【6】日常の延長線のように
ヴァルムベルク辺境伯に案内されて退室するブリジットを見送り、アルバートは歯軋りをした。
ビレンダール卿が本当に侮ったのは、ブリジットではなくアルバートだということを、彼は理解していた。
(兄上達だったら、こんなことにはならなかった)
もし自分が連れている秘書官に難癖をつけられても、ライオネルなら誰も悪者にしない方法でその場を収める。
フェリクスを名乗るあの男なら、相手の悪意を逆手に取って、自分に優位になるよう事を進めただろう。
それなのに、アルバートはあっさりと挑発に乗り、声を荒らげてしまった。
(僕がビレンダール卿に良い感情を抱いていない、という事実が周囲に伝わるだけで、その後の交渉に影響が出るのに……)
そして実際に交渉が難航した時、周りはこう解釈するのだ。
若く未熟なアルバート殿下は、ビレンダール卿が気に入らないからと、感情的になって駄々をこねているのだ──と。
悔しさに拳を握りしめていると、従者のパトリックがふわふわした茶髪を揺らしながら近づいてきた。彼はその手に、軽食の皿をしっかりと握りしめている。
「アルバート様、チーズ食べませんかー? リディル王国のより癖が強いけど、ジャムや蜂蜜かけると美味しいですよぅ」
いらない、とアルバートが言うより早く、パトリックはアルバートに皿を押し付け、囁く。
「アルバート様、怒ってる顔になってますよ〜」
「…………」
「僕が壁になってるんで〜、今のうちに美味しいもの食べて、笑顔になってください」
そう言ってパトリックは、帝国側の人間からアルバートの表情が見えない絶妙な位置に立ち、チーズを乗せた薄切りパンを齧る。
すっかり背が伸びたパトリックの陰に隠れて、アルバートはチーズとアプリコットジャムをのせたパンを口に詰め込んだ。
パンを咀嚼しながら、頬をこねて笑顔を作る。
侮辱に対して怒りを表明することは、必要なことだ。だけど、怒りは伝え方とタイミングを見極めないといけない。アルバートは王族なのだから。
(この場は、帝国側との交流の時間。人間関係を見極めろ。話のとっかかりを作れ)
パンを飲み込んだところで、帝国側から一人の男が近づいてきた。
白髪混じりの黒髪を撫でつけた、見るからに軍人然とした男──帝国南方の戦線で活躍した、武勲の誉れ高いシュトラウス将軍。
五十歳ほどの名将は、子か孫のような年齢のアルバートに丁寧に礼をした。
「先ほどは、場を収めるのが遅れてしまい、申し訳ありません」
彼が謝る道理など無かろうに、生真面目な性分なのか、それともアルバートの機嫌を取りたい意図があるのか。
いずれにせよ、ここで不機嫌を返すのは悪手だ。
アルバートはアプリコットジャムで取り戻した笑顔で、それに応じた。
「いいえ、こちらこそ、少しばかり感情的になってしまいました。お恥ずかしい」
「先ほどの秘書官殿の対応には、舌を巻きました。帝国北部の言い回しまでご存じとは」
ブリジットを褒められ、アルバートは少しだけ気を良くした。
そうなのだ。ブリジットは自慢の秘書官なのだ。ちゃんと、帝国でも分かってくれる人はいる。
「えぇ、彼女の語学力には、いつも助けられています」
「彼女はもしかして、他の地域の言語も?」
「帝国語なら、ほぼ全域対応できるかと」
アルバートの言葉に、シュトラウス将軍は「なんと頼もしい」と目を見張った。
帝国は今でこそ帝国共通語が主流となっているが、独自の言い回しや、別の言語を使っている地域も少なからずある。
特に南部や東部でたまに使われる旧ソルヤーグ語はかなり独特で、帝国共通語とはほぼ別体系の言語と言って良い。外交官でも完璧に扱える者は少ないのだ。
(そういえば、シュトラウス将軍も南東部出身だったな……出世してからは、ハイデリンゲンに仕えていたこともあったか……あぁ、なるほど。だから、ハイデリンゲン領主であるケーニッツ卿がいる、この場の護衛を申し出たのか)
今回の外交で本来主体となるはずだったケーニッツ卿は、オロオロとビレンダール卿に話しかけている。きっと、機嫌を取ろうとしているのだろう。
三十歳半ばほどのケーニッツ卿は、見るからに気弱そうだ。
だが、そんなケーニッツ卿を、シュトラウス将軍が時々気遣うように見ていることに、アルバートは気づいていた。
高慢な老人ビレンダール卿、気弱なケーニッツ卿、そんなケーニッツ卿を気遣うシュトラウス将軍。
そして、ビレンダール卿に嫌われているらしい、ヴァルムベルク辺境伯。
(ヴァルムベルク辺境伯……剣聖の孫らしいが……思ってたのと違うな。全然ムキムキしてない)
いかにも栄養が足りていなさそうな、ヒョロヒョロした辺境伯を、ビレンダール卿は目に見えて見下していた。
ビレンダール卿は戦争で活躍し、先々帝に重用された人物だ。同じ戦争で活躍したヴァルムベルクの戦狼にライバル心を抱き、孫のヘンリックに当たりが強いのかもしれない。
段々と見えてきた人間関係に、どこから切り込むべきか思案していると、シュトラウス将軍は「それでは、失礼いたします」と言って、アルバートのもとを離れる。
アルバートは横目でパトリックを見上げた。
「パトリック。どこから懐柔するのが良いと思う?」
「一番美味しくご飯を食べてくれる人と、仲良くなればいいと思います〜」
それならば、一番手強いのはシュトラウス将軍だな、とアルバートは密かに思った。
警備のためと言えばそれまでだが、シュトラウス将軍は先ほどから食べ物にも飲み物にも、口をつけていないのだ。
* * *
ケーニッツ卿は中肉中背の男だが、自信なさげに背中が丸まっているせいで、同身長のビレンダール卿よりも幾らか小柄に見える男である。
そんな彼は、いかにもビレンダール卿に話しかけたそうに、もじもじしていた。
その態度が、ビレンダール卿は気に入らない。
(先帝の時代から、我が帝国はなんとぬるくなったことか)
ビレンダール卿は、戦で土地を勝ち取ってきた先々帝に尽くしてきた人間だ。故に、戦を嫌い、土地を切り売りする先帝のやり方には不満があったし、現皇帝──黒獅子皇には、帝国をより強大にしてほしいと期待している。
ケーニッツ卿は、戦嫌いの先帝に邪険にされていたというから、少しは見どころがあるかと思ったが、まるで期待外れだった。
込み上げてくる不満を飲み干すようにワインを飲んでいると、ケーニッツ卿は数歩だけ近づき、ボソボソと呟く。
「ビレンダール卿、その、他国の王族の方の機嫌を損ねるなんて、貴方らしくもない……」
ビレンダール卿はフンと鼻を鳴らし、ジトリとした目でケーニッツ卿を睨んだ。
「卿は気づいていないのか。自分がリディル王国に侮られていることに」
「それは、その、気にしすぎ、では……」
「この協定は元々、第二王子のフェリクス殿下が発案されたものと聞く。それなのに、第三王子なんぞを寄越すなど、帝国を侮っているとしか思えん」
ビレンダール卿はリディル王国の第二王子と、別の外交取引で対峙したことがある。
フェリクス・アーク・リディルは美しい容姿と穏やかな笑顔で、他者の好意と悪意を自在に操れる食えない人物だ。
かの第二王子は晩餐会でビレンダール卿と敵対している帝国側の人間に近づき、懐柔して味方につけ、交渉を優位に進めた。
こちらに口を挟む隙を与えず、話を進めていく手際の良さは、腹立たしいがそれは見事なものだったのだ。
だからこそ、今回の協定で第二王子が動いていると知ったビレンダール卿は、この会合に割って入ることを決めた。
ケーニッツ卿では、フェリクス殿下の言いなりになるのが見えている! 今度こそ、自分があの美しい王子に一泡ふかせてやるのだ! ──そう意気込んで。
ところが蓋を開けてみれば、第二王子は隠居を決め込み、代わりに未熟な第三王子を寄越す始末。
(なんたる屈辱! 自分は出るまでもないと言うつもりか!)
この会合に第三王子を寄越された時点で、自分たちは侮られているのだ。
苛立たしげに髭をいじるビレンダール卿に、ケーニッツ卿はもごもごと口ごもりながら言う。
「あの、でもですね、ブランケ殿にまでくってかかるのは……その……国境守護の要であるヴァルムベルク辺境伯に、他国の人間の前で恥をかかせるのもどうかと……」
ヴァルムベルク辺境伯ヘンリック・ブランケ。
あの頼りない男を思い出し、ビレンダール卿はますます腹を立てた。
「あのように腑抜けた男に、城主が務まるのか。剣聖もさぞ嘆かれておるだろうて……まったく、戦狼の孫とはとても思えん。なんだあの弱腰は。牙を抜かれた犬にも劣るわ」
* * *
「いやぁ、あの、すみません……ビレンダール卿が大変失礼を……」
ブリジットを連れ出したヘンリックは、廊下に出て少し歩いたところで、ヘコヘコと頭を下げた。
くすんだ金髪のヒョロリと背の高い青年だ。眉を下げて頼りなげに笑う顔は、どことなくくたびれた犬を思わせる。
(……思っていたのと、随分違う方だわ)
ブリジットはヴァルムベルクのことを、リディル王国で言うところのケルベック伯爵領に近いものだと考えていた。どちらも国境に位置するため、他国の侵略を警戒せねばならず、竜害が多い点も似ている。
ただ、ケルベックが肥沃な土地で貿易が上手いのに対し、ヴァルムベルクは土地が痩せているし、領主はあまり交渉事が得意ではないらしい。
帝国の権力者であるビレンダール卿に嫌われているのが、その証拠だ。
ブリジットはヘンリックの上着をじっと見た。何度も修繕した跡が見られる上着は、今は胸元から肩にかけて、赤いワインでグッショリと濡れている。
そうやって、自分が恥をかいてでも他者を庇い、なんでもないことのように笑う人に、ブリジットは「ありがとう」と返せば良いのか、「ごめんなさい」と返せば良いのか悩む。
……幼い頃は、そのどちらも言わせてもらえなかった。
無力な少女は、ただ俯き、その優しさを甘受することしかできなかったのだ。
その時の悔しさが沸々と胸に込み上げてきて、気がつけばブリジットは口を開いていた。
「あの場で、貴方が恥をかく必要はなかったはずです」
外交官としては、慎ましく礼を言うのが正解だ。
それなのに、私情混じりの言葉を口にしてしまったことを恥じるブリジットに、ヘンリックは灰色の目を丸くして言う。
「え、それはむしろ、貴女のことでは……? あの場で、貴女が恥をかく必要はなかったでしょう?」
「あの程度のこと、なんでもありません。外交の場ではよくあることです」
キッパリと言い放つブリジットに、ヘンリックは困ったような顔で笑った。
そういう顔をされると、なんだかこちらが子どもじみた意地を張っている気分になる。
(今は、感傷に浸っている時ではないわ)
ブリジットはヘンリックに頭を下げた。これが、外交秘書官として正しい振る舞いだ。
「ご配慮いただき、ありがとうございます。仕事がありますので、少ししたら、会場に戻らせていただきますわ。ブランケ様も、お召し物を取り替えられたら、どうぞ会場にお戻りくださいまし」
ブリジットとしては、今すぐにでも会場に戻りたいところだが、それでは庇ってくれたヘンリックの立場がない。
客室に戻って、予備の制服に着替えて、そして会場に戻ってきたことにするには、何分ぐらいで戻るのが妥当だろうか。
ヘンリックは、やはり困り顔をしていた。ただ、それ以上は何も言わない。
そんな彼の背後──会場側の廊下から赤い制服の帯剣した男が三人見えた。前に二人、後方に一人と並んで、こちらに向かってきている。
あれはヴァルムベルク城の兵ではなく、シュトラウス将軍の部下だ。
きっとヘンリックに用があるのだろう、とブリジットは思った。
だが、彼らはヘンリックではなく、何故かブリジットを見ている……ような気がする。
ヘンリックも、己の後方から近づいてくる三人に気づいたらしい。接近する兵士を確認した彼は、灰色の目を細める。
次の瞬間、いくつかのことが同時に起こった。
赤い制服の兵士の内、前方にいた二人がこちらに駆け寄り、剣を抜いた。
二人の内一人がヘンリックを、もう一人はヘンリックの横をすり抜けて、振り上げた刃でブリジットを狙う。
燭台の灯りを受けてギラリと光る剣が、ブリジットに振り下ろされようとしたその時、ヘンリックが動いた。
彼は己に振り下ろされた剣をかわし、そのまま身体を捻って反転。ブリジットに剣を振り下ろそうとした男の腕を掴み、足を払った。
足を払われた兵士が僅かによろめいたほんの数秒の隙に、ヘンリックは剣を握る兵士の腕をグイと押す──握った剣がその兵士の喉を向くように。
「あ」
それが、その兵士が発した最後の声だった。
生暖かい血飛沫が、ブリジットの白い頬を濡らす。
ヘンリックは喉を斬り裂いた兵士から剣を奪い、残る二人の兵士と対峙した。
残る兵士は二人。一人は剣を抜いてヘンリックと対峙し、もう一人は抜剣せず、少し離れた位置で何かを唱えている。
血に濡れた剣を無表情で構えるヘンリックが、低く呟いた。
「……術士がいるのか。念入りなことだ」
詠唱していた兵士が指先をこちらに向ける。その指先から、雷の槍が放たれた。
パチパチと音を立て、金色に輝く雷の槍。その先端が、明らかに自分に向けられていることに気づき、ブリジットは息をのむ。
(あたくしを、狙っている)
飛来する雷の槍がブリジットに直撃するより早く、ヘンリックが敵から奪い取った剣を雷の槍に投げた。
「こちらへ!」
空中で衝突した剣と雷の槍が、バチバチと大きな音を立てる中、ヘンリックはブリジットの手を引き、兵士達の反対──会場とは逆方向へ走り出した。
ブリジットは混乱しながらも、頭の隅で冷静に考える。
(この方は……)
敵の足を払い、腕を押さえただけで、容易く敵の首を掻き切った。みじんの躊躇もなく、顔色一つ変えず……まるでそれが、日常の延長線であるかのように。
それだけのことをできる彼が、あの場を逃げたのは、魔術師がいたから。そして、足手纏いのブリジットがいたからだ。
(あたくしがいなかったら、あの兵士を、全員斬り殺していたのだわ)
ヘンリックからは、血とワインの匂いがした。上着の赤いシミは、もうどれがワインでどれが血の跡か分からない。
ゾクリとブリジットの背筋が震え、手のひらに冷たい汗が滲む。
ヘンリックはブリジットを庇い、助けてくれた命の恩人だ。彼の行為を咎めることなど、ブリジットにはできない。
それでも自分は今、とても恐ろしいものに手を引かれている──そんな恐怖を感じずにはいられなかった。
帝国の皇帝は、
先々帝→戦争大好き。土地は勝ち取るもの。五十年以上前、リディル王国と戦争をしたのもこの人。
先帝→戦争嫌い。土地は売るもの。女好きの浪費家。
現皇帝→黒獅子皇。戦争は必要ならする。
という感じです。




