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サイレント・ウィッチ(外伝)  作者: 依空 まつり
外伝13:沈黙の魔女の隠しごと
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【31】船に乗って、どこまでも

 ウィルディアヌに、サマーベストを着て玄関から帰るよう勧めたネロは、黒猫の姿で素早く回り込み、モニカの家のキッチン側の窓に辿り着いた。

 少し高い位置にあるその窓は、ネロが出入りしやすいように、大抵、鍵が開けられている。今も窓が少し開けられていて、隙間からは肉が焼ける良い匂いがした。

 ネロはすぐにその窓を開けず、ウィルディアヌが到着するのを静かに待つ。

 やがて、玄関のドアがノックされ、キッチンの中で人が動く気配がした。アイザックの「僕が出るよ」という声が聞こえる。

 モニカの家に来客があった時は、基本的に弟子のアイザックが対応する──特に夕方以降は必ずだ。そのことをネロは知っていた。


(よしよし……)


 にゃっふっふ、と喉を鳴らし、ネロは前足で静かに窓を開けて、人がいなくなったキッチンに入り込む。

 目的は、今夜の晩御飯のつまみ食いだ。

 大人しく食事の時間まで待てば、きちんと自分の分の料理が皿にのせられることは分かっている。だが、つまみ食いには、つまみ食いにしかない良さがあるのだ。

 自らの力で相手を出し抜き、ありつく糧は格別である──これは竜としての本能だ。多分。

 まずはオーブンの中を確かめる。料理はない。

 次にカマドの鍋。こちらは、まだ煮込んでいる最中だった。先ほど、肉が焼ける匂いがしたから、多分、肉を焼いてから煮込んだのだ。アイザックが言うには、その方が肉の旨みが逃げないらしい。

 最後に作業台を確認。既に仕上がった料理は、こちらに移している可能性が高い。

 だが予想に反して、作業台はまだ片付いていなかった。まな板や包丁、野菜クズが出しっぱなしになっている。どうやら、つまみ食いを狙うには少し早すぎたらしい。


(くそぅ、何か手軽につまめる物はねぇのか……)


 黒猫姿のまま作業台にヒラリと飛び乗ったネロは、ふと、作業台の隅に小鍋が置いてあることに気づいた。中には暗褐色の液体が満たされている。

 これは何かのソースだろうか、とネロは小鍋に近づいた。



 * * *



 キッチンで作業をしていたアイザックは、玄関のドアをノックする音に気付き、エプロンを着けたまま玄関に向かった。


「アイク、わたしが、出ます」


 ソファに座って本を読んでいたモニカが、本を閉じて腰を浮かせたが、夕方以降は女性であるモニカにドアを開けさせたくない。


「いや、僕が出るよ」


 そう言って、アイザックは玄関の扉に手をかけた。

 今のアイザックは、傷痕のある彼本来の顔をしている。

 来訪者がクリフォードやアントニーのような、フェリクスの顔で知り合った人間だと都合が悪いが、扉の向こう側にいるのはウィルディアヌだ。アイザックは契約主なので、少し意識を集中すれば、すぐに分かる。


「やぁ、ウィル。おかえ……り」


 目が合った──ウィルディアヌとじゃない。ウィルディアヌが着た、サマーベストとだ。

 アイザックは冷静に、己の目に映る物を観察する。

 銀髪を撫でつけた青年の姿で帰ってきた契約精霊は、侍従服の上着を脱ぎ、サマーベストを身につけていた。

 サマーベストは、胴体部分に人の頭ほどもある薔薇の花がババーンと描かれている。製作者のセンスと正気を疑いたくなるデザインだ。しかも薔薇の花には、何故か目と口がついている。

 愛嬌のある丸い目と、笑っているように見える口。何故、薔薇に。何故、サマーベストに。そして、何故それを自分の契約精霊が着ているのか。


 アイザックは知らない。そのサマーベストは、ラナが職人にデザイン案を提出する時に、


『これは没案だから気にしないで頂戴。目と口をつけるなんてアイデアも出たけど、流石にちょっと……えぇ』


 と呟き、その呟きを聞いた職人が悪ノリをして、仕事の合間にせっせと編んだ物であることを。

 こうして完成してしまったサマーベストを、ラナは「責任をとって、クリフが着てちょうだい」とクリフォードに押しつけ、クリフォードはウィルディアヌに押しつけたのだ。

 薔薇の花と無言で見つめ合うアイザックに、ウィルディアヌが控えめに声をかけた。


「マスター、ただいま戻りました」


 アイザックはその優秀な頭脳をフル回転させて、己の契約精霊にかけるべき言葉を選んだ。

 まず重要なのは、ウィルディアヌがこのサマーベストを自分の意思で着たのか、誰かに着ることを強要されたのかである。後者なら犯人を見つけ出さなくてはならない。


(君を辱めたのは、どこのどいつだい? ……と言いたいところだが、まずはウィルディアヌの反応を確かめて……)


 精霊であるウィルディアヌは表情が乏しいが、少しだけはにかんでいるようにも見える。それは、サマーベストの柄を恥ずかしがっているのか、それともいつもと違う服を着ていることを恥ずかしがっているのか、付き合いの長いアイザックの目から見ても、判断が難しい。

 そこに、モニカがリビングからやってきた。モニカはアイザックの背中からひょっこり顔を出して、ウィルディアヌを見上げる。


「えっと、ウィルディアヌさん、です、よね?」


「はい、こちらの姿で挨拶する機会は、あまりありませんでしたね。しばらく、マスター共々お世話になります、〈沈黙の魔女〉様」


 そう言って、ウィルディアヌは丁寧にお辞儀をする。

 サマーベストの薔薇がグニャリと歪んで、ますます珍妙な表情になった。その絶妙な珍妙さが、アイザックの腹筋を直撃する。

 鋭い目で薔薇の花を凝視するアイザックをよそに、モニカはペコリとお辞儀を返した。


「あ、はい、こちらこそ、お世話になります。ところで、えぇと、そのサマーベストは……」


 服飾に疎いモニカの目から見ても、そのサマーベストは異質な物であったらしい。

 ウィルディアヌはいつもと変わらぬ、どこかボンヤリした表情のまま、指先でサラリとサマーベストを撫でた。


「ラナ・コレット様の、秘書の方からいただきました」


 ラナの秘書。即ち、クリフォード・アンダーソンである。苦情決定だ。

 アイザックが頬を引きつらせていると、モニカが眉間に皺を寄せてサマーベストを睨んだ。

 やはり、モニカの目から見ても度し難いデザインなのだ、と思いきや……。


「薔薇についている目と口の中心を線で結んだ時ですね、あとちょっと口をずらせば、黄金三角形になるのに、惜しいです。あっ、黄金三角形は、長い辺と短い辺の長さの比が黄金比になっている二等辺三角形のことで、底角を二等分することで、新しい黄金三角形を作ることができてですね、これを繰り返して頂点を繋いでいくことで対数螺旋が……」


 モニカは黄金三角形について淀みなく語り、ウィルディアヌは無表情ながら、どこか困ったような様子でモニカとアイザックを交互に見ている。


(僕は、どうしたら……)


 数字の世界に飛び立ってしまったお師匠様を止めるべきか、サマーベストのデザインについて言及すべきか。

 アイザックがかけるべき言葉に困っていると、キッチンの方からガシャン! と大きな音がした。

 少し遅れて、ネロの声が響く。


「ほんぎゃらぶっぼー!!」


 人でも猫でも竜でも、なかなか発しない奇声である。

 モニカが「ネロ!?」と声をあげて、キッチンに向かった。アイザックとウィルディアヌも、早足でそれに続く。

 キッチンの作業台の上では、黒猫が泡をふいて倒れていた。そばには、アイザックが片付け忘れていた小鍋が一つ。

 小鍋の中身はモニカお手製の、じっくりコトコト煮込んだハーブティーだ。

〈沈黙の魔女〉特製のハーブティーは、黒竜を倒すほどの威力だったらしい。

 アイザックに追いついたウィルディアヌが、困惑した様子で呟いた。


「先ほど、家のそばで別れたばかりなのですが……何故、こちらに」


 ネロはピクピクと痙攣しながら、掠れた声で呻く。


「後輩が……帰ってきてるみてーだから……うまいもんを、作ってるのかと……ぐふっ」


 これだけで、アイザックは大体の事情を察した。

 食い意地の張ったこの先輩は、目立つサマーベストを着たウィルディアヌが玄関から帰るように仕向けて、アイザックの注意をひき、その隙に思う存分つまみ食いをしようとしたのだろう。

 そうして、小鍋に興味を惹かれて味見をし、こうなったのだ。自業自得である。

 ネロを放置して、キッチンの片付けを始めるアイザックに、モニカとウィルディアヌが声をかける。


「アイク、わたしも、手伝いますっ!」


「マスター、わたくしも手伝います」


 いいよ、僕がやるよ。という言葉を飲み込み、アイザックは小さく笑った。


「じゃあ、手伝ってもらおうかな」


 モニカとウィルディアヌが「はい!」と声を揃える。

 狭いキッチンで、他愛もない話をしながら作業をする夕暮れ時。そんな時間は、いつ以来だろう。

 アイザックは穏やかな幸福を噛み締めながら、布巾で作業台を拭いた。





 ウィルディアヌとモニカはアイザックに指示された通りに、野菜の切れ端を集める。この切れ端は魚と合わせて煮込み、最後は漉して、スープにするらしい。

 集めた野菜クズを渡したところで、ウィルディアヌはアイザックに訊ねた。


「マスター、このサマーベストですが、所有する許可を頂いてもよろしいでしょうか」


「……気に入ったのかい?」


 ウィルディアヌは、大輪の薔薇が鮮やかなサマーベストを見下ろした。

 気に入る、という感覚は非常に曖昧で難しい。ただ、このサマーベストを手放すのは、なんだか少し寂しく思えた。

 このベストには、目と口がついているから、人間や動物に対する親しみに近いものを覚えたのかもしれない。

 ウィルディアヌはしばし悩んだ末、正直に答えた。


「気に入ったのかは、よく分かりません。ただ、今日の記録として、残したく思います」


 精霊であるウィルディアヌは、殆ど私物を持たない。筆記具などが必要な時は、アイザックの物を借りる。

 そんなウィルディアヌが、自発的に何かを所持したいと言い出しても、アイザックは否定しなかった。

 今は王子様ではない彼本来の顔は、鋭い目も薄い唇も、穏やかに微笑んでいる。


「そう。それなら、そのうち君の分のクローゼットを用意しよう……それと」


 アイザックはスープ鍋で野菜クズを炒めながら、横目でモニカを見た。

 モニカは心得顔で頷き返し、食器棚からマグカップを二つ取り出して、ウィルディアヌに見せる。


「あの、ウィルディアヌさん。マグカップ、どっちがいいです、か?」


「それは、どなたが使われるのですか?」


「君のだよ」


 精霊であるウィルディアヌは、人間とは味覚が違うし、飲料水を必要としない。そのことはアイザックもモニカも分かっているはずだ。

 ウィルディアヌは困惑しつつ、答えを求めるようにアイザックを見る。

 アイザックは木ベラで鍋を混ぜながら、穏やかにウィルディアヌを促した。


「君が、好きな方を選ぶといい」


「好きな方……」


 ウィルディアヌは瞬き一つせず、モニカの手にあるマグカップの絵柄を交互に見る。

 右のマグカップは地面に足跡をつける黒猫。左のマグカップは、水に浮かぶ一枚の木の葉を前足でいじる黒猫だ。

 ウィルディアヌが左のマグカップを手に取ると、モニカが丸い目でウィルディアヌを見上げた。


「こっちのマグカップが、好きですか?」


「はい。この葉が……」


 泉に木の葉を浮かべて、これはわたくしの船なのよ。と得意気に笑った人がいる。

 だからウィルディアヌは、ほんの少し水を操って、木の葉が沈まぬようにしたのだ。

 あの美しい人が、がっかりしないようにと。


「この葉は、船に似ている、ので」


 モニカが丸い目を瞬かせて、「お船、ですか?」と小首を傾げる。

 本物の船を知っている彼女は、木の葉が船に似ていると言われても、ピンとこないのだろう。

 アイザックが木ベラを動かす手を止めて、ウィルディアヌを見た。


「船が好きなのかい?」


「はい」


 ウィルディアヌが頷くと、アイザックはパッと表情を明るくした。

 キラキラ輝く碧い目は、星を見上げていた幼い王子様に似ている。


「いいね。それなら君を、我が領自慢の大型帆船に乗せてあげよう」


 アイザックの声は、楽しげに弾んでいた。

 鍋を観察していたモニカが柔らかく微笑み、アイザックを見上げる。


「アイクも、お船が好きなんですね」


「子どもの頃は、山育ちだったからね。海とか大型船は、憧れだったんだ」


 アイザックは木ベラで野菜を崩しながら、懐かしそうに語りだす。

 サイラスと一緒に木の葉や木片で船を作って、川に流して遊んだこと。その時、サイラスが足を滑らせ、川に流されていったこと。

 学校の先生が船の模型を持っていたから、何度も見せてもらったこと。毎日見たくて、遂には模写させてもらったことなど。

 夢中になると止まらなくなる気質は、子どもの頃からだったらしい。


「トカゲの姿なら、船首の最先端だって、マストのてっぺんにだって登れるだろう?」


 自分がトカゲになれるなら、船首の最先端に行ってみたい、と言わんばかりのご主人様は、茶目っ気たっぷりに片目をつむった。


「君が望む、一番の特等席に招待しよう、ウィルディアヌ」


 それならば、その時は彼の頭の上を所望しよう。とウィルディアヌは思う。

 水と魔力が枯れていく泉で、静かに果てるはずだった水霊は、美しい人に連れ出され、紆余曲折を経てここにいる。


 ──わたくしと一緒にいらっしゃい、ウィルディアヌ。わたくしが、あなたの船になってあげる。


 あの時と同じ言葉を、ウィルディアヌは口にした。


「どうぞ、連れていってください。我が主」


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