【36】未熟な領主と偉大な魔女
次から次へと舞い込んでくる悲惨な報告に、レーンフィールド領主エリオット・ハワードは撫でつけた髪をグシャリと乱した。
街の外にある、神殿周辺の森を、地竜の群れが襲撃。
現在、御使い様と呼ばれている風の精霊が応戦しており、この街の兵士も投入しているが、戦況は決して芳しくない。有体に言って悪い。
既に神殿の人間は避難させているが、街は大混乱だ。
(王都と父上の元へ救助要請は出したが、助けが来るまでにどれだけかかる? そもそも来てもらえるのか? この街の兵力は? 対竜装備の残りは? 竜が街の方まで来たらどうしたら良い? 避難経路は? 指示はどうやって出す?)
資料を睨んでも、目が滑ってなかなか数字が頭に入ってこない。焦りが、正常な思考力を奪っている。
これがチェスなら、自分の手番に相手が勝手に駒を進めることはないが、現実はそうもいかない。
こちらが思考している間に、状況は変わっていくのだ。それも、どんどん悪い方に。
「領主様、この街から避難することも、お考えになっては……」
部下の一人が、控えめに進言する。
エリオットは眉間に深い皺を刻み、歯を食いしばったまま、唇の端を無理やり持ち上げて笑った。
(この街から避難? 避難して、この街を見捨てろってか?)
エリオットは知っている。自分の代わりなんていくらでもいることを。
現場の指揮を執るのも、避難指示を出して街の人間を導くのも、別にエリオットである必要はない。自分より経験豊富で有能な人間は、いくらでもいる。
それでもレーンフィールドの領主は、このエリオット・ハワードなのだ。
「真っ先に逃げ出す領主じゃ、誰もついてこないだろう」
今ここで逃げ出したら、エリオットは二度とこの街の領主を名乗れない。
だから歯を食いしばり、報告書を睨む。そうして、ひたすら考える。自分に打てる最善手を。
「領主様、大変! 大変だ!」
ノックもせずに室内に駆け込んできたのは、卵色のふわふわした髪の少女──神殿の歌姫、ロージー・ムーアだった。
シェフィールドの神殿は、地竜の群れが襲撃した森の中にあるので、神殿の人間達は皆、この屋敷に避難しているのだ。
エリオットは報告書から顔を上げて、ロージーを睨んだ。
「……今、これより大変なことがあるか、ってくらい大変なんだが」
「その皮肉、後悔するよ。別方向から、火竜が二匹出没したって」
「なんだって!?」
立ち上がり窓の外を見たエリオットは、息を呑んだ。
森の方角に、黒い煙が見える。森が燃えているのだ──おそらく、火竜の吐く火で。
エリオットは早口で部下に命じた。
「延焼を防ぐために、森の木の一部を切り倒せ!」
「ですが、領主様。森の木は、魔力濃度を保つ役割をしています。切り倒したら、魔力汚染が広がる可能性も……!」
レーンフィールドの森の奥には、魔力濃度の高い土地がある。その周辺の木々には魔力を蓄える性質があり、魔力汚染をある程度食い止める効果があった。
それを切り倒したら、木が蓄えた魔力が一気に放出され、魔力汚染が広域に──街の方まで広がる可能性がある。
そうなったら、レーンフィールドはもう、人の住めない土地になってしまうのだ。
(だからといって、火災をこのままにしておくわけにはいかないだろ!)
森から立ち上る煙はどんどん大きくなっていく。
エリオットはバルコニーに出て、森の方角を睨んだ。
窓からではよく見えなかったが、バルコニーに出ると、森の一部が赤くなっているのが見える。いよいよ、火が燃え広がってしまったのだ。
「くそ……っ」
燃え上がる森を睨みながら、エリオットは考える。
(消火のために必要な水は? 人手は? あの祭りの後、何度か街を視察しているから、水場の位置は覚えている。あとは、人手だ。動ける人間はどれだけいる? 消火が間に合わなければ、やはり木を切り倒すしか……!)
森から立ち上る黒い煙のそのまた奥に、黒い点のような物を見つけ、エリオットは絶望に顔を引きつらせた。
黒い点は次第に大きくなり、そのシルエットを明確にしていく──翼を持つ巨体。あれは、翼竜だ。
「地竜、火竜に、翼竜だと……!」
地竜だけで手一杯なのに、火竜の起こした火災に、翼竜まで。
エリオットの足がふらつく。このまま、膝から崩れ落ちてしまいたい。だが、自分はそれが許されぬ立場にある。
最後まであがくのが、領主の責務だ。
「翼竜が接近している! 街の人間を屋根のある建物の中に避難させろ!」
部下に指示を出しながら、エリオットは考える。
屋根のある場所に避難させるのはいいが、火の手が街に及んだら? 消火作業が間に合わなかったら?
地竜を食い止め、消火作業をし、翼竜から安全に逃げるには、どうしたら良い?
次から次へと噴き出す問題に、頭がどうにかなりそうだ。
民の命を背負う重責に、足が震えそうだ。
(一つ一つ解決するしかないだろう! 最優先は火竜だ。火竜を追い払って、消火作業。それから、他の竜を追い払って……)
「領主様っ! 危ないっ!!」
室内からこちらを見ていたロージーが、悲鳴をあげる。
危ない? 何が? と目を丸くするエリオットの頭上を、大きな影がよぎった。
(大型の翼竜! もう一匹いたのか!)
竜の鉤爪が、あんなにも太いのだということを、エリオットは初めて知った。一本一本が、槍の穂先のようだ。
その鋭い鉤爪が大きく開き、バルコニーに尻餅をついたエリオットを鷲掴もうとする。
あんな巨大な鉤爪に掴まれたら、エリオットの体など、容易く斬り裂かれ、握り潰されるだろう。
死というものを、こんなにも色濃く感じたのは、いつ以来だろうか。
(あぁ、そうだ、昔、あのクソ従者に首を絞められた時……)
死の間際に思い出すのが、最も忌々しい記憶だなんて酷い皮肉だ。
もう少しマシな記憶があっただろうに、ほら例えば……例えば……と目を閉じ唸るエリオットの耳に届くのは、淡々とした声。
「ぼっちゃま、起きてください」
それは、幼い頃から何度も言われてきた言葉だ。
「……ばあや」
呟き、エリオットはハッとする。
違う。これはエリオットがよく知る、実家のばあやの声じゃない。
大きく見開いた垂れ目に映るのは、羽を捩じ切られて地に堕ちていく翼竜と、バルコニーの手摺の上に浮かぶ、美しい金髪のメイド。
「おはようございます、エリオットぼっちゃま」
風霊リィンズベルフィードは、その腕に一人の女性を横抱きに抱えていた。
赤茶の髪を首の後ろで括った、化粧っ気の無い女だ。魔術師が着るローブを身につけ、上級魔術師の杖を握っている。
エリオットと目が合うと、女は「どーも」と小さく笑って片手を振った。
「こんな体勢ですまないね、領主様。病み上がりなもんで、まだ体調が万全じゃないんだ」
場違いな気さくさにエリオットが鼻白んでいると、リンが淡々と言う。
「ぼっちゃまにモーニングティーを用意したいところですが、ばあやには所用があります故、しばしお待ちを」
リンは魔術師の女を抱き抱えたまま、ふわりと宙に浮かび上がり、森に近づく。
リンに横抱きにされた魔術師が、握った杖を森の方角に向けた。
女が杖を一振りすると、大きな水球がいくつも浮かび上がり、森の火に降り注ぐ。更に詠唱をして杖を一振り。今度は防御結界が展開された。火竜と地竜を食い止めるための結界だ。
更に詠唱をして杖を一振り。今度は風の刃が、接近してきた翼竜を撃ち落とす。
その間も、消火用の水と、防御結界は維持したままだ。
(一人で、三つ以上の魔術を維持している……? そんなこと、できるはずが……)
バルコニーで硬直するエリオットの前で、森の火が段々と小さくなっていく。
それを確認し、女は長い詠唱を始めた。一際大きな魔法陣が、杖の先端に浮かび上がる。白い光の粒子が辺りに漂い、魔法陣の中央に収束した。
リンが森の方角に声をかける。
「ルベルメリア、森にいる人間を保護してください」
「うぼぁあああ! 承知しました、リィンズベルフィード兄様!」
ごぅっ、と強い風が吹き、森全体を揺らす。
次の瞬間、森から空に向かって若い男が飛び出してきた。リンに似た雰囲気の、神官服を着た金髪の男──御使い様と呼ばれる上位精霊だ。
精霊が両手を宙に掲げると、森の中にいた人間達が風に包まれてフワフワと浮かび上がる。あれは、地竜を倒すため、或いは消火作業のために森に入った者達だ。彼らは皆、一様に驚いた様子で、風の精霊を見上げている。
「リィンズベルフィード兄様ぁぁぁ! 人間の保護、完了いたしましたぁぁぁぁ!」
「だそうです、カーラ」
「あぁ、こっちも詠唱完了さね」
リンに横抱きにされていた女は、首を捻ってエリオットを見下ろす。
「悪いね、領主様。火災ごと、森の一部を吹っ飛ばさせてもらうよ。移動してきた竜を牽制するには、高威力の魔術をぶっ放すのが、一番手っ取り早い」
女の言葉に、エリオットは動転した。
森を吹っ飛ばす──現実味のない提案だが、もし可能なら、それはそれで問題がある。
「待て、待ってくれ! あそこの木は魔力を吸うんだ! 切り倒したら魔力汚染が広がる可能性が……!」
「あの森の魔力濃度は、一気に広がるものじゃないのは、前回の調査で分かってる。魔力を吸う木は、後でローズバーグ家に手配させるよ」
サラリと言って、女は杖を握りなおす。
女の正面に浮かび上がった魔法陣は、中央に大きな魔法陣が一つ。それを囲うように小さな魔法陣が五つ。合わせて六つだ。
女が杖の先端を森に向けると、杖の先端に七つ目の魔法陣が浮かび上がった。
杖の先端に白い光が集い、光の槍を形作る。丸太ほどもある、巨大な槍だ。
白く輝く槍を操る魔女は、気負いのない口調で静かに言った。
「貫け、星の槍」
杖から放たれた光の槍は凄まじい速さで飛翔し、地竜と火竜、それと燃え上がる火を巻き込みながら、森を削り、抉る。
その輝きに目が眩んだエリオットが、二度、三度と瞬きを繰り返すと、そこには目を疑うような光景が広がっていた。
光の槍が通り抜けた場所には、何も残っていなかったのだ。燃え上がる木も、竜も。
抉られた森には、輝く槍の残滓のような光の粒が漂っていたが、それもすぐに儚く煌めき、消えた。
(なんて、威力だ……)
ポカンと口を開けて立ち尽くすエリオットの前に、再びリンは降り立つ。その腕に、大魔術を操る魔女を抱き抱えて。
エリオットは、リンに抱えられた女を凝視した。
「おい、まさかその魔術師は……」
「はい。ぼっちゃまに紹介いたします」
リンはコクリと頷き、告げる。
「こちら、ばあやの好い人です」
「〈星槍の魔女〉カーラ・マクスウェル。初めまして、領主様」
リンの腕の中で、偉大な元七賢人は苦笑した。
気負わない自然体の笑顔だ。そこに、元七賢人らしい威厳はない。
それでも、この非常事態に全く動じない穏やかさには、エリオットにはない貫禄があった。
〈星槍の魔女〉は街を見回し、独り言のような口調で呟く。
「レーンフィールドは、竜害の少ない土地さね。武器も兵も多いわけじゃない」
そうだ。この街は竜害に直面した時の対策が不充分だった。だから何もかもが後手に回り、対応が遅れた。
木を切り倒すか否かの判断も、この魔女のように、すぐには決断できなかった。
己の未熟さを思い知らされ、エリオットが拳を握りしめていると、〈星槍の魔女〉は陽だまりで微睡む猫のように目を細めて笑う。
「よくぞ持ち堪えてくれたよ。良い領主様じゃないか」
エリオットは思わず顔を上げ、偉大な魔女を仰ぎ見る。
その偉大な魔女を横抱きにした精霊が、無表情ながらどこか得意げに頷いた。
「はい、ばあや自慢のぼっちゃまです」
カーラ「……ところで、ばあやって?」
リン「わたくしのことです」
カーラ「……ぼっちゃまって?」
リン「エリオットぼっちゃまです」
エリオット(勘弁してくれ……)




