【10】断絶の壁
「よくも俺の娘を辱めたな……貴様の胸毛を、お花畑にしてやろうかぁ!!」
男は唾を飛ばして喚き散らしながら、気絶している敵兵の制服の胸元を、ボタンを引きちぎらんばかりの勢いで乱暴に開いた。
男の右手には、銀色に輝く極細の編み棒──それで彼は何を編もうと言うのか。
見かねたヘンリックが、大慌てで止めに入った。
「お待ちくださいっ、敵兵を辱めることは、いらぬ諍いを生みます! どうか、ここは冷静に……っ!」
「黙れっ! 俺の愛娘を……エルフリーデを汚された悲しみが、貴様に分かるのかっ!」
男は顔を赤黒く染めて、憎悪に満ちた声で吐き捨てる。だが、その目の端に僅かに涙が浮いているのを、ブリジットは見た。
ブリジットは男に近づき、小さく深呼吸をする。興奮状態の人間に話しかける時は、穏やかに、柔らかい声音で。
「ご息女が巻き込まれたのですか?」
男は編み棒を握りしめたまま、首を捻ってブリジットを見る。丸眼鏡の奥の目が、大きく見開かれた。
そして、そのまま動かなくなる。
反応に困りつつ、ブリジットはヘンリックに訊ねた。
「こちらの方は、ヴァルムベルク城の方ですか?」
「いえ、知らないおじさんです」
何故、知らないおじさんが、この大変な状況で大暴れしているのだろう。
ブリジットの疑問に答えるように、ヘンリックが言葉を続けた。
「拘束され、この部屋に閉じ込められていたので、お助けしたら……えぇと、こんな感じに……」
ブリジットはリディル王国の使節団の人間を、全て記憶している。この男は、リディル王国側の人間ではない。それでいて、ヴァルムベルク城の使用人ではないとすると、帝国側のビレンダール卿やケーニッツ卿に仕える人間と考えるのが妥当だろうか。
(この叛乱、やはり何か違和感があるわ……アルバート殿下を巻き込み、リディル王国を敵に回してでも、ヴァルムベルク城を欲しがったのには何か理由が?)
ヴァルムベルクは決して恵まれた土地ではない。
ヴァルムベルクの強みは、なんと言っても屈強な兵だ。だが、このやり方でヴァルムベルク城を掠め取っても、ヴァルムベルクの兵がシュトラウス将軍に従うとはとても思えない。
仮にヴァルムベルク城を占領できたとしても、南方の戦線に行っているヴァルムベルクの兵が戻ってきたら、奪い返されてしまう可能性もある。
(南方の戦線に出ているヴァルムベルク兵を抑えるだけの武力が、シュトラウス将軍にあるとでも……?)
なんだか酷く胸がざわつく。この謀反、何か裏があるのは間違いないのだ。
だが、それを推測するにはあまりにも情報が足りない。
ブリジットが思考を巡らせていると、足元で声が聞こえた。
「……女神か」
ブリジットが声の方に目を向けると、さっきまで大暴れてしていた男──ヘンリック曰く「知らないおじさん」が跪き、ブリジットを見上げていた。
「私はヘルムフリート・コルヴィッツ。一介の職人です」
男は己の胸に手を当てて名乗り、熱のこもった目でブリジットを見つめる。
「美しい人よ、貴女に俺の娘を嫁がせてほしい」
「…………」
この流れで、求愛や求婚をされたことは何度もある。
だが、娘を嫁がせてほしいと言われたのは流石に初めてだ。
ブリジットはコルヴィッツと名乗る男の言葉を反芻し、己のこめかみに指を添えて真顔で呻いた。
「あたくし、帝国語でこんなにも自信を失くしたのは、初めてです」
「安心してください。私なんて母国語ですけど、ちょっと何言ってるのか分かりません」
ほんの少しの悔しさを滲ませるブリジットに、ヘンリックは小声で返し、跪いているコルヴィッツの横にしゃがんで、目線を合わせた。
「コルヴィッツ殿、今現在この城は、シュトラウス将軍に占領されているのです。貴方は、ビレンダール卿かケーニッツ卿の部下なのですか?」
「知らん。私は私の娘のため、陛下に頼んでこの一団に同行したにすぎん」
「……陛下に? 貴方は、レオンハルト陛下にお目通りできるのですか?」
「それがどうした」
コルヴィッツはそんなこと些事だと言わんばかりの態度だが、かなりの大事だ。
コルヴィッツが黒獅子皇の息がかかった人間だとしたら、黒獅子皇はこの叛乱を見越していた可能性も浮上する。
(楽観はできないけれど……この男を殺さず、生かして捕えたということは、シュトラウス将軍は黒獅子皇と何らかの交渉をする気はあるのだわ。全く話が通じない相手ではない)
むしろ話が通じないのは、目の前にいる辺境伯なのだ。
そして、くだんの物騒な辺境伯は口元に手を添え、目を鋭く細めて、なにやら考え込んでいる。
* * *
ブリジットがシュトラウス将軍との交渉の余地を考えていた、まさにその時、ヘンリックはこう考えていた。
(つまり陛下は、この状況を僕になんとかしろって言いたいのかな……)
当然に、シュトラウス将軍との交渉のことなど全く考えていない。
そんなのは、武力制圧が終わってからすることだ。もっとも、そうなる前に交渉相手が死体になっていることが多いのも事実だが。
(食堂で遭遇した兵も、この部屋の兵も一人だけ。つまり、こっちに重要なものはないんだな。城の人間は反対側か)
こういう時は二人一組にさせるのが定石だが、シュトラウス将軍はそれをしなかった。人手が足りなかったのだろう。
ヴァルムベルク城は広い上に構造は複雑。おまけに隠し部屋が多く、ヘンリックの逃げ道は多い──それを全て封鎖し、かつ広間の人々や城の人間を制圧するには、相当な兵力がいる。
(多分、城の見回りはそう多くない。僕が城を脱出しても、城の周りに置いた兵がいるだろうし……そっちにも人手割いてるんだろうなぁ)
それならば、自分一人で城の使用人を解放し、それから広間に行ってシュトラウス将軍を討つのが一番だ。
問題は、ブリジットとコルヴィッツである。さしものヘンリックもこの二人を守りながらの強行突破は難しい。
(幸い、グレイアム殿は聡明で冷静だ。コルヴィッツ殿と一緒に隠れていてもらおう)
一緒に行動していて分かったが、ブリジットは非常に冷静で我慢強い人間だ。
荒事に慣れていないようだが、悲鳴どころか泣き言一つ漏らさないし、ヘンリックに指示を仰ぐことができる。
おまけに政治情勢に詳しく、敵の言葉が分かるので、同行者として非常に心強かった。
ただ、彼女は人の死には慣れていない。それは、最初に一人斬り捨てた時の反応を見れば分かる。
ヘンリックとしても、無闇矢鱈に斬って捨てる趣味はない。戦場で不必要に敵の恨みを買うのは、自らの首を絞めることに繋がるのだ。故にヘンリックは、なるべく敵を殺さず、無力化するようにしていた。
だが、ここから先は、そうもいかない。
城の奪還には相応の血が流れるだろう。敵も、味方も。
「グレイアム殿、コルヴィッツ殿」
ヘンリックは二人に声をかけながら、部屋の中央にドンと置かれた帝国の荷物を動かす。
武器になるような物はないが、ちょうど良い空き箱があった。二人ぐらいなら、なんとか身を隠せるだろう。
「ちょっと城を取り戻してくるので、お二人はここに隠れていてください」
「お一人で、シュトラウス将軍を討つおつもりですか?」
ブリジットは硬い顔で問う。その言葉は、自分が不安だから、腕の立つヘンリックにここにいて欲しい、という意味ではないのだろう。
かと言って、単純にヘンリックの身を案じているのとも違う。
それがこの状況での最適なのかと、冷静にヘンリックに問いかけているのだ。
……勿論、これがヘンリックにとっての最適解だ。
だからヘンリックは、いつも通りにヘラリと笑った。
「先に、城の人間を解放してきます。そうしたら味方が増える。それに、広間には妹と祖父もいるので」
「……妹様は、剣がお強くいらっしゃるのですか?」
「いえ、普通です」
フリーダは、そこらの兵と同等に戦える程度には腕が立つが、それ以上でもそれ以下でもない。
「ただ、妹は誰よりも祖父の扱いを心得ているので、まぁ、なんとかなるでしょう」
ヘンリックの「なんとかなる」は、決して楽観からくる言葉ではない。
なんとかならなければ、それまで。そう割り切っているが故の言葉だ。
* * *
ブリジットとコルヴィッツを残し、ヘンリックは物置部屋を出ていった。
ブリジットはコルヴィッツと共に荷物に紛れて姿を隠す。
このコルヴィッツという男も、どうにも不審な人物ではあるが、少なくとも、シュトラウス将軍側の人間でないことは確かだ。
城が占領されていることを知ったコルヴィッツは、「俺は娘を連れて、帰るんだ!」と喚き散らしていたが、城が包囲されている可能性をヘンリックが伝えると、おとなしく荷箱の中で膝を抱えた。
今は腕で膝を抱えながら、無言で指を動かしている。編み棒を動かす仕草だ。
「……コルヴィッツ様は、職人でいらっしゃるのですか?」
「いかにも。レースと刺繍を嗜んでおります」
今になって、ブリジットは思い出した。
コルヴィッツという姓、そしてレース職人という肩書き──ブリジットは、彼の作品を美術館で目にしている。
「もしかして、コルヴィッツレースの……?」
「工房長を勤めております」
コルヴィッツレースは、極めて精緻に、複雑な魔術式を編み込んだレースだ。
コルヴィッツ一族は、以前から魔術式を編み込んだレースを取り扱っており、皇帝に召し抱えられていたという。
中でも三代目である現工房長は、妖精の指と呼ばれており、その技術は歴代最高と名高い。
(この方が……歴代最高の職人……)
なにせ、最初に目にした光景が光景である。俄かに信じがたい。
「もしかして、貴方の言う娘とは……」
「えぇ、エルフリーデはレースをあしらったハンカチです。エルフリーデが眠る箱を、あの兵隊どもは雑に扱った……万死に値する」
自分はこの男の言葉を正しく翻訳できているのだろうか、と不安になるブリジットの前で、コルヴィッツは編み棒を握りしめて力説する。
「私は私の作った娘達を、老若男女問わず、娘に相応しい美しい人に嫁がせたい。エルフリーデは、美しいフェリクス殿下に贈ると言われたので、私は心を込めて編んだのに……」
フェリクス殿下、の一言にブリジットは閉口した。
ブリジットの周囲の空気が冷え込むのと対照的に、コルヴィッツの語りは白熱していく。
「ここを占領したゲスどもは、私の娘を売り払って金に変えるつもりだったらしい。これが辱めでなくて、なんなのか……ッ! エルフリーデ……待っていてくれ。きっと、この馬鹿げた騒動が終わったら、お前をこの薄汚れた部屋から出してやるからな」
そう言ってコルヴィッツは、山積みになった荷物の箱の一番下に置かれている、平たく大きい木箱に話しかけた。どうやら、ここにエルフリーデ嬢は眠っているらしい。
本当はすぐにでも助け出したいのだろう。だが、上に乗った箱が大きすぎる。下手に動かして崩れでもしたら、目も当てられない。
(ここにある荷物は、武器の類ではないようね……)
もし火薬の類があれば、牽制に使えるかもしれないが、そんな危険な物だったら、もっと厳重な見張りにするだろう。
ふと思いつき、ブリジットは訊ねた。
「コルヴィッツ様、貴方を閉じ込めた方々は、この騒動について、何か話していませんでしたか?」
「それが、奴らは私の知らない言葉を口にしていまして、私に向けられた理解できる言葉は『大人しくしていろ』ぐらいなのです」
シュトラウス将軍の部下達が話していた言葉は、おそらく旧ソルヤーグ語だ。作戦内容の漏洩を防ぐために、あえてそちらの言葉を使っているのだろう。
コルヴィッツは見るからに帝国北部出身という雰囲気だ。北部の人間はまず旧ソルヤーグ語など知らない。
「彼らの会話で、何か覚えていることはありませんか? どんな些細なことでも良いのです」
思い詰めた顔のブリジットに、コルヴィッツは腕組みをし、ふーむと唸った。
「私はレースと刺繍のこと以外では、あまり記憶力を使わないのですが……レースの似合う美しい貴婦人の頼みとあらば、頑張って思い出してみましょう」
コルヴィッツは瞑目し、フスーフスーと鼻を鳴らす。
そうしてどれだけの時間が過ぎただろう。コルヴィッツは唐突に目を開き言った。
「そういえば、奴らが会話の最後に、よく口にしていた言葉がありました。ただの挨拶かもしれませんが……クペラ・ラスグラウ・リヴェウォルと」
ブリジットは眉根を寄せた。
クペラ・ラスグラウ・リヴェウォルは、旧ソルヤーグ語で「断絶の壁を築こう」という意味だ。
(断絶の壁? それは、城内で辺境伯が断絶されているこの状況のこと? 或いは……)
その時、ブリジットの頭に一つの考えがよぎる。
帝国最西部のヴァルムベルク、塩、旧ソルヤーグ語、先帝の悪癖──様々な要素を繋ぎ合わせていくと、見えてくるものがある。
(『断絶の壁を築こう』……それが、ヴァルムベルク占領の目的だとしたら……)
その答えに辿り着くと同時に、ブリジットは戦慄した。
ヴァルムベルクだけでなく、帝国全土を揺るがす事態になる。
それは、シュトラウス将軍にヴァルムベルク城を落とされても、ヘンリックがシュトラウス将軍を討ったとしてもだ。
(この事態を納め、最悪の事態を避ける方法はただ一つ……)
全てを捨てる覚悟で、帝国に反旗を翻すシュトラウス将軍。
そして、城を取り戻すべくシュトラウス将軍を討つと決めたヘンリック。
既に覚悟を決めてしまったこの二人を、説得しなくてはならないのだ。




