【終】開け、門
黒竜セオドアと、アイザックを飲み込んだ闇の精霊王召喚の門が閉ざされた瞬間、モニカは目の前が真っ暗になった。実際に意識が少し飛んでいた気がする。
そんなモニカの意識を繋ぎ止めたのは、シリルの声だ。
「殿下ぁっ!」
シリルが叫んで、地面で輝く扉に指をかける。だが、シリルの指は光の粒子でできた門をすり抜け、地面を引っ掻いただけだ。
モニカも地面に膝をつき、地を這いながら門に近づく。
そうだ。絶望するのも諦めるのも、まだ早い。
モニカはまだ、この門に挑んですらいないのだ。
(この場で、精霊王召喚を使えるのは、わたしだけ)
そして、モニカはここしばらくずっと、闇属性の魔力について研究をしていたのだ。
この場で、この闇の精霊王召喚の門に一番詳しいのは自分だ。〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレットだ。
(わたしが、アイクを、助けるんだ)
モニカは光り輝く門に手のひらで触れ、術式に干渉する。
精霊王召喚の術式は、大きく四つの手順に分けることができる。
門を展開、固定、開門、そして開いた門から精霊王の力の一部を借りる──この中で、開門は展開や固定に比べれば圧倒的に容易なのだ。
今のモニカは魔力が枯渇寸前だが、門を開くだけなら、それほど魔力は必要としないはずだ。
まずは、風の精霊王の門を開く時と同じ手順を試みる──上手くいかない。
モニカは闇属性魔術に合わせて、術式や手順を少しずつ変えては試し、変えては試した。
複雑な魔術式の修正の繰り返し──気が遠くなるような、地道な作業だ。
モニカはこの手の地道な作業が嫌いではないが、今は時間に制限があるので焦りに指先が震えた。
(この門は、あとどれだけ、維持していられる?)
紫色に輝く門は、徐々に光を失いつつある。残された時間は少ない。
ブツブツと呟きながら、開門に挑むモニカの横で、白いトカゲ──ウィルディアヌが小さな手で門に触れた。
魔力の塊である精霊の手は、シリルのようにすり抜けることなく、確かに門に触れている。
だが、開くことまでは叶わない。ウィルディアヌはもう、人の姿に化けることができないほど、疲弊しているのだ。
シリルが何かに気づいたような顔で、ウィルディアヌを見た。
「そうだ、契約精霊なら、契約者の居場所が分かるのでは……」
「マスターの反応が、ありません……いないんですっ、どこにも!」
ウィルディアヌの悲鳴じみた声に、いよいよモニカとシリルは青ざめた。
契約精霊と契約者は、見えない糸のようなもので繋がっている。だから、離れていてもある程度の距離や方角は分かるのだ。
それが全く分からないとなると、真っ先に浮かぶ可能性は──死だ。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ)
焦りと不安に、思考が止まりそうになる。
駄目だ、止めるな、計算を続けろ。この門を開くのだ。絶対に。
何度目になるか分からない術式干渉を試みる。微かに手応えを感じた。それは本当に微かな手応えだ。
今までは門を掴んで引いても、その引く力が伝わっていないような感覚だった。だが、今は確かに力が伝わっているのを感じる。
──だが、門が重くて開かない。
(開いて、開いて……っ!)
モニカは残りの全ての魔力を振り絞って、干渉をする。
僅かな取っ掛かりに指をかけ、全力で手前に引くイメージ。それを、術式で再現する。
気がつけばモニカは叫んでいた。無詠唱の〈沈黙の魔女〉が、がむしゃらに。
「──開け、門!!」
両開きの門が、ほんの僅かに動いた。本当に僅かな、指一本分の隙間だ。
そこに男女の手が差し込まれる。人に化けたトゥーレとピケ、それとネロだ。
両開き門の左側をトゥーレとピケが、右側をネロが掴んで持ち上げた。指一本分の隙間が、拳が通るぐらいに広がる。
門の隙間から、再び闇が溢れ出した。シリルが叫ぶ。
「ソフォクレスっ!」
『承知したっ!』
シリルの右手中指で、〈識守の鍵ソフォクレス〉が輝き、シリルとモニカの周囲に防御結界を張る。
シリルはそのまま、左手を肩口近くまで門の中に差し込んだ。その手に、ウィルディアヌが飛び乗る。
「マスター!」
門の奥は漆黒の闇に満たされていて、シリルの左腕は完全に見えなくなっている。そんな中、ウィルディアヌはシリルの腕を命綱代わりに闇の奥に潜った。
「マスター! こちらです! マスター!!」
* * *
螺旋階段を登りながら、アイザックは考えていた。
自分がこの門に落ちてから、十時間以上が経過しているが、門の向こう側も同じだけの時間が流れているのだろうか。
だとしたら、門が閉じている可能性は大いにありえる。その場合、この螺旋階段を登り続けたら、自分はどこに辿り着くのだろう?
(冥府に落ちた人間が現世に戻ってくる物語の中には、戻ったら月日が流れていた展開や、見知らぬ土地に帰ってくるものもある。……サザンドールに戻れると良いのだけど)
もう一つ、懸念すべきは闇の魔力だ。
自分はもう随分と、冥府と現世の狭間を彷徨っていたことになるが、魔力中毒になっている気配はない。
だとすると、闇の精霊王召喚の門を開いた時に溢れ出した闇は、どこから湧いて出てきたのか。
この空間の周囲に、闇の魔力が壁のように展開していて、闇の精霊王召喚の門は、その魔力の壁を破る形で開いた。だから、開門と同時に魔力が現世に流れ出したのではないか、とアイザックは推測した。
(元の世界に戻るには、その壁を越えなくてはならなくなるかもしれない。そうなると、僕の体は保つだろうか? 門を潜ることができれば、それが最善。ただ、門は恐らく閉じている……)
螺旋階段を登りながら、意識を研ぎ澄ます。
階段を登り始めた頃から感じているウィルディアヌの気配は、階段を上る程に強くなった。
──開け、門!!
(今の、声は……)
いつもか細い声で喋るその人が、凛とした声で告げる時、彼女の起こす奇跡はアイザックの道をひらいてくれる。
アイザックは頭上を見上げた。そこには一筋の光が見える。
──マスター! こちらです! マスター!!
「ウィル!」
頭上に差し込む光に手を伸ばすと、指先にペタリと何かが触れた。冷たい爬虫類の皮膚の感覚。
少し遅れて、男の手がアイザックの手を掴んだ。
──殿下ぁっ!
諸々の文句は後回しにして、アイザックはその手を握り返した。
「マスター!」
「殿下!」
「アイク!」
アイザックの手を掴むのは、シリルの手と、モニカの小さな手だ。
だが、非力な二人だけでは、アイザックを引き上げることができない。
水の魔術でロープを作るか、とアイザックが思案したその時、大きな男の手がアイザックの手首を乱暴に掴んだ。
「感謝しろよ、後輩!」
ネロが高らかに告げて、アイザックを引っ張りあげる。
まるで野菜を引き抜くような勢いで、乱暴に引っ張られたアイザックは、上半身が門から出たところで、後は自力で這い上がった。
それとほぼ同時に、闇の精霊王召喚の門は閉じ、輝きを失っていく。僅かに残った光の粒子がパッと霧散した瞬間、周囲の空気が明らかに変わった。
(……終わったのか)
黒竜セオドアは冥府に落ち、闇の精霊王召喚の門は消滅した。〈暴食のゾーイ〉も封印状態で手元にある。
八年前の〈暴食のゾーイ〉盗難から始まった一連の事件は、ここに幕を下ろしたのだ。
見上げた空は青く、吹く風は初夏の潮風だった。
モニカやシリルの服装は、落ちる直前に見た時のままだ。シリルが海水で濡れているから、あれから然程時間は経っていないのだろう。
(どうやら僕は、十数時間ほど、歳をとったらしい)
冷静にそんなことを考えつつ、アイザックは地面でへたりこんでいるお師匠様と恋敵に目を向ける。
眼帯は無くしてしまったけれど、もう眩しさに目が眩むこともない。
アイザックはゆっくりと瞬きをし、微笑んだ。
「ただいま」
ゼィハァと荒い息を吐いていたモニカとシリルが、涙で汚れた顔を更にグチャグチャにして、アイザックにしがみつく。
体を鍛えているアイザックでなければ、後ろにひっくり返ってしまいそうなほどの勢いで。
「あ、アイ、アイク……うっ、わぁああああああん!」
「殿下っ、ごぶっ、ご無事で、うっ……うぅぅぅ……うぐぅ……」
モニカはまるで子どもみたいに、ワンワン泣いているし、シリルもいつもの表情を取り繕おうとして失敗し、余計に酷い顔で咽び泣いている。
二人ともなんて顔だろう。先ほどの自分も大概だけれど。
そんなことを考えていると、ふと頭の上に微かな重みを感じた。
「マスター……マスター……」
白いトカゲ姿のウィルディアヌが、か細い声を漏らす。
この小さな相棒は、いつもは肩に乗るのに、今は小さな手でアイザックの髪の毛を痛いぐらいに掴んでいた。泣けない精霊の、精一杯の意思表示だ。
トゥーレは「よかったね、シリル」とニコニコし、ピケは「えっへん」と踏ん反り返り、そしてネロは「今夜はウサギの背肉のローストな」と、夕食のリクエストをする。
流石は偉大なネロ先輩。空気を読む気など、さらさらないらしい。
アイザックは両腕にしがみつく二人と、頭の上の相棒の重みを、温もりを、喜びを噛み締める。
「僕って、愛されてるなぁ」
当たり前です! という涙声の三重奏に、アイザックはクシャリと破顔し、声をあげて笑った。




