【9】ブルーグレイの咆哮
魔法兵団詰所に寝泊まりして、多重強化術式の修行をしているグレン・ダドリーは、訓練で魔力を使い切るなと、師から厳しく言われている。
いつ〈暴食のゾーイ〉の襲撃があるか分からない現状、グレンの扱いは伝令役兼、予備戦力だからだ。
いざという時に訓練で魔力切れになって、身動きが取れないようでは話にならない。
だから、グレンは魔力が半分以下ぐらいになったら、修行を切り上げて、多重強化術式の勉強をすることにしている。
その日も、日中を訓練の時間に充てたグレンは、日が暮れてからは机にかじりついていた。
魔術式は緻密な計算式の積み重ねだ。魔力の属性、形状、威力、指向性、それ以外にも細かなことを幾つも幾つも計算して、積み重ねて、一つの術を完成させる。
その魔術式を理解しないまま、ただ詠唱して魔力を編み上げても、必ずどこかが綻ぶ。
そういう綻びを、グレンは今まで膨大な魔力に物を言わせて、力技で解決してきた。綻びに魔力をあてがって、雑に穴を塞ぐようなものだ。
単純な魔術ならそれでも発動するが、精密さがものをいう魔術になると、グレンのやり方は通用しない。
多重強化術式は、魔力を圧縮し、その上にもう一層の攻撃魔術を重ねる。
最初に圧縮した魔力を覆う膜──これが薄すぎても厚すぎてもいけない。薄いと手元で炸裂し、厚いと敵にぶつけても炸裂しないのだ。
この部分の制御にグレンは何度も失敗し、あちらこちらに火傷を負っていた。
包帯でグルグル巻きになった手で羽根ペンを握り、グレンは魔術式の解読を続ける。
初めて見た時は半分以上理解できなかった。今も、まだ理解できない部分は多い。それでも、毎日術式と向き合っていれば、術式のどの部分が何の役割をしているかは、なんとなく見えてくる。
「あっ、もしかして、ここが威力の足し算してる部分……っすかね?」
グレンが魔術式の一部分をグルリとペンで囲うと、隣に座って魔術式の解析作業をしていた黒髪の少年──ノーマンが、グレンの手元を覗き込んで頷いた。
「そうです、そこが威力計算の部分です。で、この威力の式は、第二〜第五節と、第七節にかからないといけないので、この二ヶ所に組み込まれているんです」
「第六節だけ飛ばすの面倒だから、第六節を先か後に動かしちゃ駄目なんすかね?」
「それだと、術式が破綻しますね」
「うー、駄目かぁー……」
ノーマン少年は、あのヒューバードの弟子なのに真面目で温厚で常識人である。
年齢は十二歳で、グレンよりずっと年下だが、魔術師養成機関ミネルヴァの特待生枠を目指しているだけあって、非常に優秀だ。
かつては、グレンもミネルヴァの特待生枠だった。
だけど、それはグレンが膨大な魔力を持っていて、かつ、国一番の予言者である〈星詠みの魔女〉に見出されたからだ。
あの頃のグレンは、自分が選ばれたことをただ無邪気に喜んでいた。
膨大な魔力を持つ自分は、選ばれた人間なのだと有頂天になっていたのだ。
そして、自分を認めてくれない同級生の鼻を明かしてやろうと、実力に見合わぬ魔術に手を出し、魔力暴走を起こして幽閉された。
ノーマンはいずれは魔導具開発の研究者になり、故郷の村の発展に貢献したいと考えているのだという。
なんとなく魔術師見習いになったグレンと違い、地に足がついている。
そういう少年が勉強仲間であり、ライバルであるというのは、グレンにとって良い刺激だった。
「ノーマン、すごいっすね。もう術式理解、完璧じゃないすか」
「机に向き合って術式を読み解くのと、実際に魔術式にするのは、また別ですから……」
ノーマンは謙虚なことを言うが、既に魔力圧縮のコツを掴んでいる。彼が多重強化術式を使いこなすのは、時間の問題だろう。
一方グレンは、今の所三回に一回の確率で、多重強化術式に成功するところまできている。圧縮に失敗して、手の中で小爆発を起こすことも、随分少なくなってきた。
実戦レベルに落とし込むまで、あと少しなのだ。
──だが状況は、グレンが万全の体制で挑むことを許してはくれなかった。
グレンとノーマンが自習している勉強室の扉がノックされる。
扉を開けたのは、〈砲弾の魔術師〉ブラッドフォード・ファイアストンの弟子、ウーゴ・ガレッティだ。
クルクルした茶髪を引っ詰め髪にしたウーゴが、焦りの滲む声でグレンに声をかける。
「夜分遅くにごめんなんだわー。グレン君、〈結界の魔術師〉様が、今すぐ来いって!」
グレンは包帯に覆われた手を握り、立ち上がる。
切り札となる多重強化術式は、まだ不完全。それでも、逃げ出す気なんてさらさらなかった。
* * *
呼び出されたグレンが一人で司令室に赴くと、ルイスだけでなく、七賢人の〈砲弾の魔術師〉と五代目〈茨の魔女〉も円卓に腰掛けて、グレンを待っていた。
〈星詠みの魔女〉が仮死状態、〈深淵の呪術師〉〈沈黙の魔女〉〈竜滅の魔術師〉の三名がサザンドールにいるので、王都で動ける七賢人が全てこの部屋に集まっていることになる。
つまり、それだけ緊急事態なのだ。
グレンが入室すると、キャンディを口に放り込みながら資料に目を通していたルイスが顔を上げる。
〈暴食のゾーイ〉の贄となったルイスの髪は、首の後ろでザックリと雑に切られた時のままだ。
いつも身なりを気にするルイスが、不揃いの髪をそのままにしているのは、奪われた髪を取り戻した時、髪の断面をそのままにしておいた方が、元に戻る可能性が高いからだという。
──つまり、髪と肌を奪われたエリアーヌもそうなのだ。
切られた髪を整えることも、爛れた肌を処置をすることもできずにいる。
(……エリー)
パキッという音が、グレンの意識を引き戻した。
ルイスが口の中で転がしていたキャンディを噛み砕いた音だ。
ルイスはバリバリとキャンディを咀嚼して飲み込み、告げる。
「サザンドールで、セオドア・マクスウェルが〈暴食のゾーイ〉を広範囲に使用。市街地に壊滅的な被害が出ました」
グレンは息を呑んだ。サザンドールと言えば、まず思いつくのはモニカとラナ、それとモニカの家によく出入りしているアイザックだ。それ以外にも、サザンドールには知り合いが何人かいる。
モニカ達の安否については触れぬまま、ルイスは淡々とサザンドールの現状について語り始めた。
ルイスが言うには、サザンドールの門は閉鎖状態。市民が閉じ込められており、港には水竜が押し寄せているという。
遂に最終決戦なのだ、とグレンは拳を握りしめた。
「つまり、今からみんなで、サザンドールに突撃! ってことっすね?」
「そのつもりだったのですが、図書館学会役員の進言で、状況が変わりました。〈暴食のゾーイ〉の行動次第では、リディル王国全域で大規模竜害が起こる」
ルイスは机の上に置いてある、分厚い封筒を前に押しやり、グレンを睨むように見据えた。
「グレン・ダドリー。お前にサザンドールへの伝令を命じます。〈暴食のゾーイ〉の能力、及び大規模竜害の予測。そして、影を剥がす術式の検証が完了した旨を、サザンドールにいる七賢人に伝えなさい」
グレンは前に進み出て、分厚い封筒を手に取り、ルイスに問う。
「……伝えた後は?」
ルイスは机の端に寄せていた小瓶から、薄紅色のキャンディを三つ取り出し、口に放り込む。
そうして片眼鏡の奥の目をクルリと回して、グレンを見上げた。
「もとより、半人前のお前に大して期待はしていません。伝令を終えたら、好きに動きなさい」
好きに動けという言葉の真意を理解し、グレンは唇の端を持ち上げた。
火傷した頬がピリリと痛むが、構うものか。
「師匠。自由行動中に、〈暴食のゾーイ〉と遭遇したら?」
「私の弟子なら、どうすべきか分かっているでしょう」
〈結界の魔術師〉ルイス・ミラーは、キャンディをバリバリと噛み砕き、凶悪な笑顔で告げる。
「ぶちのめせ」
「了解っす!」
* * *
封筒を受け取ったグレンが退室すると、ルイスはまた小瓶からキャンディを取り出し、口に放り込んだ。
糖分摂取のためのキャンディじゃない。五代目〈茨の魔女〉ラウル・ローズバーグが魔力付与を施した、特製キャンディだ。摂取すれば、手っ取り早く魔力を回復できる。
首の後ろに張りついていた影を剥がした今、回復した魔力が〈暴食のゾーイ〉に吸い上げられることもない。ならば、いつでも動けるように、魔力を回復させておく必要がある。
硬いキャンディをバリバリ噛み砕くと、中からトロリとシロップが出てきて、薔薇の香りが口いっぱいに広がった。
お上品な味だが、香水食ってるみたいだな、とルイスは密かに思っている。
「〈茨の魔女〉殿、次からはキャンディじゃなくて、ジャムにしてください。それなら、一気飲みできる」
「結界の。ジャムは飲み物じゃねぇよ」
バリボリとキャンディを噛み砕くルイスに、ブラッドフォードが呆れの目を向ける。
こういう時、いつものラウルなら、朗らかな笑顔で言葉を返すところだが、今は珍しく真剣な面持ちでルイスを見て、言った。
「ごめんな、ルイスさん。今はジャム作ってる暇はないからさ。それより、七賢人の配置を早く決めようぜ。サザンドールへの援護も」
いつも能天気なこの男が、こんな神妙な態度をとるなんて珍しい。
キャンディの欠片を舌先で転がしながら、ルイスは探るようにラウルを見る。
ルイスは、才能を研鑽せず、生まれ持った地位の上に胡座をかいている人間が嫌いだ。だから、五代目〈茨の魔女〉ラウル・ローズバーグのことを、あまり良く思っていない。
国内トップの魔力量を持ちながら、攻撃魔術の勉強を放棄し、植物への魔力付与研究に逃げた男。それが、ルイスのラウルに対する評価だ。
しかも、攻撃魔術を学ばない理由を聞いてみたら、ラウルはへラリと笑いながら言ったのだ。
──だって、オレの魔力量で攻撃魔術を使ったら、怖がられちゃうじゃんか。
アホか。と思った。
その容姿故に舐められることの多かったルイスにしてみれば、怖がられていた方が都合が良いだろう、とすら思う。
例えば、ルイスが認める二大才女、姉弟子の〈星槍の魔女〉カーラ・マクスウェルと、同期の〈沈黙の魔女〉モニカ・エヴァレット。
この二人は才能を無駄遣いしているところは多々あるが、それでも己の才能を研鑽し、技術を磨き続けている。
ラウルにはそれがない。薔薇要塞の扱いは中途半端。攻撃魔術も、精霊王召喚も使えない。七賢人になったのだって、彼が魔術の名門ローズバーグ家の人間だからだ。
つまるところ、死に物狂いで努力して七賢人になったルイスにとって、ラウル・ローズバーグという男は、魔術の腕を磨かず、いつもヘラヘラしている腐れボンボン、という非常にいけ好かない存在であった。
そのヘラヘラ男が、今は真剣な面持ちでルイスを見ている。
ルイスはキャンディの欠片を飲み込み、口を開いた。
「随分と顔つきが変わりましたな、〈茨の魔女〉殿」
「そうかい?」
ラウルは自分の気持ちを確かめるように、長い睫毛を伏せる。
そうしていると、初代譲りの美貌もあいまって、普段はなりをひそめている聡明さと凄みが垣間見えた。
「オレは七賢人だからさ。ちゃんと肩書きにあった仕事しなくちゃな、って。……すっげー真面目な友達見てて、思ったんだ」
まさか、この責任感皆無のヘラヘラ野郎が、そんなことを言う日が来るなんて!
どれだけ人間できた友人なんだ。と慄くルイスの横で、ブラッドフォードが大口を開けてカラカラ笑う。
「良いダチができたんだな、茨の」
「あぁ!」
力強く頷くラウルに、ルイスは鼻を鳴らして笑い、意地の悪い笑みを向けた。
「それでは〈茨の魔女〉殿には、七賢人らしく、激戦地に向かってもらうとしましょう」
サラリと無茶をふっかけるルイスに、ラウルは白い歯を見せて笑う。
七賢人に相応しい、自信に満ちた堂々たる態度で。
「任せてくれよ。友達のために頑張るオレって、ちょっと無敵な感じだからさ!」
* * *
エリアーヌ・ハイアットは布団に潜り込んだまま、目を閉じ、じっとしていた。
使用人は、どうか食事をしてください、と言うが、エリアーヌは布団から出て、目を開けるのが怖かった。
だって、目を開けたら、嫌でも爛れた肌が目に入るのだ。
労働を知らない白く美しい手も、ピカピカに磨いた爪も、今は不気味に変色していて、触るとザラザラする。
手袋や包帯で隠したところで、現実は変わらない。エリアーヌの髪も、肌も、元通りにはならない。
(……死んでしまいたい)
事実、自分はもうハイアット家にとって死んだも同然の存在だ。
エリアーヌの価値は、その血筋と容姿。名のある人間に嫁ぎ、子を残すことが、名家に生まれた人間の役割だ。
だが、こんな醜い姿になってしまったエリアーヌを、娶りたいという人間がどこにいるだろう。
もし奇跡が起こって、髪と肌が元通りになったとしても、エリアーヌが古代魔導具に襲われ、傷物になったという風評は消えない。
(……わたくしは、もう、死んだほうが、良いのだわ)
死ぬのは怖い。死にたい。怖い。死にたい。怖い。死にたい。
死を渇望する心と、死に対する恐怖が、交互に込み上げてくる。
どちらの気持ちも嘘偽りのない本物で、だからこそ、死を渇望した瞬間にナイフを握っていたら、衝動的にそれを自分に突き立ててしまいそうな気がした。
虚ろなブルーグレイの目が、布団の隙間から窓を見る。
この部屋は何階だっただろうか? それなりに高い階だったはずだ。
時刻は分からないが、とっくに日は沈み、窓の外には暗い夜空が広がっていた。
暗い、暗い、手を伸ばしたら吸い込まれそうな夜空を、エリアーヌはぼんやりと見つめる。
(落ちたら……死ねる?)
死を渇望する心が勝った瞬間、エリアーヌの体はフラフラと動き出した。
パサリと布団が床に落ちる。
エリアーヌは素足のまま窓に近づき、夜空に手を伸ばす。
「エリー!!」
よく響く声が、死を渇望する心に歯止めをかける。
扉の向こう側から聞こえる声。それが誰かを知っている。
来ないで見ないで、わたくしのことなんてほうっておいて──込み上げてくる理不尽な罵詈雑言は、嗚咽に溶けて消えた。
「うっ、うぅっ……わぁん……っ、うわぁああああああっ!」
エリアーヌは床に崩れて泣き崩れた。
死を渇望する心を、死への恐怖が上回る。
(怖い、怖い、怖いんです、グレン様。わたくしはもう、なにをどうしたらいいのか分からないのです。生きてる価値もないのに、死ぬのもこわくて、こわくて、こわくて、こわくて)
ドン、と扉を一回強く叩く音が、エリアーヌの胸を叩いた。
グレンがよく響く声で、宣言する。
「オレ、絶対、奪われたもの全部取り戻すから……待ってて!」
足音が遠ざかっていく。
グレンはこれから、戦場に向かうのだ。奪われたものを取り戻すために。
「あ、うぅ……うーーー……っ」
エリアーヌはみっともなく泣きじゃくりながら、扉に近づき、ドアノブを握る。
そうして、本当に少しだけ扉を開けて、廊下を見た。
燭台の灯りに照らされた夜の廊下に、グレンの姿はもうない。
いつもそうなのだ。エリアーヌが手を伸ばした時にはもう、あの人は飛行魔術でどこかに飛んでいってしまう。
「うー……うぅー……っ」
エリアーヌが扉に縋りつくようにしてしゃがみ込んでいると、クルクルした茶髪をひっつめ髪にした青年が、困り顔でエリアーヌに声をかけた。
「あのー、これ……グレン君からなんだわー……」
これ、と言って青年が差し出したのは、干し肉の塊だ。
唖然とするエリアーヌに、青年が気まずそうにボソボソと言う。
「肉を食べると、元気になるっすよ! って……」
エリアーヌは心の底から腹を立てた。
レディへのお見舞いに、花の一つも添えずに干し肉を寄越すなんて、なんて呆れた人だろう!
(なんで、わたくしは……あの人のことが好きなのよぉ……っ!)
エリアーヌは差し出された干し肉に齧り付いた。硬すぎて、全然噛みきれない。
それでもガジガジと干し肉に挑み、エリアーヌは叫ぶ。
「もうっ、もうっ……グレン様のばかぁ──!!」
この文句は直接言ってやらねば、と思った。




