【26】ずっと一緒
魔法生物学者セオドア・マクスウェルは、自分が人として生きるのが下手なことを自覚していた。
鈍臭いし、気の利いたことを言えず、すぐに人を怒らせる。空気を読めない。周りに足並みを揃えられない。
自分は上手に人間をできていない、と彼は常々感じていた。
だから彼は、夢想する。
「竜になりたいなぁ」
セオドアは竜が好きだ。
鱗に覆われた巨体、鋭い爪と牙、無機質な目、悠々と空を舞う翼──その全てを愛している。
自分が竜になれば、上手に生きられたとは思わない。
きっと、竜になってもセオドアは鈍臭くて、群れに馴染めない生き物だっただろう。
でも、どうせ上手に生きられないのなら、好きな生き物に生まれたかった、とセオドアは思うのだ。
図鑑を眺めてうっとりするセオドアに、地図を広げていた妹のカーラが呆れの目を向けた。
「いい年した大人が、何言ってるんだい」
「俺、人間向いてないと思うんだよねぇ」
「兄貴が向いてないのは、人間じゃなくて学者さね」
カーラは咥えていた煙草を指で摘まみ、フゥッと息を吐くと、セオドアのそばに積まれた論文をチラリと見る。
どれも、「根拠が足りない」「面白い小説だ」と学会でこき下ろされてきた論文だ。
「兄貴は精霊言語も習得してるし、頭は悪くない、目の付け所も悪くない、研究対象に対する情熱もある。それなのに、自分の考えを伝える能力が低い……そもそも自分の考えを、『別に伝わらなくてもいっか〜』ぐらいに思ってるだろ」
「そうかなぁ?」
「そうだよ。だから、自己完結で終わっちまうのさね」
カーラは紙巻き煙草を咥え直し、小さく自嘲した。
「……まぁ、うちも人のことは言えないけどさ」
結局のところ、似たもの兄妹なのだ。
妹のカーラは天才だ。いずれ、七賢人に選ばれるのは間違いない、と誰もが口を揃えて言う。
そんな才能ある妹を、セオドアは「すごいなぁ」と思いこそすれど、特に妬ましいとも羨ましいとも思わない。
その、他者に対する無関心さが、集団の中で上手くやっていけない理由なのだろう、とセオドアはぼんやり理解していた。
それでもどうしたって、セオドアは竜にしか関心を抱けない。
きっとこれから先も、自分はそうなのだろう。
人の集団に息苦しさや申し訳なさを覚え、誰にも興味を抱けないまま生きていく──それなら、竜という興味の対象があるだけ、自分は幸せだ。
……ずっと、そう思っていた。
* * *
「学者先生よ。こいつの種族は分かるかい? それ次第で、返す場所が変わってくるんだが」
魔術師養成機関ミネルヴァに招かれ、子竜の竜種を問われた時、セオドアは密かに葛藤していた。
檻の中の子竜は茶褐色の鱗をしているが、硬くなった鱗の根本は黒い鱗が多い。
火炎嚢付近の硬さも、将来角になるコブの位置も数も、赤竜とは違う。
──これは、おそらく黒竜だ。
半ば伝説と化した存在。ありとあらゆるものを焼き尽くす、黒炎を吐く伝説の竜。
そんな存在が今、自分の目の前にいるという感動を隠し、セオドアは考える。
もし、自分が正直にこの竜が黒竜だと伝えたら、一級危険種である黒竜は、きっと殺処分となるだろう。
(そんなこと、耐えられない)
セオドアは竜が好きだ。愛している。人間よりも、ずっと。
だから、彼は黒竜の子を見て、こう言った。
「上位種の赤竜だね。ほら、喉の辺りに火炎嚢がある」
以前、カーラが言っていた、自分は学者に向いていないという言葉は正しかった。
セオドア・マクスウェルは竜種を偽るという、魔法生物学者にあるまじき罪を犯したのだ。
* * *
ダールズモアに黒竜の子を逃した二ヶ月後、セオドア・マクスウェルは困り果てていた。
別件の調査でダールズモアを訪れた彼の前に、あの子竜が姿を見せたのだ。
初めて見た時は、両手で抱えられるほどの大きさだったが、今はじゃれつかれたセオドアがひっくり返るぐらいには大きくなっている。
二ヶ月前には、まだ茶褐色だった鱗も、今では半分近くが黒々とした鱗に生え変わっていた。角も翼も随分大きくなっているし、他の竜種だと誤魔化すのはそろそろ難しいだろう。
セオドアは人間の言葉と精霊言語を交えて、子竜を説得したが、子竜が山の奥に向かう気配はない。
むしろ、セオドアが話しかけると、それだけで嬉しそうに、セオドアの足元を歩き回るのだ。
「……もう〜。何回も言ってるだろぉ。お前は黒竜だから、人間に見つかったら殺されちゃうんだよ?」
──セオドアも、人間なのに?
幼い竜が精霊言語で声を発する。
やはり、竜は賢い生き物だ。人間よりも知能の発達速度が早いのだろう。子竜は既に、こちらの言葉を殆ど理解している。
(言葉は理解してくれるのになぁぁぁ……)
何回言っても、子竜は山の奥にある竜の領域に戻ってくれないのだ。
このまま、人の領域を彷徨っていたら、いずれ人間に見つかってしまうかもしれない。
「俺は、お前のことが大好きだけど、人間がみんなそうってわけじゃないんだよ……」
子竜は金色の目を見開いて、じぃっとセオドアを見上げる。
人の話を聞く時、相手の顔を見る──そういうところに、下位種の竜にはない知性を感じた。
だからこそ、セオドアも子竜の前で膝をつき、目線の高さを合わせて話しかける。
「人間は竜が怖いんだ。だから、自分達の住処の近くに竜がいると、追い払ったり、殺そうとしたりするんだよ。……竜の領域なら、人はやってこないから安全だよ」
──じゃあ、セオドアが竜の領域に来れば、いい。
「無理だってぇぇぇ、竜の領域は魔力濃度が高いから、人間は暮らせないんだよぉ。そうでなくても、俺、下位種の竜に食べられちゃうよぅ」
子竜はキュゥ……と寂しそうに鳴いていたが、何かを思いついたようにパッと顔を上げると、突然地面を転げ回った。
ダールズモアの土は、粘性の高い赤茶色の土だ。雨上がりでぬかるんだ土が、黒竜の鱗を汚す。
一通り転げ回って鱗を汚した子竜は、得意げにセオドアを見た。言葉にしなくても、キラキラしたその目が、これでどうだと言っている。
「なるほど、これなら鱗の色を誤魔化せる。お前は賢いねぇ……じゃなくってぇぇぇ、黒竜じゃなくても、人の領域にいるのはまずいんだってばぁぁぁ……!」
頭を抱えるセオドアに、泥まみれになった子竜が、キュイキュイと鳴きながら頭を擦りつける。
子竜と一緒に泥まみれになりながら、セオドアはもう、この子竜と離れがたくなっていることを自覚していた。
そうして子竜を説得できないまま、ズルズルと時間が過ぎてしまったのだ。
子竜とセオドアは、たくさん、たくさん話をした。
──セオドアは、どうして、セオドアなの?
「うん? あっ、もしかして名前のこと? 人間はねぇ、数が多いから、個体ごとに名前があるんだよぉ。あとは姓が、身分や職業を表してることもあってね」
──姓って?
「俺はセオドア・マクスウェル。妹のカーラは、カーラ・マクスウェル。家族は姓が同じになるんだよ」
──じゃあ、不良は? おじいちゃん先生は? そういう名前なの?
「あれはまた別で……うーん、不良は……喧嘩をしたり、人から物を取り上げたり、悪い取引をしたり……とにかく、おっかないから、近づいちゃ駄目だよぉ……」
──不良は、おっかない。近づかない。
「いや、そもそも、お前の場合、人間に近づいちゃ駄目なんだけどね?」
──人間は、死ぬと、どこに行くの?
「人間はねぇ、死ぬと冥府の門を潜って、女神様の元に行くんだよぉ」
──じゃあ、竜は?
「うーん、どうだろう。きっと、竜には竜の神様がいて、死んだ竜を見守ってくれるんじゃないかなぁ。そうそう、冥府の女神様は闇の精霊王と同一人物であるという説があってね……」
──セオドア。見て見て。素敵な葉っぱを見つけたよ。あげる。
「くれるの? わぁ、ありがとう。宝物にするねぇ」
──たからもの?
「すっごく大事な物、ってことかな。そうだ、今日は人間の宝物の話をしようか。お城には、立派な宝物庫があってね、そこにピカピカの宝物があるんだよ。不思議な力を秘めた剣とか、願い事を叶えてくれる宝石箱とか……」
──葉っぱ、ピカピカしてない……。
「ピカピカしてなくても、不思議な力がなくても、お前が俺のために探してくれたなら、この葉っぱは俺にとって宝物だよ」
そうして年月が経ったある日、子竜がはしゃいだ様子でセオドアに言った。
──見て、見て、セオドア。見て、見て。
子竜の体が黒いモヤになり、ぎゅぅっと圧縮して形を変える。
やがてモヤは翼を広げた鳥の形になり、モヤが晴れると、黒い翼に金色の目の鴉が姿を現した。
「ミテ、ミテ、コエモ、ダセル、ヨ」
セオドアは仰天した。この鴉は、あの子竜なのだ。
鴉に化けた子竜は、得意げに翼をはためかせて、セオドアの周囲を飛び回っている。
「それ、ど、どうやって……」
「タベタ! ゴックン! トリコンダ!」
セオドアは子竜から話を聞き出し、魔法生物学者としての己の知識を総動員して、目の前の現象について考えた。
拙い子竜の話をまとめると、どうやら瀕死の鴉を丸呑みにして、その情報を取り込んだらしい。
子竜が何かを丸呑みにしたのは、これが初めてではないが、その丸呑みにしたものを取り込み、化けるというのはこれが初めてだ。
「コレナラ、セオドア、イッショ、イラレル!」
「待って、待って、すぐに元に戻るんだ!」
はしゃぐ子竜に、セオドアは早口で言い募る。
上位種の竜が別の生き物に化けることがある、というのは文献で見たことがあるが、その理屈はいまだ解明されていない。
それを解明することは、学会に発表すれば素晴らしい発見だと賞賛されるだろう──だが、セオドアはそんなものには、これっぽっちも興味がなかった。
今、彼の頭を占めているのは、子竜に対する心配だけだ。
「本来擬態を必要としない強い力を持つ竜が、別の生き物に化けるということは、それなりにデメリットがあるはずなんだ。もしかして、魔力耐性が落ちている? 取り込んだものの影響はどれだけ受けるんだろう……竜としての特性がどの程度残るかも調べないと……」
ブツブツと早口で呟くセオドアを、金色の目の鴉が不安そうに見つめる。
「ダメダッタ?」
「俺は、いつものお前が一番好きだよ」
そう告げると、子竜はあっさり元の竜の姿に戻った。その姿に、セオドアは心の底から安堵する。
安堵しながら、彼は考えてしまった。
──古い文献の中には、人に化ける竜もいる。
(それは、つまり……)
頭の隅によぎった考えを、セオドアは振り払う。
その考えが、禁忌に触れる異端だから、振り払ったわけではない。
彼は、それが酷く残酷で自分勝手な望みだということを理解していたのだ。
* * *
優しい時間は、いつまでも続かなかった。
セオドアがダールズモアに入り浸って四年が経ったある日、竜騎士団がやってきたのだ。
普段から赤茶の泥にまみれていたおかげで、竜騎士団は子竜のことを赤竜と誤認しているようだが、このままではいずれ、黒竜であると特定されてしまうだろう。
そうなったら、国をあげての大規模討伐隊が編成されるのは目に見えている。
セオドアは必死で竜騎士団を説得した。
自分があの竜を竜の領域に連れて行くから、どうか時間がほしい。
いつも、頭のどこかで「理解してもらえなくてもいい」と諦めていたセオドアが、その時ばかりはありったけの言葉を尽くした。
それでも、竜騎士団のダニングという男は、セオドアの訴えを冷ややかに切り捨てた。
「魔法生物学者セオドア・マクスウェル。貴様の言葉に、耳を貸すつもりはない」
「……どうして、分かってくれないの?」
「貴様が竜を匿っていることは、既に分かっている。これは、国家に対する謀反も同然」
ダニングはセオドアとの対話に応じる気など微塵もなかったのだ。それどころか、セオドアを捕縛し、懐いている竜を誘き出す囮にしようとした。
セオドアは必死で逃げた。逃げて、逃げて、逃げて、そしてぬかるむ地面に足を滑らせ、崖から落ちた。
口の中は血と泥の味で満たされている。全身のどこもかしこも痛くて、もうまともに息もできない。
折れた骨が内臓のどこかを傷つけたのだと、セオドアはどこか冷静に考えた。
傷は熱を帯びているのに、指の先から体が冷えていくのが分かる。
(俺、死ぬんだな)
竜を殺せと叫ぶダニングを、責めようという気はこれっぽっちも起きなかった。
魔法生物学者であるセオドアは、竜の恐ろしさを知っている。竜騎士団に、年間でどれだけの殉職者が出るかも。きっと、ダニングは誰よりも竜の犠牲者を見てきたはずだ。
間違えたのは、セオドアなのだ。セオドアが、あの子竜を強引にでも竜の領域に逃していれば、こんなことにはならなかった。
(それでも、俺は……一緒にいたかったんだよ)
血とは違う熱いものが、頬を濡らした。
あぁ、会いたいなぁ。声が聞きたいなぁ──そんなセオドアの願いに応えるように、その声は夜闇の中で微かに響く。
──セオドア! セオドア!
(あぁ、駄目だよ。こっちに来ちゃ駄目だ。竜騎士団に見つかってしまう)
優しい子竜は自分の死体に縋りつき、この場を離れようとしないだろう。
そしたら……あぁ、きっと竜騎士団に見つかってしまう。殺されてしまう。
──死なないで、セオドア、死なないで、なんでもするから、死なないで。
その声を聞いた時、セオドアは思い出してしまった。
在りし日の自分の願いを。
残酷で自分勝手な望みを。
(やっぱり、俺は、学者失格だった)
竜種を偽り、一級危険種を人の領域で匿った。
のみならず、自分は禁忌の壁を越えようとしている。
「なら、お願いだ……」
セオドアは最期の力を振り絞って、血泡と泥に汚れた唇を動かした。
「……俺を、食べて……おくれよ。そしたら……お前と、ずっと一緒に……いられる、から……」
それは、「竜になりたい」という在りし日の願いを叶えるためか。
或いは、子竜とずっと一緒にいたかったからか。
はたまた、己に縋り付く子竜を逃すための方便か。
もう、どれが本心か、自分でも分からなかった。多分きっと、どれもちょっとずつ本心だったのだ。
(ごめん、ごめんね、優しいお前に、こんなことを頼んで……)
竜の慟哭が止まった。竜の爪がそっと、慎重にセオドアの体を持ち上げる。
(ありがとう……優しい、子)
セオドアは穏やかに微笑み、己の意識を手放した。
かくして、セオドア・マクスウェルの願いは叶えられたのだ。
酷くいびつで、残酷な形で。
* * *
夜明け前のダールズモアの森を、一人の男が不恰好に手足を動かし、走っていた。
ボサボサの赤茶の髪に金色の目の、冴えない風態の男──セオドア・マクスウェルを食べ、その姿を手に入れた黒竜だ。
(あいつが来る、あいつが来る、逃げないと、逃げないと……)
竜騎士団で指揮を執っている、立派な体格の眼鏡の男。ダニングと呼ばれていた。あの男に見つかったら、きっと自分は殺されてしまう。
竜は、元の姿に戻って、黒炎で竜騎士団を焼き尽くそうとは考えなかった。
だって、ダニングは人間なのだ。人間はセオドアと同じ生き物だ。
だから、セオドアと同じ人間を殺そうなんて、竜はこれっぽっちも考えなかった。
人が人を殺すことを躊躇するように、人に育てられた竜は、当たり前のように人を殺すことを躊躇したのだ。
そうして夜通し逃げて、逃げて、朝日が昇る頃、竜は森を抜けて湖の畔に出た。
フラフラと湖に近寄り、竜は水面を覗き込む。
そこに映っているのは、彼が大好きなセオドアの顔──だけど、これは彼が大好きなセオドア・マクスウェルではないのだ。
竜はセオドアの顔をクシャクシャに歪めて、項垂れる。
「……違うよ、セオドア。これは……『ずっと一緒』じゃないよ……」
竜は、理解していた。
セオドア・マクスウェルは死に、冥府の女神の元に旅立った。
そして、自分は一人ぼっちになってしまったのだ。




