【終】黒い雨の降る街
港町サザンドールは城塞都市ではないが、治安維持のために、街の周囲や各区画の境目に石壁を設けている。
そんな石壁の中で、最も人が多く出入りする東門のそばに一人の男が現れた。
全身を黒い影に蝕まれたその男の名は、サミュエル・スロース。
故郷を追われ、サザンドールで裏社会を牛耳ろうとした男の成れの果てだ。
スロースは近くにある煉瓦の倉庫に手を付き、ブツブツと詠唱を口にする。すると、彼が触れていた煉瓦の倉庫が上の方から少しずつ瓦解し、煉瓦一つ一つが宙に浮かび上がった。
付与魔術で物質を動かす時は、質量が大きいほど膨大な魔力が必要になる。倉庫一つ分の煉瓦など、本来スロースに操れるような代物ではない。
だが、〈暴食のゾーイ〉が送り込む膨大な魔力が、それを可能にした。
浮かび上がった煉瓦が、門の前に降り注ぐ。門を出入りしていた人々は、悲鳴をあげて逃げ惑った。
スロースは逃げる人々には目もくれず、黙々と門の前に煉瓦や倉庫の残骸を積んでいく。
やがて門が閉鎖されると、スロースはフラフラとした足取りで次の門に向かい、移動した。
* * *
ラナ・コレットは商談のために、カリーナ・バールと共にサザンドール西の倉庫街に来ていた。
この手の商談の際は、いつもクリフォードが同行するのだが、今日は溜まった事務処理のために留守番をさせている。
クリフォードは、あのアンダーソン商会長の息子なだけあって結構な目利きなのだが、カリーナもそれに劣らず、良い品を見抜くのが上手かった。
今日扱うのは宝石関係なのだが、殊にカリーナはその手の物に詳しい。魔導具職人である彼女にとって、鉱石は慣れ親しんだ素材なのだろう。
カリーナは見るからに上機嫌で、器用に水たまりを避けながらスキップをしている。
「わっはー、たーのしみー! サザンドールって、外国の珍しい宝石とかもいっぱい入ってくるんだよね。あたしが見たことない石もあるかなー!」
「もうっ、見たことがない宝石じゃ、鑑定できないでしょう?」
「大丈夫! 不純物の量とかカッティングを見れば、魔力付与率は大体分かるよー!」
カリーナは大したことではないような口調で言うが、鉱石を見て即座に魔力付与率を割り出せる人間など、そうそういるものではなかった。
たとえばモニカなら、鉱石の鑑定結果から魔力付与率を即座に計算することができるが、それでも不純物やカッティングなどの鑑定眼は持たない。
モニカが研究者ならカリーナは職人なのだと、こういう時に違いを実感する。
(カリーナがうちの専属になってくれたら、すごく助かるのに……なんとか引き抜けないかしら?)
ラナの思惑など露知らず、カリーナは好奇心に目を輝かせて周囲を見回している。まるで落ち着きのない猫だ。
ラナが実家で飼っている猫を思い出して苦笑していると、スキップをしていたカリーナが足を止めた。
猫のように大きく見開かれた目は、とある倉庫の屋根の上をじっと見ている。
「あそこ、人がいる」
「……え?」
つられて見上げた先では、確かに一人の男が佇んでいた。赤茶の髪の男だ。年齢は三十歳ぐらいだろうか。
男は、雲の散った青空を仰ぎ見て、その手にしていた何かを天に掲げる。
(黒い……宝石箱?)
その時、カリーナが突然その倉庫に駆け寄った。視線は倉庫の上に固定したまま、男が掲げる宝石箱をより近くで観察しようとするかのように。
「ちょっと、カリーナ!」
慌ててラナはカリーナを追いかけた。カリーナは瞬きもせず、宝石箱を凝視している。
その宝石箱から、何かが飛び出した。
黒い棒──ラナにはそう見えた。
細長い漆黒の棒が、宝石箱から天に伸びていく。
それは一定の高さまで伸びると、細く枝分かれし、まるで雨のように地面に向かって降り注いだ。
「……え」
青い空から降り注ぐ、黒い雨。
ラナはそれを呆然と見上げることしかできない。
黒いインク? 服が汚れちゃうわ──非現実的な光景に、ラナはそんなことを考えた。
「掴まれっ!」
不意に胴体に衝撃を受けた。誰かがラナを小脇に抱えたのだ。
きゃぁっ、と悲鳴をあげながら、ラナは自分を乱暴に抱えた人物の顔を見上げる。
黒髪に金眼の長身の青年──最近ラナの商会に出入りしている、バーソロミュー・アレクサンダーだ。
バーソロミューは右手でラナを抱えると、そのまま地面を滑るように走り、左手でカリーナを掴まえ、扉の開いている倉庫目指して走った。
* * *
猫の姿で見回りをしていたネロは、倉庫街で偶然ラナの姿を見つけ、人の姿で声をかけようとした。
ラナに話しかければ、高確率で美味しいご飯を奢ってもらえるからだ。
しかし、ネロがラナに声をかけるより早く、異変が起こった。
倉庫の上に佇む赤茶の髪の男。掲げた宝石箱から飛び出した黒い何か。そして降り注ぐ、黒い雨。
ネロは即座にそれを、セオドア・マクスウェルと〈暴食のゾーイ〉であると認識したわけではない。
ただ「これはヤバイやつだ」という勘に従い、ラナとカリーナを掴まえて、屋根のある場所へ逃げ込む。
「っしゃぁ! オレ様最強! カッコイイ!」
ネロは倉庫の中に滑り込み、小脇に抱えていたラナとカリーナを下ろした。
ラナは動揺しつつも、存外しっかりしている。カリーナは目を見開いたまま、驚いた猫のような顔で固まっていた。
「ありがとうございます、バーソロミューさん。服が汚れずに済みました……」
ラナが乱れたスカートの裾を直し、ネロに頭を下げる。
褒められたり、お礼を言われたりするのが好きなネロは、踏ん反り返った。
「おぅ、褒めろ褒めろ」
「えぇ、素晴らしい身体能力ですわね。ところで、あの黒い雨は……」
倉庫の外に目を向けたラナは、ヒィッと息を呑む。
倉庫街には、当然にラナ達以外にも人はいた。
黒い雨に打たれた人々は、皆、地面に倒れてぐったりしている。その全身を、雨で斑らに黒く染めて。
ラナが悲鳴じみた声をあげる。
「な、なんなのよ、これ……っ」
既に黒い雨はやみ、空には青空が広がっている。
おそらくあの男は、雨が止み、人が街に出てくる時間帯を狙ったのだ。
第二撃を警戒するべきか、それともすぐにモニカの安全を確認しに行くか、迷っているネロの足元で、地面にへたり込んでいたカリーナがボソリと呟く。
「……なんで……あれが、ここにあるんだろう?」
* * *
窓の外では、肥大化した植物が天に向かって枝を伸ばしながら、ギョリギョリと不気味な声で鳴いていた。
魔術師組合サザンドール支部の支部長室を占領中のメリッサは、支部長用の立派な椅子で仰け反り、ガリガリと頭をかく。
「ぎぇええい、やかましぃ……っ!」
窓の外で悪夢のように鳴いている植物など、とっとと枯らしてしまいたいが、セオドアが襲ってきた時の武器になるので、迂闊に枯らせないのだ。
黒い雨がサザンドールを襲ったその時、メリッサは家具店でドレッサーを物色中で、幸運にも難を逃れた。
店の外に出た時の衝撃は、ちょっと忘れられない。
黒い雨に打たれた人が街中に倒れ、まるで悪夢のようだった。
おまけに大急ぎで組合に戻ったら、建物の周りに仕掛けた植物が一斉に成長し、ギョリギョリ鳴いて、近隣住民を恐怖と混乱に陥れていた。
今、支部長が近隣住民に頭を下げて、事情を説明している。
サザンドールに滞在中の七賢人で安否確認ができているのは、メリッサ、レイ、サイラスの三人だ。自宅にいたモニカだけ、まだ安否確認ができていない。
モニカの家に人をやるべきかメリッサが思案していると、扉をノックもせずに〈竜滅の魔術師〉サイラス・ペイジが入ってきた。
「今戻ったぜ、茨の姐さん」
黒い雨が降った直後、ちょうど組合に帰還していたサイラスには、飛行魔術で街の被害状況確認を命じてある。
メリッサはサイラスを見て、顎をしゃくった。
「街の被害状況は?」
「まず、街の東の一番デカい門。煉瓦と瓦礫で埋め尽くされてて、とてもじゃねぇが使いモンにならねぇな」
門の封鎖は、おそらく〈暴食のゾーイ〉に操られた、サミュエル・スロースの仕業だろう。
メリッサの知るサミュエル・スロースに、そこまでの実力は無かった。〈暴食のゾーイ〉がシモベに与える魔力は、メリッサ達の想定を超えていたらしい。
「それと、黒い雨の被害だが……主にサザンドール倉庫街を中心とした北西部だ。南部にまでは届いてねぇ」
「なるほど、倉庫街から一定距離まで広げるのが限界だったってわけね」
メリッサは知らない。本来はサザンドール全域に降り注ぐはずだった雨は、モニカとの戦闘で〈暴食のゾーイ〉の魔力が削られたため、範囲が狭くなったということを。
メリッサは地図の倉庫街に印をつけ、そこを中心とした被害範囲をグルリと円で囲った。大体サザンドールの三分の二弱が、被害範囲と言って良い。
「黒い雨が一発で済んだのは幸いだったわね。黒い雨は効果範囲が広いから、その分消費もでかい。多分、何回も連発できるようなもんじゃないんだわ」
「だけど、〈暴食の箱〉にとっちゃ収穫も大きいはずだぜ……街の人間が逃げられないように門を閉鎖したってこたぁ、恐らくこの後も継続的に仕掛けてくると思っていい」
サイラスは苦い顔で、被害範囲外にあるサザンドール南門と、南にあるサザンドール第二港を指さした。
「今、こっちの門と港に、無事だった連中の一部が駆け込んでる。南門から逃げようってのと、船で逃げようってぇ連中だ」
「うっわ……暴徒が出てくること確実じゃないの。その辺は、憲兵と治安維持隊でなんとかしろって言っときなさいよ」
メリッサが鼻の頭に皺を寄せて吐き捨てたその時、普段滅多に走らないレイがバタバタと室内に駆け込んできた。
「た、大変だ……悪い知らせと、悪い知らせがある……」
「良い知らせはねぇのか、深淵の兄さんよぉ」
苦い顔で呻くサイラスに、レイは首を横に振る。
「サミュエル・スロースが現れて、他の門も全部煉瓦と瓦礫で閉鎖された。それと……」
レイはただでさえ陰鬱な顔を、より色濃い絶望に染めた。
「港に水竜の群れが集まってきてる。もう船は出せない……俺達は、サザンドールに閉じ込められたんだ」
メリッサは椅子の背もたれに背中を預けて天を仰ぎ、グェェェ……と死にそうな声で鳴いた。
うごめく植物のギョリギョリという鳴き声に、メリッサの声が重なり、悲惨なハーモニーを奏でる。
最悪の状況とは裏腹に、窓の外はすっかり雲が晴れて、澄み渡るような青空が広がっていた。




