【16】森を震わす怒りの声
その森は、墓だった。
魔女が作ってくれた、少年の同胞達の墓だ。
滅びた集落で、ただ朽ちていく筈だった同胞に、魔女は墓を作ってくれたのだ。
しかも魔女は、ただ墓を作るだけでなく、少年達が崇める神様を連れてきてくれるのだという。
──その言葉の真意を知らぬまま、少年はただ喜び、魔女に感謝した。
少年に墓守を命じた魔女は、墓標代わりになる木や花の名前を教えてくれた。
少年は懸命にそれを覚えようと、木や花に触る。
「お前は目が見えない?」
「はい」
魔女は少年に、可哀想にとも、役立たずとも言わなかった。
ただ事実を確かめるような口調で「そう」と呟き、そして歌うように美しい声で詠唱をする。
少年には魔女が起こした奇跡が見えない。
それでも美しい詠唱の後、うっとりするほど良い香りが漂っていることに気がついた。少年が今まで嗅いだことのない香りだ。
「森を歩くなら、この香りを目印になさい」
「これは、なんという花ですか?」
美しい声が、花の名を紡ぐ。
ダフネ・オドラ。
ガーデニア。
そして三つ目は……。
* * *
モニカは〈識守の鍵ソフォクレス〉を嵌めた左手をギュッと握りしめ、ズンズンと森を歩く。
モニカは植物に詳しくはないが、それでも、先ほどまで青々としていた葉が枯葉色に変わっているのは分かった。
歩みを進めるほどに、花の匂いは強くなっていく。薔薇とは違う、甘い匂いだ。
やがて背の高い木々を抜けたところで、少しひらけた場所に出た。
そこにオレンジ色の小さな花を咲かせる木が、一本生えている。
木はモニカの背の倍ぐらいの高さがあるが、大木というほど太くはない。しなやかに伸びる枝には濃い緑の葉が茂り、そこに小さなオレンジ色の花が幾つも集まって咲いていた。モニカの知らない花だ。
オレンジ色の花は幾つかが落ち、地面を鮮やかに染めている。
そこに、ラウルは佇んでいた。モニカから見て右手の方向を向いていて、俯きがちの横顔は表情が見えない。
それでも、異様な空気を感じた。
何か言葉を発したわけでも、動いた訳でもなく、ただそこにいるだけで、背筋がゾクゾクするような強烈な存在感。
モニカは、強い生き物を前にした時、その手の恐怖を感じることが少ない。
ここにいるのは、ただ強いだけの生き物ではないのだ。
異質で、異形で、もっと悍ましい何か……。
「……忌々しいこと」
呟き、ラウルがゆっくりとモニカの方を振り向く。
モニカはギョッとした。ラウルの肩と首の間あたりから、薔薇の蔓が伸び、真紅の花を一輪咲かせている。まるで、ラウルを苗床にして新しい花を植え付けたかのように。
あれは良くないものだ、とモニカは直感で悟った。
ラウルは無表情に、僅かな不機嫌を滲ませていた。長い睫毛の下で緑の目が僅かに細められ、モニカの手元にある漆黒の指輪を睨む。
「お前は書庫番?」
「違い、ます」
「ローズバーグの人間?」
「い、いいえ」
「そう、残念だわ。ローズバーグなら嬲り殺してやろうと思ったのに」
ぞわり、ぞわり、とモニカの背筋が粟立つ。恐怖と、違和感に。
目の前にいるラウルは、以前、初代〈茨の魔女〉の力を借りて、薔薇要塞を操っていた時の彼に似ていた。
(でも、何かが違う、気がする)
以前、薔薇要塞を操っていた彼は、長年語り継がれている初代〈茨の魔女〉の表層的な部分が表に出たように見えた。
言うなれば、誰もが知っている、残酷で残忍な魔女だ。
だが、目の前にいるのは違う。残酷で残忍な魔女だけど、それだけじゃない。
たとえば、〈沈黙の魔女〉が、世間の評価と実態に乖離があるように、初代〈茨の魔女〉もそうだったとは考えられないだろうか?
今、自分は歴史に語られていない何かに触れているのではないか──そんな気がしてならないのだ。
「あなたは、誰、ですか?」
「…………」
「初代〈茨の魔女〉レベッカ・ローズバーグ様?」
〈茨の魔女〉は無言でモニカを見ていたが、ニィと唇の端を吊り上げて笑い、己の右手を首に添えた。
野良仕事に慣れたラウルの日に焼けた手が、自身の首にギチギチと爪を立てる。
その顔に浮かぶ本物の憎悪に、モニカは震え上がった。
「これを惨たらしく殺したら、ローズバーグはどんな顔をするかしら? 興味があってよ」
「や、やめてっ、やめてくださいっ」
今目の前にいるのは、話が通じる相手ではないのだ。ここは一度、無力化した方がいい。
モニカは無詠唱で雷の矢を作り、〈茨の魔女〉を狙った。だが、周囲の植物が伸びてきて、それを妨害する。
やはり、この『植物標本庭園』は〈茨の魔女〉の味方なのだ。
〈茨の魔女〉は雷の矢で焼け焦げた植物の蔓を撫でて、ポツリと呟く。
「つまらない魔術だこと……まるで、堅苦しい数式のよう」
モニカはムッとした。
現代魔術は数式に喩えられることがしばしある。それぐらい、完璧で美しいものなのだ。
「つまらなくないです。魔術式も数式も、綺麗、です」
恐怖も焦りも忘れて、モニカが反論すると、〈茨の魔女〉は何故か笑いだした。
ラウルみたいに大口を開けた笑い方とは違う、コロコロと喉を震わせるような笑いだ。
「お前の魔術はつまらないけれど、お前は面白いわ。詠唱破棄……いいえ、短縮を超えた無詠唱……そう。この系譜で、それを成し遂げる者が出たか」
そこで言葉を切り、〈茨の魔女〉は詠唱を口にする。
歌うような節をつけたその詠唱は、現代魔術とは異なるものだ。
モニカは雷の矢を放ち、〈茨の魔女〉を狙った。すると、周囲の植物達が自らの意思で〈茨の魔女〉を守ろうとするかのように動きだす。
そうして、植物達が一斉に集まってきたタイミングで、モニカは魔術を切り替えた。
(ここで、二重強化!)
モニカは二重強化した風の刃で、植物の蔓を一気に切り裂いた。
散り散りになった蔓の向こう側に、〈茨の魔女〉の姿が見える。
ここで仕留めるべく、モニカが意識を集中して雷の矢を放ったその時、〈茨の魔女〉は薄く笑った。
「──黒、黒、黒はお好き?」
〈茨の魔女〉が指を差し伸べる。その先端から、黒い炎が生まれた。固まりかけの血を思わせる赤みがかった黒い炎は、スルスルと伸びてモニカを狙う。
モニカの手元で、〈識守の鍵ソフォクレス〉が赤く点滅した。
『いかん! 離れろ、小娘っ!』
〈識守の鍵ソフォクレス〉は前方に防御結界を展開した。
古代魔導具が扱う防御結界なだけあって、その強度は圧倒的。並の魔術で壊せるものではない──が、魔女が放った黒い炎は、防御結界をも焼き尽くす。
(あれは、黒炎……!?)
ありとあらゆるものを焼き尽くすその炎は、黒竜だけが操るものだ。
かつては、魔術として存在したらしいが、現代では禁忌とされている。
(ラウル様は、薔薇要塞は使えても、黒炎は使えなかったはず、なのに……)
モニカはバタバタと走って、近くの木の陰に隠れた。黒炎は宙を舞う蛇のように、ゆったりとした動きで周囲を漂っている。
〈茨の魔女〉が右手を掲げると、黒い炎はその手のそばをクルリ、クルリと旋回した。
「……動かしづらい体だこと。何もかもが重いわ」
〈茨の魔女〉は掲げた手を下ろし、農作業に慣れた男の手を開閉して、顔をしかめる。
その様子を木の陰から観察しつつ、モニカは唾を飲んだ。
やはり、今の彼はおかしい。植物標本庭園が影響しているのだろうか。
何にせよ、これは非常にまずい事態だ。
モニカは精霊王召喚が使えない。一方〈茨の魔女〉は薔薇要塞と黒炎という、凶悪な切り札がある。
「無詠唱の魔女、名乗りなさい。覚えてあげる」
モニカは木の陰から、恐々と上半身だけ覗かせた。
この体勢はあまり格好がつかないが、前方で黒炎がユラユラ飛び交っているのだから仕方がない。
「……〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレット、です」
「そう。真実に触れた娘、選びなさい」
〈茨の魔女〉が、ゆったりとした動きで片手を持ち上げる。
それはモニカに差し伸べるためにも、縊り殺そうとしているようにも見えた。
緑色の目を爛々と輝かせて、〈茨の魔女〉は問う。
「服従か、死か」
モニカの答えは、最初から決まっている。
邪悪に笑う美貌の魔女に、モニカは精一杯強そうな顔を作って告げた。
「ラウル様、返してください」
黒炎が踊るように宙を泳ぎ、木を迂回してモニカを狙う。
モニカは鈍臭くボテボテドタドタ走りながら、黒炎の動きを観察した。
(やっぱり、そうだ……この人は、森を焼きたくないんだ)
その気になれば、周囲一体を焼き尽くすこともできるだろうに、黒炎は木を迂回して、モニカだけを狙った。
それなら、木々が密集している場所に逃げ込めば、チャンスはある。
……ただし、それは、モニカに人並み程度の運動神経があれば、の話である。
「ひぎゃぶぅっ!?」
『小娘ぇーーー!!』
植物の蔓に足を引っ掛けられ、モニカは呆気なく転んだ。モニカの左手で〈識守の鍵ソフォクレス〉が悲痛な声をあげる。
転んだモニカの元に、地面を這う植物の蔓が一斉に群がってきた。モニカは大慌てで、風の刃を操り、植物の蔓を切り裂く。
そうして植物の蔓をどうにかした頃には、周囲をグルリと黒炎に包囲されていた。一歩でも動けば、焼き尽くされる。
周囲の枯葉をカサカサと踏み分け、〈茨の魔女〉がモニカに近づいてくる。
いつも快活に笑う男の顔に、嗜虐に耽る魔女の笑みを浮かべて。
「……お前は、何色の薔薇を咲かせてくれるかしら?」
歌うような詠唱に合わせて、〈茨の魔女〉の足元から薔薇が芽吹く。人喰い薔薇要塞だ。
スルスルと伸びる薔薇の蔓が、モニカを包囲する黒炎の隙間から入り込む。その先端がモニカを捉えようとしたその時、モニカは見た。
太陽もないのに明るいこの森で、キラキラしている銀色の髪を。怒りに輝く青い目を。
「シリル様ぁ……っ!」
駆けつけたその人は、右手を握りしめて大きく振りかぶる。
〈茨の魔女〉が少し遅れてそれに気づき、反応しようとした。だが、動きが鈍い。
シリルの体を乗っ取ったソフォクレス同様、〈茨の魔女〉もまた、乗っ取った他人の体を動かすことに不慣れなのだ。
ここにいるのは、黒炎と薔薇要塞を操る最強の魔女だ。
その左頬に拳を叩き込み、シリル・アシュリーは吠える。
「掃除の最中に薔薇を散らかすとは、何事だぁっ!」
掃除夫の怒りが、異形の森を震わせた。




