【26】あの日見た春の花を束ねて
式典を翌日に控えた日の午前中、三代目〈深淵の呪術師〉レイ・オルブライトは、王立魔法研究所の一室の前に佇み、置物のようにジッとしていた。
紫色の前髪の下から覗くピンク色の目が、じぃっと見つめているのは、目の前にある扉。
レイの婚約者、フリーダ・ブランケは、この部屋の向こう側で、今、蘇生措置を受けている。
仮死状態にされた人間を蘇生するための魔術は、非常に難易度が高い。殊に、全身を蝕む影の量が多いほど難易度は上がるし、術者の消費魔力量も多くなる。
そして、王都の被害者の中で、最も酷く影の侵食を受けたのが、他でもない、フリーダだった。
大抵の人間は影に蝕まれたら、すぐに意識を失い、仮死状態に陥る。仮死状態になれば、影もそれ以上は侵食しない。
だが、フリーダは全身を影に蝕まれながら、それでもレイとアデラインを守るために戦い続け、結果、全身の七割近くを影に侵食された。
当然に、影を剥がす術の難易度は飛躍的に高くなる。
故に、フリーダの蘇生措置は、〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレットが担当していた。
モニカは術式開発の中心人物であり、既に、サザンドールで何人もの人間に蘇生措置を行なっている。この分野における権威と言ってもいい。
そのモニカをもってしても、フリーダの蘇生措置は一日、二日では終わらなかった。
サイラスに背負われ、サザンドールから王都にやってきたモニカは、フリーダの容態を確認すると、深刻な顔でこう言った。
『影を剥がす術式は、被術者の体に魔力を蓄積する、ので……フリーダ様が魔力中毒にならないよう、数回に分けて影を剥がしてから、蘇生措置を行う必要があります』
モニカの腕なら、フリーダの全身を蝕む影を一度に剥がすこともできるだろう。だが、その措置でフリーダが魔力中毒になっては、元も子もない。
フリーダの体に負担をかけず、影を剥がすためには、作業を四回に分ける必要があったのだ。
そして、今日はその四回目──何事もなければ、今日の処置で影を全て剥がし、蘇生措置を施すことになっている。
モニカはレイに、中に入るよう勧めてくれたが、レイは措置が終わるまで廊下で待つことを選んだ。少しでも、モニカの気が散るようなことをしたくなかったからだ。
レイが扉をじっと見つめて、フリーダの無事を祈っていると、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。
杖をつきながら廊下を歩く、でっぷりと太った白髪の老婆──レイの祖母アデラインだ。背後には木の椅子を持った使用人が控えている。
「……ババ様」
以前はレイと同じ、鮮やかな紫色だった髪が、今は艶のない白髪になっている。
呪術暴走を起こしたことで、体内に溜め込んだ呪いの大半が吹き飛んだせいらしい。
「やれやれ。少し歩くだけで、一苦労だよ」
使用人がレイの横に椅子を置き、そこにアデラインがどっしりと腰掛け、息を吐く。
アデラインは比較的早く蘇生措置を受けているが、影に襲われた際に、呪術暴走を起こしているため、その後遺症でしばらく寝込んでいた。
今も、少し歩き回るのがやっとらしく、日の半分はベッドで過ごしている。
そんなアデラインが杖をついて、わざわざここまでやってきたのは、彼女もまた心配しているからだ。フリーダのことを。
アデラインがフリーダをレイの婚約者に選んだ理由を、レイは知らない。ただ、この祖母のことだから、誰かに対する嫌がらせなのだろう、と思う。
それなのに、アデラインは今、フリーダの身を案じている。フリーダがアデラインの信頼を勝ち取ったからだ。
──俺と婚約したから、フリーダはこんな目に遭った。
フリーダが倒れた日から、何度そう考えたことだろう。それでもレイは、その卑屈な考えを口に出すつもりはなかった。
それは、家族を助けに来たのだと言って、レイとアデラインを守ってくれたフリーダに対する侮辱だ。
(だから、フリーダが目を覚ましたら……たくさん、ありがとうって言うんだ)
ピンク色に底光りする目でじぃっと扉を見つめていると、やがて扉が内側から開いた。
姿を見せたのは、ローブ姿の〈沈黙の魔女〉だ。
「えっと、フリーダ様が、目を覚ましました」
よいしょ、とモニカが扉を押さえる。レイは震える足で、部屋に足を踏み入れた。
魔法研究所にしては小綺麗な一室に設置されたベッド。清潔な白い枕に、くすんだ金髪が散っている。
フリーダはベッドに横たわったまま、首を少し傾けてレイを見た。その顔はやつれているが、目に力が宿っている。
「〈沈黙の魔女〉様から、聞きました」
狼のような灰色の目を柔らかく細めて、フリーダは微笑む。
「私を救った術は、貴方が作ったのだと」
ベッドに駆け寄って、フリーダを抱きしめようと思った。それなのに、足がもつれて上手く動かない。
レイはフラフラと頼りない足どりで前に進み、ベッドにすがりつく。
「お、俺……俺ぇ……うっ、ふぐぅぅぅぅ……」
たくさん、ありがとうと言おうと決めていたのに、フリーダの顔を見たら色々な感情が込み上げてきて、言葉の代わりに嗚咽と涙が溢れた。
呪術師は感情を波立たせてはいけない。胸の奥の深淵から、呪いが溢れてしまうから──ずっと、そう言われて育ってきた。
それでも今、レイの中から溢れてくるのは、透明な涙と愛しさだけなのだ。
「あぅ、お、俺、うぁ……ずっと、ありがとうって、言いたく、て……ひぅ、う、うぅ……」
レイはグズグズと鼻を啜ると、ローブのポケットから手のひらに乗る大きさの袋を取り出した。
薄紅色の可愛らしい袋の中身は、フラックス商会に作ってもらった髪飾りだ。
フラックス商会で注文した髪飾りは、レイが王都に戻る日までに間に合わなかった。なので、後からサザンドールを発ったモニカがラナから預かり、レイに届けてくれたのだ。
「こ、これ……フリーダ、に……」
そう言ってレイは、フリーダにも見えるように髪飾りを差し出す。
ラナがデザインしてくれたその髪飾りは、複数の宝石を散りばめた装飾に、艶のある紫のリボンをあしらったものだ。
デザイン案を見せながら、ラナはこう言っていた。
『装飾部分に使われている石は、あえて大きさも色味も異なるようにして、春の花を集めた花束をイメージしています』
色味や濃度の異なるピンクを主に、控えめに薄紫や黄緑の石を添えた装飾は、春の花らしい柔らかさと華やかさを感じさせた。
そこに添えられた紫のリボンは、ブーケを束ねるリボンだ。
『フリーダ……紫色、嫌じゃないかな』
デザイン案を見たレイがボソリと呟くと、ラナは可愛らしく微笑みながら、自信たっぷりに言った。
『婚約者様の髪色に紫色は、とても似合うと思いますよ。それに、わたくしが通っていた学園では、贈り主の髪や目の色に寄せた花飾りを贈る風習があるんです』
ラナの解説を、口下手なレイは上手に説明できない。
それでも、フリーダはレイの手の中にある髪飾りを見て、小さく感嘆の吐息をこぼした。
「春の色……遠乗りの日に見た、花畑のようですね」
伝わった。分かってくれた。
フリーダと二人で遠乗りにでかけて見た、美しい花畑。レイがフリーダに見せたかった景色。
「ありがとうございます、レイ。貴方がくれるものは、いつも、心が篭っていて、優しい」
レイの胸を、愛しさが満たしていく。
呪術師にとって、「愛してる」は相手を縛る呪いの言葉だ。
だからレイは言葉の代わりに、フリーダの手を取る。
思い出すのは、まだフリーダと出会ったばかりの頃のやりとり。
『貴方は、愛してると言えないことを、とても悪いことのように思っているようですが、愛してると言わずとも、相手に気持ちを伝える方法はあると思います』
『こんな風に、とか』
そう言って、フリーダはレイの手を取り、口付けを落としたのだ。
あの日のことを思い出しながら、レイはフリーダの手の甲に一瞬かすめるだけの口付けを落とした。
レイの全身はブルブル震えているし、緊張の汗でビッショリ濡れている。ちっともスマートじゃない口づけだ。
それでもフリーダはベッドから上半身を起こすと、レイの体を抱きしめる。
「私も愛してますよ、レイ!」
告げる声はフリーダらしい力強さで、それがレイには無性に嬉しかった。
仲睦まじく笑い合うレイとフリーダに、椅子に座っていたアデラインが声をかける。
「レイ、そろそろ引き上げるよ」
「え、も、もうちょっと、話をしたい……」
ションボリと寂しそうな顔をするレイを、アデラインがピンク色の目でギロリと睨んだ。
フリーダとはまた別の意味で、凄みのある眼光である。
「馬鹿をお言い。病室で伏せってる姿を男に見られて、嬉しいもんか」
「そうですね。湯浴みといかずとも、体を清めたいです」
フリーダが同意すると、レイは顔を赤くしながら、無意味に手をバタバタと動かした。
「あば、あばば、ご、ごごご、ごめん、出てく……あっ、でも、寂しい……」
「すぐに元気になって、帰りますよ。貴方の待つ家に」
フリーダが力強い笑顔で告げると、レイは真っ赤な顔でブンブンと頷いた。
レイ達のやりとりを、部屋の隅でじっと見ていた〈沈黙の魔女〉は、険しい顔で俯く。
モニカは、今まで己が失念していた問題に、ようやく気がついたのだ。
(そうだ、わたし……全然、ちゃんと、考えてなかった)
これは、サザンドールに戻ったら、必ず向き合わなくてはならない問題だ。
……自分と弟子の、今後のために。




