を刻んで、分解したページを睨んでいると、誰かが横に立った。
モニカだ。
「モニカ?」
シリルが声をかけてもモニカは反応しない。分解したページに記された魔術式を無表情に眺めている。
時折、背後を気にしては、無詠唱魔術で風を操り黄色の薔薇を牽制。そしてまた、ページを確認して、いくつかのページを指差す。
「ここと、ここ、違和感があります」
「まさか……これが、読めるのか?」
「いいえ」
モニカはまた背後を牽制するよう、黄色薔薇に風の刃を放ち、そして魔術式を睨む。
「この魔術式、全部は解読できないので、部分的に数字に置き換えて、法則性を探しました。その法則を無視している箇所が、ここです……あと、このページも」
シリルは思わず息を止めて、モニカが指摘した箇所を目で追った。
正直、何も分からない。だが、モニカはそこに違和感があるのだと言う。
そして恐ろしいことに、モニカが指摘したページは、シリルが指先で触れて、魔力の質に違和感を覚えたページと一致するのだ。
モニカが指摘したページを、指先で触れて再確認。他のページと比較すると、違和感はより際立つ。
(いける)
不安でぐらついた背中を、小さな手が支えてくれたみたいだ。
ふと、いつだったかモニカがくれた言葉が頭に蘇る。
──わたしも、シリル様に、頼られるように、なりたい、ですっ。
シリルは指先でページを確かめながら、口の端を小さく持ち上げた。
「モニカ」
「はい」
「頼りにしている」
「……はいっ!」
シリルの横で、モニカが丸い目をキラキラさせて頷く。
この状況では不謹慎なので絶対に言えないが、可愛い、と素直に思った。
* * *
シリルが『植物標本庭園』の修復作業をし、モニカがそれを補佐しながら、無詠唱魔術で敵を牽制する──その光景を見つめるラウルの背中に、無力感がズンと重くのしかかる。
シリルもモニカも、自分にできるやり方で、全力で戦っている。
それなのに、どうして自分は何もできないまま、突っ立っているのだろう。
(……ポケットに、薔薇の種はもうない)
ラウルは、自分達に襲いかかる黄色い薔薇を見据えた。
もし、あの黄色い薔薇を操っているのが、現代の魔術師なら──それこそ、ローズバーグ家の誰かであろうと、ラウルは薔薇の主導権を奪い取る自信がある。それだけ、ラウルの魔力量は並外れているのだ。
だが、今、自分達に襲いかかってくる植物は全て、この『植物標本庭園』の物だ。自分では主導権を奪えない、という確信があった。
今までは魔力量でゴリ押せば、どうにかなったのに。
(ほんとオレって……ご先祖様とローズバーグ家の力に、頼りっぱなしだったんだな……)
ラウルは基本的に、後ろ向きなことは考えない。その方が気が楽だからだ。
それは裏返せば、後ろ向きなことから逃げていたとも言える。
無力感や卑屈さ。ずっと目を逸らしてきたものが、今になって一気に襲いかかってくる。
自分は空っぽな植木鉢で、初代〈茨の魔女〉を顕現するための器でしかないのではないかという考えが、頭にこびりついて離れない。
(……だって、オレの力で得たものなんて、何もないじゃんか)
こういう時、姉ちゃんだったら、どうするかな。とラウルは思った。
多分、姉ならラウルを小突いて、こう言う。
──なにをボサッと突っ立ってんのよ、愚弟。少しは頭を使いな!
(だってさ、姉ちゃん。難しいことは考えない方が……怖くないんだよ)
弱い自分が、すぐに言い訳をする。
ラウルだって本当は分かっているのだ。そうやって、不安や恐怖を麻痺させているだけでは、駄目なのだと。
それを教えてくれたのは、今、ラウルの目の前で頑張っている友人達なのだ。
ラウルは思い切って自分の頬をバチンと叩き、勢いよく顔を上げた。
「シリル! ちょっと、こう……甘えるな! って感じで喝を入れてくれないかな!」
「甘えるな! こっちは忙しいんだっ!」
「あっ、それそれ! ありがとな!」
ラウルは喉から息を吐くみたいに、へへっと笑った。
「モニカ! オレ、今から頑張るからさ……失敗したら、フォローしてくれるかい?」
モニカはラウルを振り向き、両手を握りしめて、キリッとした顔で頷く。
「ど……どっ……」
ど? と首を傾げるラウルに、モニカは勢いをつけて言う。
「どんとこい……ですっ!」
ラウルは、なんだかとても安心した。
モニカらしからぬ言葉選びは、きっと、彼女なりに考えた、とびきり頼もしい返事なのだ。
シリルに甘えるな、と言われたから、ラウルは腹に力を込められる。
モニカがどんとこい、と言ってくれたから、ラウルは新しいことに挑める。
ラウルは黄色い薔薇と向き合い、詠唱をした。
薔薇を操る時の詠唱とは違う、辿々しい詠唱だ。それでも、これができるようになりたくて、ラウルは密かに勉強してきたのだ。
自分の力で得たものなんて、何もないんじゃないかと不安だった──だからこそ、ラウル・ローズバーグは今、頑張っている最中なのだ。
ラウルは両手を前にかざし、意識を集中する。一つずつ、丁寧に、積み重ねるイメージで。
「防御結界、展開!」
植物を操る魔術以外も使えるようになりたかった。それならば、みんなを守れる魔術が良いと思った。
有り余る魔力を注ぎ込んで、ラウルは修復室を覆う防御結界を展開する。
それはルイスあたりが見たら鼻で笑いそうな、酷くデコボコで不恰好な結界だ。
それでも確かにその分厚い結界は、修復室をしっかりと包み込むように隙間なく展開したのだ。




