【3】図書館卿と可愛いの哲学
「クローディア、お前に訊ねたいことがある。どうか、正直に答えてほしい」
義妹が嫁いだメイウッド家を訪れたシリル・アシュリーは、応接室でクローディアに切り出した。
素朴な風景画や野の花が飾られた、どこか牧歌的な内装の応接室には、クローディアとシリル、それと茶の用意をする使用人がいるだけだ。メイウッド男爵とニールは、まだ仕事から戻っていないらしい。
シリルの向かいに座るクローディアは無言だった。
お帰りはあちらよ、と言われていないのだから、きっと話を続けて良いのだろう。
シリルはテーブルの上で指を組むと、極めて深刻な問題に直面した学者の顔で、クローディアに訊ねた。
「私がお前に、『可愛い』と言ったら、お前はどう思う」
クローディアは、その美しい顔に笑みを浮かべた。
これっぽっちも嬉しいとは思っていないのが、ヒシヒシと伝わってくる笑顔である。
「まぁ嬉しい…………と、言うとでも?」
「そうか。いや、そうだと思っていたんだ……」
肩を落とし項垂れるシリルに、クローディアはすっかり大きくなった腹を撫でながら、心底どうでも良さそうな口調で言う。
「何をどうしたら、そんな馬鹿げた質問を真顔で口走る事態に至ったのかしら」
シリルは組んだ指を額に押し当て、苦悶の表情で少し前に起こった出来事を思い出した。
* * *
先々週、サザンドールでモニカと会った時、シリルはモニカの服装に僅かな引っかかりを覚えた。
モニカはサザンドールで過ごす時は、基本的に私服の外出着や、ブラウスにスカートという服装をしていることが多い。
魔術師組合に顔を出す時は、その上に七賢人の物ではない、私物のローブを羽織る。
その日は、魔術師組合の廊下で会ったので、モニカはブラウスとスカートの上に、ローブを羽織っていた。
それ自体は珍しくないのだが、シリルはその日のモニカの服装が妙に気になった。
初めて見る服ではない。見慣れたブラウスだ。ただ、何かが違う気がする。その違いが分からなくてムズムズする。
一体、何が違うのか。軽い挨拶の後、気になったシリルがジッと見ていると、モニカが困り顔で指をこねた。
女性をジロジロと見るのは失礼だ。反省したシリルは、素直に白状することにした。
「不躾に見てすまない。以前見た時と、服が……何か違うような気がして……」
すると、モニカはパッと表情を明るくして、ブラウスの襟もとを指で撫でた。
少し丸みがかったブラウスの襟元は、白いレースを重ねてあって、襟の中心にはリボンとパールボタンが飾られている。
「あっ、きっと、これです。これ、つけ襟で……」
シリルは少し驚いた。つけ襟はとても自然にブラウスと馴染んでいたので、最初からそういうデザインのブラウスだと思い込んでいたのだ。
そのつけ襟は白いレース製で、ブラウスの襟の下に重ねるデザインだったらしい。リボンとパールボタンも、つけ襟の一部だ。
「こうやって、ブラウスの下から見せる感じのつけ襟で……ラナに選んで貰ったんです」
そう言って、モニカは小さな花が綻ぶみたいに微笑む。
その時、シリルは己の胸の中で、色々な物を詰め込んでギュウギュウにした箱の蓋が弾けて、中身がパッと飛び出すような感覚を覚えた。
胸の奥にあるその箱の底からコロリと転がり落ちたのは、なんとも単純で素朴な感想。
──可愛い。
だが、喉元まで出かかった言葉を、シリルは咄嗟に飲み込んだ。
普段からそんなことを言わなかった自分が突然「可愛い」などと言い出したら、突然どうしたのかと、モニカが困惑してしまうかもしれない。
そもそも、今まで自分はそんなことを口にしなかった癖に、恋心を自覚した途端、軽薄にそのような言葉を口にするのは、些か不誠実ではないか。
……という葛藤の末、シリルは喉元まで出かかった言葉を胸の奥にギュウギュウに押し込み、しっかり蓋をし、そして、いつもの彼らしいキリリとした顔で言った。
「そうか」
「はい」
業務報告を受けた時の顔で相槌を打つシリルに、モニカもキリッと表情を引き締めて頷き返す。
これで、会話が終わってしまったのである。
* * *
(小動物に向ける「可愛い」に下心は宿らない。そして私は明確に、モニカに対する「可愛い」に下心を抱いている。可愛いという一言に下心が宿るのは、果たして可愛いと思った瞬間なのか、好きになった瞬間なのか。そもそも人は、可愛いと思ったから好きになるのか、好きだから可愛いと思うのか……)
可愛いが先か、好きが先か──いよいよ謎の哲学が始まりかけたところで、シリルははたと我に返った。
クローディアがどうでも良さそうな顔で、窓の外を見ている。
シリルはゴホンと咳払いをし、キリリとした兄の顔を取り繕った。
「クローディア、たとえば……お前が、つけ襟を可愛いと褒められたら、どう思う?」
クローディアは少し驚いたように瞼を持ち上げ、己の襟元を指先で撫でた。
「あら、これがつけ襟だと、気づいていたの?」
「そうだったのか?」
「…………」
シリルを見るクローディアの目が、冷ややかさを増した。やってしまった。
気まずさを誤魔化すように、紅茶を飲んでいると、クローディアがボソリと言う。
「……モニカは、ラナ・コレットが選んだ物なら、何を褒めたって喜ぶわよ」
シリルは危うく、むせそうになった。
自分は一度もモニカの名前を出していないのに、何故。
(いや待て、それより……クローディアの言う通りだとしたら……)
モニカのつけ襟は、ラナが選んだものである。
そして、クローディアが言うには、モニカはラナが選んだ物を褒められると喜ぶという。
(それは、コレット女史を褒められたのが、嬉しいのでは……)
モニカが髪型や身につけている物を褒められたら、「ラナが褒められた! 嬉しい!」に直結することは、容易に想像できた。
(……違う。そうじゃない。そうじゃないんだ)
シリルが再び頭を抱えていると、ノックの音がして、メイウッド男爵夫人が姿を見せた。つまりは、ニールの実母でクローディアの義母である。
男爵夫人は茶髪をふんわりとまとめた、小柄で可愛らしい雰囲気の女性だ。メイウッド男爵夫妻は、共に童顔なのだ。
ニールと並べたら、親子ではなく兄や姉に見える。とても、もうすぐ孫が生まれるようには見えない。
「ご機嫌よう、シリル様。孫のための贈り物、たくさんご用意していただいて、ありがとうございます」
「恐れ入ります。他にも必要な物があったら、なんなりとお申し付けください。出産予定日は来月とのことですので、それまでに届けに参ります」
先ほどまでの苦悶の表情を引っ込め、礼儀正しく振る舞うシリルに、メイウッド夫人はニコニコと愛想良く話しかける。
基本的にお喋りが好きな人なのだ。ただ、静かに過ごしたいクローディアのようなタイプにも、きちんと配慮のできる賢い女性で、義母娘の関係も良好らしい。
「シリル様は、この後は侯爵領にお戻りになるのですか?」
「いえ、しばらく王都に滞在する予定です。図書館学会絡みの仕事もあるので」
そこでシリルは言葉を切り、硬い声でメイウッド夫人に訊ねた。
「メイウッド夫人、不躾な質問と承知の上でお訊ねします」
「はい、どうされまして?」
「社交の場ではなく、私的な交流において……女性は、特別好意を持っていない異性からの『可愛い』という言葉を、不快に思うでしょうか?」
メイウッド夫人は、突然変な質問をしても、おっとりと許容してくれそうな雰囲気の女性である。つまりは、クローディアと真逆のタイプなのだ。
そしてメイウッド夫人は、温和で温厚な性格だが、相手を喜ばせるための気休めを言う人ではなかった。
「可愛いの一言に、好意を感じて嬉しいと受け取るかもしれませんし、下心が垣間見えて、怖いと思うかもしれませんし……そこは、信頼の積み重ねですわねぇ」
メイウッド夫人の言葉に、シリルは衝撃を受けた。
──下心が垣間見えて、怖い。
確かにそうだ。女性の立場に立ったら、信用できない男性の下心など恐怖の対象に決まっている。
(例えば、あの方なら……)
アイザックがモニカに「可愛い」と言ったら、モニカは驚いたりはしないだろう。
それは、アイザックとモニカが確固たる信頼関係にあるからだ。
(これからも、浮ついた発言を慎み、己を律して、確実に信頼を積み重ねていこう)
シリルはもう、自分の中に下心が芽生えていることを自覚している。
自分でも持て余しているこの感情が、モニカを怖がらせ、傷つけてしまったら──そう考えただけで胸が苦しい。
(私の醜い嫉妬心や、下心で、モニカを傷つけるようなことがあってはならないんだ)
──愛しいと思う。だから、優しくしたい。大事にしたい。
その気持ちを忘れるな、とシリルは自分に言い聞かせた。
なにやら一人、衝撃を受けて、唸って、納得して──と表情の忙しい義兄を見て、クローディアはポツリと呟く。
「……迷いのある人間にとって、『今まで通り』という選択肢は魅力的よね」
義兄の肩がピクリと震えた。
メイウッド夫人がおっとり相槌を打つ。
「そうね、一歩踏み出して欲しい時もあるわよねぇ。うちのニールはそういうところが、煮え切らなかったのではなくて、クローディアさん?」
「いいえ、お義母様。ニールはいつも素敵よ……決断力も行動力もあるんですもの」
「まぁ、うふふ」
仲良し義母娘に揶揄われていると知らぬまま、シリルは忙しく百面相を再開した。




