【9】悪役令嬢レベル1
今日のパーティの主催者である〈星詠みの魔女〉メアリー・ハーヴェイは、個室のソファにもたれ、夢見るような目で空を見上げていた。
淡い水色の目に映るのは、満天の星ではなく冬の青空だ。
昼に星を見ることが叶わずとも、空を仰ぐのは星詠みをする彼女の習性か。
そんなことを考えながら、この個室に呼び出された客人──アイザック・ウォーカーは〈星詠みの魔女〉に問いかけた。
「レディ・ハーヴェイ。私を呼んだ理由をお聞きしても?」
〈星詠みの魔女〉は、ゆっくりと視線を戻すと、どこか微睡むような焦点の合わぬ目でアイザックを見る。
濡れたような唇が開き、柔らかな声を紡いだ。
「あたくし、貴方の星を詠んだの……かつて、偽りの星であることを望んだ、貴方の運命を」
己の正体を示唆する言葉を聞いても、アイザックはそれほど驚いたりはしなかった。
〈星詠みの魔女〉は七賢人の中でも最年長で、国王陛下の相談役だ。なら、彼女がアイザックの正体を知っていても不思議じゃない。
黙り込むアイザックに、メアリーはことりと首を傾けて、儚く微笑んだ。
緩く波打つ長い銀髪がサラサラと揺れて、ソファから零れ落ちる。
「貴方は喪失の星の下に生まれたのね。溢れんばかりの才能に恵まれ……それでもその手に大切なものは残らない」
アイザックの顔から、表情が消えた。
〈星詠みの魔女〉の言葉は正しい。
アイザック・ウォーカーは既に両親を失い、幼い弟を失い、忠誠を誓った主人にして親友を失い……最後は、自分の顔と名前も失った。
ここにいるのは、妄執すらも失った亡霊の成れの果てだ。
それでもアイザックは、自分の手に何も残っていないとは思っていない。
処刑される運命だった彼に、救いの手を差し伸べてくれた人がいる。
自分も沢山のものを失いながら、それでもアイザックに手を差し伸べてくれた小さな魔女は、アイザックがそばにいることを許してくれた。
あどけなく笑う少女の姿を頭に思い描くアイザックに、〈星詠みの魔女〉は悲しげな顔で告げる。
「〈星詠みの魔女〉メアリー・ハーヴェイが預言します。喪失の星の下に生まれし、偽りの王子……貴方の喪失は、終わらない」
この国一番の預言者は告げる。
アイザック・ウォーカーを待ち受ける、残酷な未来を。
「──いずれあなたは、その眼に映る世界の半分を失うでしょう」
* * *
個室を後にしたアイザックの足取りは重かった。
彼は自分がどんなに優秀でも、どれだけ必死であがいても、思い通りにならないことが山ほどあることを知っている。
(……喪失の星、か)
〈星詠みの魔女〉の言う通りだ。アイザックの大事なものは、どれだけ必死で握りしめていても、いつだって指の間をすりぬけ、こぼれ落ちていく。
竜害で死んだ両親、衰弱死した弟、そして──屋根から落ちて、死んだ親友。
もうこれ以上、何も失いたくないのに、〈星詠みの魔女〉が言うには、アイザックはまた何かを失うらしい。
──友達を助けるのに、理由なんていらないんですよ、アイク!
こういう時、頭に浮かぶのはいつだって、アイザックを救ってくれた少女の姿だ。
今度こそ守りたいと思う。だが、アイザックには喪失の運命が待ち受けている。
(……距離を置くべきか? だが、僕の目の届かないところで、モニカに何かがあったら……)
ありふれた悲劇はいつだって、ある日、突然起こるのだ。
距離を置くべきか、或いは危険が近づかぬよう今まで以上に目を光らせるべきか。
どうするのが正解か分からない以上、対策のしようがない。
重い足を引きずるように歩いていたら、やがて、パーティ会場に到着した。
正直、パーティに参加したい気分ではないのだけれど、招待客である以上、最低限の挨拶はしておくべきだろう。
ため息を噛み殺して扉に近づいたアイザックは、扉のそばに三人の男が張りつき、パーティ会場の様子を窺っていることに気がついた。
その三人の顔を、アイザックは知っている。
七賢人の〈茨の魔女〉ラウル・ローズバーグと〈深淵の呪術師〉レイ・オルブライト。そして、もう一人はシリル・アシュリーだ。
「そんなところで、何をしてるんだい?」
アイザックが声をかけると、三人は勢いよく振り返ってアイザックを凝視した。
途端に〈深淵の呪術師〉が、凄まじい絶望を目の当たりにしたような顔で膝から崩れ落ちる。
「あぁ、最悪だ……また顔の良い男が増えた……右を見ても顔がいい、左を見ても顔がいい、俺はもうどこを向いて生きていけばいいんだ。地面か、一生下を向いて生きてろってことか……」
アイザックが事情の説明を求めるようにシリルを見れば、シリルは苦悶の表情を浮かべた。
「殿下っ、これには深いわけが…………っ、いや駄目だ。殿下に嘘はつけん……申し訳ありません殿下、深いわけなど無いのです。全然これっぽっちも深くないのですっ! むしろ浅はかすぎて、語るも馬鹿馬鹿しい事情がありまして……っ」
どうやらシリルは、その「馬鹿馬鹿しい事情」を説明することに、躊躇があるらしい。
アイザックは、最後に〈茨の魔女〉を見る。
〈茨の魔女〉ラウル・ローズバーグは朗らかな口調で言った。
「やぁ、殿下、ちょっと邪魔しないでくれよ。今、モニカが頑張ってるんだからさ」
「……モニカが?」
アイザックはパーティ会場に目を向ける。今日は比較的若い女性客が少ないので、モニカの姿はすぐに見つかった。
モニカは真っ赤なドレスの裾を引きずりながら、ヨタヨタと覚束ない足取りで会場を歩いている。
(あのドレスは……コレット嬢の見立てじゃないな)
色やデザインもさることながら、何よりもサイズがモニカに合っていないのだ。スカートの裾は引きずっているし、肩がずり落ちかけている。
一体モニカは何をさせられているのだろう? こういうのは、さっさと本人に問いただすに限る。
アイザックがモニカの元へ向かうべく、パーティ会場に足を踏み入れたその時、アイザックの腰に誰かがしがみついた。〈深淵の呪術師〉である。
〈深淵の呪術師〉は紫色の髪を振り乱し、ピンク色の目を爛々と輝かせ、必死の形相で呻いた。
「やめろぉぉぉぉ……顔の良い男がパーティ会場に入るなぁぁぁぁ……し、しかも、王子様なんて、女の子がみんな好きなやつじゃないか、女の子はみんな王子様を好きになるんだろ、そうなんだろ……くそぅ、こうなったら、パーティ会場に王子様が足を踏み入れたら豚になる呪いをかけるしか……っ」
〈深淵の呪術師〉は、なにやらとんでもなく物騒なことをブツブツと呟いている。
そんな彼を冷ややかな目で眺めながら、アイザックは、そろそろ不敬罪で訴えていいだろうかと冷静に考えていた。
* * *
真っ赤なドレスをズルズルと引きずりながら、モニカはレイの婚約者を探した。
レイは自分の婚約者の顔と名前を知らないようだったけれど、ラウルが事前に調べておいてくれたのだ。
レイの婚約者の名前はフリーダ・ブランケ。
いかにも帝国風な顔立ちの、背の高い女性である。
(あ、いた、あの人……!)
フリーダの姿はすぐに見つかった。
落ち着いたダークグリーンのドレスを身につけた、短い金髪の女性だ。
同行者の姿は見えないし、話しかけるなら今がチャンスだろう。
モニカはスーハーと深呼吸を繰り返し、自分がすべきことを確認する。
モニカはこれから、悪役令嬢としてフリーダに意地悪をしなくてはいけないのだ。そして、苛められているフリーダをレイが助けることで、レイが格好良く見えるように演出する。
(でも、意地悪って……ど、どんなことをすればいいんだろう……)
昔からいじめられっ子だったモニカは、自分が意地悪をされた経験だけなら嫌になるぐらいある……が、それを自分ができるかと言えば、当然に否である。
(こういう時は、そうだ……イザベル様を参考にしよう)
セレンディア学園にいた頃、イザベルはモニカに悪役令嬢のなんたるかについて、詳しく説明してくれたことがある。
……思えば、あの時の経験は、今日この日のためにあったのだ(多分)
(大丈夫、できる。わたしなら、できる)
モニカは自分に言い聞かせ、フンスと鼻から息を吐いて一歩前に進み……。
「ふぎゃっ!?」
ドレスの裾を踏んづけて、転びそうになった。
だが、傾いたモニカの体を、誰かの腕がさっと支えてくれる。
「大丈夫ですか?」
モニカの体を支えてくれたのは、よりにもよってターゲットのフリーダ嬢だった。
「あっ、ありがとうございますっ」
ペコペコと頭を下げて礼を言いながら、モニカはダラダラと冷や汗を流す。
どうしよう、いきなり出鼻を挫かれてしまった。
(だ、大丈夫、まだ挽回できる……はずっ!)
モニカは姿勢を正すと、フリーダと向き合う。
フリーダ・ブランケはモニカよりずっと背が高かった。小柄なモニカは、フリーダを見上げて口を開く。
「あ、あのっ!」
「はい」
「ご、ご機嫌よう……っ」
「はい、ご機嫌よう」
まずは、第一関門の挨拶はクリアした。「ご機嫌よう」は令嬢の挨拶の初歩中の初歩である。
それを口にできただけで、なんだかちょっと自分が成長できたような気がした。
あぁ、セレンディア学園で学んだ令嬢教育は無駄ではなかったのだ……と、モニカは密かに達成感を噛み締める。
(つ、次は……えっと……悪役令嬢がすることは……)
モニカはイザベルの悪役令嬢講座を思い出す。
(そ、そうだ、扇子で口元を隠して、意地悪くクスクス笑う……!)
流石にイザベルのような高笑いは難しいが、扇子で口を隠して笑うだけなら、モニカにもできそうだ。
モニカはモタモタと慣れない手つきで扇子を広げると、口元を隠し、そして……。
「…………ふ、ふへ…………えへ」
引きつった顔で、ぎこちなく笑った。
誰が見ても不自然なことこの上ないし、クスクス笑いには程遠い。
……が、モニカは胸の内で喜びの声をあげる。
(やった! できた! いま、すごく、悪役令嬢っぽかった! 意地悪そうだった!)
モニカが扇子の影で口をムズムズさせている間も、フリーダはじっとモニカを見ていた。
そうしてフリーダは、何かを思いついたような顔で、口を開く。
「もしかして、具合が悪いのですか?」
「……へぅっ!?」
モニカはダラダラと冷や汗を流した。この返しは予想外だったのだ。
(どどどどうしよう、なんて言おう、こういう時、イザベル様ならなんて言うのっ!?)
モニカが顔を赤くしたり青くしたりしながら、ガタガタプルプル震えていると、フリーダはモニカに近づき、手を伸ばした。
「失礼します」
「ふぇっ!?」
フリーダは驚くほど自然な動作で、モニカを横抱きにした。
そうして、近くにいる使用人に声をかける。
「具合の悪い人がいます。どこか休める場所はありませんか?」
使用人がギョッとしたような顔をしながら、それでもフリーダを先導した。
フリーダはモニカを軽々と抱えたまま、堂々とした足取りでパーティ会場を進む。
ターゲットに横抱きにされた新米悪役令嬢は、扇子を握りしめたまま、アワアワすることしかできなかった。
(〈深淵の呪術師〉様、ごめんなさいぃぃぃぃぃ!!)




