【14】外交はまだ、終わらない
「軟弱な。その程度の覚悟もなく、王になろうなどと笑わせるなっ!」
ヘンリックの一喝に、ケーニッツ卿は哀れなほど震え上がっていた。
シュトラウス将軍の部下が、ケーニッツ卿を拘束する縄を解いたが、それでもケーニッツ卿はヘンリックが投げて寄越した剣を拾う様子はない。
その態度が、ますますヘンリックの怒りを煽る。
「捕虜のふりをして、安全な場所に隠れている臆病者が、このヴァルムベルクを獲るなどと、よくも言えたものだな」
ヘンリックの灰色の目は鋭い輝きを放ち、獲物の喉笛に食らいつきそうな気迫に満ちていた。
その殺気に当てられたケーニッツ卿は、今にも卒倒しそうな有様だ。
そこに、シュトラウス将軍が声を張り上げる。
「リヒャルト殿下、どうぞそこを動かないでください。ヴァルムベルク辺境伯は、私が相手をします」
ヘンリックは油断なく、剣を構えた。シュトラウス将軍の剣には、鍛錬を続けた年月の重みがある。生半可な一撃では、容易く弾かれてしまうだろう。
(打ち合う前に、首を獲る)
ヘンリックがすり足で動いたその時、あろうことかブリジットが前に進み出た。
コルヴィッツの作ったハンカチが、どれだけすごいかは知らないが、無謀だ。
ヘンリックはシュトラウス将軍の動きを注視しつつ、押し殺した声で呻く。
「グレイアム殿、お下がりください。ここはもう、外交の場ではありません。戦場です」
「いいえ、ここは外交の場です」
キッパリと断言し、ブリジットはシュトラウス将軍とヘンリックの間で足を止める。
彼女の視線の先にいるのは、シュトラウス将軍でもヘンリックでもない。
アルバートとケーニッツ卿の二人だ。
「アルバート殿下と、リヒャルト殿下の御前です。無礼者の謗りを受けたくなくば、双方、剣を収めなさい」
美しい声で宣言するブリジットに、シュトラウス将軍が鋭く言葉を返した。
「貴女は勘違いをしておられる。交渉の余地など、はなから存在しないのです」
シュトラウス将軍が数歩踏み込めば、その剣はブリジットの胸を容易く貫くだろう。
それでもブリジットの美しい顔に、恐怖はない。
美貌の外交秘書官は、その琥珀色の目に侮蔑を滲ませ、冷ややかに吐き捨てた。
「何故、貴方は主であるリヒャルト殿下の許しもなく、発言をしているのです、シュトラウス将軍?」
一瞬、シュトラウス将軍が目を見張る。
そこにブリジットが鋭く切り込んだ。
「この場は、アルバート殿下と、リヒャルト殿下の外交の場です。弁えなさい!」
ヘンリックは今更気づいた。この部屋に入ってきた時からブリジットは一貫して、この場を外交の場として扱っていたのだと。
アルバートに頭を下げ、発言の許可を貰ったのは、これが王族と臣下の在り方なのだと、ケーニッツ卿に見せつけるためだ。
ブリジットの声はあまりに苛烈で、シュトラウス将軍とヘンリックは僅か数秒、意識を奪われる。
その数秒で、ブリジットは動いていた。
彼女はアルバートとケーニッツ卿の方を向き、膝を着いて頭を垂れる。
そうして、慈愛と誠意に満ちた声で柔らかく告げた。
「まずは、声を荒らげたことをお許しください、リヒャルト殿下」
「え、あ、う……」
ケーニッツ卿──リヒャルトは、口をパクパクさせるだけで、ろくに声も出せずにいる。
明らかにこの状況が飲み込めていないのだ。
そんなリヒャルトに、ブリジットはにこやかに笑いかける。
「その剣を拾わなかったことは、ご英断ですわ。貴方は、外交の席に剣を持ち込まぬことの意義を分かっておられるのですね」
リヒャルトが剣を拾わなかったのは、彼が臆病だからだと、誰もが分かっていた。
それでも、ブリジットはリヒャルトの臆病さを、慎重さだと褒め称える。
「王たる者が剣を振るう時代は終わりました。さぁ、我が国と貴方の未来、双方の利になる話し合いをいたしましょう。そのために、わたくし達、外交官はいるのです」
リヒャルトはいまだにビクビクしているが、それでも震えは止まっていた。
今までギョロギョロと彷徨っていた視線が、今は真っ直ぐにブリジットに向けられている──あれは、救いを見出した者の目だ。
シュトラウス将軍が吠える。
「本性を現したな、女狐が! リヒャルト殿下を誑かすつもりか!?」
シュトラウス将軍の怒気に当てられてもなお、ブリジットは美しく微笑んでいた。
腹の据わり具合が尋常じゃないぞ、とヘンリックは密かに慄く。
膝をついていたブリジットは立ち上がり、シュトラウス将軍と真っ直ぐに向き合った。
「貴方の大義は、旧ソルヤーグ王朝の復興。それが、リヒャルト殿下の母上であるエーリカ様のご遺志であると、仰りたいのですか?」
「そうだ。クレヴィング一族に虐げられた旧ソルヤーグ王朝の復興こそ、我らが悲願……」
鈴を転がすように笑い声が、シュトラウス将軍の悲痛な声を遮る。
壮年の名将が背負ってきた大義を、忠義を、ブリジットは一笑に付した。
「おかしなことを仰いますのね。リヒャルト殿下にも、クレヴィングの血は流れているというのに」
言われてみればその通りだ、とヘンリックはハッとした。
リヒャルト・ケーニッツが先帝の子なら、当然に皇帝一族クレヴィングの血も引いていることになる。
それなのに、クレヴィングへの憎悪を謳うのは、おかしな話だ。
ブリジットの笑みは、どんどん冷ややかさを増していく。
「自分に都合の良いことばかり並べ立てて、結局貴方は、リヒャルト殿下の声に耳を傾けていないではありませんか」
「戯言を……」
「ならば何故! リヒャルト殿下は震えているのです! 怯えた目で貴方を見ているのです!」
ブリジットの声が、ビリビリと室内を震わせる。
その言葉の重みが、兵の足を床に縫い止める。
「わたくし、忠義のなんたるかを履き違えて暴走する殿方を見ると……頬を張りたくて仕方がありませんの」
ボソリと呟かれた言葉は、深い怒りに満ちていた。怖すぎる。
今、この場を支配しているのが誰なのかは、誰の目にも明らかだった。
そして、ブリジットが整えた舞台で、リディル王国の若き王子アルバートが口を開く。
「リヒャルト殿下、どうかこの場は、私の顔を立ててくれまいか」
「えっ、そ、それは、どういう……」
「貴方が穏便に事を済ませてくれるなら、私はレオンハルト陛下に貴方の助命を嘆願しよう。我が国の陛下にも、同様に」
アルバートは自分の顔を立ててくれ、と下手に出つつ、大人しく降伏すれば命だけは助かるよう、黒獅子皇とリディル王国国王に説得する──と降伏勧告をしているのだ。
リディル王国国王の名を出し、最悪の場合は亡命の手伝いをすると匂わせて。
ブリジットとアルバートの狙いは一つ。
「アルバート殿下……ど、どうかお願いします……私は、王になれる器では、ないのです……」
リヒャルト・ケーニッツから、この言葉を引き出すことだ。
ブリジットが美しい金の髪を翻し、シュトラウス将軍を見据える。
「これでもまだ、貴方達に大義はありますか? シュトラウス将軍」
シュトラウス将軍が黙り込む。
この場にいる、シュトラウス将軍の部下達の反応はまちまちだ。
リヒャルト・ケーニッツが降伏したことで、叛乱の失敗を悟り、諦めを滲ませる者、リヒャルトやブリジットに怒りの目を向ける者、シュトラウス将軍の言葉を待つ者。
シュトラウス将軍は義を重んじる将軍だ。だからこそ大義を失った今、その行動が、発言が、全て彼の首を絞めてしまう。
いっそ、金と土地が目当てだと、裕福な暮らしが欲しいのだと、割り切ってしまえば良かったのだ。
最初に大義を掲げてしまったのが、シュトラウス将軍の最大の失敗だ。
(ただ……シュトラウス将軍も、その部下も、まだ完全には戦意を失ってはいないな)
ヘンリックは冷静にそう判断した。
なにせ、彼らは旧ソルヤーグ領の領主達の期待を背負い、ここにいる。
隣国の王族であるアルバートがいるにも関わらず作戦を決行したのは、もはや後には退けぬ。この機会を逃したら、もはやそれまで──という覚悟があるからだ。
(だから、うん、やっぱり……僕は剣を手放すわけにはいかないな)
ヘンリックは剣を構え直す。
その姿に、ブリジットが顔を強張らせて言った。
「……ブランケ様。この通り、リヒャルト殿下は平和的解決を所望しておられます」
だから剣を下ろせと、ブリジットは言いたいのだろう。
ヘンリックはヘラリと笑った。
「グレイアム殿、私の主君はリヒャルト殿下ではありません。レオンハルト陛下です」
この地を守り、主君に仇なす者を討つのが辺境伯だ。
完全降伏したリヒャルトはさておき、シュトラウス将軍とその部下は、まだ旧ソルヤーグ復興を諦めきれていない。
ならば、諦めさせるのが、自分の務め。
「まだ戦う意思のある方々を、見逃すわけにはいきません」
そう宣言し、ヘンリックは切先をシュトラウス将軍に向けた。
美貌の外交秘書官ブリジット・グレイアムは、冷静な顔の下で、大変激怒していた。
(こ、の、ひ、と、は……っ)
人が平和的に話をまとめようとしているのに、何故こうも穏やかに物騒なのか。
大義を失ったシュトラウス将軍が、まだ完全には戦意を失っていないことは分かっていた。だから、ここでヘンリックがリディル王国側に立ち、一緒にシュトラウス将軍を説得してくれれば……と思っていたのだが、そうそう上手くはいかないらしい。
(いいわ、予想はしていたことよ)
込み上げてくる怒りを押し殺し、ブリジットは思考を巡らせる。
リヒャルト・ケーニッツは説得した。
ならば、次の相手は──この、話が微妙に通じないヴァルムベルク辺境伯だ。
「ブランケ様、どうぞその剣を下ろしてくださいまし」
「それはできません。さぁ、外交は終わり。制圧の時間です」
ブリジットの言葉に、ヘンリックは穏やかに返した。
それは、嵐の前の穏やかさだ。ひとたび嵐になれば、この広間は血の雨が降る戦場と化す。
「……いいえ」
ここを嵐の戦場にしてなるものか。
自分は、リディル王国第三王子付き外交秘書官なのだ。
ブリジットは全身に気迫を漲らせ、一歩も退かぬ姿勢でヘンリックと向き合う。
「外交はまだ終わっていませんわ」




