【おまけ】カーティス・アシュリーという男
ハイオーン侯爵の甥であるカーティス・アシュリーは、子どもの頃は神童と呼ばれていた。
頭の回転が速く、記憶力に優れ、一度読んだ本の内容も、人と交わした会話の中身も忘れない。
社交的で言葉の使い方も上手く、将来有望だと誰もが彼を褒めちぎった。
そんな彼の人生が一転したのは十五歳の誕生日の翌日。
カーティスはアスカルド大図書館の禁書室に連れて行かれた。
ハイオーン侯爵を継ぐのなら、禁書室の空気に耐えられなければいけない。その空気に耐えられるか試すよう、母に命じられたのだ。
臆病な父は禁書室の魔物達の威圧感に耐えられず、三秒で卒倒したのだという。
カーティスは、禁書室の扉を開けた瞬間に卒倒した。僅か一秒である。
魔物達が放つ空気は、憎悪、侮蔑、嫌悪、殺意、悪意、敵意──ありとあらゆる負の感情に、好奇を混ぜた色をしていた。
それは喩えるなら、でたらめに色を塗り重ねて作った、濁った黒だ。
おまけにカーティスは、魔物達にとってひどく「美味しそう」に見える類の人間だったらしい。カーティスに向けられるねっとりとした悪意には、「あぁ美味しそうな人間がきたぞ」と肌を舌で舐められるような気持ち悪さが混ざっていた。
繊細で感受性の強いカーティスはその空気に耐えきれず、頭の神経が焼き切れたのである。
「無理無理無理無理、絶対無理! あんな空間、十秒もいたら正気でいられないね! 父上、母上、大変に申し訳ないが私はハイオーン侯爵になる資格は無いようだ! いやぁ、父上も文句はないですよね? だって一秒も三秒も大して変わらないでしょう?」
その日から、カーティスは神童をやめた。
ハイオーン侯爵になるのなんて、まっぴらごめんだ。あんな悪意の塊のような禁書室を管理するより、楽しいことだけに目を向けて、楽しく遊んで暮らしたい。
周りの人間はカーティスが禁書室の悪意にあてられ、気が触れたのだと密かに噂した。だが、周囲の人間の侮蔑や悪意など、禁書室の凝り固まった悪意に比べれば可愛いものだ。
かくしてカーティスは、ハイオーン侯爵の地位を継ぐことを全力で放棄した。
年の離れた弟は、神童と呼ばれたカーティスを尊敬していて、「兄様こそハイオーン侯爵に相応しい」と言ってくれた。
弟が自分に向ける尊敬は本物で心苦しかったけれど、それでもカーティスは禁書室に近づくのは懲り懲りだったのだ。
カーティスの弟もまた、病弱な上に父やカーティスと同じ体質であったため、一族は何度も跡継ぎについて話し合った。
そうして最も有力視された案が、現侯爵の一人娘クローディアにカーティスを婿入りさせ、カーティスが侯爵になり、クローディアが禁書室の管理をするというものだ。
それを聞いた時、カーティスは床を転げ回った。
「あのクローディアと! 私が婚約!? 無理無理無理無理、絶対無理! だってクローディア性格悪いし!」
「……初めて意見が合ったわね」
いつの間にか入り口に佇んでいたクローディアは、ゴミを見るような目でカーティスを見ていた。まだ十一歳とは思えない、凄みのある目だったのを今でも覚えている。
結局ハイオーン侯爵の後継者問題は揉めに揉めた末に、現侯爵が血縁者から養子を取ることで一応決着した。
権力に固執するカーティスの母は不服そうだったが、正直父は安心していたし、カーティスも安心した。
やがて、その養子となった少年──シリル・アシュリーのお披露目の日がきた。
カーティスはシリルに対して同情の念を抱いていたし、できれば親切にしてあげようとも決めていた。
なにせ、シリルが養子に引き取られた理由の一端は、カーティスにもある。
これから彼は、あの恐ろしい禁書室の管理人候補になり、挙句、あのクローディアの兄になるのだ。不憫すぎる。特に後者が。
「初めまして、カーティス様。シリル・アシュリーです」
お披露目の場でカーティスに挨拶をしたシリルは、ガチガチに強張った顔をしていた。
「この姓を名乗れることを、大変光栄に思います。まだ未熟者ではありますが、〈識者の家系〉の名に恥じぬよう研鑽して参りますので、どうぞご指導ご鞭撻の程を……」
「シーリルくぅん! よくぞ来てくれた! ありがとう、ありがとう! おかげでクローディアと結婚せずに済む! 助かった!」
「…………」
「カーティス様なんて堅苦しいじゃないか。親族の集まりの時は、気さくにカーティス兄さんと呼んでくれたまえよ! 未来のハイオーン侯爵の兄的存在……うんうん、なかなか悪くない」
シリルは呆気に取られた顔をしていたが、確かにホッとしていた。
きっと、敵意を向けられることを覚悟していたのだろう。
シリルはカーティスに深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。……カーティス兄さん。これから、どうぞよろしくお願いいたします」
挨拶が一通り終わると、後はもう親族同士の雑談が始まる。
そんな中、強張った顔でじっとしているシリルに、声をかける人物がいた。カーティスの母だ。
「シリルさん、少し別室でお茶をしませんこと?」
「はい、喜んで」
あちゃぁ、とカーティスは額を叩いた。
権力に固執するカーティスの母は、息子を後継者にしたがっていたし、シリルのことを良く思っていない人物の筆頭である。
だが、止めようにも、既にカーティスの母は歩き出しているし、シリルもその後に続いている。
どうしたものかとカーティスが考えていると、母がカーティスを手招きした。
「カーティス、貴方もいらっしゃい」
あ、これ、母の愚痴に自分も付き合わされるやつだ、とカーティスは悟った。
母の愚痴はとにかく長いのだ。
こういう時の茶会は愚痴が愚痴を呼び、更なる愚痴に発展し、最終的に何が本題だったか分からないが、とにかくひたすら愚痴を言われたことだけが頭に残る、拷問のような茶会になる。
案の定、ティールームで着席するなり、母は切り出した。
「シリルさん、貴方はハイオーン侯爵を継ぐことが、どういうことか分かっているのかしら?」
「〈識者の家系〉として、知識を守る役目を担うことだと考えています」
「その通り。我がアシュリー家は〈識者の家系〉……だからこそ、相応の知識が必要になるのです。そこのカーティスも幼少期は〈識者の家系〉に相応しい知識を有していたのだけれど、今ではすっかりこの有様……わたくしは、そのことをずっと嘆いているのですよ。分かっていますか、カーティス?」
何故かこっちにも火の粉が飛んできた。泣きたい。
それからひたすら母の愚痴は続いた。夫への愚痴、息子への愚痴、親族全体に対する愚痴から使用人に対する愚痴まで。
カーティスは慣れていたので、途中から半ば聞き流し、ハイハイと適当に相槌を打っていたのだが、シリルはずっと姿勢を正したまま、真剣に相槌を打っていた。
カーティスの母が現状に不満と不安を抱いていると訴えれば、シリルは「ご期待に添えるよう、努力いたします」と馬鹿真面目に言う。
この少年は本当に真剣に、母の悩みに寄り添おうとしているのだ。
茶会という名の拷問は、たっぷり三時間近く続いた。
溜め込んでいた愚痴を全て吐き出した母は、なにやら憑き物が落ちたようなスッキリした顔をしている。
「長話に付き合ってくれて、ありがとうねぇ、シリルさん」
「いえ、大変勉強になりました。ありがとうございます」
なんとなく母を見たカーティスは、おや? と思った。
母のシリルに対する攻撃性は、すっかりなりをひそめている。それどころか、母からは分かりやすく好意が滲んでいるではないか。
「ほほ、困ったことがあったら、わたくしを頼ってちょうだいね」
そう言って母が離席した後、カーティスは思わず声をあげてケタケタと笑った。
突然大声で笑い出したカーティスに、シリルはギョッとしている。
「カーティス兄さん、どうされたのですか? あの、私は何か粗相を……」
「いやいや、君はすごいぞ、シーリルくぅん。誇りたまえよ、君はその誠意で母上に認めさせたんだ」
シリルはやっぱりよく分かっていないような顔で、「ありがとうございます」と礼を言った。
(きっと彼は、良い後継者になる)
なにせ、拷問のような母の愚痴に真摯に付き合い、心開かせたのだ。
禁書室の魔物達の声にも、きっと彼ならば耐えられるだろう。
「ただ、まぁ、ちょっと遊び心が足りないかな」
「……え?」
カーティスは、嘘のない好意を向けてくれる相手が好きだ。だから、この実直で真面目な少年のことをすっかり気に入っていた。
「君、絶対マダム達に目をつけられるタイプだから、上手いかわし方も覚えたまえよ」
この場合の目をつけられるとは、マダムに気に入られ、寝所に呼ばれることを指すのだが、シリルは「気に入らなくて目をつけられる」という意味だと解釈したらしい。
「べ、勉強させていただきますっ」
大真面目に言うシリルに、カーティスはウンウン頷きつつ、これから兄貴分として色々教えてあげようと密かに決めた。




