【24】フニフニかモフモフか、それが問題だ
「シリル様、大変です。肉球がありません」
シリルはモニカの言葉を反芻し、その真意を理解しようと努力したが、結局何も理解できなかった。
困惑顔でモニカを見れば、モニカはどことなくトロリとした目で、シリルを見上げている。
その目には薄く涙の膜が張り、眉は悲しげにひそめられていた。
泣きそうなモニカを見るのは初めてではないが、なんだかいつもと違って見えるのは大人びた化粧をして、髪を高い位置で結っているからだろうか。
「モニカ、すまない。もう一度言ってくれ」
「……肉球が、ないんです」
今にも泣きだしそうな悲しげな声で呟いて、モニカは近くにいるエリオットの手を掴んだ。
エリオットが「ぎゃっ!?」と嫌そうな悲鳴をあげて、シリルを見る。
「おい待てシリル、その物騒な顔をやめろ。俺は無実だ、何もしていない」
エリオットがバッと両手をあげて無罪を訴える。
失礼な、とシリルは思った。自分がいつ物騒な顔をしたと言うのか。
モニカは懸命に背伸びをして、エリオットの手を下ろさせようと奮闘していた。
「ハワード様の、肉球を、ください」
「俺に肉球は無いっ!」
「肉球をフニフニしたら、きっとシリル様もニコニコです」
「目の前のシリルを見ろ! ニコニコとは限りなく程遠い顔してるぞ!」
モニカはゆらりと頭をもたげてシリルを見る。
そうして、えぐっと喉を震わせて嗚咽をあげた。
「シリル様が怒ってる……肉球が無いから……肉球がフニフニできないから……」
違う。そうじゃない。そもそも私は怒ってない──シリルがそう口にするより早く、エリオットが大真面目にモニカを諭した。
「おい、子リス。いいか、よく聞け──シリルは肉球より、毛皮派だ」
モニカは衝撃を隠せないような顔で「そんな……」と呟いている。
なお、シリルは確かに動物のモフモフした毛並みが好きだが、肉球は単純に触れたことがないだけだ。
(そうだ、肉球に触ったこともないのに比較などできるはずもない……いや待て、問題はそこじゃない、一体何故そんな話題になったのだ)
シリルが混乱していると、そこに優雅な足取りで近づいてくる男がいた。天才音楽家ベンジャミン・モールディングである。
ベンジャミンはエリオット、モニカ、シリルを順番に眺め、軽く肩を竦めてみせた。
「バタードが効きすぎたらしい」
「……バタード?」
聞き覚えのない単語にシリルが眉をひそめれば、エリオットが顔をしかめて早口で言う。
「甘いホットミルクに蒸留酒混ぜてバターを浮かべた、この地方の飲み物だよ。まさかあれで酔ったのか!?」
言われてみれば、化粧をしていても分かるほどモニカの頬は上気していた。
なるほど酔っているのなら、この支離滅裂な言動も理解できる。だが、どうしてわざわざエリオットの方に行くのか。
今もモニカは獲物を狙う猫のように、バンザイしているエリオットの手のひらを狙っている。
「モニカ、人間の手に肉球はない」
シリルが大真面目に言うと、モニカはエリオットの手のひらを狙うのを止めて、じぃっとシリルを見上げた。
何も言わずにただ見つめてくるものだから、シリルは落ち着かない気持ちになりつつ、テーブルの上の果実水のグラスに手を伸ばす。
「とりあえず、アルコールの入っていない飲み物を……」
「肉球が、ない」
ものすごく絶望したような顔でモニカは呟き、項垂れた。
一体、何がそこまで彼女を肉球に執着させるのか。
モニカはローブの襟元を握りしめ、ボソリと呟く。
「猫になりたい……」
そうしてローブの襟元に手をかけ、するりとローブを脱ぎ捨てる。
その場にいる誰もが止める暇も無いほどの早業だった。
暗い色のローブの下から、肉の薄い体が露わになったその瞬間、シリル達の視界が白一色に染まる。
その場に駆けつけた何者かが、近くのテーブルからテーブルクロスを勢いよく抜き取ったのだ。
「我ながら非常にスタイリッシュです──失礼、〈沈黙の魔女〉殿」
テーブルクロスを引き抜いたのは、神官服を身につけた金髪の青年だった。
青年は引き抜いたテーブルクロスでモニカをグルグル巻きにして、抱き上げる。
「客室にお運びいたします」
「お、おぅ、頼む……」
エリオットが頷くと、神官服の男はモニカを抱き抱えたまま一礼し、床に落ちたローブを拾ってホールを出ていく。
シリルはエリオットに訊ねた。
「あの男は神殿の関係者か?」
この時、エリオット・ハワードは大変に困っていた。
あの華麗なテーブルクロス抜きを披露した謎の若い神官の正体は、精霊である。だが、あの精霊は訳あって正体を隠しているらしいのだ。それなら勝手に自分が口外するのもまずい。
かと言って、苛立ちを隠せていない今のシリルに「あれは、じいやでばあやだよ」と言っても、冷ややかな視線が返ってくるだけだろう。
ならばシリルの誤解をそのまま利用するのが一番だと考えたエリオットは、ぎこちなく笑って頷いた。
「あ、あぁ、あの男は神殿の関係者だから……」
「…………」
だから心配しなくて大丈夫だと言ったつもりなのだが、シリルは物騒な顔のまま、早足でリンとモニカを追いかける。
エリオットはベンジャミンを見た。
「なぁ、ベンジャミン。ここは面白がって後をつけるべきか?」
「この状況を誤魔化すために、挨拶に専念したまえよ、領主殿。どれ、私も空気を和ませるためにピアノでも弾こうか。新しい音楽が次から次へと湧いてきて、今、私の胸は歓喜に昂っているのだよ! この喜びを! 音楽を! 是非とも聴いてもらおうではないか!」
* * *
廊下の奥、階段の手前辺りで、シリルはあの神官に追いついた。
「失礼、神官殿」
シリルが声をかけると、モニカを抱えた若い神官は足を止め、首だけを捻ってシリルを見る。
「神官? それはわたくしのことでしょうか?」
「そちらの女性は、私の知り合いだ。介抱するなら、同行しよう」
「……?」
首だけを捻っていた神官は、体ごとシリルの方を向き直り、言った。
「一般的に、男性の知人が意識のない女性の部屋に入るのは、如何なものかと」
正論である。
だが、それなら貴様はどうなんだ。とシリルはムッとした。
神官に抱き上げられたモニカは、ピスゥ、プスゥ、と気の抜ける寝息を立てている。かと思いきや、猫が甘えるみたいに神官の肩に頭をグリグリと押しつけた。
ますます苛々が募る。何に対して腹が立っているのか分からないけれど、確かに彼は苛立っていた。
そんなシリルの顔を見て、神官はモニカを抱き上げたまま器用にポンと手を叩く。
「もしや、これは……なるほど、状況を把握いたしました」
神官は勝手に何かを納得したような態度で一つ頷き、シリルを真っ直ぐに見据えて言った。
「三角関係ですね」
「は?」
「非常に心躍る展開です」
「は?」
何を言われたか理解できない。
ただ、胃がムカつくような不快感が確実に増したのだけは確かだった。
「ふざけているのか──っ!」
「では様式美にのっとり、この言葉をお贈りいたします」
神官はモニカを抱き上げ直すと、抑揚の無い声で告げる。
「『オレの女に手を出すな』でございます」
考えるより早く、シリルは神官の腕を掴んでいた。
(不愉快だ、不愉快だ、不愉快だ!)
神官は己の腕に食い込むシリルの手を、無表情で見下ろしている。眉一つ動かさずに。
そうして互いに黙したまま、どれだけ経っただろう。
パタパタと忙しない足音がした。駆け寄ってきたのは、この屋敷のメイドが二人。中年のメイドと老齢のメイドだ。どちらも見るからにベテランという風情である。
メイド達は申し訳なさそうに、神官に頭を下げた。
「気づくのが遅くなって申し訳ありません。〈沈黙の魔女〉様が倒れたとお聞きしました」
「きっと儀式でお疲れだったのでしょう。お労しい!」
神官は無言でシリルを見た。
シリルが苦い顔で掴んだ手を離すと、神官は使用人二人に言う。
「では客室に運びます故、ご一緒願います──女性使用人二人が同行。これなら問題ありませんね? シリル・アシュリー殿」
シリルは何も言わなかった。言えなかった。
ただの知人でしかない自分がついていくための理由が思いつかなかったからだ。
そうしてその場を立ち去る神官と二人のメイドの後ろ姿を、シリルは暗い目で見送る。
(不愉快だ、不愉快だ、不愉快だ!)
頭の奥が焼けつくようなその怒りを、シリルはあの男のふざけた言動のせいだと思うことにした。
あの男は自分を揶揄っていた。だから不愉快なのだ。
そうだ、自分は揶揄われた、侮辱されたのだ。
だから、この怒りは真っ当で妥当で正当なものなのだ。
シリルはやり場のない怒りを握り潰すかのように、拳を強く握りしめる。
(そういえば……)
激しい怒りの最中に、ふと小さな疑問が頭をよぎった。
(何故、あの神官は私の名前を知っていたのだ?)
作中のバタードは「ホット・バタード・ラム・カウ」のことです。
バタード呼びは創作なので、お洒落なバーで「マスター、バタード一つ」と格好良く注文しないようご注意ください。




