【10】ウニョニョニョニョ……
甘い匂いの漂うローズバーグ家離れの調理場では、四人の若者が作業をしていた──ただし、この中に人間は一人だけ。残る三人は、白竜と氷霊と水霊である。
唯一の人間である、右目の上に傷痕のある男、アイザック・ウォーカーは鍋の火加減を気にしつつ、作業台に目を向けた。
作業台の右端では水色がかった白髪の青年──人に化けたウィルディアヌがパン生地を捏ねている。
その手つきは非常に慎重で、フニョ、フニョ……と、おっかなびっくり幼児の頬に触れるような優しさだ。
「ウィル、もっと強く捏ねていい」
「承知しました」
パンをこねる手が、フニョフニョからモミモミぐらいに進化した。その慎重さにアイザックは苦笑する。
「もっと強くていいよ。生地がある程度まとまったら、ひとまとめにして台に叩きつけるんだ」
「……パンを膨らませる酵母とは、生きているのだと聞きました。強く圧迫したら死滅しないでしょうか?」
「大丈夫大丈夫」
ウィルディアヌは不安そうな顔で生地を集めて、ペション、ペション、と生地を台に叩きつけた。
アイザックはシャツの袖をアームバンドで留め直して、ウィルディアヌの横に立つ。そしてパン生地を受け取ると、作業台に押しつけるよう力強く捏ね、まとめた生地をバシンバシンと力強く叩きつけた。
「これぐらい。日頃の鬱憤を叩きつける気で、やるといい」
「日頃の鬱憤……」
表情の乏しいウィルディアヌはどこか困ったようにパン生地を見ていたが、ゆっくりと生地を手に取ると、それを勢いよく作業台に叩きつけた。
バシィィィン! という景気の良い音が調理場に鳴り響く。
「…………」
その力強さに、アイザックは沈黙した。
人に化けたウィルディアヌは、物静かで、ともすれば幸薄そうにも見える青年である。
そんなウィルディアヌが無表情に、パン生地を叩きつける姿は、見る者を怯ませる何かがあった。
再び、バシィィィィン! と音が響く。作業台がビリビリと揺れるほどの力強さだ。
それがウィルディアヌの鬱憤の重みではないことを、アイザックは密かに願った。
人に化けた精霊は、人間よりも力が強いのだ。だから、景気の良い音がしたのだと思いたい。
「……ウィル、そろそろいいよ。あとは生地をひとまとめにして、休ませよう」
「承知しました。どのぐらい休ませるのですか?」
「今日は暖かいし、一時間ぐらいかな。この生地が二倍ぐらいに膨らむから、観察してみるといい」
「これが、二倍に……」
充分に捏ねた生地は、綺麗に丸めてガラスボウルに入れ、乾かぬよう濡らした布巾を被せる。
ウィルディアヌは置物のようにジッと動かず、無言でパン生地を観察しだした。真面目である。
作業台の反対側では、淡い金髪の娘がボウルを両手で押さえ、そのボウルの中身を白髪の青年が泡立て器で撹拌していた。
こちらは、シリルの契約精霊のピケと、白竜のトゥーレだ。
「アイク、こっち、固まってきたよ」
トゥーレはボウルを覗き込んでニコニコしていた。
ボウルの中身は、ミルクと生クリームをベースにした氷菓だ。ボウルを支えているピケが、無表情ながらどこか不思議そうに言った。
「わたしなら、一気に凍らせられるのに」
「混ぜながら凍らせて、空気を含ませることで、滑らかな舌触りになるんだよ。少し味見をしてみるかい?」
そう言ってアイザックは匙を二つ手に取り、氷菓の固まった部分をすくって二人に差し出す。
てっきり匙を受け取ってくれると思ったのだが、トゥーレとピケは全く同じ動きで頭だけ動かし、差し出された匙をパクリと咥えた。
(……シリルだったら叱るかな)
そんなことを考えるアイザックの向かいで、トゥーレがニコニコする。
「これ、おいしいね。ほわって甘くて、ふわって溶ける」
「気に入ったかい?」
「うん、とても。でも、黒いのさんは、苦手じゃないかな?」
黒いのさん──ネロのことである。
黒竜であるネロは熱いものに強く、頑丈だが、寒さに滅法弱いのだ。
確かにネロなら、冷たい氷菓を食べたら、ほんぎゃらぶっぼーと叫んで、のたうち回ってしまうかもしれない。
その姿を想像し、アイザックがクスクス笑っていると、無言で氷菓を吟味していたピケが、美食評論家の貫禄を漂わせて重々しく言った。
「命の糧を凍らせた味がする」
判断に困る言い回しだが、どうやら気に入ったらしい。
「今度から、氷霊の供物は、これにしたらいいと思う」
「神殿に提言してみようか」
大真面目なピケにそう返し、アイザックも氷菓を一口味見する。滑らかな舌触りとコク。贅沢にバニラビーンズで風味をつけている豊かな味だ。
この氷菓に、鍋で煮ている桃のシロップ煮を合わせて、今夜のデザートにするつもりだった。
この国では少し珍しい桃は、ラウルが用意してくれた物だ。まだ少し固かったので、半分に割って、白ワインとレモンの絞り汁で風味をつけて、シロップ煮にしている。
(桃の甘みと、氷菓の甘み……悪くないけれど、酸味が欲しいな。木苺のソースも添えようか。あとは、食感に変化が欲しいから、薄くスライスしたアーモンドを散らして……)
思案しつつ桃のシロップ煮を火から下ろしていると、玄関の扉が開く音がした。
足音は一つ。カツカツと硬くて軽いヒールの音──おそらくはメリッサだ。
「ウィル」
アイザックが目配せをすると、パン生地の成長を見守っていたウィルディアヌはトカゲの姿になり、アイザックのポケットに隠れた。ウィルディアヌの存在は、極力人には知られたくないのだ。
ウィルディアヌが完全に隠れたのを確認し、アイザックは調理場に繋がる食事部屋に向かう。
ちょうどそのタイミングで廊下側の扉が開き、メリッサが姿を見せた。
今日も派手なドレスのメリッサは、化粧の濃い顔に貼りつけたような愛想笑いを浮かべている。
「ご機嫌よう。良い匂いね。何作ってんの?」
「桃のシロップ煮と、氷菓を──味見はいかがですか?」
「まぁ、素敵。いただくわ」
アイザックは調理場に引っ込むと、火から下ろしたばかりの桃を皿に盛り、ピケに声をかける。
「これを冷やしてくれるかい?」
「カチカチにすればいい?」
「それはそれで美味しそうだけれど、冷ますだけでいいよ」
ピケに桃を冷ましてもらっている間に、氷菓の固まった部分をスプーンですくって、こちらも小皿にのせる。
アイザックが手際よく作業していると、メリッサが調理場に入ってきて、湯を沸かし始めた。
「レディ。お茶でしたら、僕が用意しますが?」
「いいわよ、これぐらい。自分んちなんだから、勝手は分かってるし」
アイザックは「そうですか」と返し、ベストのポケットを軽く叩いた。ウィルディアヌが僅かにみじろぎをして、それに応じる。
ピケが冷やした桃を食べやすいようスライスして、皿に盛った氷菓の横に添え、ミントの葉を添える。急拵えにしては、上等な茶菓子だろう。
アイザックが食事部屋のテーブルに小皿を置くと、メリッサは両手に二つのカップを持ってやってきた。
メリッサはソーサーは用意せず、カップを直にテーブルに置いた。一つは小皿の横。もう一つはその向かいの席。
「僕の分も淹れてくださったのですか?」
「このアタシがわざわざ淹れてあげたんだから、ありがたく味わって飲むのね」
メリッサは着席し、小皿のデザートをパクパクと食べる。
アイザックはメリッサの向かいに着席し、カップの匂いを嗅いだ。カップからは甘い香りがした。果物を乾燥させた物と複数のハーブを合わせたのだろう。
「薔薇の香りを抑えるのに適した配合。ただ紅茶に垂らすだけの人間より、ずっと使い慣れていらっしゃる」
「まぁ、何の話かしらぁ?」
デザートを平らげたメリッサが、真っ赤な唇を笑みの形に持ち上げる。
その左手がテーブルの下で動くのを、アイザックは見逃さない。
「昼間から大胆なお誘いですね、レディ?」
メリッサの頬が、ピクリと引きつる。
アイザックはただでさえ目つきが悪いと評されている顔に、殊更冷ややかな笑みを浮かべてみせた。
「せっかくのお誘いですが、僕には心に決めた女性がいるので」
「あーら、そう…………つまんない男、ねぇ!」
メリッサがテーブルの下に隠していた左手を持ち上げる。
蓋の開いた小瓶──おそらく、香水瓶だ。
直感であれはまずいと察したアイザックは廊下に飛び出し、窓に目を向けた。そこから外に飛び出そうと思ったのだ。
だが窓の外は、既に蠢く薔薇の蔓に包囲されている。どうやら、この離れに入る前から、メリッサは包囲網を敷いていたらしい。
(だとしたら、玄関には大量の薔薇の蔓を用意しているはずだ)
背後でカツカツと足音がした。メリッサがこちらに近づいてくる音だ。
アイザックはあえて、余裕の笑みで振り向いた。
「大の男にこんな物を盛って……自分が襲われる心配はしなかったのですか?」
「あんた、ここをどこで、アタシを誰だと思ってんの?」
メリッサがニタリと笑い、手にした香水瓶の中身を薔薇の蔓にポタポタ垂らす。
むせるような薔薇の香りが広がり、クラリと眩暈がした。アイザックは咄嗟に口と鼻を塞ぎ、玄関ではなく、二階に繋がる階段を駆け上る。
邪悪な魔女は、嘲笑まじりに言った。
「この森で、〈茨の魔女〉から逃げられるやつなんていないのよ」
* * *
ローズバーグ家の離れは二階建ての屋敷で、二階は寝室と物置部屋になっている。
物置部屋は鍵がかかっているので、アイザックはラウルの寝室に駆け込んだ。
「マスター」
扉を閉めたところで、ウィルディアヌがポケットから顔を出した。
「分かってる。カップの中身も、香水も、おそらく、魔女の惚れ薬だろう……飲み薬はともかく、香水タイプを使われるのは初めてだな」
飲み薬なら、ウィルディアヌの水で浄化してもらえるが、香水の方は一度摂取してしまったら、いつも通り浄化できるか怪しい。
「……経験上、飲み薬だと最初の数分は意識が飛ぶのだけど、香水はそこまで強いものではないらしい。ただ、吸い続けていたら、どうなるかは分からな……」
「お待ちください」
珍しく、ウィルディアヌがアイザックの言葉を遮った。
あ、と口を塞ぐアイザックを、ポケットのトカゲがじぃっと見上げる。
「……経験上?」
我ながら結構な失言だ。どうやら、あの香水をひと嗅ぎしたことで、判断力が少し落ちているらしい。
「マスター……それは、いつの話ですか?」
以前、アイザックに魔女の惚れ薬を盛ろうとして失敗したロレッタ嬢──彼女から没収した魔法薬を、彼は手元に置いている。
それを好きな女の子に使うつもりは誓ってないが、ウィルディアヌの不在時にご令嬢方から盛られた時を想定し、耐性をつけられないか試したのである。
結論から言うと、耐性がつくほど薬を連続使用したら、確実に魔力中毒になるので、アイザックは早々に連続摂取を断念していた。
「死ぬような薬じゃないし……薬でどうにかなってるところなんて、見られたくないじゃないか」
なお、実際に試した感想は、「好きな子への劣情を思い知って死にたくなった」に尽きる。なおさら、人に言えるものではない。
「初耳です」
「……怒ってる?」
「…………」
ウィルディアヌはスルスルとポケットから這い出て床に下りると、尻尾をウニョニョニョニョ……と複雑に動かした。
「わたくしは、メリッサ・ローズバーグ様の前で力を振るえませんので」
「……うん」
「パン生地の成長を見守る仕事に戻ります。御用の際は、お呼びください」
そう言ってウィルディアヌは、壁のわずかな隙間から音もなく出ていく。
説得と言い訳をしたいところだが、もう時間はない。カツカツという凶悪なヒールの音は扉の前まで迫っている。
アイザックは早口で詠唱をして、水のロープを作り出すと、それをベッドの手すりに固定し、窓から飛び降りた。




